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新聞のページ数について(1)


 この間、図書館にいったときに久しぶりに産経新聞を読んだ。久しぶりというのはちょっと語弊があるかもしない。なぜならネットでは毎日のように産経を読んでいるからだ。

 ところで“紙の産経”を久しぶりに手にして、その薄さに驚いた。その日の産経新聞は26ページだった。いや、産経新聞社を辞めた昨年3月のころも26ページだった。だから驚くには当らないのだが、それ以前は32ページ体制が長く続いており、その感触が手に残っていて、改めて違和感を持った次第だ。
 それで新聞の紙面について改めて考えてみた。

 新聞がテレビと比較して優位である点はどこなのだろうか。いくつかあるだろう。その中でも大きな優位点のひとつがページ数を自由に増減できることだと思う。テレビは24時間という枠が固定されており、それを上回ることは不可能である。しかし新聞はいくらでもページ数を増やすことができる。あるいは減らすこともできる。
 そこで思うのだが、なぜ新聞は毎日、ほぼ同じページ数なのだろう。ここでは26ページが少ないことについて言及しているのではない。なぜ毎日26ページなのかについて語っているのだ。(産経以外でもあてはまる。読売や朝日なら40P,毎日は32P,日経は48Pぐらいかでしょうか)
 私は産経を辞める直前に、資材関連のセクションにいたので新聞社には紙面計画というものがあることを知っている。紙代は新聞社のコストの中でもっとも高い割合を占めるもので、その調達計画は経営上重要である。だから今期は予算上から26ページでいこうと決めたら、26ページの紙面を作らなくてはならない。それを上回ると支出が予算を超過してしまう。
 しかしそれはあくまでも年間、あるいは月ごとのトータルでの目標でいいわけだ。毎日26ページにする必要はない。なのに多少の増減はあるものの、おおよそ新聞社はページ数を守る。
 同じ程度の量のニュースネタが日々発生するわけではない。それなのに毎日、ほぼ同じページ数とは。新聞はせっかくの優位点を放棄していると思わざるを得ない。
 内情を知っているので、気持ちは分かる。紙面構成を固定していた方が、新聞は作りやすいのだ。従業員のシフトもあるだろう。しかしそれは新聞社側の理屈であって、読者のニーズに応えたものではない。
 もうひとつ内情を語る。ネタが溢れている日は、かなりの記事がボツにされ、ネタの乏しい日は無理やりのような記事がひねり出される。これってもったいない話しだと思いませんか。別にシフトを急遽変更しなくても、記事が豊富な日もあるのです。そんな日は増ページすればいい。逆にネタがない日は減ページすればいい。

 もうひとつついでに。新聞には固定した紙面構成が存在する。内政、外信、経済、文化、スポーツ、社会面などだ。またその紙面構成ごとに編集部が存在する。内政には政治部、外信には外信部というように。各部は毎日、ほぼ決まったページ数を割り当てられ、記事を作成する。
 これも日々、流動化すべきではないか。政治ネタがないときには政治面はなくてもよい。経済ネタが多い日は経済面を増やせばいい。

 何がいいたいかというと、新聞社も供給サイドから需要サイドへ視点を移すべきだということだ。毎日の総ページ数や各面のページ数を硬直化しないで、読者が必要とする記事があればそれに対応すべきだ。

 先月だったか東洋経済で“新聞、テレビの崩壊(こんな感じのタイトル。でもちょっと違うかもしれません)”が特集されていた。本当に特に新聞は存亡の危機に立たされていると思う。約100年の間、新聞社の経営は安定してきた。潰れた社はほとんどない。こんな産業は他にない。しかしこの10年、事態は一変した。新聞業界は非常に難しい場面に来ている。

 読者に阿る必要はない。しかし自らの因習に捕らわれ、あるいは体制維持を優先するようなことは厳に慎まなければならない。
 昨年の1月から新聞を取っていない。ネットで事足りると思ったからだ。ネットの方はページ数が無限であり、紙面構成もフレキシブルだ。その点は新聞社もきちんと対応できている。ネットでできているのだから、紙でも挑戦してほしい。ネットで培った柔軟性を紙面製作でも生かし、読者の意向に応えて欲しいと思う。

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新聞のページ数について(2)


 先月、新聞のページ数についてのブログを書いた。そのページがよく読まれている。有難いことに今でも検索してそのページに飛んでくる人が毎日のようにいる。興味のある方が多いようなので、もう少し新聞のページ数について書いてみることにする。
 まずは、前回の訂正を。日経が48ページ、読売、朝日が40ページ、毎日が32ページ、産経26ページぐらいが今の相場だと書いたが、読みが甘かったようだ。先日、日経を買って改めてページ数を見ると32ページだった。土曜か日曜かだったと思うので、たまたま少なかったのかもしれないが、恐らく平日でも36ページぐらいだろう。日経で32~36ページとなると、朝毎読では28ページ程度だろう。随分、少なくなったものだ。

 さてまずは新聞ページ数の物理的側面について書いてみたい。上記のページ数を見て、何か気付かれたことがあるだろうか。答えは産経の26Pを除いて、各社のページ数は全て4の倍数であるということだ。
 新聞紙はB2版のサイズの紙を二つ折りして作られている。なので1ページのサイズはB3となる。そのB3の裏表に印刷するので、一枚の新聞用紙(B2版)で4Pの紙面ができる。この一枚の新聞用紙を10枚重ねれば40ページ、8枚重ねれば32ページの新聞となる。つまりいつも4の倍数となるのだ。では産経の26Pはどうして可能かというと。これはB2を6枚と、B3を一枚使って構成させているのだ。しかし一枚だけB3を使うというのは作業効率が悪い。ゆえに通常新聞社は4の倍数のページ数を選択する。急な広告が入ったような特別な場合のみ、B3を一枚混ぜて作る。

 もうひとつ、物理的側面について。新聞は輪転機という大きな印刷機で印刷する。この印刷機では書いて字のごとく、巨大なロールを回転させ、その上に用紙を乗せて印刷する。普通の印刷は平版といって、裁断された紙にハンコを押すようにペタペタと印刷していく。この方法だとサイズを自由に調整でき便利なのだが、印刷に時間がかかる。時間を特別に争わない書籍などは、この方法で印刷される。
 一方、輪転機は裁断せずに、巨大なトイレットペーパーのような用紙のロールに直接印刷していく方法である。裁断は印刷の済んだ後に行う。輪転機だとサイズの自由は利かないが、ものすごいスピードで印刷することが可能である。時間が命である新聞印刷では、この輪転印刷を採用している。
 新聞社はひとつの工場に必ずこの輪転機を複数台、所有している。そして一台の輪転機では基本的に4ページ分だけを印刷している。だから32Pの新聞を作るには輪転機が8台必要となる。同じ輪転機を2度使えばいいではないかと思われるかもしれないが、新聞は時間が命である。輪転機を2回使う余裕はないのだ。
 また輪転機は巨大な印刷機だ。そして非常に高価である。さらに新聞社の印刷工場は都心にある場合が多い。これも時間の成約を考えて消費地に近い立地を選んだがだめだ。これらの理由から印刷工場はギリギリの台数しか輪転機を備えていない。予備の輪転機など一台もないというのが、普通である。
 このギリギリの台数という数の制限により、新聞の最大ページ数は決まってくるのだ。8台しか輪転機がない工場では32Pの新聞しか作れないという具合に。
 各社にとって、ページ数は経営方針の柱のひとつである。確か日経は48P、読売、朝日は42P,毎日、産経は32Pぐらいだと思う(うろ覚えだが)。このページ数を前提に工場の建設計画や編集、制作の人員構成が決まるのだ。
 このように新聞のページ数は各社の輪転機の台数により、上限が決まる。今日は広告が沢山あるから、あるいは大事件が起こったからといって、いきなりページ数を上限より増やすことは原則、できないのだ。(原則、と書いたのは例外が存在するということだ。急を要さない内容なら、予め刷っておくことができる。例えば正月紙面のように)

 各新聞社に最大ページ数が存在することはご理解いただけただろう。では、この最大ページ数はどうやって決められているのだろうか。
 新聞を作る現場サイドはページ数を多くしたがる傾向にある。特に編集局はその傾向が強い。自分たちが書き、あるいは担当した記事が新聞に載る可能性が高くなるからだ。前回も書いたが、結構ボツになる記事は多いのだ。取材した本人は勿論のこと、デスクあるいはその上司である部長や局長もなるべくボツ記事は増やしたくない。
 広告局も広告を載せるスペースが増えるので、ページ数が多いほうを好む。広告もスペースの関係でボツになることがあるのだ。苦労して取ってきた広告は、クライアントへの立場もあり、絶対掲載したい。
 販売局も読者への受けを考えて、少しでもページ数が多いことを望んでいる。他社より少ないページ数では販売競争上不利になる。せめて他社と同程度、できれば大いに越したことはないと考える。
 一方、経営者サイドは経理的な判断を下すことになる。編集、広告、販売が希望し、読者が喜ぶからといって、闇雲にページ数を増やすことはできない。その分、原価が増えてしまうのだから。
 最大ページ数はこの落とし所で決まることになる。特に重要なファクターは広告である。基本的に用紙原価を上回る広告を稼げるならば、ページ数を増やすほうが経営上よろしい。そこで経営は経済状況や販売部数、広告局の実力を鑑みて、そのときに確実に埋められる広告紙面の量を推測して、最大ページ数を決めるのだ。

 各新聞には最大ページ数という物理的な制約があること。そしてどうやって最大ページ数が決められているのかについて、ご理解いただけたであろうか。ちょっと物理的制約の面の割に、ソフト的な制約についてはあっさりした頭でっかちな文章になってしまった。
 今後、編集局、広告局、販売局、あるいは制作局やデジタル部門などについて、より掘り下げて書いていきたい。ページ数の問題は各局の中心的な問題でもあるので、そこでまた取り上げていきたい。
 ということで、今後も新聞社のあるいは新聞自体についてをテーマにした記事を書いていくつもりである。

俳句・短歌の新聞広告 “ほめほめ詐欺”からの考察


 昨日、テレビでニュースを見ていたら、俳句や短歌の新聞掲載を電話で勧誘し、掲載後高額な掲載料を請求する事件が相次いでいるという特集をやっていた。
 特集ではある高齢被害者のケースを紹介していた。その被害者は俳句を趣味として、同人誌などに俳句を載せることがある70代の女性である。
 ある日突然、女性の家に男性から電話がかかってきて、「同人誌であなたの俳句をみたが、とても素晴らしい作品だ。ぜひある大手の新聞で掲載をしたい」と言われた。俳句を褒められたことに気をよくしていると、「しかし新聞に掲載するためには掲載料が必要である。10万円かかるが、ぜひ掲載して欲しい」と続けられた。有料であるならばと断り、その日は電話を切った。すると、それから何度も電話がかかってくるようになった。電話では繰り返し「あなたの俳句は素晴らしい。新聞に掲載すべきだ」と言われ、次第に心が動くようになった。大手の新聞に好きな俳句を掲載できるなんて、年齢的に最後のチャンスかもしれないと考え、10万円程度なら掲載してみようと思うようになった。
 掲載を了承すると、数日後また電話があり、「あなたの作品には他にも沢山、良いものがある。ぜひそちらも掲載させて欲しい。しかしそれにはさらに料金が必要で、全部で48万円になる」と言われた。女性はそんな大金は払うことはできないと電話で断る。しかし数日後に、「もうすでに新聞に掲載された。掲載されたのだから、掲載料を支払ってもらわなくては困る」という電話があった。騙されたと思ったが、掲載された以上、仕方がないと考え、48万円をその男性の広告会社へ支払った。

 このことについてブログに書こうと思い、背景などを調べるためにネットで検索をしてみた。すると4月7日、国民生活センターが「高齢者をねらう、短歌・俳句の新聞掲載への電話勧誘-趣味につけ込む商法に注意」という報道発表をしていることが分かった。また産経新聞では4月20日「短歌や俳句の掲載トラブル急増」、読売新聞では広島版で5月11日「電話でベタ褒め 短歌・俳句掲載 高額を請求」、東京新聞では5月12日「“ほめほめ詐欺”ご用心 俳句・短歌持ち上げ 高額掲載料を要求」という記事を掲載している。
 読売の記事はすでに削除されており読むことができなかったが、産経、東京新聞の記事はまだ掲載されていて、読むことができた。両新聞ともに「国民生活センターが注意を呼びかけている」といった発表記事のスタイルであった。
 また朝日は広告局作成のコーナーで「俳句・短歌を趣味とする方、気をつけて」というタイトルで、読者に注意を喚起している。これが中々苦心の後が伺える書きぶりであった。
 今年の冬に広告局に80歳を超えた女性から電話があった。朝日掲載の俳句集広告に掲載するよう広告会社から勧誘があり、申し込んでいないのに掲載料を請求されたといった苦情であった。しかし調べてみると女性の事実誤認であることが分かった、というものだ。
 最初は読み間違いではないかと思い、読み返してみた。しかし読み間違いではない。なぜ、朝日は詐欺まがいの行為で被害が続出しているので、注意が必要であるとする注意喚起の文章において、自社にも読者から苦情があったが、自社のケースでは読者の誤認であったとする事例を載せているのだろうか。これでは注意が必要なのか、必要でないのか分からない。新聞社の文章としては、お粗末な事例の掲載である。

 さて、この多数の被害者が続出し、「国民生活センターが注意を呼びかけている」詐欺まがいの広告はどの新聞に掲載されているのだろうか。不思議なことにどの社のサイトを見ても、それは載っていない。テレビのニュースでは大手の新聞だと言っていた。大手の新聞とすると、朝毎読日経産経のどこかであろう。さて、どこか。そして、なぜどこであるのかを他の新聞は掲載しないのだろうか。他紙の事件は勇んで報道する新聞社が、なぜ今回は揃って報道しないのか。

 それはその詐欺まがいの広告を掲載している新聞社というのは、ほぼすべての全国紙であるからだ(日経は掲載していないかもしれないが)。
 そんなことがはっきりと断言できるのか、と問われるならば、断言はあえてしないが、かなりの確立でそうであろうと答えたい。1,2ヶ月の新聞スクラップを図書館で調べてみればすぐ分かることであるが、そんな手間をかけなくても想像はつく。
 先ほど書いたように、今まで新聞社および系列のテレビ局は他社の事件、例えば社員が痴漢をしたとか、会社を乗っ取られそうになったとか、人事で揉めているとかは他のニュースを差し置いても最優先で掲載する傾向にある。他社が詐欺まがいの広告を掲載し、それが“おれおれ詐欺”のような社会問題になっているのにかかわらず、報道しないわけがない。つまり自らも疚しいところがあるから、報道できないと考えるのが普通である。
 
 全国紙に限らず、多くの新聞社が“ほめほめ詐欺”広告を掲載している。

 でもそれはあくまでも悪質な広告会社が新聞社の名前を語って作った広告なのだ。新聞社は広告会社から広告の掲載を依頼されて掲載しているだけである。その広告会社が個人を騙して俳句や短歌を集め、俳句特集広告や短歌特集広告を作ったとしても、新聞社はそんな細かいことまでは分からない。罰すべきは悪質な広告会社である。新聞社はむしろ被害者である。

 恐らく新聞社はそうしたスタンスを保ちたいと考えているはずだ。新聞社は詐欺行為が自社の広告スペースで行われていることについて、まったく知らないということにしておきたいのだ。だから朝日の広告局はあんな頓珍漢な“注意喚起”の文章をサイトに掲載しているのだ。

 しかし当然、新聞社はその事実を把握している。新聞社には毎日、何十、何百もの苦情や問い合わせの電話がくる。それはレポートとしてまとめられる。当然、役員会で発表される。あんな“ほめほめ詐欺”広告を掲載して、読者から苦情が来ないはずがない。知っているのは広告局の担当者だけではない。経営陣はみな知っているはずだ。

 なぜ知っていながら、そんな悪質な詐欺広告の掲載を容認しているのか。たかだか1ページの広告紙面を埋めるために、どうしてリスクを犯すのだろうか。

 新聞は現在、詐欺まがいの広告すら欲しいという究極の状態に陥っているからだろう。
 正しい数字は知らないが、各社の広告の売り上げは全盛期の半分もいってないはずだ。これは大変な事態である。広告収入の割合は各社で異なるが、おおまかに言えば全体の売り上げのうち、約半分は広告によるものである。つまり全売り上げの25パーセント程度が広告の落ち込みにより、ダウンしているのだ。
 新聞社は追い込まれている。その危機的な事態に対応するために、今までは自主規制していたあまりよろしくない広告主とまで付き合うようになってきた。“ほめほめ詐欺”はそのひとつである。
 “ほめほめ詐欺”は犯罪として事件化するかもしれない。その場合は、新聞社も手を引くであろう。しかし犯罪にまではいかないが、かなりグレーな広告主は他にもいる。たとえば消費者金融や金融先物、結婚紹介という名目の出会い系サイト、ギャンブル、薬事法すれすれの健康食品など。この中にはまっとうな企業もあるだろうし、そうでないところもある。以前新聞社はそうしたグレーな企業の広告掲載を自粛してきた。しかしそれではやっていけないところまできている。その結果が“ほめほめ詐欺”広告の掲載である。“ほめほめ詐欺”は根の深い問題なのだ。

 では最後にその根の深い問題について、簡単であるが思いついた要因を挙げてみたい

(1) 利益追求に偏った経営
 目先の利益に捕らわれている。極端な利益追求の結果、読者からは不信感を持たれ、広告主には媒体価値を認めてもらえなくなった。
(2) セクショナリズム
 各局が権益争いをし、全社を横断的に俯瞰できる経営者がいない。
(3) 業界としての馴れ合い
 今回の“ほめほめ詐欺”もそうだが、他社が掲載していれば、自社も構わないだろうと判断する。独立した経営方針を自ら放棄し、思考停止に陥っている。
(4) 責任の所在があいまい
 今回のことでいえば、“ほめほめ詐欺”広告は誰が許可したのか。当然、広告局内に審査部はあるだとうが、そこの責任と決め付けることができるのか。経営者は責任がないのか。恐らく誰も責任を取らないであろう。
(5) 社会の木鐸としての矛盾
 これが一番の問題点だと思う。例えば政治に対し、企業の責任者に対し、新聞は瑕疵があれば厳しく糾弾する。ところが一方、自分のことについてはいい加減なことをしている。部数の割り増し、外部の販売員を使った過度な販売競争、電波行政に対する政治力の使用、談合的な記者クラブ制度、そしてグレーな広告の掲載など。こうした矛盾点が読者離れを引き起こしていることに、新聞社は気付いていない。

新首相誕生と新聞報道


 鳩山由紀夫氏が「国民が聞く耳を持たない」から辞めたいと言って辞職を発表し、その後を受けて菅直人氏が新しい首相になることが決まった。

 昨夜は菅新首相の記者会見中継を、飲みながらテレビで眺めていた。首相番記者の質問は新閣僚や小沢氏の処遇など人事に集中していた。当然、新首相はそれをはぐらかした。当たり前だ、組閣前にそんなことがしゃべれるか。答えが分かっているのに、どうしてそんな質問をするのか。虚しさを覚えるような、内容の乏しい記者会見であった。どこの社の誰が何を質問したのかも、まったく覚えていない。
 ところがただひとり記憶に残った記者がいた。最後に質問した農業新聞の記者である。「日本農業新聞の○○ですが」と最初に自己紹介した時点で、うんざり気分がすっ飛んだ。え、農業新聞? どうして。
 場違いに思えた農業新聞の記者は、他紙の記者よりよっぽど堂々と質問をした。居並ぶ一流紙やテレビ局の記者に遠慮することもなく、飄々とした態度で質問をした。
 質問内容もよかったと思う。経済政策と、まぁこちらは普通だが、農業政策の、たしか1兆円の農家への個別支援政策について質問をした。不意を衝かれた新首相は、少し動揺した様子であった。首相がどう答えたのかは覚えていない。僕自身あまり馴染みのない分野なので。だがあの質問者、および質問は異色際立ち、印象的であった。今後、記者クラブや官僚から意地悪されなければいいのだがと、ちょっと心配にもなったが。
 その前の日だったか、鳩山前首相の“聞く耳持たない会見”でも若い記者がアガリまくってした質問を、どうも落ち着かない気持ちで聞いていた。こちらも最後の質問者で救われた。若者の中でただひとり白髪頭の初老の人がいることには気付いていたが、その初老が質問をした。初老の声はとても落ち着いていた。その声を聞いただけで、こちらも落ち着いた気分になった。

 首相番とか官邸番の記者に、各社は若手を使いたがる。あれはどうしてなのだろう。“聞く耳持たない会見”で最後に質問した白髪頭のようなベテランが、落ち着いた声で、知識と経験に基づく的確な質問をしたほうが、よほど良い記事が書けるだろうに。
 新聞社の上司に尋ねたことがある。教えてくれた理由はおもに三つだった。第一に新人の養成である。老練な政治家を相手に体当たりをして、恥をかき、揉まれることにより、若手に成長を促すため。第二は政治家との個人的関係の構築。政治家との付き合いは、相手が政治家を辞めない限りは長いものになる。この関係が記者と社の財産になるのだ。第三は現場の政治取材は体力勝負であって、若手でしか務まらないから。
 しかし本当にそうであろうか。一昨日、昨日の会見を見ていて、違う理由が思い当たった。
 ひとつは、上の第一番目の裏返しなのだが。二十代の知識も経験もほとんどないような若手記者は当然、首相や幹事長を務めるベテラン政治家からは軽く扱われる。橋本元首相のように質問者に対し嫌味で答える者もいるし、小沢前幹事長のように凄んだり、無視して対応する政治家もいる。こうしたいわば馬鹿にした態度を取られ続けた若手記者は政治家に対してどういう感情を抱くのだろうか。おそらく嫌いになる。ナイーブな記者なら政治家の存在自体に恨みを抱くに違いない。
 若手記者も長じて、デスクになり政治部長になり、論説委員になる。うまくいけば。少しずつ経験を積み、政治家との距離も縮まるだろう。しかし現場の取材はしない。あの夜討ち朝駆けで政治家に食らいついていたのは若い頃の話しだ。今は表面上、ニコニコとした付き合いができるようになった。飲む機会もあるかもしれない。年賀状なんかもやりとりするだろう。しかし若いときに受けた馬鹿にされた態度、それはしっかりと心の奥底に刻み込まれている。現場の直接的な体験は、若い頃しかしていないのだから。あのときの恨み、いつか晴らしてやりたいと、潜在意識に埋め込まれても不思議はない。
 新聞社の幹部は自らの経験をもとに、若手を記者クラブに送り込む。若手にも自分と同じような精神構造植え付けるためだ。そうすることにより社として統一した意識をもつことができる。
 そして幹部は経験的に知っている。大衆はその手の感情が好きだということを。恨みがこめられたメッセージが、大衆は大好きだということを。つまり売れる記事が書けるというわけだ。

 もうひとつある。“聞く耳持たない会見”の最後の記者のようなベテランは、的を得た質問を堂々とする。しかしこれが新聞社としては面白くない。オドオドした若手がちょっと頓珍漢な質問をしたほうが面白いのだ。政治家が怒ったり、軽蔑したりした方が、展開は面白くなる。

 まぁ、本当のところは分からない。飲みながらテレビを眺めていて、思いついたことに過ぎないのだが。

 今日は政治について、もうひとつ。今日の新聞(ネット)を読んで感じたことだ。
 当然、新首相である菅直人氏の過去の実績や政治スタイルを分析した記事があるかと思って産経と朝日で探した。残念ながら僕が期待した内容の記事を見つけることはできなかった。代わりに見つけたのはワイドショー的な性格分析のような記事であった。
 産経は阿比留瑠比という変わった名前の記者が「鳩山氏とは異質の湿った軽さ パフォーマンスの菅氏」という署名記事を書いている。昭和55年の衆院初当選からの簡単な経歴のあと、いくつかのエピソードが紹介されている。そのうちいくつかをここで紹介すると、(1)鳩山弟の発言として「兄と私とで民主党の骨格を作ろうとしていた。後で菅さんが来て『オレが代表をやるのでなければ嫌だ』というので、兄と共同代表になった」。(2)年金未納問題で、頭を丸めてお遍路姿で四国八十八カ所巡りをした。(3)18年の代表選演説で、保守系数学者、藤原正彦氏の著書「国家の品格」を引用した際に、「全く似合わない」と中堅議員からと酷評された。(4)鳥インフルエンザでは鳥丼を、BSE(牛海綿状脳症)では牛丼を、「O157」のときはカイワレ大根3パックをカメラの前でひたすら食べた。(5)公共職業安定所を視察した際に、パソコンによる求人検索で「55歳、月収50万円」と打ち込み、希望月収の高さに、再就職の厳しさが分かっていないと批判された。
 そのほかにも昭和天皇は終戦時に退位するべきだったとした発言や、拉致事件の実行犯である北朝鮮工作員の助命釈放嘆願書に署名したことなども紹介されていた。しかし全体の流れとしては、政治手法や実績よりも菅氏の短気で軽薄な性格を浮き上がらせるようなエピソードを中心とする記事であった。
 ちなみに阿比留瑠記者は産経新聞社政治部のホープとして、非常に期待されている記者である。僕が産経在職中も有能な記者であるとの評価を度々耳にした。
 朝日も同じような内容の記事が「イラ菅、昔から、輝き再び、新首相ゆかりの人々」という見出しで掲載されている。同じような内容なので、紹介は割愛する。

 産経、朝日の記事をともに読んで、暗い気持ちになった。我々がこれからリーダーとして戴く人物は気が短くて、軽薄で、個人的な上昇志向ばかり強く、失敗すれば頭をまるめてお遍路にでかけ、テレビの前では牛丼とカイワレをパフォーマンスで食べまくり、経済観念も何もない。そんな人物の肩に我々の未来は担われているのだ。

 こういう記事を確かに読みたがっている人は多いだろう。僕も例外だとはいわない。しかし各社こぞって、テレビも新聞も。これだけ悪意に満ちた下世話な報道ばかりだと、下世話好きな僕でも少々ゲップが出てくる気分だ。

 頭を丸めてお遍路に出たとか、カイワレを3パックむしゃむしゃ食べるパフォーマンスをしたとか。どれも記事に込められた意地の悪るさで食中毒を起こしそうだ。意地の悪さというのはスパイスのようなものだ。ちょっと振り掛ければ、味は引き締まる。しかし来る料理がどれもこれも、スパイスだらけだとしたら。それを食べさせられるお客は胃潰瘍になること間違いない。

失言に対する暴言


 鉢呂経産大臣辞任記者会見の動画をユーチューブで見た。会見の中で大臣に質問する新聞記者の発言が問題になっている。やり取りは以下。


新聞記者「あなたね、国務大臣お辞めになられているんだから、その理由ぐらいきちんと説明しなさい!」

新聞記者「定かな記憶がないから辞めるんですか。定かなことだから辞めるんでしょ。きちんと説明ぐらいしなさい、そのぐらい」

新聞記者「何を理由に(福島県民に)不審の念を抱かせたか、説明しろっつってんだよ!」

それを止めに入ったフリーランスのジャーナリスト。

フリー「そんなヤクザ言葉は止めなさいよ。記者でしょう。敬意をもって質問してくださいよ!」

フリー「恥ずかしいよ、君はどこの社だ!」

 この新聞記者は大臣の失言を質す質問において、以上のような暴言を吐いた。文で読むとフラットになるが、かなり感情的で悪意に満ちた暴言であった。
 これほど分りやすく幼稚な暴言はそうあるものではない。失言を質す、あるいは糾す場において、自ら暴言を吐く。フリー記者が「恥ずかしいよ」と言ったが、まさに究極の恥ずべき発言だ。
 なぜこれほどまでの失態が出現するのか。

 新聞記者というのは実に因果な商売である。人の不幸を探りまわり、それを白日に晒す。人の行為を自らはただの傍観者にもかかわらず批評し、批判する。
 あの記者は自覚していないに違いない。おそらく何も考えていないのだろう。自分を普通のサラリーマンととらえているのだろう。しかし違うのだ。新聞記者は自動車メーカーや化粧品会社の社員のような、普通のサラリーマンではないのだ。因果な世界に身をおいているのだ。
 かつては、記者は自らを“羽織ゴロ”と呼んで、自覚を促していた。羽織、今で例えるなら背広を着てはいるが、中味はゴロツキという意味だ。服装は世間の紳士と同じだが、やっていることはゴロツキの仕事だという意味だ。

 自覚は四六時中でなくてはならない。因果な商売を自ら選んだのだから、あるときだけ記者で、あるときは普通のサラリーマン、というのは許されない。人を批判する以上、自らを律して生きなくてはならない。自らを律している人の書く文章だからこそ、人はそれを許容して読むことができる。
 “律する”というのはこの場合、道徳的な意味ではない。記者らしく生きるという意味だ。あの場は大臣の会見という場であった。当然、記者は政治記者であろう。政治記者なら常に政治記者らしく振舞わなければならない。川に落ちて溺れかけている犬のような大臣である。多少、棒でぶん殴っても噛み付き返しては来ないことは分る。しかし政治記者は棒で殴ってはいけないのだ。知的に論理的に政治を明るみに出さなくてはならない。それが求められている使命である。
 これが芸能記者やスポーツ記者ならば、また対応が変わってくるだろう。

 武道の必修化でも書いたが、人は場面場面において、要領よく変身することはできない。普段の振る舞いが咄嗟のときに出るものである。だから常日ごろ稽古を怠らず、有事の際に対応できるようにしなくてはならい。あの記者は恐らく、普段の生活でもあの態度で過ごしているのだろう。
 自分の身の置き方がすでに遅れている。普段の覚悟のなさが、自らを大きく出遅れさせている。そのことにあの記者は気づいていない。
 あの記者は社名も氏名も名乗らなかったので、どこの新聞社の人間なのかは分らない。その新聞社には、きっとプロ意識、あるいは覚悟、そうした雰囲気が充溢していないのだろう。覚悟のない組織で過ごすと、あのように幼稚なままの年齢だけの大人ができあがる。
 
 覚悟のなさが、ある特定の新聞社だけであることを願いたい。新聞社業界全体の徴候であるとしたら、新聞という商品自体への不信に直結する由々しき事態だ。ネットが黒船だと騒いでいる場合ではない。自ら船底に穴を開けているようなものだ。

海老蔵とマスコミ


 今さらだが、海老蔵のことを考えてみた。海老蔵の何が問題だったのだろうか。
 僕は芸能人に道徳は求めない。運動選手にも求めない。作家にも求めない。政治家にも求めない。
 ただ芸人は観客を喜ばせてくれればいい。スポーツ選手は超人的な身体能力を披露してくれればいい。作家は読者を惹きつける作品を出せばいい。政治家は国益に命をかけて取り組んでくれればいい。
 だから海老蔵が、酒癖が悪かろうと、女好きであろうと、喧嘩っ早かろうと、全然かまわない。ただ舞台で魅せてくれれば、それで満足である。
 一流の芸人が、自分の金で酒を飲み、飲み過ぎて酔っ払い、アウトローな仲間に絡んで返り討ちに合い、裸足で逃げて、どこが悪いのだろう。大変、面白いできごとじゃないだろうか。もしボコボコに殴られた翌日に舞台があり、二日酔いの状態でも立派に舞台を務めたとしたら、それは立派な役者である。舞台をサボったとしたら、それはへなちょこである。
 品行方正な下手くそな役者よりも、華のあるかたぶき者の方が、ずっといいのだ。

 では問題は何にあるかというと、それはマスコミにある。マスコミが芸人や政治家に道徳を求めるところに問題がある。求める主点がずれている。
 マスコミは海老蔵の芸の良し悪しを論じればいいのだ。でもそんな審美眼がないから、だれでも分かる素行だとかのつまらないことにスポットを当てる。
 なぜスポットを当てたがるかというと、視聴率を稼げるからだ。新聞や雑誌が売れるからだ。これこそは、ポピュリズムである。ぶれまくりの民主党政権と同じポピュリズムである。今のマスコミには政権を批判する権利はない。
 
 マスコミに求められるのはポピュリズムでなくジャーナリズムである。我々読者や視聴者が求めているのは、冷徹なジャーリズムの視点である。
 ではジャーナリズムとは何かというと、これは竹中平蔵がハーバード大学の知人から聞いた言葉として語っていたものだが、2つポイントあるそうだ。1つは権力から距離を置くこと。2つめは大衆からも距離を取ること。
 日本のマスコミには2つとも欠落している。
 まず権力からは距離を置いているように見えるかもしれないが、実はそうじゃない。大新聞の論説系の人は、政府の委員会のメンバーになりたがる(これも竹中平蔵が言っていたことだが、事実だと思う)。そして社長まで上り詰めた人は勲章を欲しがる。新聞社やテレビ局の社長は何年だか務めると、勲章がもらえる。会社の規模と社長在任年数で、もらえる勲章が決まっているそうだ。断った人を寡聞にして知らない。
 大衆と距離を取るのはより難しい。委員会メンバーや勲章はおじさんやおじいさんが欲しがるものだが、視聴率や部数は新人でもみな求める。会社の目的がそこにあるからだ。
 日本のマスコミは完全なる終身雇用だから、会社が求める視聴率や部数への偏重に社員は逆らえない。会社の意見に従順な人だけが出世するからだ。
 アメリカの例しか知らないが、アメリカでは有能なジャーナリストは転職を繰り返す。転職の目的はもちろん年収のアップもあるだろうが、それよりも満足のいく記事を書けること、書いた記事が影響力を持つことを優先する。良い記事を書いていれば、年収もアップするだろうし。

 また海老蔵に戻るが、では大衆は何を考えて海老蔵事件を眺めていたのだろうか。何が大衆の怒りに火をつけたのだろうか。
 きっとそれは嫉妬である。伝統の歌舞伎一家に生まれ、生まれたときからスターである。独身時代は数々の美人タレントと浮名を流し、ついには学歴もある超美人と所帯を持った。歌舞伎は伝統芸能だから、廃れることはまず考えられない。これからも一生、安泰の超安定職業に就いている。
 今はやりのロジックでいえば、海老蔵は勝ち組のプリンスみないな男なのだ。
 大衆はほとんどが負け組である。勝ち組のプリンスが、失敗をやらかしたのだから、負け組が面白くないわけがない。喜び勇んで、バッシングをしたのも当然である。
 しかしそんな大衆を攻めてもしかたない。大衆とはそんなものだ。
 やっぱり問題はマスコミである。大衆に引きずられるだけならば、マスコミなど必要ない。大衆が求めているのは、実は大衆に媚びないマスコミなのだ。
 大衆は残酷である。大衆が喜びそうな記事や番組ばかり垂れ流していると、そのうちきっと見捨てる。
 マスコミは海老蔵の酒癖に憂慮している暇などないはずだ。自分の将来にこそ憂慮すべきである。

プロフィール

山本 拓也

Author:山本 拓也
職業:翻訳者
過去の職歴:HSBCを経て産経新聞社
家族:妻、フクちゃん(猫オス 3歳)、大吉くん(猫オス 2歳)
住まい:逗子

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