スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

インドの新聞

 一ヶ月ぶりの更新である。多くのブロガーは毎日のように更新しているようだが、感心する。始める前はそんなに難しいことではないと考えていたが、これが大変難しい。書き始めるとそれなりに進むのだが、まず書き出すことが厄介なのだ。しかしなんとかしなくてはならない。

 さて今日はインドのニュースサイトについてである。最近、インドのニュースサイトを読んでいて、気付いたことがふたつある。ひとつは世界最大の英字新聞はインドの新聞であるということ。この最大とは紙の新聞の部数を見ての話だ。
 最大部数の新聞は“Hindustan Times”だ。発行部数は630万部だそうだ。ちなみに2番は“The Hindu”で520万部だ。たしかアメリカで最大の発行部数を誇るのは“USA Today”で部数は250万。次は “The Wall Street Journal”の200万部だ。つまりインドの方が圧倒的に部数が多いのだ。
 ウィキペディアによると現在インドの人口は約12億。おお、調べてみてこれはびっくり。10億ぐらいかと思っていた。この人口を考えれば当然なのかもしれない。でも英語は第一言語ではないのだ。公用語にはなっているが、普段人々が日常で使っているのはヒンドゥー語であったりベンガル語であったりする。それでも世界最大部数の英字紙はインドの新聞なのだ。すごいね、これは。人口の力は恐るべしだ。

 次。ちょっと前に読書欄のようなページを読んでいて驚愕したことがある。“驚愕”、ちょっと大袈裟かな。しかし、ほんとビックリしたのだ。
 そのときはちょうど北朝鮮が核実験をしたニュースが世界を走っていたときで、それについての投書であった。投稿が10程載っていたと思う。そのほとんど北朝鮮擁護の意見だったのだ。ビックリしませんか? 北朝鮮の核実験を擁護する国民が圧倒的に多い国が存在すること。さらにその国が世界第2の人口大国であるということについて。
 色々書いてあったが、要約すると主張は以下の2点に絞れた。「自国防衛のため当然の権利である」と「欧米や一部の大国のみ核保有を許されるのはアンフェアーである」だ。
日本の報道のみに接していると、こうした意見が世の中にあることさえ知らされない。北朝鮮が日本にとって直接の驚異であることと、日本が核に対して特別なアレルギーを持っていることを差し引いて考えれば、世界のある国ではこうした意見が中心であることはもしかしたら驚くにあたらないことなのかもしれない。
 ちょっと考えてみれば、たとえばパキスタンの核実験について。多くの日本人はそれ自体には反対であろう。しかし正直レベルだと、まぁお隣のインドが持ってるんだもん、欲しくなってもしかたないよなぁと、考えてはいませんか。
 インド国民も正直レベルでそんなことを思っているようなのだ。

 あ、それともうひとつ気付いたことを思い出した。インドって結構、反米である。ついこの間まで親ソだったのだから、当然なのかな。


スポンサーサイト

クルーグマンの翻訳

 ポール・クルーグマンがニューヨークタイムスに掲載したコラムを翻訳掲載します。クルーグマンはプリンストンの教授で2008年ノーベル経済学賞を受賞している世界的な経済学者です。ニューヨークタイムスに掲載される彼のコラムは非常に注目度が高く、アメリカの世論へ与える影響は少なくありません。日本で彼の著作物は多数翻訳されていますが、オンタイムで彼のコラムを読むことは相応の価値があること考えます。私自身、ほぼ毎朝ニューヨークタイムス(電子版)を読んでいますが、クルーグマンのコラムが掲載されていると楽しみで、まず最初に目を通します。英語が苦手な皆さんにも、同じ機会を持っていただければと思い、思い切って掲載します。おそらく著作権的にはNGだと思います。ニューヨークタイムス、クルーグマン教授本人、あるいは関係者から削除の要請があれば速やかに対処します。この掲載目的は私的な興味と日本の読者の利便性であり、商業目的では一切ありません。


ヨーロッパから学ぶこと(N.Y.T. 2010.01.10)
By: Paul Krugman


 医療改革が終盤戦に近づき、保守派の間では嘆きの声が渦巻いている。また私はここでティーパーティ(訳注:オバマの政策に反対する運動。重税反対を唱える。1773年のボストンティーパーティ事件、イギリスの過重な茶税に米国市民が立ち上がった故事から)について、言及するつもりはない。保守穏健派でさえ、オバマはアメリカをヨーロッパスタイルの社会民主主義に変えてしまうつもりだ、といった脅しめいた忠告を発し始めている。それはヨーロッパが経済的ダイナミズムを失っていると、誰もが考えている証である。
 
 しかしその誰もが考えていることは、実は正しくない。ヨーロッパが経済的苦境にあって、アメリカがそうでないというのは本当だろうか。我々が長い間、信じ込まされてきたこの物語、つまり高い税率や気前の良い社会保障が国民のやる気を奪い、成長を滞らせ、あるいはイノベーションを阻害し、その結果経済は沈滞し続けているという物語は、実際は真実とかけ離れたものなのだ。ヨーロッパの現状は、保守主義者が訴えていることとは真逆である。ヨーロッパは経済的に成功を収めており、社会民主主義はちゃんと機能しているのである。

 実際、ヨーロッパの経済的成功は統計を見なくても明らかだ。アメリカ人がパリに行って、そこに貧困や後進性を感じるだろうか。フランクフルトやロンドンではどうだろうか。公式統計と自分の目で見た実感が異なり、どちらを信じるべきか迷った場合、さてどちらを信じるべきか。答えは自分の目を信じなさい、である。

 また多くの場合、統計は目で見た事実の裏づけにもなる。

 この10年、合衆国の経済成長がヨーロッパを上回っていることは事実である。1980年以降、わが国の政策は右傾化し、ヨーロッパはそうでなかった。アメリカの実質成長率は平均3%であり、旧社会主義国まで拡大する前のEU15カ国では、2.2%成長したに過ぎない。アメリカの勝ちだ!

 いや、多分違う。米国の人口増のスピードはヨーロッパより速やかったという事実を見逃してはならないからだ。1980年以降の国民一人当たりのGDP成長率(生活実態を見る場合はこちらがより大切な数字となるが)はアメリカとEU15カ国ではほぼ同じで、アメリカが1.95%、EU15で1.83%だった。

 技術分野を見るとどうだろうか。1990年代後半の情報技術革新はヨーロッパを素通りしたといった議論が見られるが。しかし実際のヨーロッパは多くの分野で米国にちゃんと付いてきている。特にブロードバンドでは、普及率はほぼ互角であり、速度と料金では上回る。

 雇用についてはどうだろうか。この分野では間違いなくアメリカが上だと思うかもしれないが。ヨーロッパの実質失業率は大体においてアメリカより高く、人口当たりの就業者の割合はアメリカより低い。ただし働く意志のない者や麻薬依存者などを除いた主要就業年齢に焦点を当てると、様子は変わってくる。2008年のEU15の25歳から54歳の就業率は80%だ(フランスは83%)。この数字は合衆国とほぼ同じである。若年および高齢者のヨーロッパ人はアメリカ人と比較して働くことに積極的でないが、それってそんなに悪いことだろうか。
 
 ヨーロッパは生産的であるともいえる。彼らは我々より少ない時間しか働かない。しかしフランスとドイツの時間当たりの生産高は合衆国と変わらない。

 ここで指摘したいのは、ヨーロッパはユートピアであるといったことではない。合衆国と同様に、現在経済危機と格闘中である。また合衆国と同様に、ヨーロッパの主要な大国は深刻な長期の財政問題を抱え、合衆国の多くの州と同じように、多くのヨーロッパの国々の財政は火の車状態である(カリフォルニアの財務状況はギリシャと同じようなものといえる)。しかし長期的視点で見た場合、ヨーロッパ経済はうまく機能している。全体的に見るとわが国と同じように、ダイナミックでさえある。

 ではなぜ多くの識者はヨーロッパに対して誤った認識を持つのか。ここで私が言及しているのは共和党員のみでなく民主党員の識者も含めてだが。それはヨーロッパ式の社会民主は完全な失敗であるといった、わが国に広まっている定説のためである。また人は自分が見たいように、物事を見る傾向にあるからだ。

 ただしヨーロッパの経済は崩壊状態であるという報告はひどく誇大されているが、高い税率と気前の良すぎる社会保障に関する報告はそうでもない。ヨーロッパの主要国のGDPに対する税の割合は36%から44%にもなるが、合衆国のその数字は28%である。国民皆保険制度は文字通り、国民皆が加入している。社会保障関連の支出はわが国に比べて著しく大きい。

 多少なりとも富裕層に対して重い税率を課し、低所得者層に社会保障を厚くするようなことがあれば、ただちに国民は働く意欲を低下させ、投資と技術革新は停滞するだろうという思い込みと、ヨーロッパは凋落し、ヨーロッパ経済は衰退するだとうといった伝説がいまだにわが国を配している。しかしそれは、現実ではないのだ。

 ヨーロッパは警戒すべき訓話としてしばしば取り上げられ、もしヨーロッパのように経済活動において冷酷さに欠き、また不運な同輩に対し同情の手を差し伸べるようなことがあれば、わが国の経済発展も力を失うとされる。しかしヨーロッパの経験はむしろその反対のことを教えてくれる。社会的公正と経済発展は同時に達成可能であるということを。

何が足りなかったのか by Paul Krugman

何が足りなかったのか by Paul Krugman
ニューヨークタイムス 2010年1月18日掲載

 最近、オバマ政権の政治方針についての批判を多く目にする。オバマ大統領は多くのことに手を出しすぎている、経済分野に集中すべきで医療制度改革はひとまず置いておくべきだ、と世間は考えているようだ。
 
 私はこの意見には不賛成だ。オバマ政権が直面している困難さは、多くのことを望みすぎたことが原因なのではなく、政策的および政治的な判断ミスが原因なのだ。景気刺激策は不十分であり、銀行に対する措置は甘すぎる。そしてロナルド・レーガンが実施したことをオバマ大統領はやっていない。レーガンもまた政権初期、景気の後退に直面したが、その責任は前政権にあるということを国民に説明し、自らへの批判をうまくかわした。

 景気刺激策だが、これは実に効果が期待できる政策である。刺激策をまったく取っていなければ、失業率は今以上に高いものであっただろう。しかし2009年、現政権が実施した刺激策は十分な雇用を創出するには小さすぎるものであった。

 オバマ政権の刺激策ではなぜ不十分なのだろうか。多くの経済学者(私も含まれる)は現政権が示したものより、相当大きな刺激策を訴えてきた。しかしオバマ大統領のもっとも信頼する経済および政治アドバイザーであるニューヨーカー誌のライアン・リッツァは2008年12月、これ以上大きな刺激策は経済的に必要なことでなく、また政治的にも実現可能なことではないという結論を下した。

 彼女らが下した結論は政治的には正しいものなのかもしれないし、あるいは正しくないのかもしれないが、経済面から見ると正しくないことは明らかである。彼女らの判断ミスの原因が何であれ、焦点を当てた問題点自体は間違ってはいない。2008年の末および2009年の初め、オバマチームは経済問題の解決に集中して取り組んだ。同政権は散漫な対処はとらなかった。しかしそれが誤りだったのだ。

 誤りは銀行に対する政策についても言える。オバマ政権が銀行に対して強硬な手段を取らなかったおかげで銀行の経営が健全化に向かったと擁護する経済学者もいる。しかし金融業界への甘い対応は、金融危機を引き起こしたその当事者の身を匿い、救済された銀行は帳簿上の赤字が減ったにもかかわらず、貸し出し額を回復させてはいない。そしてこのことはさらに政治的な大失敗を招いてしまった。銀行への救済措置が銀行員の多額のボーナスとして使われ、そのことへの国民の怒りが政府に対しても向けられたからだ。

 もうひとつオバマ大統領の犯した誤りは、国民への説明がないことだ。経済に関して発表されるオバマ大統領の言葉をレーガン元大統領のものと比較することは示唆に富んでいる。あまり多くの人は記憶していないかもしれないが、レーガン大統領により実施された減税の後、失業率は急激に上昇した。しかし同大統領は批判に対し予め答えを用意していた。現在起きている悪しき問題のすべては前政権の無策が原因であると。実際、政権獲得後の最初の2,3年間は、ジミー・カーターへの批判を繰り返し続けた。

 オバマ大統領も同じようなことをすることができたし、むしろその方が公平であったと私は思う。現在も続くアメリカ経済の混迷はブッシュ政権時代に起きた金融危機の結果であり、その金融危機の原因の一部はブッシュ政権が銀行への規制強化に拒否をし続けたことであると、オバマ大統領は繰り返し指摘すべきだったのではないか。

 しかしオバマ大統領はそうはしなかった。彼はふたつの党の間の橋渡しを夢見ているのかもしれない。現在の問題を前任者の責任とすることは民主党員として(共和党員はそんなことは考えもしないだろうが)見苦しいことであると、識者に指摘されることを恐れているのかもしれない。理由はどうであれ、現在直面する経済問題は、自分が政権を担当してから始まったことではないということを国民に思い出してもらうことは簡単にできたのだ。
 
 では拡げすぎた政策課題への不満をどういった形で収束させるべきなのか。医療改革に手を付けなければ、オバマ政権は経済政策を途中で軌道修正することが可能であっただろうか。おそらく、難しかったであろう。今まで以上に大きな景気刺激策を進めるにあたり、認識していなくてはいけないこと、それはチャンスは2度訪れるものではないということだ。もしこのまま失業率が高い水準を維持した場合、国民はおそらく景気刺激策は効果がなかったという結論を下してしまうだろう。刺激策の必要性はすでに明らかであるにも拘わらず。

 また、次のことも覚えておくべきである。民主党が基盤とする人々にとって、医療改革は非常に重要な政策であるということを。上院で可決されるための妥協案に幻滅を抱く議員も少なくないが、しかし彼らとてこの法案自体を放棄してしまえば、さらに幻滅を抱くに違いない。

 また政治は選挙に勝つためだけに行うものではない。医療改革によって次の選挙に負けたとしても(そんなことはありえないと思うが)、その行い自体は正しいものなのだ。

 さて、次はどうするべきか。

 現在のところオバマ政権は新規雇用の創出に成功していない。しかし金融改革を強行に推し進めることは可能であり、そうすることにより国民の怒りを別の方向に向けることができる。それは共和党こそが改革の敵であると、国民に示すことにもなる。そしてそれは事実なのだ。

 医療改革法案の成立のため、民主党は最善を尽くさなくてはならない。医療法案を通したとしてもそれは民主党を政治的に救済するものではないかもしれない。しかし通さなければ、党に政治的破滅を確かにもたらすだろう。

訳:山本拓也

正しいことを行え

ちょっと前に訳出したのだが、アップするのを忘れていたので今更だがアップする


正しいことを行え by Paul Krugman
ニューヨークタイムス 2010年1月21日掲載

 下院の民主党議員へのメッセージとして。“今こそ真実が試されるときだ。正しいことを行え、つまり上院において医療保険改革法案を通過させなくてはならない。さもなければ安易な道に流され、ただ言い訳をし、そして歴史という試験で不合格を突きつけられるであろう”

 火曜日に実施されたマサチューセッツ州上院議員補選での共和党の勝利は、民主党は医療保険改革の修正法案を上院へ差し戻すことが不可能になったことを意味する。これはまったく残念な事態である、というのは上院と下院の協議による修正案は、すでに上院を通過した法案より優れたものであるからだ。しかしながら法案がまったく通らないことに比べれば、上院案でもはるかにましである。そしてこれから法律化に向け、唯一できることは、下院においても同じ法案を通し、オバマ大統領のデスクへその法案を持っていくことだけだ。

 ナンシー・ペロシ下院議長は上院法案を通過させるための票決は行わないと現時点では述べている。しかしこれ以外の選択肢は残されていないのが現実だ。

 共和党の支持を期待し、民主党案を縮小するべきだという議論もある。しかしそんな方法が通じるなんてまともに信じている人間は、他の惑星でここ何年間かを過ごしていたに違いない。

 実際のところ、上院案は共和党との妥協点をさぐった中道案である。またわずか2,3年前にミット・ロムニーがマサチューセッツ州に諮った案と酷似している。しかしロムニー案は共和党の横並び意識から反対を受け、そしてそのことは民主党に医療改革を進めるには共和党の同意を得ることは難しいことを教えた。それがどうして今更、共和党の心変わりを期待できようか。

 もうひとつの方法として、医療保険改革案を細分化して、人気がある部分のみに絞った法案だけを成立させるべきだと訴えるものもいる。しかしその方法の提唱者は、大切な政治の問題点について気付いていない。

 医療保険改革は3本足の椅子であると、考えてみて欲しい。もし3本足の椅子のうち、1、2本はいらないから安くして欲しいというものがいたら、あなたは嘲るだろう。医療保険改革のうち人気があるもののみを切り分けて法律化すべしと訴えるひとも同様に嘲りの対象になるに相応しいのだ。基本的な点をすべて含む法律でなければ、現実には機能しないものとなってしまうのだ。

 例えば、過去の医療歴による差別は禁止するべきだと考える人の意見を議会が聞き入れ、その法案が通ったとしよう。するとどういうことが起こるだろうか。きっと医療保険改革の専門家はほとんど同じ意見だろうが、もしそれと同時に健康な人も保険に加入するように議会が強制しなければ、それは“死のスパイラル”に直結することになる。健康なアメリカ人は保険に入らず、保険に加入している人は高い保険料を払わなくてはならなくなり、するとさらに比較的健康な人はさらに保険に入らなくなり、というスパイラルが続くのだ。

 では“死のスパイラル”を防ぐために議会が健康な人も保険に加入しなくてはならないと決めたとしたら、低所得者への財政支援が必要となる。そしてそれは上院案とさして変わらないものとなるはずだ。つまりこれ以上、医療改革案を軽量化する方法はないのだ。

 共和党を説得することはできずまた、国民受けの良い部分だけ抜き出す法案も不可能である。であれば医療保険改革法案の成立を、上院で予算を通すことと引き換えにしてみてはどうだろうか。これがうまくいけば議事妨害を回避できる。

 これはかなり現実的な選択肢であり、この方法が必要とされる可能性はある(後から上院案を変更することも可能であるし)。しかしこうした取引は通常、税と歳出の問題についてのみ可能であり、改革法案のような重要な法案の成立のためには使えない。実際に、医療歴による差別を禁止する規制だけでも、こうした取引をすることができるのかは不透明である。

 その結果、民主党の一部からは法案自体を完全に諦めようとするものも出てきた。

 これは政治的センスのまったくないものの考え方だ。もし完全に投げてしまったら、民主党は将来にわたって“社会主義者”の医療保険改革を推し進めようとしたという謗りを受け続けるだろう。思い出して欲しい。改革自体は両院ですでに通過しているのだ。民主党は哀れで無駄なことをした政党であると国民に刷り込むことになるだろう。

 そしてところでだが、政治の使命は選挙の再選より大切なことなのである。アメリカは医療保険制度を絶対的に必要としているのだ。民主党が中間選挙における負けを少しでも抑えたいがために、そんな理由で改革案を断念したとしたら、それは国民へ対する裏切り行為となるだろう。

 火曜日の補選から明らかになった民主党の問題は、オバマ大統領が意を決して立ち上がることをむなしく待ち続けてきたことである。

 しかし国民に仕えるためにワシントンへ送られてきた連邦議会議員である以上、大統領が消極的であるからといって、その背中に隠れてよいはずがない。

 医療保険改革が失敗に終わったとしたら、保険料はさらに法外となり、医療保険を最も必要とする人こそ加入を断られ、病気になったときにどうすることもできないといった、今以上に悲惨な情況がやってくること、そしてそれにもかかわらず保険会社はそんな事態も織り込み済みであるという事実を頭に入れておくべきだ。そして有権者はそのことを忘れずに、そんな状態を引き起こした政治家を許しはしないだろう。

 すべての米国民のみなさん、わが国は今岐路に直面しています。ただ悲観するばかりでなく、今は求められる行動を取るべきときなのです。

訳:山本拓也

中国で処女膜ビジネスが大盛況

 最近、スポーツ紙に掲載する海外物の“へんてこニュース”を書いている。英語のサイトを覗いて笑えそうなものや、ちょっとエッチなもの、動物の可愛いのものなど、スポーツ紙チックなニュースを探してきて翻訳、スポーツ紙用に書き直している。まだ採用されたことはないのだけど、結構面白いものもあるので下に掲載します。

 バッグや時計、さらには自動車までも模造品が横行する中国だが、ついにとんでもないまがい物が登場し、人気を博している。それはなんと処女膜の模造品だ。
 「ウィアード・アジア・ニュース」が報じたところによると、中国の都市部では路上で人工処女膜が260元(約3500円)程度で売られており、初夜を迎える女性に大人気なのだそうだ。
 中国は本来、お堅い儒教国家で貞操観念は厳しい。ところが最近の経済発展で西洋文化が流入し若者の生活スタイルも欧米化、婚前交渉も普通になってきている。そこのところまでは日本も同じ歴史を歩んできたが、ここから先中国は独自の文化を花咲かせる。中国男性は、独身時代は恋人と西洋的な付き合いを楽しんでも、結婚する相手には儒教的貞操観念を求める。そして中国人女性は模造品の処女膜で男性の希望にこたえるのだ。
 さて使い方だが、初夜の当日新婦はこっそりと自らの秘部に模造処女膜を挿入するだけ。そうとはしらない新郎に見事突破されるとちゃんと赤い液体が流れ出る仕組みだ。説明書にはきちんと「処女の頃を思い出し、痛がること」と演技指導まで書かれている親切さだ。
 同サイトによると「たった5分であなたもバージンに」、「高性能、これで秘密の過去も帳消しよ」、「260元でバージンがカムバック」「手術も薬も不要、副作用も心配なし」なんて広告が中国のあちこちで掲載されているとのこと。

中国製“人工処女膜”の商品

中国で、巨大ヘビが捕獲される

 また「へんてこニュース」を書いてみました。ちょっとネタは古く昨年の8月の出来事です。オリジナルのニュースは人民日報のウエブ版に掲載されていたようですが、その後続報は見ないので、フェークネタだと思います。


 中国遼寧省撫順市で全長17㍍弱、体重300キロの巨大ヘビが見つかったことを17日、ニュース・サイト「ウィアード・アジア・ニュース」が報じた。
 同サイトによると森林を切り開き道路を建設中の作業員がショベルカーで土を掘り返している最中に異物を発見。目を凝らすと巨大なヘビが二匹おり、一匹はショベルカーで傷を負って横たわり、もう一匹は運転手を睨みつけていた。異様さに気付いた周りの作業員達は恐怖のあまりその場からいったんは逃げ出し、その後現場に戻ると運転手がぐったりとしていた。傷ついたヘビはまもなく死亡、もう一匹は丁度ジャングルへ逃げ込むところだった。作業員たちは運転手を病院へ運んだが、運転手はその病院で死亡。死因は恐怖のための心臓発作だと推測される。
 この事件に関し地元の役場は、現地では巨大ヘビの生息は認められておらず、作業員達の手の込んだいたずらであると発表した。しかし同サイトは1938年に発見されるまでシーラカンスが今も生きているとは信じられていなかった。巨大ヘビも第2のシーラカンスになる可能性はあると報じている。

巨大ヘビ



 こんな記事です。地上最大のヘビはアマゾンに棲むアナコンダで10メートル弱だったと思いますので、これが事実なら大ニュースです。でも、違うでしょうね。
 前回の人工処女膜同様、中国はやってくれます。「へんてこニュース」を書くには、チャイナサイトは見逃せません。

沖縄の米軍基地について


 昨日のブログでは内田樹の外交についての考え方を書いた。その後、私のもう一人好きなブロガーである法政大学教授の鈴木晶さんのブログを覗きにいくと、これまた外交関係の話が書かれていた。
 そこに「あるジャーナリストのルポによると、米軍は沖縄から撤退してグアムに移転しても全然かまわないと思っているらしい」と書かれていた。さて、どうだろう。

 私が思うに、米国は沖縄を押さえておきたいと考えている。
 米国は内田先生が「日本辺境論」で書いているように、西漸志向がある。東部13周から始まり、南部、中西部、そして西部を開拓し、フランスやメキシコと戦い、領土を広げてきた。その後太平洋をも西漸し、ハワイを取り、フィリピンを押さえ、ついに日本と衝突したのはみなさんご存知の事実である。そして日本を越えるとどこの国があるのか。ベルリンの壁が崩壊するまでは、その先にはソ連があった。当然、当時の仮想敵国はソ連であった。
 もうひとつアメリカの軍事的国是というか戦略として、自国の領土では戦争をしないというものがある。西漸戦略自体が、自国の中心である東部13週から少しでも遠くまで領土を拡げ、火の粉が自分の頭に直接かからないようにすることを目的としている。
 戦争をするなら、他国の領土でする、というのが米国の大切な命題なのだ。
 ソ連と冷戦を繰り広げているときも、しっかりと米国はソ連と熱戦も続けている。熱戦の場所は朝鮮半島、ベトナム、アフガニスタンである。みな、米国の外であり、ソ連の外である(ソ連もまた東漸運動という米国とは逆のベクトルを進むが、同じ志向を持つ国なので)。
 ベルリンの壁崩壊後、仮想敵国は暫く存在しなかった。しかし、現在情況は大きく変わっている。当時のソ連以上に強大なライバルが現れたからだ。言わずもがなの中国である。
 さて中国とぶつかる場合に熱戦の地はどこになるだろうか。それは当然、台湾となるはずだ。

 だから米国は沖縄を基地として保有し続けなくてはならない。台湾は沖縄の目と鼻の先である。いったん有事となれば、沖縄に基地を持っている意義は大きい。
 それと日本人は沖縄の基地の意味をたんに戦争を起こさないための政治上のバリア程度に考えているが、米国はより実践的な意義を沖縄に期待している。実際に台湾で衝突が起きたときの前線基地として考えているわけだから、使い勝手が大切になる。日本が提案するような、一部を九州や徳之島に移転するなど、実戦上不便になる選択を容認できるわけがない。
 もうひとつある。かりに台湾での戦争に敗れた場合である。その次、中国との戦場になるのはどこか。おそらく米国は沖縄を想定しているはずだ。沖縄は日本の領土であり、沖縄が戦場となれば日本も参戦せざるを得ない。日本という強力な駒も利用できる。
 この戦略を取れば、仮に中国との戦争で負けが続いたとしても、グアムやハワイという米国領土まで戦線が押し込まれるまでには相当の備えができる。恐らくそこまでは負けないと米国は想定しているはずだし。
 日本人は沖縄の基地問題について考えるとき、当たり前だが日本の立場を中心に考えがちだ。しかし視線を変えることも必要である。アメリカから見ると景色は相当変わってくる。

 このブログを書く前にニューヨークタイムズで“Okinawa”を検索してみた。結果は、該当記事はほとんどなしであった。アメリカ国民は沖縄の基地問題にそれとど興味を抱いていないのだ。興味をもって見つめているのは米国政府の中央や軍部に過ぎない。
 そうだろう、アメリカはいま他で戦争している最中なのだから。毎日多くの米国の若者が死に続けるイラクやアフガニスタンに国民の関心は向いているのだから。

 

林育群とAKB48


 昨日は初めて葉山マリーナの建物の中に入った。中にある中華「青羅」でランチを食べてきた。
 葉山マリーナって、結構大衆的ですね。中にはお土産屋らしきものが幾つか入っていて、どことなくハトヤチック。なんだか奥に入ると大浴場や大宴会場があるかもって、様子である。きっと観光客が多いので、こうなったのだろう。ヨットのオーナーは素通りして、どこかのもっと洒落た店に行くのだろうか。
 そして「青羅」だが、これもまた大衆的な店内であった。味のほうも大衆的。ちょっと化学調味料的な出汁が利いている。まぁ、最近の中華って、どこも同じなのかもしれない。昨年、産経を辞める際に、製紙メーカーの人に横浜中華街のかの有名な聘珍樓に連れて行ってもらったが、そこも化学調味料の味がした。中国人は実利で動くので、化学調味料を使う魅力に抗えないのかもしれない。
 15年前にニューヨークの中華街で入った店はうまかったなぁ。あの店も今は化学調味料を使っているのだろうか。

 さてネットで遊んでいて、Lin Yu Chun(漢字では林育群)の記事を見つけた。知ってますか? なんでも台湾のオーディション番組から出た第二のスーザン・ボイルらしい。記事の写真は大木凡人のような風貌のおかっぱ頭の太った男。さっそくユーチューブで見てみた。ホイットニーの“I Will Always Love You”を歌っているのだが、確かにうまい。風貌と歌唱力のギャップはスーザン・ボイル並みだ。写真だけ、ここに貼っておく。動画の貼り方は知らないので、ご興味のあるかたはユーチューブで検索してください。

林君の勇姿

 台湾で第二のスーザン・ボイルが出たのだから、第三は日本から出るかというと、私はちょっと難しいのではと思う。まず林育群はホイットニーを英語で歌っている。英語はかなりうまい。あれなら米国人も聞き取れる。もし林君(こう書くと日本人みたいですね)が広東語で歌っていたとしたら、あんなにユーチューブで閲覧されることはなかっただろう(今の時点で500万回を超えている)。
 日本人の歌手も英語で歌うときがあるが、あまり上手な人はいない。以前、誰だったか忘れたが、日本の歌手が英語で歌うのをアメリカ人に聞かせたが、何を歌っているのか全然分からないと言った。そうだと思う。
 その点、台湾人の林君の英語は綺麗だ。

 そして、以前スーパー・フリーじゃなくて、スーパー・フライのところでも書いたけど、日本人の歌唱力ってどうよ、という話しだ。この点について、音声学をやっていた知人に聞いたことがある。彼女いわく日本人は胸式で呼吸するから、声量がないのだそうだ。確かに、思い当たる。アメリカ人の友人の話す声は腹から出てるもんな。私も英語を話していて、たまにうまく腹から声が出ると、なんだか発音がよくなったような気がする。
 中国人もアメリカ人ほどではないけど、腹式で呼吸する習慣があるようだ。ホイットニーのような曲は腹から声を出さないと、よろしくないのだ。
 腹式が苦手な日本人には、西洋の曲を歌いこなすのが難しい。
 この2点から、私は日本人から第三のスーザン・ボイルが出現することはないと予想する。ちょっと寂しいが、これはこれで良いのだ。これも日本人の個性なのだと思えば。

 一方、日本人にはあのアニメ声やアイドル系の歌唱がある。これもまた世界を席巻している。ちょっとまえマギボンっていう子がやっぱりユーチューブで随分人気となったが、あの子なんか日本のアイドルを完全に意識してたもんね。
 イギリスから戻ったばかりの友人が、ヨーロッパでもアニメの人気がすごくて、パリで開催されたコミケでは、向こうの子がわんさかコスプレで参加していたと言っていた。

 それでAKB48である。えらそうに書いても一度も聞いたことはないが。電車の中刷りで写真を見た程度だけど、今人気なんでしょ。また秋元康がプロデュースしているとか。
 そう、この手の分野は日本が強いのだ。チームプレイのダンスというかマスゲームのような全体的な動き。鼻にかかった歌い方。上目遣いの視線。これこそが日本のお家芸である。
AKBについては、見たことがないので想像ですが。モー娘みたいのものでしょ、きっと。

 米国やフランスのオタクがいくら真似をしても、決して本家を凌駕することはないだろう。日本人がホイットニーをうたっても、あまりパッとしないように。

 林君の歌を聞いて、そんなことを考えた次第です。

 

雨の一日


 今日は一日雨である。窓から外を眺めながら仕事をする。
 何度も書いていることだが、雨の日に自分が濡れる恐れのない場所から、雨を眺めていることはとても心地よい行為である。小さなころから好きだった。
 そうだ、雨の日にキャンプをしていて、テントの中で雨の過ぎるのを待って一日過ごすことも好きだった。テントの中の方がかえって雨音がよく聞こえる。外界に近い分だけ、その隔たりを感じることができる。
 雨音をBGMに本を読む。夕方になったら、ホットウイスキーなどちびちびやる。あれは、いい。

 ところで今朝ニューヨークタイムスを読んでいると、新しい最高裁判事の候補についての記事が出ていた。エレナ・ケーガンという女性が候補者だそうだ。
 アメリカでは最高裁判事の人事はとても大きなニュースになる。一方、日本ではまったくといっていいほど法曹界の人事について話題とならない。だから専門家でない限りは、誰が今の最高裁裁判官なのかは知らない。なのに選挙では最高裁裁判官の信任を問う。知らない人の信任を負かされても弱ってしまう。あれは実に偽善的なセレモニーだと思う。

 アメリカに話しを戻すが、アメリカの最高裁判事は9人だそうだ。今回初めて、プロテスタント系の判事がゼロとなるかもしれない。今回辞める判事が唯一のプロテスタントで、エレナ・ケーガンがユダヤ人だからだ。こうしたことが話題になることもアメリカらしい。
 では他の8人の詳細だが、6人がカソリックで2人がユダヤだそうだ。エレナ・ケーガンに決まった場合、なんと9人のうち3人もがユダヤ人になるのだ。ユダヤ人、恐るべしだ。
 金融界でのユダヤ人の力は広く伝播しているが、法曹界でもその力はとてつもなく大きいことを改めて知らされる。

 ニューヨークタイムスには、メキシコ湾のオイル漏れ事故の記事も載っていた。今も原油は流失し続けている。すでに海産物に大打撃を与えているが、今後は生態系へのダメージも相当大きくなると同紙では予想していた。
 さて、遠いメキシコ湾の事故であると、我々日本人は悠長に構えていることはできない。なぜって、日本のすぐ近くで例の国が海底油田を採掘しているからだ。もし同様の事故が起きた場合、あの国はどのような対応を取るのであろうか。
 黄砂が飛んでいっても知らん振り、最近ではスモッグまで日本に飛ばしているのに平気な顔である。油が沖縄のさんご礁を真っ黒にしたからといって、態度が変わるとは思えない。考えるだに恐ろしい話しだ。
 それにしても黄砂やスモッグについては、日本政府よ、もっとしっかりと抗議すべきだぞ。

BPのアメリカ法人社長に対し、議会がハラキリを要求!?


 さっきCNNを見ていたら、東洋人の議員がアメリカ議会でハラキリ発言をして、驚いた。英語でニュースを聞いていたので、ちょっと自信がなかったが、今サイトで調べて、そのとおりだったことが分かった。

ジョゼフ・カオ下院議員


 ハラキリ発言をしたのはベトナム系アメリカ人のジョゼフ・カオ下院議員。発言は下院エネルギー商業委員会の前に行われた公聴会でなされた。
 委員会にはBPのアメリカ代表であるラマー・マッケイ氏が呼ばれており、メキシコ湾海中油田の原油流出事故に対するBPの責任について証言を求められた。そこで被災地であるルイジアナ選出の下院議員のジョゼフ・カオ議員が発言をした。
 「さきほど議長はあなたへ辞職を要求した。ところでアジアの文化においては、それとは違った解決法がある。サムライの時代では、ただ刀を渡し黙ってハラキリを要求する」

 この発言を聞いて、ヤバイなぁと感じた。彼を見た目から、日系人だと思ったからだ。こんな発言を日系議員がしたら、他のアジア系が騒ぎ立てるに違いない。やはり日本人は野蛮だ、残酷だ、過去の過ちを忘れているって。
 しかし調べてみると、冒頭に書いたとおりその議員はベトナム系であった。うん?、ベトナムにもハラキリがあったの? ハラキリってアジアの文化なの? 当然、そんなことはないとは思うが、ネットで関連記事を検索してみたが、そこを突っ込んで書いているものはひとつもなかった。アメリカ人にとっては、ハラキリがアジア文化であるのか、日本固有のものであるのかなんてのは興味の外のようだ。
 それとカオ下院議員もそのあたりをご存知ないのかもしれない。南ベトナム出身のようだが、幼くして渡米してきたようなので。彼はちょっと得意そうに、サムライの切腹の話をしていたから。

 まぁ、向こうのメディアでもちょっと面白い話題として取り上げている程度で、今後この話が発展することはないだろう。それよりもずっと本題の方が深刻だから。

 CNNを見ていると、最近ニュースの8割は原油流出事故を報じている。オーバーじゃない、本当にこのニュースばかりなのだ。ニューヨークタイムズ(ネット版)でもトップは毎日、原油流出関連だ。
 日本で比較するとオウム事件クラスか、いやそれ以上だろう。
 この事故はアメリカにとって未曾有の大惨事であり、大ニュースである。インパクト的には911以上かもしれない。
 これら一連の報道を見ていて、アメリカは変わるだろうなと思った。アメリカはこれから死に物狂いで脱石油の道に進むのではないか。その結果、日本人が考えている以上に、脱石油時代は早くやってくるかもしれない。向うの報道を眺めながら、そう思った。


ワールドカップでの、あの選手の活躍


 日本にとってのワールドカップが終わった。最後は非常に残念な展開だったが、よく選手も監督も、そしてサポーターも頑張ったと思う。お疲れ様でした。
 ところで最後は残念な展開だったと書いたが、実はその場面を見ていない。

 僕は普通、夜8時過ぎにはベッドに入ってしまう。だから昨夜の11時は僕にとっては深夜で起きて見るつもりはなかった。録画して翌朝、見ることにした。
 朝、4時に起きて録画を見た。途中、テレビを付けたとたんにニュースで結果を知ることがないように注意して録画を見始めた。
 みなさんご存知の通り、前後半戦ともに無得点で、延長戦に突入。延長戦もなかなか点が入らない。前半はかなり押されていたが、後半途中から日本も反撃する機会が増えてきた。延長戦ではむしろ押し気味にみえた。これならいけるかもしれない。期待が高まった。よしっ、見るほうにも気合が入ってくる。
 と、突然、番組が変わった。見たことがあるようでないような芸能人かアナウンサーが出て、朝のニュースを解説している。うん?、なんじゃ。よくみると録画再生が終了していて、そのとき放映していた別の番組が映し出されている。なんで。
 なんと、延長したために、途中で録画が終了してしまったのだ。ひどいよ。いいところなのに。
 
 録画機の番組表を使って録画設定をした。この方法だと、番組表に記載されている終了時間で録画はストップされてしまう。
 これだけテクノロジーが発達していて、なんでこんな基本的なフォローができないのだろう。
 以前、手でタイマー予約をしていたときには、スポーツの場合は延長を予測して1時間程度大目に録画したものだ。人間だと、こうした知恵が廻る。しかし機械は正確かもしれないけど、融通が利かない。
 メーカーさん、何とかした方がいいですよ。こんな改良、簡単でしょ。日本再生は、こういう細かいところにヒントがあると思うのだが。

 ところで今回の試合、どの選手も良かったですね。闘莉王なんて川島との接触で、左腕をぶらぶらさせるほど負傷していたのに、気迫のプレーを最後まで続けていた(見ていないけど、多分)。
 マスコミが騒ぎすぎなんじゃないかと思った本田も、この試合に限って言えば、かなり活躍していたと思う。
 松井や大久保も、いつもどおりの運動量で、らしさを出していた。
 でも、僕が一番、この試合で良かったと思う選手は他にいる。それはキャプテンの長谷部だ。何が良かったかというと、入場のとき、それと入場を待つ間も、隣の黒人の小さな女の子と話しをしていたことだ。パラグアイの選手も、他の日本人選手もみな闘志を盛り上げるためか、怖い顔をして黙っている。川島なんて、仁王みたいな顔をしていた。それはそれで、真剣さが伝わり良かったのだが。そのなかでひとり小さな女の子に話しかける長谷部は、優しそうで、かえって頼もしさ、余裕を感じた。

 以前の試合から、選手と手をつないで入場する子供達のことが気になっていた。物凄い形相の選手たちのすぐ脇で待たされ、ブルセラじゃなくて、ブブゼラの音が凄まじいグランドに出て行かなくてはならない小さな子供達は、どんなに恐ろしい気持ちなんだろうと、思っていた。
 選手の横で待つ子供達は、ちらちらと選手の顔を見る。でも選手は当然、無視をする。
 その中で長谷部だけは、子供の視線に気付き、声をかけた。いい奴だなぁと思った。

 試合になっても長谷部を注目して見た。今まで地味で、存在さえ気付かないような選手だった。しかしあの控え室のときと同じように、グランドの上でも実に気配りの利く、良い選手だった。
 岡田監督がキャプテンに指名した理由が分かったような気がした。

 もう一試合、子供と手をつなぐ長谷部を見たかったなぁ。

政党の名称について


 名前は大切である。画数などから決めてはいけない。画数は非常に分かりやすいので、子の名前を決めるとき頼りがちだが、あれはまったくのまやかしだ。たかが画数などで、人生は左右されない。それより大切なのは、その意味だ。名前は呼ばれることを前提にしている。普通、人は死ぬまでに何万回、何十万回と名前を呼ばれる。言葉は言霊(ことだま)だから、そこに力を有する。毎日、言霊の力を浴びて、その人間はその名前の導く方向に自然と歩むことになる。本当である。これは僕が勝手に作り上げた説ではない。安岡正篤が言っているのだ。晩年、細木数子の色香に溺れ、もうろくしてしまったが、かつては政界財界のお歴々を指導した東洋哲学の大家がそう言っているのだ。
 さて人の名前も大切だが、組織の名前も大切である。これも人の名前と同じ理屈で、その言霊の影響を強く受けるからだ。

 今度の参院選では候補者を出す政党の数が多い。小政党ブームである。主だった政党を挙げると、民主党、国民新党、自由民主党、公明党、日本共産党、新党改革、社会民主党(社民党)、たちあがれ日本、みんなの党、女性党、幸福実現党、日本創新党。

 その政党の名前だが。まず、“新”が付く政党は、組織の命名としては失格だ。なぜなら“新”は常に短命だからだ。“新”は “新”であるために、自ら短命を志向する運命にある。国民新党、新党改革、日本創新党は、恐らくもって数年、確実に10年は続かないだろう。
 かつて“新”の文字を名に背負った政党を思い出して欲しい。日本新党、新進党、新党さきがけ、どれも短命に終わっている。それぞれその時代の主要プレーヤーではあったが、組織の継続はできなかった。国民新党、日本創新党も同じ道を歩むであろう。

 さて民主党だ。これは良い名前だ。僕は新党さきがけから鳩山由紀夫や菅直人らが離脱し、小沢一郎率いる新進党を飲み込み、民主党を立ち上げたとき、この政党は長命になるかもしれないと思った。こんなこと、今更言っても嘘臭いのだが、たしかにそう思った。自由民主党と名前がダブる謗りをあえて選び、オーソドックスなこの名称に決めた時点で、名前の神様は味方するだろうと思った。
 公明党、日本共産党、社会民主党は無難な名前だ。よく組織の実を表していると思う。名は体を表す。公明党は宗教的、精神的世界の呪縛を受けながら、その庇護も同時に受けるだろう。共産党はマルクスやスターリンの力と、そして呪いを今後も受け続けるだろう。社会民主党は、まぁ、名前はよろしいのでは。ただ実体はどうでしょうか。

 たちあがれ日本、みんなの党だが。名称は悪くない。しかしあえて仮名を選んだ、その影響だ。これについてはなんの根拠もないのだが、良くはないように思う。まぁ、個人的なセンスとして、好きになれないというに過ぎないが。なんだか大衆に媚びているような感じがして。きっとこのふたつも短命に終わるだろう。

 女性党、幸福実現党である。このふたつも名称としては悪くない。中身についてはまったく知らないので、名前だけで判断するのなら、政党が目指す方向をよく表していると思う。あくまで名前からの推測だが、長命になるかもしれない。

 ああ、忘れていた自民党だ。これはもう実績があるので、それが証明していると思うが。まぁまあ良い名前だろう。ただ自由党と民主党をジョイントして作った名前の来歴だ。これはやはり内部抗争を含意しているように思う。自民党の歴史は派閥抗争の歴史でもあったわけだが、それは名前の力かもしれない。

 最後に、政党とはまったく関係のない話しをする。僕が以前属していた産経新聞社の名称についてだ。産経新聞社は産業経済新聞社の略称だ。なので産業経済新聞社の名前についてだが。
 名前は悪くない。日本経済新聞社の名が悪くないと同様に。ただし日経と異なり、産経は自ら名前と違う方向に向かって歩き始めた。この時点で産経は名前の神様の怒りを買ってしまったと思う。
 産経はかつて日経と同じような経済紙であった。そのときは部数も変わらなかった。それが伸びている朝日や読売の真似をして、一般紙を目指したのだ。そのこと自体は構わない。しかしそのとき、名前も変えなくては。
 日経と同じように、経済ニュースを中心に扱う新聞であり続けたなら、産経は日経と並ぶ経済紙となっていたかもしれない、多分。またはあのとき名称を変えていたのなら、朝日や読売に、今ほど部数で差をつけられなかったかもしれない、多分。
 産経は名前が進もうとするベクトルと、組織が志向するベクトルの又裂き状態にあるのだ。名前だけからみたら産経の将来は明るいとは言えない。こんなこと書くと、今も残って頑張っているかつての同僚や後輩に悪いのだが。

 名前の神様を侮ってはいけないという話しだ。

『ザ・コーブ』と捕鯨問題について


 先日、NHKで『ザ・コーブ』という映画のやらせについて放送していた。
 ご存知かもしれないが『ザ・コーブ』は和歌山県の太地町で行われているイルカ漁を撮影した反捕鯨(イルカはクジラの一種)映画である。
 この映画の中で、漁師がイルカを撲殺するところを白人女性が涙を流しながら見つめるシーンがある。これが、やらせだったのだ。イルカが撲殺されているシーンと、女性が泣くシーンは別々に撮影され、それが合成されていた。女性が泣くシーンをたまたま目撃していた地元の漁師がいるのだが、なぜ女性が海を見つめ泣いているのか、そしてなぜその場面が撮影されているのか不思議に思ったそうだ。
 もうひとつ、ある。最後のテロップで関係者の名前が掲載されているが、ある日本人の役人の名前の後でカッコ書きで(辞職)と書かれていたそうだ。この役人はイルカ漁を保護する立場のひとだ。彼の名前の後に(辞職)の文字を入れ、彼がその責任を取らされ、あるいは責任を感じ辞職したようなイメージを観客に植え付けることを目的でなされたと思われる。しかし実際には、その役人は今も同じ職場に勤めている。NHKの取材に対し、この役人は映画を見て自分の名前の後に(辞職)と書かれていることを発見し、非常に不愉快であったと語っている。この明らかな作為的誤りについて、NHKが映画監督に問い合わせたところ、監督はその役人の友人とたまたま飛行機の中で出会い、役人が辞職したと教えられたからテロップに入れたと答えている。NHKは監督の発言を確認するために、その友人にも取材をしている。監督と飛行機の中で乗り合わせたことは事実だが、そのような嘘を監督に言った事実はないと友人は答えている。

 この映画はなんとアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞しているそうだ。ドキュメンタリーとは事実に基づくものかと思ったが、どうもアカデミー賞の考えは違うようだ。フィクションのことをドキュメンタリーと定義している。こんなやらせ映画にドキュメンタリー部門の大賞を授与するとはアカデミー賞も自らの底の浅さを証明したようなものだ。

 さて、日ごろ捕鯨問題が欧米やオセアニアで騒がれるのを聞くたびに思うことがある。クジラが可愛そうで、ウシやブタが可愛そうでない理由はなんなのか。知性の高低が理由であると答えるのか。ならば例えば猫はどうだろう。僕は猫を現在2匹飼っているが、彼らの知性はあまり高いとは感じない。恐らくウシやブタと同程度、あるいはそれよりも低いかもしれない。ならば猫を食べることはどうだろうか。あるいは虐待することは。そんなことを彼らは容認できるだろうか。おそらく動物愛護上、認めないであろう。朝鮮や中国での犬食にも強く反対する彼らであるから、必ずや反対の声を上げるだろう。

 ではウシブタは家畜だから屠殺されてもよいという理屈だろうか。僕はこれこそが欧米人の横暴であると考える。
 子牛のカツレツを、食べたことがあるひとは多いだろう。この子牛、どうやって飼育しているか、みなさんはご存知だろうか。子牛は小さい。だから肉が少ない。でも子牛の肉は高く売れるから、飼育業者は少しでも大きな子牛を作りたいと思う。そのために、サイズは大きくとも、肉は子牛という奇形牛を業者は作るのだ。作り方は、筋肉をつけさせないために、寝返りも打てないような狭い檻で育てる。また肉の色を赤くさせないために、親から早く離し、乳を飲ませない。代わりに鉄分をまったく含まない餌を与える。鉄分が体中で不足すると子牛は苦しむ。少しでも苦しみを和らげるため、檻が鉄でできている場合だと檻を必死でなめるのだそうだ。それを知っている業者はだから鉄の檻では子牛を飼わない。こうして一年程度、ひたすら栄養の偏った餌を食べさせられ、体のサイズとほぼ同じ大きさの檻で育てられたぶよぶよに太った子牛は、サイズの大きな良質の肉を有する子牛として出荷される。業者は儲かる。
 この子牛を人間で想像してもらいたい。生まれた直後に親から引き離され、その後まったく動けないような狭い部屋で何年間も育てられた子供を。この子供は親の顔も知らない。外の世界もしらない。走り回る喜びも知らない。知っているのは自分のサイズの部屋の中だけだ。栄養のバランスが極端に悪い食事をただ無理やり食べさせられるだけの毎日。そして出来上がったのは、ぶくぶくに太った6歳程度の白痴の子供だ。筋力はないから自分で立ち上がることもできない。

 こんな家畜の一生を見て、捕鯨問題を訴えるひとびとは不憫さを感じないのだろうか。
 もし感じるのならば、毎年何万、何十万と屠殺される動物たちをまず最初に救うべきだ。たしかに捕獲されるクジラもかわいそうだ。しかし彼らの人生(鯨生)と、畜産動物の人生を比較して、どちらが不幸だろうか。
 捕鯨に一番強く反対している国はオーストラリアとニュージーランドだ。両国とも世界有数の畜産国である。自国では上記のような動物虐待を平然と繰り返していている。彼らには自省という能力がないのだろうか。
 オーストラリアとニュージーランドのひとびとへ。まず国内で続けられる動物虐待に目を向けよう。そして足元をまずきれいにしよう。

 僕は捕鯨に反対も賛成もする人間ではない。知能の高い生き物をあえて捕食する必要はないかとも思う。しかし捕鯨反対を畜産国の人間から言われると腹が立つのだ。

朝三暮四と消費税


 “荘子”に朝三暮四の話が載っている。
 猿回しの親方がある日、猿たちに毎日やる餌のトチの実の数について尋ねた。「これからは朝に三つ、暮れに四つやろうと思うがどうだろう」と。すると猿たちは怒り狂い「それでは少なすぎる」と文句を言った。それではと親方は「では、朝に四つ、暮れに三つにするが、どうかね」と聞いた。猿たちは大喜びをしたと言う話だ。
 消費税の議論を聞いていて、よくこの話を思いだす。
 消費税論議を、当面は5%で維持し、将来は結局10%に上げなくてはならないというストーリーでとらえ、朝三暮四を思い出すのではない。
 荘子の朝三暮四に託した意味はそんなにストレートなものではない。荘子のメインテーゼは是と非とを和合させる万物斉同である。これはあらゆる差別を捨てると、見えてくるのは、すべてはひとつであり、物事には裏も表も、右も左も、前も後ろもないという意味だ。それはまた、物事は一面で捉えずに、全体を押さえなくてはならないという意味でもある。

 消費税は不公平な税金だという意見がある。そうだろうか。僕には所得税の方が不公平に思える。
 例えば裏社会の人々のなかには、例えベンツに乗っていても、毎年ファーストクラスでハワイにゴルフに出かけても、所得税を一円も払っていない人がいる。しかし裏社会の人でもベンツを買うときに、あるいはファーストクラスのチケットを購入するときに消費税を支払っている。
 消費税は食費への支払いの割合が高い貧困層に不利だという意見がある。これも、どうかと思う。
 なぜなら毎晩、300円の牛丼で夕食を済ませる人もいるが、毎晩100万円以上も飲食に使う人もいる。この両者に、消費税は等しい割合で課される。フェアーではないか。
 お金は使わないと意味がないのだ。年収10億円であっても500万円であっても、使った分だけお金はその効力を発揮する。使わないお金は虚構に過ぎないのだ。お金は使って何ぼ、である。

 もうひとつ、税制は政府の規模をどうするのかという視点から見なくてはならない。
 あらゆる国の国民は税金が少ないのを喜ぶ傾向にある。それはかつて長い間、税金とは支配者のポケットマネーの意味が強かったからだ。長い間、国民は一生懸命に働いた上前を支配者に搾取されていた。搾取された税金は多くを支配者の豪邸や宝石、遊行費として使われていた。だから、税率は低い方が良いと国民は考えた。
 しかし今は違う。ほとんどの国で、税金は支配者のポケットマネーにはならない。税金は国民のために使われているのだ。
 仮にあるときから、日本では税金をゼロにしようということになったとする。するとどんな社会が訪れるか。電灯はないから夜は真っ暗。義務教育は廃止。お金がある人だけ、子供を学校に行かせられる。しかし学費は今の私立よりもかなり高い。私学助成金なんてないからだ。医療は実費。年金もなし。道路は私道のみ。河川は氾濫し放題。警察もないから、治安は乱れまくり。
 こんな社会は当然、誰も望まない。だから税金をゼロにしようとはだれも言わない。しかし、心の中ではどうだろうか。税金がゼロの社会を志向している人は少なくないのではないか。そこに矛盾がある。

 税率は政府のサイズとういう公共サービスの質量の反映である。税金を低く抑えたいのなら、公共サービスの劣化は免れ得ない。公共サービスを充実させたいのなら、税率のアップをまた免れ得ない。

 税率のアップを言う前に、無駄を省くことを考えろと、という意見もある。それはそうだ。しかしそれ以上に、我々国民が政府にどのようなサービスを今後求めていくのかといった、より大きな全体像を考えることが重要ではないのか。

 “無駄”、あるいは消費税の税率という数字にばかり目を向けることは、ディテールの過大重視という陥穽に陥る危険がつきまとう。だから荘子が説く、物事は一面で捉えずに、全体を押さえなくてはならないという意味が大切になってくると思う。今の僕らは猿を笑うことはできない。

“裸足の泥棒”と上原さくらが共有する悲しさ


 ちょっと前の話になるが “裸足の泥棒”が捕まった。日本ではあまり話題にならなかったようなので、簡単に紹介する。
 “裸足の泥棒”ことコルトン・ハリスムーア容疑者は19歳の白人アメリカ人男性で、分かっているだけでも飛行機を5機、ボートを一艘、自動車2台の窃盗と、100件以上の住居不法侵入および窃盗、盗んだクレジットカードの不正使用の罪で指名手配されていた。
 いったん2008年4月、強盗などの罪で逮捕されるが、社会更生施設への移送中に逃亡、その後逃亡生活に入る。逃亡中に飛行機やボートなどを盗み、正式に習ったこともない飛行機やスピードボートを乗りこなし全米を逃避行。人を傷付けない盗みの手口でネット上で人気者となる。

 “裸足の泥棒”と呼ばれたのは、侵入した家屋などに裸足の足跡が残されているケースがあったからだ。いつしかネット上でニックネームが付けられた。フェースブックにはファンクラブまで現れ、英雄視されるにいたる。

 その裸足の英雄がアメリカから逃亡したバハマで7月11日、ついに御用となる。バハマで繰り広げられた逮捕劇の様子はテレビで中継され、全米の注目を集める。

 日本でもここまでは報道されているようだ。では19歳の青年がなぜか裸足で泥棒を続け、ルパンIII世のごとく巧みに飛行機やボートを乗りこなし、2年もの間逃亡生活を続けたのか。ここに触れている記事は見当たらなかったので、これも簡単に紹介する。

 ハリスムーア容疑者はワシントン州のカマノ島で生まれ、その地で育つ。父親はハリスムーア容疑者が幼いときに薬物使用の罪で服役。いったん帰ってきた父親はハリスムーア容疑者が2歳のとき、家で行っていたバーベキューで妻と口論。激高しコルトン少年に暴力を振るい、その後失踪する。
 母は別の男性と結婚するが、その義理の父もコルトン少年が7歳のときに死亡する。

 母は容疑者が幼いときから虐待、育児放棄を繰り返していたらしい。近所の住人は幾度となく母親が烈しく叱る声を聞いている。
 小学校では薄汚い格好の容疑者は苛められることもあったようだが、体が大きく、頭のよい容疑者は大抵苛める側であったようだ。また宿題は一切せず、先生の言うことをまったく聞かない態度に、問題児として扱われていた。

 12歳のころ、容疑者を担当したソシアルワーカーの記録が残っている。「コルトンはお母さんにお酒とタバコを止めて欲しい。そしてちゃんと仕事をして、家に食べ物を持ってきて欲しいと言っている」

 近くの住人の間ではコルトン少年は“島の少年”と呼ばれていた。いつもお腹を空かせ島中をさ迷っている。住居不法侵入を繰り返し、冷蔵庫の中を漁る。パソコンでネットやゲームを遊ぶ。シャワーまでもちゃっかり浴びていく。その家に住人がいない場合は、何週間も住んでいたという。
 つまりコルトン少年は家では食事をまったく与えられずに、パソコンなどの遊技もなく、シャワーさえ使わせてもらえない生活を続けていたのだ。
 虐待を繰り返す母から逃げて、幼時からひとり森で生活し、生きるための知恵を独学で身につけていった。

 飛行機を何度も盗んでいるが、ハリスムーア容疑者がなぜ飛行機を操縦できるのかはなぞとされている。おそらくマニュアルを独自に読み、コンピュータのシュミレーションゲームで学んだのではないかと推測されている。

 学校もほとんどまともに行っていないハリスムーア容疑者はワシントン州というかなり寒冷な地の森林の中でひとり生きる術を身につけていった。鬼のような母親以外、頼る家族もなく、親しい友人もいない。森の中で少年は何を考え、生きてきたのだろうか。

 ハリスムーア容疑者は数多くの犯罪を繰り返してきたが、暴力犯罪は一件も起こしていない。写真でみるハリスムーア容疑者は中々の男前だ。身長は190センチとアメリカ人としても大柄だ。表情は素朴である。

 向うの識者はコメントしているが、まともな家庭環境で育ったならば、相当の知性を伸ばすことができただろうと。

 逃避行の派手さと、裸足の滑稽さで一躍話題となったハリスムーア容疑者であるが、彼のバックグラウンドが分かるにつれ、問題の複雑さにメディアや識者は戸惑いを見せている。


 さて話は突然変わって、上原さくらだ。上原さくらに新しい恋人ができたそうだ。相手はあの青山王子である(僕は今までその存在を知らなかったが、有名みたいですね)。
 前の夫もアパレル会社社長であったという。今回も年商100億だかの会社の社長だそうだ。写真で見ると、それなりのイケメンである。

 上原さくらは可愛そうな女の子だと思う。今回の恋人発覚報道を見て、興味をもち彼女を調べてみたが。
 東京都足立区出身。父親は体が弱く、母親の収入のみで生活を賄う。その後両親は離婚。母の手ひとつで弟とともに育てられる。貧しい少女時代を過ごしたのだ。
 彼女が可愛そうなのは、ただ貧しい母子家庭で育ったことだけではない。彼女がひときわ美しい少女だったからだ。それに彼女は聡明であった。多分、テレビのコメントなんかを聞いていて感じるのだが。
 貧しく聡明な美少女は、自分の武器を早くから察知する。その武器は非常に強力である。当然、彼女はその武器を使いあるいは頼って、世を渡ることになる。
 幸か不幸か、彼女は芸能人となる。彼女の武器を最大に行かせる世界だ。彼女はアイドルとなる。

 彼女は知っている。いつかその武器が使えなくなる日が来ることを。それはそんなに遠い話ではない。昔の貧乏を知っているだけに、貧乏は怖い。そして彼女が選択したものはイケメン社長だ。

 青山王子の会社はそんなに長くは持たないと思う。おそらく王子の親父さんが亡くなったら、瞬時に消えてなくなるだろう。
 でもそんな先のことを考える必要はないのかもしれない。聡明な彼女は、近いうちに王子の将来性に気が付くからだ。
 ならば心配はないと思いたいのだが。でもまた同じ過ちを繰り返すだろう。それが彼女が獲得した、生きる術であるからだ。

 上原さくらは青山王子との結婚の可能性を記者会見で問われると、「今年は後厄だから結婚しない」と勝気に答える。そのあと少し表情を和らげ「とても幸せです」とも。精一杯の姿がなぜか痛々しい。

 米国と日本の貧しく聡明なふたりの若者の過去、現在、そして未来。ふたつのニュースに触れ、なんとも悲しい気持ちに襲われた。


中国人がいっぱい


 今朝、ニューヨークタイムスを読んでいたら、アイオワ州立大学というところで新入生が予定より多く集まり、対応に困っているという記事が出ていた。
 新入生の枠は4500人程度なのだが、400名以上もオーバーしているらしい。通常、大学は定員より多めに受験者に入学許可を出す。しかしある割合の拒否者が必ずおり、大学はその割合を把握しているため、ほとんど誤差が出ないようになっているらしい。
 しかし、この割合って、どうやって出すのだろう。当然、過去のデータに基づくのだろうが、入学希望者は毎年、違う顔ぶれなのだから、その動きは流動的だろう。割合を算出するのはかなりの芸当を要求されるのではないか。

 ちょっと話がそれるが、会社なんかの新入社員についても同じだが。いつもよくちょうどの数を揃えると感心をしていた。

 さて、ところがこの芸当が今年のアイオワ州立大学ではうまく働かなかったようだ。なぜなら留学生が大挙して押し寄せてきたからだ。押し寄せたというのはちょっと違うかもしれない。大学が海外に向け、新入生の獲得を積極的に働いたからだ。
 新入生のリクルーティングをしたのは中国、インド、韓国だそうだ。その結果、中国からだけで350人の新入生が集まったのだ。400名の留学生のうち、中国だけで350人。

 僕が最初に留学をしたのはたしか1985年のことだ。アメリカのカリフォルニア州立大学リバーサイド校ということろで約1年間の語学留学をした。当時留学生数が国別で一番多かったのは、圧倒的に日本であった。中国人はあまりいなかったと思う。その数少ない中国人もほぼ全員、台湾人であったし。
 当時の上位国は、おそらく1位日本、2位サウジアラビア、3位メキシコ、4位韓国、5位南米、って感じだ。3位のメキシコはリバーサイドがメキシコから比較的近いところにあることが原因だと思う。5位の南米は、国ではないのだが、みんなスペイン語を話していたし(ブラジル以外だが)、雰囲気も良く似ていて区別がつかなかったので、合わせてで5位入賞を与えたい。

 2度目に留学をしたのは1994年から96年までバーモント州のセントマイケルという小さな大学へ行ったのだが、ここも留学生は多かった。そのときも日本人が一番、多かったように思う。
 中国人も来始めていた。でも日本人の三分の一もいなかったように思う。

 地域性や大学のリクルート方針もあるとは思うが、中国人の留学生数増加は、全米の大学の傾向だと思う。アイオワだけの話ではないだろう。

 僕が最初に留学したときに、アメリカ人の大学教授に言われたことがある。かつて日本人留学生の数は少なかったがとても優秀で、ハーバードなどの一流校の成績上位者に日本人がかなり食い込んでいた。しかし今は数が多くても出来の悪いのばかりだと。
 勉強にまったく興味がなかった僕は、教授の嫌味に別段怒りは覚えなかったが、印象深く今も覚えている。
 最近の日本人留学生はどうだろう。おそらく数は減っているだろう。しかし質のほうも、昔大挙して押し寄せたころと同じか、さらに劣化しているのではないだろうか。

 それで中国人留学生だが。僕が1994年に行ったとき、たしかアンダー(大学)の卒業生代表は中国人だった。僕は大学院の方に行っていたが、仲の良いクラスメートがいた。彼女もとても優秀だった。中国でもずっと成績優秀で来たといたそうだ。そうでなければ何千万といる大学生の中から勝ち上がって、留学などできないと言っていた。
 今はどうだろう。相変わらず優秀なのだろうか。昔の日本人のように、数ばかり多くて、中身はいまいちという状況だろうか。

 ところでこの記事を読んで面白いと思ったことがある。大学関係者は読みを誤って、多めに新入生を採ってしまったことをあまりネガティブに評価していないことだ。なぜなら授業料を沢山取れるからだ。目算が狂ったのは、主に留学生数の予想がためで、その留学生は州内の学生に比べて授業料を3倍も多く支払ってくれる。思わぬ収入のアップになったと考えているようだ。
 日本の大学だと、あまり定員より多く採用してしまうと、文部科学省からお叱りを受け、翌年の助成金を削られ可能性もあり、マイナス評価になるのだろうが。
 ただ大学関係者の頭を悩ませていることもある。それは新入生の寮の確保についてだ。
 むこうの大学生はほぼ全員、寮に入るので、部屋が圧倒的に足りなくなりそうなのだ。なんとか近辺のアパートを寮として使用したり、構内のゲストルームやレクリエーションルームを俄仕立ての学生寮にして、しのごうと画策しているとのこと。
 すでに寮が満員状態で、大部屋に大人数が押し込められるという噂をキャッチした地元の新入生は、校外のアパートを探し始めているという。
 かつての中国人なら、大部屋に押し込められることに慣れていそうだが、一人っ子政策で育った今の若い中国人にしんどいだろう。夢見て来たアメリカ生活も、ぎゅうぎゅう詰めの寮生活になるとは。

ビリオネアの義務


 今日もニューヨークタイムスから。
 ビル・ゲーツ夫妻とウォーレン・バフェットの呼びかけに応じて、30人以上のビリオネアが個人資産の半分以上を寄付することに同意したそうだ。オラクルの創立者ラリー・エリソンは総資産の95%を寄付するという。
 この30人超の寄付金の総額はなんと6千億ドルを超える。1ドル90円で換算して54兆円だ。日本の国家予算の半分以上の額ではないか(ということはアメリカの資産家30人の総資産は日本の国家予算より多いということになる)。

 日本で孫正義あたりが、同じことを言い出したら、日本の金持ち連中はどうだろうか。相当、ビビルだろうな。まぁ、孫正義が資産の半分を寄付することは絶対ないだろうから、日本の金持ちは枕を高くして眠られるというわけだが。

 とにかくお金というのは、使って何ぼですね。前もブログに書いたが、金はいくら持っていてもそれはお守りに過ぎないと思う。試験前に真面目なクラスメートから借りたノートのコピーのようなものだ。もっているだけでは意味がないのだ。活用しなくては。でも不思議に欲しいだよね。僕も大学の生協で並んでコピーをしたものだが、結局読んだことは一度もなかったが。

 産経時代、上司がいつも「金が欲しい、金が欲しい」と言っていたので、いったいどのぐらいの金額が欲しいか尋ねたことがある。そうしたら多ければ多いほど良い。何十兆円でも欲しいと答えた。では仮に十兆円が手に入ったとしたら、どう使うのかと聞いた。しばらく考えた上司は次のように答えた。「どこか南米辺りの島を買って、爆撃機を飛ばしたり、ミサイルを撃ったりする」
 確かその話は日本橋の天ぷら屋で、今日のような暑い夏の日に交わされた。その上司と僕は気があって、好きなひとであったが、その話を聞いた瞬間、好意が軽蔑に変わったことを覚えている。(すぐに仲良しにもどって、それからも以前と同じように、毎晩のように一緒に飲み歩いたのだが)

 自分だったら何に使うだろう。う~ん。見当もつかない。
 今気付いたのだが、これは愚問というものだな。ミサイルを撃ち込むと答えた上司の気持ちが今、分かりました。

もっとも残酷な殺人


 大阪の2幼児置き去り事件だ。
 3歳と1歳の姉弟は、ガムテープで密閉された6月下旬の暑く蒸す部屋にふたりだけで置き去りにされた。それがどんな結果をもたらすのか分からないひとはいない。

 報道によると、姉弟は飢えと渇きに苦しみながら、涼しさを求めて冷蔵庫の扉を開けた痕跡がある。3歳と1歳の子に何ができるわけではないが、無情にも冷蔵庫の中には何一つ飲み物も食べ物も入っていなかった。部屋は足の踏み場もないほどのゴミで溢れ、わずか1畳ほどのスペースしか動くことができなかったという。そのゴミの中でふたりの姉弟は寄り添うように死んでいた。

 母は6月下旬に二人の幼児を置き去りにして、悪臭が漂うと勤務先の風俗店から連絡が入るまで1ヶ月の間、部屋には戻らなかった。
 飲み物も食べ物も与えられず、梅雨のじめじめした蒸す部屋で幼児はどれだけの間、生きながらえていたのだろう。その間の恐怖と絶望感はいかばかりであったろうか。

 幼児の母は、わが子が飢えと渇きで死んでいく間、繁華街で知り合った男達と遊び歩いていたという。地元の三重県にも度々帰り、中学の同級生の男性の供述によると、6月下旬から7月にかけ、電話で食事に誘われたという。
 この母はわが子が、飢え死にいくときに、男友達を食事に誘っているのだ。

 今後、捜査が進み、その結果をもとに裁判が行われるだろう。そのときこの母に対して、裁判所はどういう判断をくだすのだろうか。
 私はこれほど残酷な殺人行為はないと考える。まったくの無力で頼る術は母しかない幼子を、もっとも苦しいと言われる渇死させた母の行為は、残酷な殺人行為以外のなにものでもないはずだ。

 仮にこれが業務上過失致死(刑法においての“業務上”はいわゆるビジネス上という意味ではない)、未必の故意と判定されるとしたら。
 私は今後、誰かを殺したいと考えているひとにアドバイスをしたい。殺したい相手を監禁し、放置死させなさい。そうすれば日本の裁判においては放置死は殺人に該当せず、死刑になることはないからと。
 もし放置して死ぬことを考えなかったかと裁判官から聞かれたら、幼児でも1ヶ月放置して大丈夫だと考える人がいるのだから、大人なら死なないと当然思ったと答えなさい。何人殺しても、あなたは死刑になりません。

ローマ帝国からの考察


 最近、塩野七生の「ローマ人の物語」を読んでいる。図書館から一冊ずつ借りてきて、今5巻まで来た。全部で15巻ある。まだまだ先が長く、とても楽しみだ。
 「ローマ人の物語」を読んでいて、最近の政治と照らし合わせて思うことがふたつあった。
 まずひとつめは国境および勢力地域の防衛ラインについてだ。ローマはイタリア半島の小都市国家から発展し、現ヨーロッパの約半分、そしてアフリカ大陸の地中海沿岸部、黒海周辺から、アラビア半島の一部まで覇権を拡げた帝国である。その領土、および勢力下の地域は広大であり、当時の通信技術や交通手段を考えれば、驚異的な統治システムを構築し、その難行を達成していったことが伺われる。
 大変、広大な地域を統治していたわけだが、当然辺境部には国境あるいは勢力ラインが存在し、その防衛は非常に困難であった。特に強国や強力な民族と接するラインは、慎重に扱っている。
 広大なローマ帝国は全ての防衛ラインに軍隊を派遣しているわけではないが、特に大切だと思われる地域には必ず軍隊を派遣および常駐させている。つまり勢力の最前線には軍隊を駐屯させているのだ。

 そこで、現代の政治だが。沖縄の米軍基地問題が揺れている。かなりの数の沖縄県民や社民党、共産党などは、県外へ基地を移転させることを望んでいる。アメリカの一部の政治家や軍人も、それに同意しているようである。
 ここでローマを振り返ろう。ローマは覇権下の防衛ラインに軍隊を駐屯させてきた。防衛ラインよりずっと後方に軍隊を駐屯させて、有事の際に軍隊を派遣するようなことは、相手国との関係が安定していた場合に限られる。戦争が起こる可能性のある相手国、および相手民族との防衛ラインには必ず軍隊を最前線に駐屯させているのだ。
 アメリカという国は、驚くほどローマを模倣している国家である。他民族受容の寛大さ、制圧下の国家に対する宗教の寛容、情報通信へ対するこだわり、今手元に「ローマ人の物語」がないので、これぐらいしか頭に浮かばないが、「ローマ人の物語」を読んでいると、これは「アメリカ人の物語」ではないのかと錯覚するほど、よく似ている。明らかにアメリカはローマを研究し、それをメンターとして採用している。
 今後、米軍が沖縄から転出し、仮に鹿児島へ移動したとしよう。これはアメリカにとって、勢力ライン、つまり防衛ラインを後方へ移動することを意味するのだ。つまり、尖閣や沖縄はアメリカの庇護下から離れるということだ。
 さらに米軍がグアムに移転した場合は、これは防衛ラインをグアムまで後退させることを意味する。日本は米軍の防衛ラインの外に出ることになるのだ。
 当然、このことについて、中国も同じ認識をもっている。中国は沖縄から米軍が移動した時点で、沖縄は中国の勢力下に入ることをアメリカが同意したと考えるだろう。そこに日本の意志は存在しない。仮に沖縄の自衛隊がスケールアップしても、それはあくまでも日本の外交、および安全保障政策である。そのことについて中国は考慮するではあろうが、しかしアメリカが手を引いたという事実への認識が変わることはない。中国が気にしているのはアメリカだけだからだ。
 沖縄から米軍を撤退させようと考えている人々は、そこのところをどう考えているのだろうか。まさか沖縄を中国に朝貢しようと考えているわけではあるまい。今後は日本が独自に沖縄や尖閣を防衛しなくてはならないという心構えはあるのだろうか。さらに軍事費増加の負担や、最悪の場合は沖縄を戦火に巻き込み、多くの国民の命が失われるリスクがあることを覚悟しているのであろうか。それがなければ、あまりに無責任というものだろう。
 国家の基本は領土であり、国民の保護である。それを見捨てれば、それは国家ではない。
 
 さて、もうひとつ。戦争は権力者が始めるのではなく、国民が自らの意志で引き起こしているということだ。ローマの歴史は近隣諸国との戦争の歴史であった。ローマは最初は皇帝を戴き、続いて元老院による寡頭制に移行し、その後また皇帝による統治に移行した。そのどの期間も、ローマは戦争を続けている。いやむしろ寡頭制の頃こそが、体外侵略がもっとも顕著だった時期である。
 寡頭制にしろ皇帝体制にしろ、戦争は国民の気分で始まる。国民の気分が高揚したときが最高の開戦時である。どんな専制君主であろうとも、厭戦気分の時期に戦争を始めることはできない。つまり戦争は国民が始めているのだ。
 最近、「The Outsider」を見るために中国版ユーチューブである「youku.com」をよく覗くのだが。トップページはユーチューブと同様に、そのとき一番よく視聴される動画が掲載される。ここのところ2週間は、毎日トップページのトップ動画は尖閣の中国人漁船船長拘束についてのニュースである。

 日本人は、ひとごとのように今回の拘束ニュースを眺めている人が多いようだが、中国人はどうもそうではいようだ。本気で怒り狂っているようなのだ。
 ローマが普遍性を持つのならば、それは中国にも適用できるであろう。かなりの割合の中国国民は、激しく日本を憎悪している。それは戦争に繋がりかねないほどのレベルに達しているかもしれない。
 
 確かに外交による安全保障が最良の手であることは間違いない。軍事行動はなんとしても避けなくてはならない。それは多少の国際的恥辱が伴おうとも、絶対の優先事項である。しかし中国が軍事行動に出てきた場合、日本ははどうするべきなのだろうか。基地の移転を叫ばれているひとは、そのあたりのシュミレーションはできているのであろうか。

 「youku.com」を連日眺めていると、“戦争”ということが単なる仮想的オプションでなく、現実のうねりの帰結であることが分かる。少なくもとある程度の中国国民はその気分に満ちてきているようだ。中国国民の気分がある沸点を超えたとき、政府がそれを抑えることは簡単ではない。ローマの頃から人間の性質はそんなに変わっているものではない。

安易な感謝癖と謝罪癖って、そんなに悪いの?


 今日の産経新聞の正論欄に「日本人の安易な感謝癖と謝罪癖」という見出しで東京大学名誉教授・平川祐弘氏のコラムが掲載されていた。
 コラムでは平川名誉教授は3つの史実を引用し、外国人に対して根拠もないことでも安易に感謝し謝罪する悪い癖があると日本人を戒めている。コラムの中では直接触れていないが、当然、これは尖閣問題で中国人船長を返還した日本政府への戒めを暗に指弾するものである。

 3つとも紹介するとくどくなるので、そのうち最初のものだけを要約して書く。
 戦後、京都・奈良が戦火を免れたのは米美術史家、ランドン・ウォーナーが米当局に進言したお陰だという風評が日本国内で流れた。ウォーナーが米進駐軍の用で来日し、関西へ行くと大歓迎を受けた。事実ではないので、「恩人だ」と言われれば否定をした。ところが、否定すればするほど、「謙虚なウォーナー先生」だと、日本人は褒めちぎったそうだ。ついには感謝の胸像が作られて、米国の大学へ寄贈され、受け取った本人は扱いに困り、人目につかぬ地下室に置いたという。
 それから暫くして同志社大学のオーティス・ケーリーという人が、この話を日本人の感傷的な歪(ゆが)んだ外国認識の実例として調査をした。調査中、ケーリー氏がいくら説明してもウォーナー恩人説は消えず、ケーリー氏は苦笑して帰国した。後年、メリー大学に招かれた平川名誉教授もその話を耳にし、同じように苦笑したそうだ。

 ひとつめの例はこれだけ。要約してあるが、内容はこれだけである。これだけで、なぜ日本人が安易に感謝し謝罪する悪い癖の用例となるのかが、私には不明である。東大の名誉教授の高等な頭脳に、低級な私の頭脳がついていけないだけの話なのだろうか。

 今日、このコラムを取り上げたのは、コラムの文脈の整合性について断じることが目的ではない。別の理由からである。それは、感謝癖、謝罪癖って、そんなに悪いの?ってことである。
 日本人はよく感謝し、謝罪をする国民だという話はよく聞く。そしてそれについての良くない評価も。平川名誉教授と同じように、「日本人はありがたがり過ぎ、謝り過ぎでけしからん」という評価をだ。でも、それって悪いことなのだろうか。
 私は安易に感謝し、謝罪する日本人が好きだ。そんな人の良い人々の間で生活することが心地よい。これが、平川名誉教授が勧めるように策略的で狡猾で、感謝は勿論のこと、謝罪なんて絶対しないという人の間で暮らしていたら、どんなだろうか。私なら、すぐに根を上げる。どこか気のいい人が多い、南の島国へでも亡命するだろう。
 勿論、平川名誉教授が言及しているのは外国人に対しての態度についてである。日本人同士について言っているわけではない。でもそんな使い分けを庶民ができるのだろうか? 平川名誉教授は日本政府の弱腰外交をコラムでは直接糾弾していない。日本人の性向を批判しているのだ。日本の一般庶民の外国人へ対する態度について言っているのだ。

 確かに外交には駆け引きが必要だろう。謝罪や感謝は時と場合を選び、安直に出すべきものではない。外交など明治まで実質はまったく“無”の状態であった日本が、外交下手で、不必要に感謝や謝罪をする傾向にあることは私も認識している。これは改めるべきだろうとも思う。ただし、それは政府やビジネスに置いてのみでいいのではないか。たとえ外交官だろうが、商社マンだろうが、スーツを脱いで家に帰って、普通のお父さんに戻れば、その瞬間から人の良いお父さんに戻って欲しい。嬉しければ感謝をし、自分が誤っていると悟れば、謝罪をして欲しい。

 ここのところの線引きが私は大切だと思う。私が留学をする前に読まされたガイドブックにも、外国ではむやみに感謝したり、謝罪してはいけないと留学生を脅かすようなアドバイスが載っていた。だから私もそのつもりで留学をした。でも留学して分かったのだが、それって交通事故にあった場合や訴訟に巻き込まれた場合など、特別なケースのみだということが。
 すぐに気が付いた私は、普段の生活では友人や先生に感謝したり謝ったり、日本と同じようにした。それで問題になったことはない。かえってタクヤはディセント(礼儀正しい)という“風評”を得たほどだ。
 アメリカでは(他の国も同じだと思うが)、感謝や謝罪を気持ちよく表現できることは、ひとつの知性の証だと考えられているように思う。私のつたない経験だと、アメリカでは教養のある人ほど、謝罪や感謝をし、そうでない人ほど、自分の意見を主張する。
 そう考えると、日本人は一般の庶民でも知的なのだ。ソフィスティケートされているのだ。

 礼儀正しく教養がある(アメリカ基準の)人々をなぜ、粗野にする必要があるのだろうか。別にアメリカ基準にとらわれる必要はないかもしれない。日本の道徳基準で、そして普段の生活感を基準にして、私達はこの美点を守るべきなのではないだろうか。

 私は思う。日常の生活の中において、日本人はこのまま、その人の良さを続けてほしいと。誰にでも感謝し、安易に謝罪する国民であり続けて欲しいと思うのだ。

中森明菜


 中森明菜が免疫力低下のために、年内は仕事を入れないという報道があった。この報道を受けて特に驚いた人は少ないのではないだろうか。というのは、それだけ最近の中森明菜が不健康に見えたからだ。あの痩せ方は尋常ではない。
 この報道を目にして、ユーチューブで久しぶりにアイドル時代の中森明菜の映像を見た。可愛い。デビュー仕立ての頃は特にピチピチで、いやいやどちらかというとポッチャリ系といっていいほど健康的で愛らしい。トレードマークの、これは私がそう思っていただけかもしれないが、太目の二の腕がまぶしい。
 このピチピチの女の子が、45歳にして老女のようなやつれ方をするだろうなんて、誰があの当時思っただろうか。

 古い映像を見てみると、やせてきたのはアイドル時代から始まっている。「スローモーション」と「DESIRE」でどのぐらい年月が経っているのか知れないが、おそらく3,4年程度だとう。それでも随分と違って見える。でも10代の少女から20代の大人の女への変化の時期なので、特別ではないのかもしれない。
 やはり本格的に痩せたのは、あのマッチとの破局からである。これを境に彼女はまさに激ヤセをする。そしてその後、明菜はずっと激ヤセ状態を続けた。一回の失恋が、体質を変えてしまったのだろうか。それとも未だに傷心から立ち直れずにいるのだろうか。どちらにせよ、可哀想な話だ。

 同じように失恋を契機にすっかり変った女性に宮沢りえと華原朋美がいる。しかし変り方は対照的で、宮沢りえは明菜同様に激ヤセ。華原朋美は激太りであるが。

 この3人、ともに美人だ。それもかなりの美人だと個人的には思う。スタイルもかつては良かったし、ちょっとワルっぽいところも魅力的だった。そんな綺麗な女の子がたった一度の失恋で、生涯体質が変ってしまうほど、精神のバランスを崩してしまった。
 あれだけ綺麗なんだから、ちょっとその気になれば、いくらでも次の男はいただろうに。いや、きっと新しい恋もしてきたのだろう。でも最初の失恋を乗り越えることができないでいる。

 3人が失恋した相手には共通点がある。相手は3人とも、付き合っていた当時は、その業界のスーパースターだったことだ。そして、その後他の女性と結婚している。明菜、りえ、華原は独身であり続けているのだが(りえは結婚してる?、ちょっと不明です)。

 ここまで書いて気が付いた。3人はスーパースターのボーイフレンドと美貌を同時に失くしてしまったのだ。そしてそれに伴って自らの人気も。これは相当なショックだろう。乗り越えがたいほどのショックであろう。
 未だ3人ともショックから立ち直れていないのかもしれない。しかし3人には違う将来が待っていた。
 明菜、華原が自傷的な人生を送っているのに対し、宮沢りえは女優として成功を勝ち得ている。

 宮沢りえとふたりの違いは何なのだろうか。それほどのフアンでなもない私にはよく分からない。しかし失恋した相手を見ると、何か方向性のようなものが見えてくる。明菜や華原は破滅的な志向があるのかもしれない。

 なんだか支離滅裂なことを書いてしまった。全然、論理的でない。
 このブログの結論は、また支離滅裂だ。中森明菜へ。またデビュー当時のような健康的な女性になって戻ってきてくれ。君は案外、可愛いおばさんが似合うと思うよ。
 当時はそんなにファンではなかったけど、改めて古い映像を見て、その可愛さに驚いた同世代はそう思うのだ。

沖縄に基地のある理由


 「アメリカは西太平洋でいったい何をしようとしているのか?」、「アメリカが沖縄や日本国内に基地を持ちたがる理由はなんなのか」 この問いに対する、一般に流布する回答は、アメリカの自国防衛のためである。すると今度は、「いったい、どうしてアメリカは自国領土からこれほど離れたところに軍事基地をおかなければ安全保障が成り立たないのか?」という問いが派生する。この問いに対する一般の回答はない。当然である。最初の回答が不十分であるからだ。
 巷間、アメリカは自国防衛のために、西は(アメリカにとって)日本列島から、東はセントラルヨーロッパまで軍隊を派遣しているという説が流布している(日本国内で)。しかし、この説は正鵠を射ていない。この説に立脚すると、アメリカの真の世界戦略が見えてこない。

 アメリカの世界戦略を知りたければ、ローマ帝国の世界戦略を学べばよい。アメリカは非常に忠実にローマを模倣しているからだ。こんなこと、世界の知識人の常識であると思うが、日本の知識人(というかマスコミですね)はスポッと見落としている。ちょっと迂遠するが、その理由は日本人がヨーロッパ史に概して無知であることと、外交史の大切さに気付いていないことがあげられると思う。
 話は戻って、ローマについて。ローマ帝国は今のアメリカと同様に、当時の世界(地中海周辺)の周辺部分にくまなく軍隊を駐屯させていた。北西はイギリス、北はライン川からドナウ川、東は黒海、シリア、イスラエル、南はエジプト、北アフリカと、ぐるっと当時の(ヨーロッパ)世界を一周する。なぜ当時としては世界の果てであるイギリスやドナウ川に軍隊を常駐させていたのか。国防のためだけで、莫大な費用をかけて、軍隊を駐屯させていたと思いますか。
 当然、国防もひとつの理由であるが、それだけではないのだ。実はもっと大きな目的があった。それは覇権の維持である。覇権を国体という言葉に変えてもよい。
 ローマ帝国は当時の世界の覇権国家であった。覇権国家は世界秩序の維持に努めなくてはならない。同盟国が外国から侵略を受けた場合、同盟国の防衛は覇権国の義務なのだ。SOSのサインを無視したりしたら、覇権は成立しない。ローマの覇権下の他の同盟国や地域からの信用がいっきに失墜してしまうだけでなく、国民からもその政府(皇帝や元老院などの為政者)は見放されるだろう。ちなみに国民から見放されると皇帝でも末路は悲惨である。あの暴君として名高いネロもカリギュラも暗殺されているのだ。暗殺されたくないローマの為政者は命がけで政治を行っていたわけだ。そしてローマ帝国として、覇権の維持は大変なことだったのだ。実際、ローマはいく度も、同盟国の救出が目的で、戦争をしている。イギリスでは覇権ラインの外にあった現スコットランド地方の蛮族が現イングランドに攻め込んできたことがあるが、そのときはイングランドの防衛に皇帝自らが遠征している。ゲルマン人からガリア人(現フランス)を守るための軍の派遣は数限りない。

 覇権は覇権国家のレーゾンデートルである。つまり覇権は覇権国家にとって、背骨であり、中心戦略なのだ。だから覇権を放棄した時点で、覇権国家は存在できなくなる。
 覇権は複雑に構成される相互システムだ。例えば同盟国や覇権下地域の安全保障はローマ帝国の義務であり、代わりに庇護下の地域は属州税(収益の10%程度)を支払っていた。ローマ市民は辺境の土地のために戦わなければならないが、ローマ市民となると属州税(所得税みたいなもの)は支払わなくてもよい。そして、これがより重要なのだが、ローマ市民は覇権国家としてのプライドを保つことができた。

 アメリカに話を戻すと、アメリカも現代の覇権国家である。現代の世界はローマの時代よりも交通的、情報的に見れば小さくなっているので、アメリカの覇権はローマよりも地理的に格段に広い。現在、アメリカの覇権の外にいるといえるのは、ロシア、中国、北朝鮮、アラブ諸国、南米やアフリカの一部ぐらいだろう。だからアメリカは世界各地に駐屯しているのだ。その理由は直接的な国防でなく、覇権の維持だ。
 現代の同盟国は属州税を支払う必要はない。だがそれに変わるタスクは強いられている。基軸通貨として米ドルを使用すること、共通言語として英語を使用すること、会計や法務なのでアメリカを基準とすること。国連やIMFなどの国際機関で、アメリカのイニシアティブを認めること。インターネットなど技術分野でアメリカ基準を採用すること。などである。そして代わりに我々は、安全保障を担保されているのだ。

 これが、アメリカ軍が沖縄にいる理由だ。アメリカは覇権国維持という戦略上、同盟国日本の安全を守らなくてはならない。仮に他国から沖縄(尖閣も含む)が侵略を受けた場合に、アメリカは覇権国として、同盟国日本を守る必要がある。そうしなければ、基本戦略である覇権をアメリカは喪失してしまうからだ。そして今まで享受してきた数々の利得を放棄しなくてはならなくなるだろう。またアメリカ人の覇権国家としてのプライド(これが結構大きな、アメリカ人のエネルギーになっている)は失われるだろう。

 以上、アメリカの安全保障戦略の背景について書いた。しかし、これは現在においてアメリカが採用している戦略である。ローマは覇権を失い、その結果、国は滅んだ。しかし覇権を失っても、存続した例はある。大英帝国だ。今後、国力の劣化が進んだ場合、アメリカはイギリスを倣い、穏便に覇権を他国へ引き渡し、普通の国として生き延びる道を採用することも十分考えられる。その際は、当然沖縄から軍隊を引き上げるだろう。そして当然、日本の安全保障への責任も放棄することになるだろう。フィリピンからの撤退、韓国内の基地の縮小はその傾向の一端を現している。

海老蔵くん、酒乱大王として、花を咲かせろ


 昨夜、六本木の暴行事件について、市川海老蔵が謝罪会見を行った。非の打ち所のない、パーフェクトな失敗会見であった。
 海老蔵は相手を介抱していたところ、いきない暴行を加えられたそうだ。海老蔵自身は暴力も暴言もまったく行っていない。怒らせる発言も一切ないという。なぜ暴力を振るわれたのか、一切分からない。海老蔵に非はまったくなく、完全な被害者であると主張した。普段の酒癖についても、報道されているようなスポーツ選手や芸人に絡んだことは一度もないと言う。誰が信じるだろうか。集まっていた大勢の記者は明らかにしらけていた。昨夜、海老蔵は大きく男を下げた。

 歌舞伎役者が何を恐れているのだろう。酒癖の多少の悪さや、喧嘩など、芸の肥やしではないか。ちょっとやりすぎましたと、正直に言えばよいのだ。これが以下のような会見であったら、かえって男を上げることができたのに。

海老「私の酒癖の悪さで、今回は多くの皆様にご迷惑をおかけしてしまいました。お詫び申し上げます」
記者「事件のあらましは?」
海老「六本木の行きつけのバーで、たまたま出合った元暴走族グループに、少々絡みすぎ、返り討ちにあってしまいました」
記者「暴走族のリーダーに、灰皿にテキーラを入れて飲ませたのは本当ですか?」
海老「はい。酔ったときの私の得意技です。これをやらせると、大抵の男は私に屈服するのですが」
記者「先に手を出したのは、海老蔵さんですか?」
海老「いえ。私はテキーラのあと、調子に乗って、リーダーの頭を引っぱたいた程度で、暴力といえるようなことはしていません。リーダーをからかっていたら、ハーフの男がいきなりキレて、襲い掛かってきたのです」
記者「海老蔵さんは、そのとき抵抗をしましたか」
海老「はい多少は。私は朝青龍と腕相撲で引き分けたほど、腕っ節には自信があるのです。しかし一発目がまともに入ってしまって、意識が朦朧としていたので、あまり効果はありませんでした。恥ずかしながら、ほぼ一方的にやられた感じです」
記者「相手は複数だったのですか」
海老「はい。ハーフを中心に、6人に襲い掛かられました。相手が一人だったら、多分僕が勝ったと思うのですが」
記者「あまり反省している様子ではないですね」
海老「いえ。反省しています。次は勝ちます」

 こんなだったら、記者席は沸いたであろう。歌舞伎ファンだけでなく、一般の視聴者もかえって海老蔵ファンになったはずだ。

 広報のプロでなくとも、多少社会経験のある大人なら、あれがしてはいけない会見であることは分かる。あんな自己弁護ばかりでは、かえって視聴者の怒りを買うことぐらい、事前に読める。それなのに、海老蔵はなぜ、あのような失敗記者会見を行ったのだろうか。

 おそらくあの夜の出来事は、海老蔵には本当に海老蔵が語ったように見えたのだと思う。海老蔵の口から発せられる、横柄で人を小バカにしたような言動も、海老蔵には穏やかで紳士的な発言に聞こえたのだろう。相手を小突いたとしても、それは親愛のスキンシップに思えたのだろう。酒が入ると。
 「反省していますか?」との問いに、海老蔵は予定されていた公演が中止になったこと、ファンや関係者に迷惑をかけたことだけ、反省していると答えた。「あの日の自分に今、何か言えるとしたら、なんと言いますか?」との質問には、「出かけるなと、言いたい」とだけ答えた。この回答から、あの事件は一方的な交通事故のようなアクシデントであったと海老蔵が考えていることが分かる。記者や視聴者が予想し期待していた、酒癖の悪さに対する反省の言葉は一切、出てこなかった。
 海老蔵は、自分の酒癖の悪さをまったく知らないのだ、きっと。状況を理解できなければ、対応策は立てられない。自分の酒癖を認識できていない海老蔵は、これからも同じような飲み方をするだろう。
 飲んだら絡み、そのことを自覚しない人を酒乱という。海老蔵君は、真正の酒乱なのかもしれない。では真正の酒乱であることが判明した海老蔵君は、これからどうすればいいのだろうか。答えは、こうなったら酒乱道を貫こう、だ。歌舞伎役者なのだから。別に道徳的な生きなくてもよいのだ。要は芸である。芸さえ極めていればよい。本来なら、今回のような事件を糧にして、芸を向上させてもらいたかった。しかし認識がないのだから、糧にしようはない。ならば酒乱に磨きをかけ、それを芸に反映させるまで高めてもらいたい。すれば、暴言を吐こうが、初対面の人間に絡もうが、すべて帳消しだ。
 しかし、酒癖を認めないにしろ、もうちょっと器を見せてもらいたかったな。逆境にあるときこそ、器を披露できる機会であっただが、残念だ。やはり酒乱道に磨きをかけ、次の会見では、酒乱らしい発言を乱発してもらいたい。

 それと、今回の事件で公演等に与えた損害額を聞かれた松竹の重役が、「代わりの公演を企画中なので、その結果を見ないと分からない」と答えていたが、これも情けない受け答えだと思った。「一公演の損失などは、小さなことです。将来のある海老蔵君が今回の事件を乗り越え、一回り大きくなって、恩返ししてくれることを期待しています」ぐらいのことを、言って欲しかったな。

鈴川真一VSマーク・コールマンの試合についてフィル・バローニが語ったこと


 ちょっと長いタイトルだ。このブログはタイトルを検索エンジンで見て、やってくる人が多い。タイトルだけで内容が分かりやすいよう、書いた。今日の話は、プロレスネタだ。興味のない人はスキップしてください。

 喧嘩屋キンボ・スライスが日本で試合をするという。キンボはユーチューブで世界的に有名になったストリート・ファイターだ。そのキンボと対戦するのは鈴川真一というプロレスラーだそうだ。知らない。調べてみて、あああの選手かと気が付いた。もと若麒麟という四股名の相撲取りだ。大麻所持で逮捕され廃業している。新聞記事で若麒麟は知っていた。その後、レスラーになるという記事も読んだ気がする。そこで改めて鈴川のことをネットで調べてみた。過去1戦のみプロレスラーとして戦っている。相手は元UFCの伝説的チャンピオンのマーク・コールマンだった。
 マーク・コールマンは生で見たことがある。PRIDE GRANDPRIX 2000、東京ドームでだ。その日は一日トーナメントが行われたのだが、コールマンが優勝している。初戦を小路晃と、準決勝は藤田と、決勝はイゴール・ボブチャンチンと戦った。
 トーナメントはどれも充実していた。とても面白い試合の連続だった。藤田のパワーは日本人離れしていた。ボブチャンチンのロシアンフックは強烈だった。しかしなんといっても良かったのはコールマンだった。離れてよし、寝てよし。寝てからの繰り出されるパウンドには驚かされた。あの破壊的なパウンドは、それまで見たことがないものだった。当時はまだヒョードル以前の時代だった。そしてコールマンは強さだけでない、もうひとつの魅力があった。朴訥そうで、それでいてひとなつっこいような表情だ。ただのレスラータイプの選手(プロレスじゃなくて、レスリングの選手)だと思っていて期待していなかったが、一日でファンになった。(そういえば、優勝候補は当時世界最強と言われたマーク・ケアーだった。準決勝で藤田に破れている。こちらは期待はずれだった。勝った藤田を誉めるべきかもしれないが)

 このかつてのスーパースターが世界的にはまったく無名のレスラーのデビュー戦の相手を務めた。何か事情がありそうだ。ネットには鈴川とコールマンのこの試合の映像が流れている。見てみた。それは奇妙な試合だった。
 まるでかみあっていない。鈴川はもっぱら張り手のみ。コールマンは寝技に持ち込むが、鈴川はロープでエスケープ。最後までそれが続き、戦意を喪失したコールマンがタイムを要求。TKOとなった。拍子抜けというか、コールマンらしくないというか。鈴川はやたら威嚇するし、周りがうるさいし(なんだが珍妙なラッパー軍団がセコンドについていた。こいつらが品がなくてうるさい。でも、演出的には面白かったが)。しかしこれはプロレスなのだから、そんな演出なのかとも思った。
 
 ネットで調べてみて、背景が見えてきた。コールマンは一週間前にプロレスとしての試合のオファーを受けた。シナリオは3分内にヘッドロックでコールマンが勝利するというもの。しかしヘッドロックしても鈴川はタップしない。それどころか、本気になって殴ってくる。そこでコールマンがタイムを要求したのだ。

 この辺りのことは日本語のニュースやサイトには書かれていない(私は見つけられなかった)。米国のサイトで私は読んで知った。コールマンは何も発言していないが、後日コールマンの友人のフィル・バローニが次のように語っているので、翻訳する。この試合の内幕を語っているのはバローニだけのようで、日本語ではこの発言が報道されていないようなので。

「プロレスの試合をするって聞いていた。3分以内で済むって。コールマンが勝つ予定だったんだよ。ところがあのデブでクズのクソバカ野郎が約束を破りやがった。それに流された映像は編集されている。あのデブのアホーはヘッドロックでタップするはずだったんだぜ。ところがタップしねーで、ロープに何度もエスケープしやがる。全然タップしねえもんだから、力いっぱい締め上げ続けたコールマンは疲れちゃったんだよ。
 本気の張り手と膝蹴りを何発も浴びて、ちっともデブは約束どおりに試合を運ばなくて、コールマンは言ってたぜ。リアルファイトをしたいなら、どうぞDreamか戦極でやってくれ。俺はもうこんなところはごめんだ。俺がたった一週間前に受けオファーは、3分以内のプロレスの試合なんだ。シュートの試合をするなんて聞いていねぇ」

 以上だ。若麒麟、変ってないね。次のキンボ・スライス戦もヒールで徹してくれ。

空飛ぶ自動車“テラフージア”


 ラジオ英会話を聴いていたら、教材のニュースが「空飛ぶ自動車“テラフージア”」についてのものだった。これを聞いて始めて“テラフージア”について知った。すごい、発想だ。アメリカ人、恐るべし。
 昔からアニメの中には空飛ぶ自動車は登場する。「マッハGoGoGo」も確か、ピンチでは空を飛んでいたと思う。だから以前からあったシンプルな発想なのだが、それを実現化しようと思うところがすごいと思う。
 ちょっと調べたら、何でもアメリカでは20時間の講習を受けるだけで、この空飛ぶ自動車に乗ることができるらしい。そんなに簡単なら(日本の自動車免許取得より、百倍楽だぜ)、購入したいと思う人が多いだろう。実際、まだ予約段階だが、70人からすでに注文が来ているという。価格は1700万円。ベンツの高級クラスと同じ程度だ。
 問題はやはり、離着陸に滑走路が必要なこと。できれば、高速道路なんかから離陸できると便利だが、さすがにそれは無理のようだ。普段は羽を折りたたんでいるが、飛ぶには拡げなくてはならない。結構、横幅を取る。一般道では収まり切れない横幅だ。
 しかし最寄の飛行場までテラフージアまで行って、そのままフライトして、目的地近くの飛行場に着陸をする。帰省なんかで使えると、すごく便利だ。動画がユーチューブにアップされているが、これを見ていると、将来はこん空飛ぶ自動車が一般化して、空が自動車で一杯になる日も遠くないような気がしてくる。
 私は高所恐怖症なので、無理だと思うが、でも使ってみたい交通手段である。




三木谷浩史の英語と楽天の英語戦略


 夕べ、CNNの“トーク・アジア”という番組に、楽天の三木谷浩史が出演していた。
 三木谷氏の英語だが、初めて聞いたが思ったよりもうまかった。話した内容は、楽天の社内英語戦略と事業展開についてで、おそらく百回も話してきたことだから、洗練されていたのだとは思うが。
 発音は普通の日本人英語。語彙は、思ったことがいえる程度には十分。言い回しもこなれていた。難点といえば、早口になり勝ちなところ。おそらく、日本人英語に慣れていないネイティブ・スピーカーならキャッチできないだろうワードが結構あった。あと、“you know”が多過ぎる。口癖なんだろうな。ちょっと耳に障った。でも、全体的には自分の思ったことをほぼ完璧に話せるレベルだと思う。
 番組で知ったが、三木谷氏は日本興行銀行からハーバードに留学している。ハーバードではちゃんと勉強していたんだね。少なくとも、話好きのようだから、クラスメートとは相当ディベートはしたんだろう。
 こんなこと、書いていると、私の英語のカンバセーションは相当のように思われてしまうだろうが、私のは大したことがない。リスニングも全然で、CNNも半分程度しか理解できない。昨夜の三木谷氏のインタビューは100%分かったが。だから、偉そうに人の英語を批評する立場ではない。しかし個人的なブログだから、ご容赦願いたい。格闘技の素人がヒョードルの敗戦を批評するようなものである。

 次に楽天の社内英語戦略である。もう色々なところで議論されていることなので、今更なのだが。結果から言うと、私は大いに進めてもらいたいと思う。自分が若くて、サラリーマンをやっていたなら、何年間か入ってみたいと思う。何年間ってのは、あまり長くいられる雰囲気ではないように感じたから(会社の雰囲気が悪いというのではないですよ。私には勤まらないという意味です)。
 今、朝はお茶を飲みながらニューヨークタイムズを読み、昼はランチを取りながらCNNのニュースを聞き、夜は一杯やりながら「アメリカンアイドル」を見ている。仕事では英語サイトを読み、インターネット上ではほとんど日本にいない。日本の田舎にいながら、意識と頭はアメリカやイギリス、あるいは英語上のバーチャル世界にあることが多い。そんな自分から見ると、東京の方が遠く霞んでいる。
 私の仕事が翻訳という特殊なものだから、という訳ではないと思う。情報世界においては、英語がスタンダードであることが確立しているからだ。ビジネスやアカデミックな世界では、とくにそうだろう。
 私がかつて勤めていたのは新聞社という、これこそ特殊な企業であった。商品は日本語そのものだ。海外との取引はほとんどない(外信があるけど)。海外からの参入の可能性はほぼゼロで、海外へ進出する可能性は確実にゼロであった。だから社員の意識としては、英語や海外は自分の世界にはなかったと思う。
 しかし一般企業は違うだろう。閉塞した日本市場だけで、今後もやっていこうと思っている企業はそうないに違いない。海外からの参入も激しい。ビジネスパートナーは海外企業で、使用言語はもちろん英語だ。
 だが、そんなビジネスの世界でも、やっぱり日本にいる普通のサラリーマンにとっては、海外は海の向うで、英語はできれば近づきたくないものだろう。
 だけど、もうそれじゃやっていけない時代なんではなかろうか。ビジネスの世界では英語が共通言語であることを認め、あるいは英語というコミュニケーション手段を共通基盤とする世界にいることを受け入れなくてはならないと思うのだ。

 私の英語は大したことがないが、それでもちょっと時間をかければ海外のサイトは読めるし、ニュースも半分ぐらいは分かる。これだけでも世界は広がる。そして意識も変ってくる。
 小沢がだだをこねて権力の座にしがみ付いたり、引きこもりが社会問題になったりする世界とは違う世界が、すぐ外にあることに気付くようになる。そしてその世界から隔離された生活を続けることは困難であることも直感できるようになる。

 前も書いたが、だからといって義務教育を英語で受けさせることには強く反対する。日本語はこれからも守っていかなくてはならない。古文や漢文は、もっと学ばなくてはならない。英語は現代という社会の横をつなぐツールだが、古文や漢文は歴史という社会の縦をつなぐツールだから。
 あくまでビジネスやアカデミックな世界のみでだ。英語をスタンダードにすべきなのは。

 楽天は従業員の1割だか2割だかも外国人にするという。社内の会議は英語だそうだ。今、そのニュースに触れた大方の日本人の目には珍妙に写っているのだろう。
 しかし20年後には、どうなっているのだろうか。賢明な日本人である。世界の潮流をうまく乗りこなし、英語も、それなりに使いこなしているのではないだろうか。奈良、平安時代、いや徳川の時代までの公式文書はすべて漢文という中国語でかかれていたんだ。現代人だって、やればできる。それにやらなくちゃ、ならなくなる。


韓国の底力


 夕べはかみさんが会議で帰宅が遅くなり、それまで飲んで待っていた。飲むと本が読めなくなるのでテレビを付けた。地上波、BSはどれも見たいと思える番組がない。それでケーブルをザッピングしていたら、韓国のミュージックビデオを流している番組があった。最近、見る番組がないと韓国や中国の歌番組を見る。
 昨夜は男性グループが何組か出ていた。おどろいた。みんなカッコいい。相当。
 一組だけメモをとった。グループ名はSHINee。派手な化粧をしていて素顔は分からないが、クールである。背も高くて肩幅もあり、日本のアイドルに比べて男っぽい。それでいて色気がある。ダンスもうまい。歌だけはジャニーズ並みであり欧米のアイドルに劣るように感じたが、ルックスはむしろ欧米より上だ。

 最初に入った会社はHSBCという英国系の銀行だった。上司はブッカーという名のケンブリッジ卒のスコットランド人であった。なぜスコットランド人というかというと、彼がそう主張していたからだ。イングリッシュというと猛然と怒った。まあそれは、今回の話題とは関係ないのだが。そのブッカーが日本に来る前の前任地が韓国であった。それで韓国について聞いてみたことがある。当時の日本はバブル直前でとても元気があった。しかし韓国も大統領制に移行した時期で、明るい兆しが見えていた。韓国も日本に肩を並べ、あるいは追い抜く日が来るかもしれないと私は思い、ブッカーに意見を尋ねてみた。
 ブッカーはそれはない、と断言した。理由は忘れた。もしかしたら言わなかったのかもしれない。ただ彼の在韓経験と在日経験を元にした日韓比較であり、単なるフィーリングであったのかもしれない。
 ケンブリッジ出でいかにも頭の良さそうな上司の言葉は私の記憶に残った。そして私も理由なく、そうなんだろうと思い続けていた。

 最近の韓国経済の威勢の良さは周知の通りである。韓国は人口が日本の半分だから、中国のようにGDPで日本を追い抜くことはないだろう。しかし国民一人当たりのGDPなら十分、可能性はある。今はまだ半分強のようだが、この先は分からない。日本のGDPの高さは円高の影響が大きい。今の80円が120円程度になれば、おそらく韓国に抜かれる。

 昨夜の韓国男性アイドルを見ていて、その日は確実に来るのではと感じだ。彼らの思い切りの良さが、現代経済のシステムと親和性が高いと思うからだ。
 女性アイドルもそうだが、彼らはとても人工的である。身長、スタイル、顔を厳選し、アイドルグループを製造する。曲もダンスも躊躇なく流行を模倣する。それに比べ、日本のアイドルグループはより自然である。背が低くても、顔があまり良くなくても、きっと性格が良かったり、話が面白かったりするのだろう。それでグループの一員になれる。だからグループに人工的なまとまりがない。そして日本のファンは、むしろそれを好む。一方、韓国はためらいなく、きっと冷酷に外観でアイドルを選別する。結果、韓国のアイドルグループは美男美女ばかりである。カッコがいい。

 韓国の企業も韓国のアイドル製造と同じような規範で動いているように見える。徹底した合理主義である。

 昨夜の韓国アイドルを見ていて、韓国の底力を感じた。しばらくはこの勢いが続くだろう。しばらくは。


地震とローテク


 こんな大変なときに、ブログなど書いていていいのかどうか考えてしまうが、他にすることがないので書くことにする。かみさんはまだ帰って来ていない。迎えに行きたいのだが、連絡がつかない。携帯は電池切れのようで、勤め先の学校に電話をしても通じない。夕べは学校に泊まったのだ。幸いかみさんの学校は宿泊施設がある。寮があるのだ。どうもそこに泊まったらしい。帰れなかった子供の世話をしているようだ。
 交通情報を確認すると高速は一部開通。一般道路はほとんど通れるようだ。渋滞箇所が多いようだから、時間はかかるだろうが、迎えに行けなくもない。横須賀線は運休している。しかし東海道線は動き始めているようだし、大船・逗子間の横須賀線も動いているようだから、戻ろうと思えば電車を乗り継いで帰ってくることができる。きっとその方法で帰ってくるだろうから、行き違いになったら困るので、待っていることにする。

 昨日、地震が発生した時刻はPCに向い仕事をしていた。あ、地震だと思った。最初は大きな揺れではなかった。しかし長い。そして徐々に大きく揺れた。我が家は築40年の古家である。倒壊するかもしれない。恐ろしくなり、外に出た。猫をどうするか迷ったが、外に出して帰ってこなくなる方が危険だと判断し、家においていく。
 外に出ると、近所の人が窓から顔を出して様子を伺っている。「怖い~」と叫ぶ女性もいる。外に出たのは私と、近所の老人(男性)ひとりだけ。その老人も古い家にお住まいだ。新築の人は家の中の方が安全だと判断したのだろう。
 地震が止み家に戻る。パソコンが心配になり、2階の書斎から一階に運ぶ。猫は不安そうで、私の後ろを付いて歩く。1階に下ると、2階がみしみしと音を出し始めた。何かあったのかと上を覗いていて、また地震だと気が付いた。今度はパソコンとラジオを持って外にでる。またしても猫は置いていく。5分ばかり、パソコンを抱え、外で過ごす。
 そのときは震源地はこの辺りだろうと思っていた。きっとかみさんの勤め先や実家の千葉はあまり揺れていないだろうと考え、ちょっと自慢げにメールを打つ。「凄い揺れだったけど、そっちは大丈夫」と軽いのりで。
 ところがラジオを聴き、徐々に様子が分かってくる。ものすごい大地震だ。マグニチュード8.1(あとから8.8に訂正)。関東大震災クラスの巨大地震だ(あとでそれ以上だと判明)。家に戻り、テレビをつける。つかない。なぜだろう。あちこち見て回って、停電だと気付く。
 そこから電気なしの一日が始まった。ラジオを持っていたのは助かった。どこかで景品でもらったものだ。感度は悪いが、幸いニッポン放送とNHKが受信できた。ふたつの局を交互に聞く。ラジオの強さ、有り難味が身に滲みた。
 なかなか停電が直らないので、夜を考え、懐中電灯用の電池を西友に買いに行くことにした。西友に行くと、長蛇の列だ。それも店も停電で、入り口で災害品のみを販売している。電池も売っていたが、私が欲しかった単一は売れきれとのこと。しかたなく諦める。しかしパートのおばちゃんたちは偉い。たかがパートであるが、はやりプロだ。きっと家に帰りたいだろう、家族の安否が気になるだろう。なのに必死に災害品を売る。見ていて胸が熱くなった。
 懐中電灯はふたつあり、もうひとつは単三のものだ。単三は予備がたくさんあるので、しばらく大丈夫だ。明るいうちに夜の支度をする。

 うちはローテクである。オール電化とは対極の家だ。暖房は灯油である。一昨年までは炭だけで過ごしていたのだから、これでもかなり文明化は進んだのだが。ローソクもたくさんある。仏壇はないが、仏さんようのものを沢山買ってある。
 夜はストーブを付け、ローソクをともし、快適に過ごす。幸い、水とガスは使える。暖かい部屋で暖かい食事を取ることができた。
 最近の家は大抵、暖房はエアコン頼みであろう。きっと寒いに違いない。近くの人に声をかけるかどうか迷ったが、ほとんど近所付き合いがないので止める。あとから下の一人暮らしのおばあさんだけでも声を掛けるべきだったと反省したが。

 かみさんとは携帯のメールで何度か連絡を取り合うことができた。電車が止まっており、さらに帰れない子もいるので学校に泊まるという。実家からも連絡が入り、全員無事とのこと。安心したら、飲みたくなってしまった。ストーブの上のヤカンで熱燗を作る。ローソクのあかりで熱燗。なんだかキャンプの気分だ。つい気持ちがよくなる。不謹慎だが。
 テレビが見られなかったのは残念であった。しかしラジオで凡その様子は分かった。部屋は暖かい。猫は不安なの2匹が膝の上に乗りたがる。熱燗はうまい。かみさんには悪いと思いながらも、うつらうつらして12時ごろには布団に入ってしまった。

 深夜、街頭放送でたたき起こされた。また地震が発生したと。ラジオをつけると、長野で震度6強があったという。長野で農業を始めたkozawanさんのことが気になる。でもすぐに、また寝てしまった。
 翌日、今朝だが、kozawanさんから連絡があった。たまたま東京に戻ってきていたという。東京に残していた母子3人のことも気になっていたのだ。みな無事だという。よかった。

 あとはかみさんの戻りを待つだけだ。


今、すべきこと


 かみさんは日曜日の夕方に戻ってきた。東海道線と横須賀線を乗り継いで。混んでいたようだが、思ったより時間はかからなかった。

 前回の自分のブログを読み返し、なんとのん気な男だろうと自分を呆れてしまった。言い訳をするとブログを書いたのは日曜日の昼で、それまでテレビはほとんど見ていない。あの時の情報は震災当日のラジオのみであった。ラジオには随分、助けられた。ラジオならではの迅速で客観的な報道は頼りがいがあった。でもあの映像はラジオでは見ることができない。それに震災の当日はこれほどまでの災害であると、メディアもそしてきっと政府すら気付いていなかったのだろう。それでも私がのん気であったことには違いない。
 あれから3日たった。昨日はほぼ一日テレビを見ていた。家や車が流される場面には恐怖を覚えた。子供達や老人が救出される場面では涙がこぼれた。

 テレビはNHKと民放、そしてCNNを交互に見た。それぞれが違う切り口であった。立場やロケーションの違い、報道姿勢の違いが、映像の差異に現れていた。
 どれがどうと、今は言うのは控えよう。どもれ精一杯の対処であろう。
 これに関連することだが、東京電力の計画停電の対応への批判があるようだが。東京電力はよくやっているのではないか。直前まで電力の維持を目指した結果、計画停電が中止になることがどうして問題なのだろうか。計画が何度か変ったのは、努力の結果ではないだろうか。
 安全な丘の上から眺めて、他者を批判するときではない。今はみなで力を合わせるときだ。

 今、自分ができることは何であろうか。被災地にリュックを背負って駆けつけるべきだろうか。それもありだろう。きっと日本全国から善意のボランティアが今後東北に向うであろう。
 しかし私は行かない。私ができる最良のことは、被災地に向かうことではないように感じるからだ。医療技術も土木の知識も、体力もさしてない私に、そして被災地からは距離のある逗子にいて、今私ができる最良のことは別にあるように思う。それはいつもと変らない生活を送ることだ。翻訳を続けよう。具体的な仕事がないのなら、トライアルを受けよう。トライアルに落ちたなら、また受けよう。そして出版翻訳を目指し、本を探そう。時間があれば英語力をつけるために勉強をしよう。それが私の今できる最良のことだ。
 そしてできるだけ、電気、ガス、水道の使用は控える。買占めに走らないよう自重する。こうしたことが間接的ではあるが、被災者や救助活動への小さなサポートになると、私は思う。



川に落ちた犬


 昨日、西友に行くと多くの棚が空だった。予め想像していたが、改めて見ると驚く。ソ連時代のスーパーの棚ががら空きだった報道はよく眼にしたが、まるでそれだ。
 米や麺類はある程度、余分に家にある。今回の目的は、当日食べる野菜と納豆、猫のトイレ砂、そしてビールである。野菜は根野菜を除いてほとんどあった。納豆はなし。豆腐も2,3丁ばかり残っていたが、家にあるので買わなかった。そして猫のトイレ砂。これがないと、非常に困る。餌ならば、昔のように人間の残りを猫まんまにして与えることができる。しかしトイレは人間のを使わせることはできない。どうしても猫用のトイレ砂でなければならない。かろうじて、2,3残っていたのでそれを買う。いつも買う種類とは違うが、この際仕方がない。これでしばらくは大丈夫である。
 そしてビールであった。これもなくなっているのではと危惧していたのだが、杞憂であった。ビールは家にまだ10本以上残っている。でも最近はかみさんも晩酌につきあったりして、毎日2本のペースで消費されていく。このままだと1週間もたない。買占めはいけないと分かっていても、どうしてももう少し備蓄したい。しかしこの時期にそんな不埒なことを考えているのは私だけのようだった。ビールは沢山、残っていた。喜び勇んで1ダースばかり購入する。これで暫くは大丈夫である。

 昨日は朝の6時20分から12時まで計画停電があった。昨日はかみさんが仕事を休むと決めていたので、いつもより寝坊をした。それでも6時には起きたのだが。本当なら6時20分には朝の用事はほぼ済んでいる。しかし寝坊をしたので、ちょうど朝の支度の時間であった。でもあまり不便は感じなかった。すでに外は明るい。水道とガスは使える。新しいタイプのガスバーナーだと電気で着火するが、我が家のフランス製旧式タイプはマッチ、あるいはチャッカマンで火をつける。だからガスは問題なし。
 ラジオを聴きながら朝食をゆっくり取る。その後は仕事をしたかったがPCが使えないので、簿記の勉強をする。簿記の問題を解いていると、予定より30分程度早く停電が終了した。総じて計画停電で不便は感じなかった。

 東京電力の計画停電が計画的でないと文句をいう輩が多い。計画通りに停電をしないことの、どこに問題があるのだろう。皆目不明である。ただただ、文句を言いたいがための文句に聞こえる。ストレスの発散は、必至に停電を抑えようとしている東電に向けるべきではない。
 たしかに東電の原発への対応は問題が多いように、傍からは見える。実際、技術的専門的なことが分からないので、東電の不備が多いのかどうかは分からないが。
 少なくとも、あの記者会見は決して誉められたものではない。おろおろしすぎだ。言葉が不明瞭だ。もっと堂々と、そしてオープンに話すべきだ。そこは問題があることには同意する。しかしだからといって、計画停電までも非難するべきではない。川に落ちた犬を打つべきではない。みんなで川から引き上げてあげてやらなくちゃ。


プロフィール

山本 拓也

Author:山本 拓也
職業:翻訳者
過去の職歴:HSBCを経て産経新聞社
家族:妻、フクちゃん(猫オス 3歳)、大吉くん(猫オス 2歳)
住まい:逗子

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
最新トラックバック
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。