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町の個性と逗子市の敷地分割制限

 逗子市から「建築物の敷地面積の最低限度の指定に向けたアンケート調査」(“の”が3つ続いてるよ。あまりよいネーミングのタイトルじゃないねぇ、正直)というものが届いた。なんでも逗子市住民、逗子に通う非住民、逗子市にある会社や商店などを対象に無作為に3000通出したそうだ。それが僕のところにもきた。こういうアイディアがあることはちょっと前から知っていた。
 そのアイディアとは、ある面積を最低限度として(逗子市は例として165平米をあげている)、それより小さくは敷地面積を分割できなくする規則を逗子市で設けるというものだ。今現在すでに小さい敷地はそのまま住むことができる。将来の分割を規制するルールなのだ。ちなみにこの案が通ると、僕の家は約200平米だから、将来二分割して販売しようとしてもできなくなる。

 この案についてだが、はっきり書こう。賛成である。確かに将来、家を売ろうとしたときに、販売形態は限定される。だから家は多少売りにくくなるだろう。すると資産価値が落ちるかもしれない。でも、いいじゃん。そんなこと。
 賛成の理由はいくつかある。まず町の景観だ。
 実は僕の住む地域には住民の自主協定があり、今現在より家を細分化して売ってはいけないことになっている。しかしあくまで住民の自主協定であり、罰則はない。さらに住民の自主協定だから、住民でない業者が介在すると、意味を成さない。この地域は約40年前に造成された住宅地で、住民の多くが70代、80代になっており、最近自宅を販売するケースが多い。個人に売る場合は比較的ルールは守られるが、業者に売るとほぼ確実にルールは無視される。この地域に元から建つ住宅は60坪から100坪が中心で、それをそのまま販売すると価格がかなり高くなる。それでは売れないということで二分割、三分割の建売で売ってしまうのだ。その結果、この地域の景観は変わってきた。まだそうした分割住宅の割合は少ないので、まだましなのだが。これも時間の問題で、このまま放置すれば確実に住宅地は細分化され、景観は大きく変わるだろう。きっと、全世帯がいつかは分割されると思う。だって、売れないから。
 せっかく東京まで電車で1時間以上ゆられるのを覚悟して逗子に住み、さらに逗子駅から徒歩30分の場所に家を買ったのに。都内と同じようにごみごみした場所に僕は住みたくない。なんて、今は失業者ですから通勤は関係ないんですけど。
 ほか、防災上の問題、騒音の問題、日照の問題など沢山あるが、そうした面からの意見はすでによく聞かれることなので、僕が考えるもうひとつの意見を述べる。

 それは町の個性の問題だ。僕は人に個性があるように町にも個性があってよいと思う。どこの町も似たようでは、むしろない方が良いと思う。住む人もその土地の個性が気に入って住めばよいわけで、そうすることによりさらに個性は磨かれ保たれる。それが結果的によい町づくりにつながると思うのだ。
 最近、格差社会の弊害が叫ばれることが多いが、僕はあまり同意できない。ちょっと前まで声高に叫ばれていた、なんでも平等社会の方が僕には恐ろしいものに思われる。これはシンプルに同列化して論じることはできない問題だとは思う。だからそのことについてはここでは書かない。ただ美しく見える平等には、大きな負担が伴うこと、その負担は個人にのしかかるということを頭の片隅に置きながらこうした論議はすべきだと思うことだけ、ここに書いておく。
 それで逗子だが、確かに分割制限をするといわゆる狭小住宅はこれ以上建てられなくなり、新しく転入する人を結果的に所得制限することになるかもしれない。思い切って書くが、それでよいのではないか。僕は貧乏だから、もし今逗子に住んでいなかったら、このルールの制定後には逗子に住めないだろう。でも運よく、会社員時代に借金をして中古で家を買えた。確かに運が良かったと思う。(ローンはあと26年残っているが。どうしよう、収入ないのに。まぁ何とかなるよ、きっと)
 運の良し悪しは誰でもどこでもあるわけで、それは仕方がないことだ。もし僕が今東京でアパート暮らしをしていたら、きっと逗子には将来住めない。でもそんなものだ。世の中や人生ってのものは。
 分かりにくいかもしれないが、これが僕が住宅地分割制限に賛成する理由だ。逗子は逗子らしくあって欲しい。どうしたった鎌倉にはなれない。葉山にもなれない。それは当たり前のことだ。住みたいと思う人をすべて受け入れることはできない市になるかもしれないが、それでよいのだと思う。
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デジカメを買った

 またサボり癖がでて暫くご無沙汰をしてしまった。でも今数えたら1月は9本ブログを書いている。去年よりはましな感じだ。今月は何本になるのか。

 デジカメを買った。デジカメは3代目だ。しかし新しいのを買うたびに技術の進歩に驚愕する。今回のは2万円以下の手のひらサイズだが、なんだかすごい。まだ使いこなしていないので、どうすごいか説明できないのだが、なんだかすごそうなのだ。さっき近くの山で鳥の写真を取った。遠くのほうに居たのを無理元で撮ったのだが、今見たらちゃんと写っている。パソコンで普通に見ても小鳥はまるで点なのだが、拡大するとはっきり見える。ここでそれをお見せしたいのだが、拡大した部分だけを切り取ることが私のPC環境ではできない。




富士山と鎌倉


 朝、ごみを捨てに外にでると空が真っ青で高い。せっかくデジカメを買ったのだし、裏山へ散歩に出かけることにした。
 今年の冬は実に冬らしい冬だ。日本海側では連日の大雪らしい。そしてこちら太平洋側は連日の晴天だ。空は晴れ渡っているが、気温はちゃんと低い。裏山の小道は日影に入るときちんと霜柱が立っている。そうここ数年の冬は霜柱さえ立たなかった。
 霜柱をさくさく踏んで歩きたいと思ったが、この裏山のすぐ近くには幼稚園があって、子供たちが遊びに来る。子供たちの楽しみを奪っては申し訳ない。霜柱は見て楽しむことにする。
 裏山といってもそこは綺麗に整備されていて公園のようになっている。景色のよいところはベンチなどもある。この裏山で景色が良いというのは海が見えるか、富士山だ。その両方がよく見える場所があるので、写真を写した。
 下に見える鎌倉の街だ。街に面するのは由比ガ浜。そしてその左手に相模湾が広がるのだが、この写真では見えない。右手はもちろん富士だ。富士は腰のあたりまで雪化粧を施し、一年で一番のおめかしをしている。富士の左には箱根も控える。
 逗子の冬はとても良い。ひょっとして一年で一番かもしれない。晴天の日が続き、空はどこまでも青い。朝晩は冷え込むが、日中は日当たりの良い部屋は暖房いらずだ。山を歩いても汗はかかず、虫は出ず、落葉樹はすっかり葉を落とし、見晴らしはとてもよい。
 日本海側の人には申し訳ないが、この冬をひとり、いや猫2匹とともに楽しんでいる。右が福ちゃん、左が大吉。

福ちゃんと大吉

1Q84と久しぶりの散歩

 午前中一杯かかって村上春樹の「1Q84」を読了。うん、後味の悪い小説だ。こんなエログロが記録的なベストセラーになるとは、今の日本はやっぱり何か歪んでいるのかと考え込んでしまった。
 ストーリーの展開は面白いと思いました。さすがベテラン作家、プロットは巧みで引き込まれます。しかし背景はセックス、スワッピング、自慰、暴力、殺人、新興宗教、そして近親相姦の連続。それと登場人物が、浅薄で気障(これはいつものことだけど)。
 村上春樹って、セックスは描かない作家だと思っていたけど。いつの間にか変わったんだね。といってもデビュー直後の数作と「ノルウェーの森」ぐらいしか読んでないのだけど。
 私は村上春樹の代わり映えのしない、毎回同じようなストーリーが面白いと思っていた。それはサザンオールスターズの曲がいつも同じような曲想であるみたいに。その変わらなさが安心感を与えてくれた。
 でも村上春樹は変わりたかったのかもしれない。ひょっとしてノーベル賞が目の前にぶらさげられたことが原因なのかもしれない。そんなことには飄々と応じることができる氏だと思っていたが、さてどうか。もちろんそんなことが原因でないのかもしれないが。

 さて気分を変えるべく、午後は近くを久しぶりに散歩してきた。
 散歩といえば最近は自分の家から方角でいえば西、高度でいえば高い方にある公園と山に行くのだが、今日は方角でいえば北、高度でいえば低いほうにある池に行ってきた。それはひょっとしたら、そろそろではないかと思ったからだ。
 予想は見事にあたり。池の一番奥に、毎年クレッソンが群生する場所がある。まだ時期がちょっと早くて、一面クレッソンというわけにはいかなかったが結構生えていた。午前中の雨に濡れたクレッソンは午後のひざしで精一杯光っていた。ちょっと手を伸ばし、3本ばかり失敬を。今夜はこれをつまみに一杯やろう。

クレッソンの群生



谷戸とキクラゲ

 いつもジョギングする公園に山に向かう道がある。ジョギングではそこは素通りしてしまうが、その先はどうなっているのか気になっていた。今日は天気がいいので、探検してみることにした。
 予想では、鎌倉の報国寺に向かう山道に続いているのではと考えていた。しかし豈図らん、道はすぐに途絶えていた。ただの行き止まりだ。行き止まりの先は急勾配で、降りることはできない。そこから眺めたのがこの景色だ。

上から見下ろす谷戸




 ここはいわゆる谷戸だ。“やと”と読む。鎌倉に点在する古くからの集落である。この谷戸も鎌倉市になる。昔の鎌倉人は山間に里を作って棲んでいた。現代人が好んで山の上に住みたがるのとは対極をなす。
 どうして谷間に住むのか。日当たりの良い山の上、あるいは南斜面の方が住みやすいと考えるのは現代の利器を享受できる我々だからなのだろう。昔の人はまず水場の近くに住んだのだ。鎌倉の山は低いがそれでも谷間には小さな小川が流れる。その小川の周りに集落ができ、そしてそれが谷戸を形成していったのだろう。

 当然、この谷戸も相当の歴史を重ねた場所だろう。私の住む住宅地はこの谷戸のすぐ上に位置する。昭和40年代に山を切り開いて、作った分譲地である。後から越してきて、見下ろす無礼を働いているのだ。申し訳なく思う。

 帰り道、竹やぶの近くでキクラゲを見つけた。今年最初に見るキクラゲだ。もう少し大きくなるまで放っておこう。そして大きくなったら、採りに来よう。


今年最初のキクラゲ



騒々しいのだ

 さっきからとても騒々しいのだ。というのは選挙カーが何台も行きかっているからだ。逗子市の市議選は今週の日曜日に行われる。今週は市議選挙戦真っ只中なのだ。
 雨の中ご苦労なことである。でも一日家にいて机に向かっている人間にとっては、とても迷惑な話である。うるさくて集中ができない。

 いつも選挙のたびに思うのだが、あの選挙カーで名前を連呼する選挙戦術はどうにかならないものだろうか。きっと効果があるのだろう。だからあんな恥ずかしいことをいい年したおじさん、おばさんが励行するのだ。だから立候補者が住民の静かな生活に配慮して積極的に選挙カーPRを自粛することを期待することは難しい。
 そこで提案がある。公職選挙法に一項目を追加してみてはどうか。それは住宅街でのスピーカー、拡声器の使用を禁止することだ。どうぞ華やかにやってください。しかしスピーカーなど姑息な手段は使わずに自らの声をもって堂々と住民に訴えるのだ。すると声の大きいひとが有利になるかもしれない。しかし選挙とは本来そういうものであったのではないか。すぐれた政治家は大きな声を出せる人であったのではないか。それと、いくら声の大きい人でも何時間も大声を張り上げることは不可能だ。であれば自然と言葉を選ぶ。

 これは政治家にとっても悪い話ではない。なぜなら彼らも本音では選挙カーであほのように自分の名前を連呼しながら練り歩くことに良心の呵責を感じているはずだからだ。自分だって立候補者でないならば、町は静かであったほうがよいに決まっている。週末の午後は窓を開ければスピーカーから流されるだみ声でなく、今の季節ならシジュウカラのさえずりを聞きたいに決まっている。だからみんなで同時に止めることが可能なら、そうすることを選ぶはずだ。

 元から賑やかな駅前での演説はどうぞ続けてください。駅の前は人の集まるところで、騒々しいことを前提としている場所である。しかし住宅街ではNGだ。

 政策はホームページで開陳すればよいでしょう。ところがこれがあまり積極的になされていない。今回の市議選にあたり、自宅に配られた選挙公報を読んで興味をもった候補者を3名選んだ。その3名をサイトで検索すると1名しか個人のホームページを開設していないことが分かった。この時点で2名は私の中では落選である。
 ホームページを作ることなんて、手間はかかるが費用はそうかかるものではない。10万もあれば結構なHPが作れる。ご興味のある立候補者は問い合わせて欲しい。私がなんなら作って差し上げる。まぁ、それはそうとして、選挙カーをしたててドライバーやうぐいす嬢(今はいないのかな)を雇うことと比べてはるかに安いはずだ。しかしあまりこちらには積極的でない。
 立候補者の質は有権者の質に左右されるのだろう。なんといっても今の日本では、選挙カーでがなりたてることが有効的、つまり有権者は選挙カーから流れる名前で候補者を選別しているのも事実なのだろう。
 だから公職選挙法でいっきに切ることは難しいのかもしれない。ならばせめて逗子市だけでもそうして自主規定のようなものを作ることはできないか。せつにそう思う。

 それと騒音ついでにもうひとつ、いつも思うこと。それは廃品の無料回収車や石油の巡回販売車が垂れ流すテープによるPR音、あれは酷くないか。
 近くの山を歩いていて森の静けさを楽しみたいと思っていると、下のほうから「テレビ、パソコン、オートバイなど不用品の回収を無料でいたします。鳴らなくても動かなくて結構です」という音声が聞こえてくる。あれは規制できないものなのだろうか。これについても、PRすること事態は規制する必要はない。たんに選挙カー同様、スピーカーの使用を禁止しすればよいのだ。軽トラでもよい、リヤカーでもよい。おすきな運搬手段を使用して、しかしPRは自らの声でのみ行うのだ。昔のさお竹屋や豆腐屋のように。そうすれば、これはこれで風情があって悪くないのだ。

逗子市議選落選予想の結果

 先週末は本郷の道場へ日曜日に一度行ったきり、合気道の稽古はそれだけしか行けなかった。日曜は逗子にも行くつもりだったけど、なんだか日曜は朝から調子が悪く、なんというか気分が鬱で、飲んで気分を切り替えたく思い、本郷のメンバーを誘い、御徒町で飲んだ。12時過ぎに店に入り、出たのは5時過ぎ。4時間近く飲んで、まだ辺りは明るい。真っ赤な顔をして千鳥足で電車を乗り継ぎ、逗子まで帰ってきた。おかげで気分は回復できた。

 さて日曜は逗子の市議選が行われた。25名立候補して、当選したのは20名。落選5名。事前に選挙公報を見て、勝手に落選者を予測したが、結果は2勝3敗であった。かなり自信があったが、なかなか選挙を占うのは難しい。
 今回の落選者予想で基準としたのは(1)所属政党、(2)年齢、(3)容姿の3点である。政策や実績はまったく無視して、あえてこの3点で選んでみた。
 まず政党であるが、民主5、自民2、みんな3、公明2、共産2で立候補していたが、恐らく民主以外は全員当選するだとうと予想した。逗子の市議選のように数百票で当選できる選挙では組織票を持つ候補は強い。おそらく選挙の専門家である政党は自らの実力をかなり正確に把握しており、数を絞り込むはずだ。上記の人数は、このぐらいの人数だったら共食いにならず、全員当選するだとうと各政党が見込んだ数だ。なので相当かたい数字であるはずだ。ただ民主の5人はちょっと多すぎる。5人全員の当選は国政の影響もあり難しいのではと読んだ。そこで3名に。
 続いて年齢である。これはシンプルに若い方が有利であるとした。
 最後の容姿であるが、これは主観による美醜を基準とした。
 この3点を総合して予測したのだが、実は最終的に選びこむ際に、この3つの基準を厳密に適用せずに、なんとなく自分の好き嫌いみたいなものを織り込んでいたようである。今から選んだ落選候補者を見ると、上の3つの基準から外れている人が混じっている。そして2勝3敗の3敗の部分、つまり予想の誤りは、どうもこの基準を厳格に遵守していなかったところに原因があるようだ。

 さて結果である。(1)の予想結果はばっちりであった。1人の誤りもなく、各党の当選者数を当てることができた。
 続いての年齢では。無所属の39、47、59歳、不明(見た感じ40代)、民主42歳が落選した。これからは年齢による有利不利はあまりないように見受けられる。が、ちょっとそう簡単にもいえない気もした。実際年齢は確かにばらつきがあるが、見た目の年齢はどうも実際年齢より老けて見える人が多いようだ。
 最後の美醜であるが、これは落選者を具体的に言及することは控える。ただ全体的にいうと、その傾向はあったということがいえなくもないと思える。と、あいまいに総括したい。

 全体的に検証すると、私が基準とした3点はそれほど外れていなかったように思う。政党の基礎票は有効に機能している。年齢は実年齢よりも見た目の年齢が影響したように見える。そして美醜についていうと、イケメン、美人、爽やか、若々しい、といったプラスの面では効果があったように思える。無所属、新人ではとくに容姿が優位に働いていたように推察される。
 
 こんなことを考えながら、選挙を見て不謹慎であろうか。そうかもしれない。しかし選挙公報に書いてある政策や信条にはあまり差を見つけられない。実績についても、かなり積極的に自分で調べない限り、知ることはできない。そうするとやっぱり3つの基準が生きてくるような気がする。












逗子図書館、つく志、浜の映画祭、キクヤ食堂。逗子の一日


 昨日は一日、逗子で遊んだ。

 まずは図書館へ。調べ物があり昼ぐらいから入ったが、連休中なのに結構なひと。
 窓際の席で本を読んでいると、若くてお洒落っぽい女の子が隣の席にきた。白い素足に真っ赤なペディキュアと図書館では目立つ装いだ。こんな女の子がゴールデンウイークに図書館に来るんだなと、感心していると、しばらくして大学生風の男がやってきた。なんだ、図書館デートみたいだ。
 ああ、別になんの下心もなかったですよ。だから男が来たからといって、がっかりなんかしていません。いや本当です。それと逗子の女の子の名誉のため書いておきますが、逗子図書館にも可愛い子は結構きます。でも艶かしい素足に真っ赤なペディキュアはちょっと目立ったという話しにすぎません。

 続いて知人と合流して、以前から行きたいと思っていた“つく志”へ。いつも図書館へ行くときに前を通り、そのちょっと汚げな店構えになにやら風格を感じていた。
 味は悪くはなかった。揚げ物系は美味しい部類だと思う。マグロのぶつ切りがお薦めだと聞いていたが、これは特筆するほどではなかった。
 ただこれは他の人のブログにも書いてあったが、女将さんがちょっとこわい。こちらが注文をしても返事はなし。聞こえていないのかと思い、再度言うと、睨まれた。なんだか注文して悪かったような気がしてしまった。それでも常連客はいるようで、女将さんと楽しげに話をしていた。きっと一見さんには厳しいのかもしれない。
 値段は店構えからいって、安くもないし高くもない。味はまあまあ。サービスは上記のとおり。総体的な評価をすると、まぁ60点ぐらいかな。女将さんが一見さんにも優しければ、80点ぐらいだろうか。

 それから逗子海岸でやっていた“浜の映画祭へ”。入場料はひとり1000円。早く行けば椅子に座れるが、私たちは開演直前にいったので砂浜に直接座った。でもこちらの方が寝転べてよかった。なぜかって風が結構強かったからだ。寝転んでいると風をあまり受けないで済むでしょ。
 昨日は天気予報では25度まで上がる夏日と聞いていたが、日が落ちてからの海岸は寒かった。まだ映画祭はしばらく続くみたいだが、これから行かれるひとはぜひ暖かい装備をして行かれることをお勧めします。
 上映されたのはメキシコ映画の『天国の口』という映画。メキシコでは大ヒットしたそうだが、さもなん。青春していて寂しげで、悲しくて、そしてかなりエッチで。ちょっと前のヨーロッパ映画のノリであった。日本人は好きなタイプの映画だと思う。ただしかなりエッチな表現があるので、子供づれは控えたほうがよいと思う。お父さんお母さんが気まずくなること請け合いである。

 最後、これも以前から気になっていた“キクヤ食堂”に入った。海岸で体が冷え切った後だったのでホットウイスキーを頼む。カウンターの席だったので、カウンター内にあるピザ焼き釜からの余熱がありがたい。
 いつも人で賑わっているのは知っていた。確かにここはお勧めです。古い民家を改装したような店構え(おそらく実際にそうだと思う)で、とてもおしゃれです。価格もリーズナブルだし。これは食べていないので推測ですが、料理もうまそうだった。
 来ている客もおしゃれ系な若者、かつての若者がいっぱいで、とても和やかな雰囲気だった。それとこれが大切なのだが、店員の愛想がとてもよかった。またこわい人が出てきたら困るなと思っていたのだが。杞憂に終わり、ほっとした。

 にこやかな店員に店の外まで送られて、ほろ酔い加減で歩いて家まで帰った。家に帰るとお腹を空かしたフクちゃんと大ちゃんが玄関で待っていた。長い逗子の一日であった。

天昇、RAM。鎌倉な一日。


 昨日は一日、逗子で遊んだが、今日は鎌倉で遊んできた。

 産経の元同僚のTさんが鎌倉に住んでいて、我が家から鎌倉までの近道を教えてくれるという。それでわざわざ鎌倉からバスで来てくれて、我が家から一緒に近道を歩いて鎌倉まで行った。
 いつも鎌倉までは歩く。普段は我が家があるハイランドから報国寺に出て、その後鶴岡八幡宮を抜け、段葛を通っていく。これだと鎌倉駅まで一時間弱かかる。Tさんが教えてくれた道は大町を抜けていくのだが、こちらは30分強だ。半分近くの所要時間で済む。大町は何回か散歩したことがあるのだが、鎌倉駅まであんなに近いとは知らなかった。これからはこの道で行こう。

 さてTさんと向かったのは鎌倉駅すぐ横にある丸七商店街の中の立ち飲みや“天昇”だ。夕方5時に入ったのだが、すでに満席というか、立ち飲みだから満立ち状態だ。つまみは150円~400円程度で立ち飲みとしては平均的。生ビール450円はちょっと高いかな。
 まぁ立ち飲みだから味はさておき雰囲気はなかなか良かった。狭い店内でお客同士が譲り合い、カウンターから離れているお客には、カウンターの客が料理をリレーで渡したりして。
 ひとり客が多くて、常連なのか、その日に隣り合わせただけなのか、そんな雰囲気で談笑している。逗子の三遊亭もそうだが、立ち飲みはひとりで入れるのがいい。それとひとり客は、2、3杯飲んでさっと帰っていく。これも気楽でよろしい。
 5時から8時ぐらいまでいたが、最後は余り物なのかな、イカの刺身を小鉢で全員にサービスしていた。小鉢を配って歩いていたのが、店をしきるおばさんの娘で、頬っぺたがぴちぴちした可愛い子だった。客のおじさん連中は皆嬉しそうに頬っぺた娘から小鉢を受け取っていた。
 ここの会計はTさんが出してくれた。Tさん、ご馳走様でした。

 さてその後、河岸を変えてまたもや立ち飲み、でもこちらはバーの“RAM”へ。この店はいつもTさんと絞めで入る店だ。鎌倉で飲んだときはバスで帰るのだが、ハイランド行きは1時間に1、2本しかない。なので時刻表を確認して、バスの時間まで飲むという按配だ。
 今までは時間が早かったからなのか、“RAM”では女の子がカウンターに入っていたが、昨夜はオーナーの男性がひとりで店を仕切っていた。
 この店も立ち代り入れ替わり、お客が絶えない。とても繁盛しているように見えるのだが、オーナー曰く、経営は大変だとのこと。1杯600円程度で一日50杯売れたとしても3万円だもんなぁ。たしかにバーの経営って、見た目より難しいのかもしれない。
 ああ、それとここのオーナー、正直ちょっと無愛想である。かけているレコードのジャケットを私が手にとって見ていると、黙って私の手からジャケットを奪い、棚の上に戻した。黙ってジャケットを取った私もマナーがなってなかった。でも一言なんか言っても良いんじゃないかなぁ。客の手から無言で奪い取ることはないんじゃないかと思った。
 早い時間に行くと、女の子がカウンターにいて、にこやかだ。おしゃれで安くて、悪い店じゃない。

竹の寺、報国寺(鎌倉の寺社)


 昨日、報国寺へ行ってきた。報国寺は家から歩いて15分、僕の家から最も近い鎌倉の寺である。普通、報国寺へ行くにはJR鎌倉駅からバスに乗り、“浄明寺”停留所で下車をする。金沢街道と平行して流れる滑川(なめりかわ)を越え、徒歩3分の場所にある。
 僕の場合は報国寺のある宅間ヶ谷(たくまがやつ)を山側から越えて侵入し、ほぼ宅間ヶ谷を縦断するようにして寺へ進む。谷(やつ)の中央には古い石組みの側溝が流れており、今の季節はセリや雪ノ下が青葉を日に光らせているのを眺めながら歩くことができる。
 バスで来る場合のルートだと、滑川を越えると先ほど書いた。川に架かるのは“華ノ橋”と呼ばれる小さな橋である。その名の由来は報国寺の先にある“華頂宮邸(かちょうのみやてい)”で、そこは報国寺を過ぎてすぐのところにあり、先ほどの側溝が横を流れる小道を2,3分上ったところだ。小道の左に建つ邸は古い洋館で、映画の撮影によく利用されるという。なるほど典型的な豪奢な洋館造りである。邸の裏にはよく整備された庭園が広がり、普段は無料で開放されている。華頂宮は元宮家であるが臣籍降下し侯爵家となった。邸は侯爵の別荘であり、近代になり別荘地となった中世都市鎌倉の別の顔をこの邸から伺うことができる。報国寺に行かれる方は時間があれば、少しだけ脚を延ばされると良いのではないか。

 報国寺は足利尊氏の祖父家時が1334年に創建したとされる(上杉重兼が開基とする異説もある)。家時の墓といわれる石塔が、報国寺の裏にある衣張山(きぬはりやま)にはある。

報国寺の山門
報国寺の山門

 創建の前年に鎌倉幕府が滅亡している。また翌年の1335年は、尊氏が後醍醐天皇より賊徒の烙印を捺され、新田義貞が出陣した年である。報国寺は激動のさなかに創建された寺である。
 開山は仏乗禅師で、禅師は建長寺の無学祖元の弟子といわれる。その縁か現在、報国寺は建長寺派に末寺で臨済宗を奉じている。
 かつては土地の名から“宅間寺”と呼ばれていたことがあったらしい。また宅間法眼作といわれる迦葉尊者(かしょうそんじゃ)の像があるため“迦葉寺”ともいわれた。しかし今は“竹の寺”と呼ばれることの方が多いだろう。
 そうここは竹の寺なのだ。本堂左に竹の庭への入り口がある。200円を払い一歩踏み込むとそこは、鮮やかな緑の線が数限りなく空高く突き刺す静かなる場所なのだ。京都の嵐山も竹で有名である。あそこはより広く、もっと大雑把だ。一方、こちらはより瀟洒で繊細である。前後左右100メートルにも満たない空間だが、一面竹の庭は異空間というのに相応しい。時間や場所を忘れ、ただ竹を揺らす風を感じるのみだ。

異空間のような竹の庭
異空間にさ迷い出たような錯覚に陥る竹の庭

 昨日は朝一番でこの竹の庭に入った。風に舞い落ちる竹の葉を掃いている女性と話すことができた。5月の竹庭はあちこちからタケノコが顔を出している。ほとんどはタケノコとはいえないぐらい大きく成長してしまった若竹であるが、まだ美味しそうなのもいくつか残っている。これだけの数のタケノコだ。寺の食膳に並ぶこともあるのではないかと聞いてみた。すると驚くべきことに、まったくタケノコは採らないという。生えてきたものは全て自然にまかせ、好き放題に伸ばすというのだ。
 以前、小さな竹の庭がある家に住んでいたことがある。生えていたのは10本程度の竹であったが、毎年かなりの数のタケノコを採取した。竹が密集してしまうので、採らなくてはならない。当然、採ったタケノコは美味しくいただいた。
 ところが竹の寺ではタケノコを採らない。それなのにあれだけ見事な竹が均一に、決して密集することなく生え揃っている。竹の寺の不思議だ。

ちょっと成長しすぎたタケノコ
タケノコとしてはちょっと成長しすぎだが、、

 しかしひとつ種明かしをしてもらった。タケノコは採らないが、7、8年の竹は刈り取るという。そうであったとしても、見事な竹林である。

 報国寺のあるのは宅間ヶ谷(たくまがやつ)で、宅間法眼というひとが迦葉尊者の像を作ったということには触れた。宅間法眼は勝長寿院を源頼朝が建立する際に京から呼び寄せた宅間為久(ためひさ)の子孫であり、宅間一族は代々絵画や像を作る芸術家集団である。その一族が住み着いたのが、報国寺のある宅間ヶ谷で、一族の名がその土地の名として呼ばれるようになった。
 宅間法眼は数多くの像を報国寺に残した。特に有名なのが迦葉尊者の像であるが、明治23年(1890)の火災で惜しくも炎上してしまった。今残るのは模刻像である。ただし法眼作といわれる釈迦如来坐像は今も本尊として残っている。

 報国寺を語る上でどうしても忘れていけないことがある。それはここが一般に門戸を開く禅道場であるということだ。毎週日曜に暁天坐禅として行われ、希望者は在家信者の指導のもとに坐ることができる。
 僕も2回ほど参禅した。指導はとても丁寧でまったくの初心者も安心して参加することができる。鎌倉という場所柄、ガイドブックを手にした若い女性や年配のグループなど多数が参禅しており、中にはどうしても結跏趺坐どころか。半跏も組めない人がいたが、あぐら座りで頑張っていた。

暁天坐禅が行われる迦葉堂
暁天坐禅が行われる迦葉堂

 最初に参禅したときは、ベテラン在家が居並ぶ迦葉堂でともに経を読み、朝粥までもいただくことができたが、2回目は人数が多いためか、本堂で初心者のみの参禅だった。経も典座も省かれていて残念な気がしたが、何度か通うと迦葉堂での参禅に加わることができるという。たしかにほとんどの初心者参加者は一回のみの参禅で止めてしまうようなので、真剣に座るベテランの邪魔になることは避けねばならない。もっともな対応だと思う。一回のみの参加者も、そこは宗教の地であり修行の場であることを心して参加しなくてはならないのは当然のことだ。

 坐禅道場である迦葉堂の裏は枯山水となっている。竹の庭もよいが、ここは明るく開放的で違った趣がある。朝早かったので、庭の手入れを見ることができた。ならされる石の庭を見ながら初夏の日差しを受け、静かな時間を過ごした。裏の山では鶯が鳴いていた。

迦葉堂裏の枯山水
迦葉堂裏の枯山水


鎌倉・浄妙寺を歩く


 本日は快晴。空は晴天。風はそよ風。小鳥はぴーちくぱーちく。こんな日は、仕事だと称してパソコンの前で一日過ごすことはまさに罪悪である。ということで、本日は朝一で浄妙寺へ行ってきた。
 浄妙寺は歩いて20分、ここもまたよく行くお寺である。逗子に越してきて、最初に行った鎌倉の寺であったと思う。より近い報国寺でなく、なぜ浄妙寺であったかというと、浄妙寺は鎌倉五山のひとつであるからだ。鎌倉五山のひとつなら、よいお寺に違いない。ミシュラン三ツ星のレストランへおばさんたちが押しかけるように、ミシュランのレストランへは行けない僕は向かったのだった。

 そして本日である。朝一で向かったのだが、拝観一番乗りとはいかなかった。わずかの差で、中年女性の二人連れが僕より先に入っていった。別に一番を目指していたわけではないのだが、普通の日に駅から遠い浄妙寺まで、こんな時間に来ているひとがいることに驚いた。
 さて、浄妙寺だが先ほど書いたとおり鎌倉五山のひとつである。では鎌倉五山ってなに?ということになると思うが、それは臨済宗の格付けである。ご存知の方が多いかもしれないが、おさらいの意味で書くと、(一位)建長寺、(二位)円覚寺、(三位)寿福寺、(四位)浄智寺、(五位)浄妙寺である。鎌倉には他にもたくさん臨済宗のお寺があるが、この五寺は別格であると特に格付けされたものである。では誰が決めたかというと時代によって変わってくるようだが、初めは鎌倉幕府の北条氏が、続いて室町幕府によって選ばれ、今の五山は足利義満のときのものが定着したようである。

山門から見た本堂
山門からみた本堂

 浄妙寺は1189年、足利義兼(よしかね)により草創され、当時は「極楽寺」という真言宗のお寺であった。1189年って鎌倉時代の前なのになんで足利さんがお寺を建てたの、と思われる方もいると思う。ご存知のとおり鎌倉幕府は1192年(諸説があるようですが)、源頼朝により開かれた。鎌倉時代の前なのに、室町幕府の足利さんが鎌倉辺りでお寺を建立したって不思議ですよね。
 足利ファミリーというのは、実はとても古くて由緒のある家柄だ。足利は源氏と同じ清和天皇を祖とする軍事貴族だ。義兼の父は義国であり、その父は義光である。そうあの八幡太郎義光なのだ。つまり足利は源氏ファミリーなのだ。
 義兼の母は源頼朝の母と姉妹であり、また妻は北条政子と姉妹であった。つまり頼朝と義兼は従兄弟であって、女房は姉妹同士という、とても近い親戚であったのだ。当然、足利は源氏として関東に大きな勢力を築き、当時の有力豪族のひとつであった。その古い豪族が「極楽寺」を草創したのだ。その後、寺は義兼の息子である義氏(よしうじ)により臨済に改宗された。さらに時代は下り、足利尊氏により浄妙寺と名を改められたのだ。浄妙とは尊氏の父である貞氏(さだうじ)の戒名である。
 ちなみに、寺周辺の地名は浄寺という。おなじ読みであるが、漢字が異なる。これは、この一帯はかつて浄妙寺の寺領であり、地名も浄妙寺とされたが、江戸時代になってから、貞氏の法名を地名にすることを憚り、“妙”を“明”と改めたのである。またまたちなみに、徳川も源氏に連なると自称しているので、源氏の祖先に気を使ったのかもしれない。

 と、歴史の話しはここまで。ここからは現在の話しである。浄妙寺は現在、石窯で焼いたパンで有名である。ここに来ると必ず買って帰る。特にパン好きではないのだが、とても美味しいので買ってしまう。そのぐらい美味しいので、お薦めである。それで今回も石窯のパンを買いに行った。
 石窯パンは浄妙寺の境内だが、少し離れた場所で売っている。石窯ガーデンテラスという場所だ。とてもおしゃれな洋館で、お寺の敷地内にあるって不思議である。オープンは10時であったが着いたのは20分程度前だった。写真を撮ったりして時間を潰していると、お店のお姉さんが支度をしているのに気が付いた。そこで、なんでお寺の境内にお洒落な洋館があって、そこでパンなんか売っているのかを聞いてみた。
 その洋館はある貴族院議員の邸で10年ほど前に寺が買い取ったそうだ。土地はもとから寺の敷地内で、貴族院議員は土地を借りて、そこに邸を建てたらしい。それが老朽化し寺が買い取ることになったのだが、とても立派な建物だしなんとか保存をしたいと考えた。しかしそのまま保存をすると費用ばかりが嵩む。そこで邸で商売をしようと、ここは現代のお寺らしい発想をした。邸を保存するためには住んでいるときと同じように火を使ったほうが、維持には良いらしい。そこで住職は石窯焼のパンを思いついたそうだ。すごい!。さらにパンだけ焼いていてももったいないと、邸を大きく改造し、今はレストランとして営業している。
 以上、お姉さんの話だ。ちなみにこのお姉さんはフィギュアの安藤美姫に似ているとてもチャーミングな女性であった。それも最近の試合と恋愛でお疲れ気味のミキティでなく、高校生でデビューしたばかりのころのプリティなミキティだ。パンを買ったときに写真を撮らせてもらったのだが、さすがにこのブログで公表はできないので、オープンテラスの様子を紹介する。

石窯カフェテラスと働くミキティ
お寺の境内にあるとは思えない、お洒落なお店だ

 今まではこのオープンカフェまでしか入ったことがなかった。でも実は、建物の中がすごいのだ。建物の中はレストランになっていて、とても高そうなのでいつも外でお茶を濁していた(飲んでいた)のだが、見学だけでも大丈夫ですよ、とミキティが言ってくれたので初めて入ってみた。入ってみてわかった。これは、絶対入らなくてはなりません。外も良いけど、中はすごいです。特に中庭が。
 いつか俺も成功したら、こんな素敵な中庭を眺めながらランチを取りたいと思いながら写真を撮っていたら、メニューを見つけた。なんと外のオープンカフェと同じ値段である。これなら今の僕でも来られるじゃないか、と思った次第です。多分、それでもちょっと先になると思うけど。
 店を出ると、外のカフェにいたミキティがどうでしたかと、聞いてきた。とても良かったですと応えると、嬉しそうに微笑んでいた。「また、ぜひ(ここは強調)いらしてください」と言われ、とても気をよくして帰路についた次第である。

内庭から望む石窯カフェテラス
内庭から望む洋館。庭はたくさんの花で溢れていた

 もうひとつ。お寺を出るときに今度は入館券を売る女性と話ができた。そういえば、入るときに石窯ガーデンテラスの庭が良いと教わっていたのだ。こちらの女性に教わっていたことはすっかり忘れていたが、出口に来て思い出し、「お庭、とても良かったです」というと、こちらも嬉しそうに微笑まれた。なんでもあの庭は今の季節がもっともきれいなんだそうだ。今日の僕はついているみたいだ。

 ここは猫の寺でもある。そんな話しは聞いたことがないというなかれ。僕が名づけたのだ。いつも山門付近や本堂付近に猫がいる。それもかなりリラックスして、近づいていっても逃げることはない。猫好きな僕は思わずシャッターを切った。

山門にたむろする猫ちゃんたち
山門によくいる猫たち

 また、参道右脇の小道を行くと鎌倉の地名の由来であるといわれる藤原鎌足が“鎌”埋めた場所が「鎌足稲荷」としてあるとのこと。鎌足は“大化の改新”の大願成就を稲荷に感謝し、鎌をその地に埋めたそうだ。そこに今、鎌足稲荷として小さな祠が建っている。
 「なんとか少しでも早く、今の稼ぎだけで食べていけますように」と、僕も大願を掛け、祠に手を合わせたのだった。

大願をかけた藤原鎌足稲荷
大願をかけた藤原鎌足稲荷


初夏の収穫


 今日も良い天気だ。いつもどおり4時半に起床して、メールのチェックやニュースを読んだりする。今日は合気道全国演武会の開催日だ。10時前に家を出なくてはいけないので、あまり色々なことはできない。忙しいのだが、散歩にでかける。
 散歩先でクレッソンを収穫。これは予め採るつもりで出かけたのだが、帰路、野イチゴを発見した。真っ赤に実ったきれいな野イチゴが沢山、小道の脇に生っていたのだ。よく生った大きめなのをいくつかクレッソンを入れたビニール袋に放り込む。思わぬ収穫である。
 昨日は浄妙寺へ行く途中、セリを採ってきた。また夕方の散歩ではフキを採ってきた。どれも少し季節遅れで硬くなりかけているが、まだ大丈夫だ。おそらく今年最後の春の野草かもしれない。

 これは野イチゴ

洗って皿に盛った野イチゴ。明日食べる予定!



 洗った後のフキ。この自然のフキは、薄皮を剥かなくても大丈夫

<昨夜、洗っておいたフキ


 今朝採ったばかりのクレッソン。サラダにするとうまいのだ

<今しがた採ったクレッソン


 昨日採ったセリ。さてどんな料理に使おう

<報国寺の近くで採ったセリ



鎌倉の苔寺・妙法寺


 今日はひさしぶりの天気だ。リュックに地図とノート、ポットに入れたコーヒーを積めて、妙法寺へでかけた。

室町時代に立てられた総門
室町時代に立てられた総門。一番古い建物である


 妙法寺は苔の寺である。鎌倉という街の中のお寺というよりもむしろ山寺といってよい、緑満つる場所にあり、日影多く、山からの湿気もあり、苔の生長に適しているのだろう。仁王門の内に伸びる石段はすっかり苔で覆われている。今は保護のため、階段は使うことはできないが、間近でみることはできる。自然に生えてきたのだろう。京の苔寺とは違った野趣溢れる苔の風貌を目にすることができる。

苔むす石段
苔むした石段。保護のため、今は登ることができない


 妙法寺は鎌倉の東部、大町にある日蓮宗の寺だ。この辺りは谷戸(やと)となっておりかつては松葉谷(まつばがやつ)と呼ばれた谷(やつ)である。谷戸あるいは谷は鎌倉に数多くある地形の名称で、いや鎌倉に限らずそう呼ぶのだろうが、特に鎌倉ではこの呼び方である地形を表する。その地形とは山間に食い込むように伸びる谷間のことである。
 鎌倉は三方が山に囲まれており、山には切れ込むように谷が放射状に存在する。狭い鎌倉では、谷は貴重な平地であり、山から新鮮な水が流れる生活に適した土地である。鎌倉の谷戸は古くから豪族の館や寺社が建ち、人が多く住む土地であった。
 妙法寺は大町の外れにあるが、大町、小町は鎌倉時代、庶民が生活する下町であった。武家は鶴岡八幡宮の近くに、あるいは周りを囲む谷(やつ)に邸を構えていた。一方、商人や職人は大町、小町に集まって生活し、庶民の町を形成していたのだ。ちなみに鎌倉時代の小町は現在の小町通り商店街の辺りでなく、今も小町大路と言われる鎌倉彫資料館がある通りの周辺を指した。大町は現在と変わらないと思われる。
 大町、小町の当時の様子を想像した文が『鎌倉歴史散歩』(大仏次郎編)にある。「この辺りには、だから昼は盲法師が辻に立ち、その傍を侍所や政所の若武者たちが騎馬で走りすぎるかと思うと、人相の悪い浪人が商人を値切りたおして品物を持ち去ったり、頭巾をかぶった破戒僧がそっと簪(かんざし)を買ったりしたかもしれない」

 妙法寺は日蓮上人が鎌倉に来て最初に草庵を結んだ場所といわれている。他に近くにある安国論寺と長勝寺も日蓮草庵の地と考えられているが、どこが実際の場所であったのかは不明である。日蓮が住んでいた当時は寺などなかったわけだし、草深い山間の土地でもある。日蓮が鎌倉で活動していた時期は20数年にも及び、一箇所に定住していたとはむしろ考えにくい。この辺り、当時の松葉谷のどこかで、転居することもありながら、庵を結んでいたのだろう。
 日蓮がではなぜ松葉谷に庵を結んだのかというと、おそらくそこが庶民の町と近い場所であったからだろう。松葉谷はすぐ裏には名越の峠が控える山間の土地ではあるが、大町、小町の下町は近い。日蓮が辻説法をしたと伝えられる場所までも歩いて10分程度である。日蓮上人は妙法寺辺りから、毎朝出勤するように大町、小町まで出かけ、『鎌倉歴史散歩』の表現のような風景の中で、布教活動に精を出していたのだろう。

 日蓮が住んだといわれる草庵は法華堂として残った。当時の法華堂は残っていないが、江戸時代になってから水戸家によって建てられたお堂がある

法華堂
江戸時代になってから建てられた法華堂


 時代が下り、足利直義(尊氏の弟)により殺された大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよし)の息子である日叡上人により、延文二年(1357)年、法華堂のある今の地に妙法寺が建立された。日叡は日蓮ゆかりの土地であり、父護良親王の最期の地である鎌倉に寺を建てたのだ。
 この寺は寺格として、相当高いものであったようだ。というのは足利尊氏の命により、京都に法華堂が移された。その場所は京都大本山本圀寺(ほんこくじ)になっている。
 また、江戸期も繁栄しており、十一代将軍徳川家斉(いえなり)は度々、この寺を訪れている。そのために当時は総門、仁王門、法華堂が朱塗りにされており、将軍参拝の際は、緋毛氈(ひもうせん)が敷き詰められたそうだ。今は仁王門のみが朱で残っている。

朱塗りの仁王門
朱塗りの仁王門



 妙法寺には有名な伝説がいくつかある。そのうち有名なものをふたつ紹介する。ひとつは白猿の伝説である。文応元年(1260)8月27日、日蓮が夕べの読経をしていると、一匹の白い猿が現れた。白猿は何か訴えるように日蓮の袖を引っ張り始めた。引っ張るにまかせ猿について行くと、いつしか山の上まで来た。暫くすると草庵の周辺に怒声が聞こえる。いずれかが日蓮を目標に、襲撃してきたのだ。
 日蓮は白猿が命を救うために、現れたのだと気が付いた。礼を述べようと足元を見ると、白猿はもういない。辺りを見回すと、近くに山王権現の祠があった。白猿は山王権現の化身であったのだ。これが日蓮の法難のひとつ、松葉谷の法難である。日蓮は山王権現の化身に救われて、松葉谷の法難から逃れることができたのだ。

 もうひとつは、化生岩屋(けしょういわや)の伝説である。化生とは妖怪や化け物のことだ。建長五年(1253)のある日、日蓮が今は妙法寺の境内にある岩屋(洞窟)にいたところ、化生が現れた。日蓮が読経、説法をすると、姿を消した。その後、化生はその岩屋に現れなくなったという。今、その岩屋には日蓮上人座像が安置されている。写真に撮って来たが、かなり不気味な場所である。
 さてこの化生とは何であったのか。この地は名越の丘陵地帯である。名越は北条氏の一流の名称で、三代執権の北条泰時の弟、朝時(ともとき)から始まる。朝時の子、光時(みつとき)は北条本家との政争に破れ、伊豆へ配流となった。光時の弟の時幸(ときゆき)は直後、病死をしている。北条による「吾妻鏡」では病死とされているが、葉室定嗣という公卿の日記には自害させられたとある。このとき現れた化生は、無念を抱き死んだ時幸ではないかといわれている。

化生岩屋の日蓮上人像
化生岩屋に坐る日蓮上人


 妙法寺は人の少ない寺である。駅から少し遠い。遠いといっても歩いて30分もかからないのだが。途中に本覚寺や妙本寺がある。一緒に見て回れば、さほど距離は感じない。
 護良親王御墓にまで登ると、鎌倉の街が一望でき、雲がなければ富士山がよく見える。静かな山寺の様子を呈するこの苔寺に、もう少し人が来ても良いのではと思うのだが。
 ただし、当寺の開放日は真冬、真夏は土日のみである。春と秋はウイークデーも拝観できるが。しかし、その春と秋とはいつなのかは定かではない。今日、寺のひとに聞いてみたが、そのときになってみないと分からないそうだ。とても長閑なお寺である。

護良親王御墓から見下ろす鎌倉
護良親王御墓から見える鎌倉の街と由比ガ浜


瑞泉寺を歩く(鎌倉の寺社)


 またまた今日も良い天気だ。6月なのに梅雨の気配はない。いつまでもこの薫風心地よい五月のような天気が続き、そのまま夏になってくれたらよいのだが。

 さて、今日は天気に誘われ花のお寺、瑞泉寺に行ってきた。ここ最近、一番のお気に入りの寺で、鎌倉の寺へ行きたいという客があると、必ずお連れする場所だ。
 鎌倉駅からはちょっと遠い。歩くと一時間近くかかる。でも天気がよいのなら、駅から歩いて来ることをお薦めする。途中、段葛を歩き、鶴岡八幡宮の境内を抜け、杉本寺、荏柄天神、大塔宮、永福寺跡と見所は豊富にある。のんびり3時間ぐらいかけてくればいい。そして最後に行き着くのが、この花の寺だ。最後の最後にたどり着いたこのお寺は、けっして期待を裏切らないだろう。
 瑞泉寺は花の寺だが、それだけではない。紅葉谷(もみじがやつ)と呼ばれる三方を山に囲まれる谷戸(やと)に位置し、今の季節は新緑が、そして秋には文字通り紅葉(こうよう)を楽しめる。この谷戸はなぜか昔からカエデやモミジが多く、それが地名になったようだが、その植生は今も続いている。名前負けしない、風流な景観を今も楽しめる。

花の寺、瑞泉寺の本殿
咲き始めの紫陽花と本殿

 
 瑞泉寺はきれいなだけのお寺ではない。とても由緒正しい寺でもある。嘉暦二年(1327)、二階堂貞藤(法名・道薀)を開基とし、開山は夢想疎石(むそうそせき)である。夢想疎石は国師号を授けられた偉い坊さんであるが、一方庭造りでも有名である。石庭で有名な京都の天龍寺、苔寺の西芳寺(京都)、甲斐の恵林寺(えりんじ)、そしてこの瑞泉寺など、多くの作庭を手がけている。
 その国師の木造夢想国師座像(国重文)がこのお寺の本殿に安置されている。南北朝時代の作といわれ貴重な作品である。本殿の扉が少しだけ開いていて、中が覗ける。薄暗い本殿で本尊の釈迦如来像の右隣に奉られているのだが、迫力あるお姿である。一応、写真に収めてきたので公開する。ちなみに写真撮影不可という表示はなく、朝早く他の参拝客がいなかったのでフラッシュを焚かずに撮った。しかし問題があるようなら削除する。関係者の方、その場合はご一報ください。

木造夢想国師座像(国重文なのだ)む
木造夢想国師座像(国重文)


 瑞泉寺に残る夢想国師作といわれる庭は本殿の裏にある、ちょっと変わったお庭である。写真の通り、山を削って窟を掘り、前に池を作って橋を掛けて。なんとも無骨な庭なのだ。禅寺の庭らしいといえばそうなのだが、同じ夢想国師の作でも天龍寺の石庭とは随分と趣を異にする。しかし夢想国師は裏山も含めてひとつの造作物と考えたようなので、あまり薄汚れた池に焦点を合わせずに、遠景までも視界に入れて眺めれば、それはまた彫刻的な風景であり意匠なのだと見ることができる。はい。ちなみにこの庭園は昭和44,45年に発掘されて復元されたものだ。古いが新しい庭なのだ。

ムジナの石像(多分良いほう)
夢想国師の作といわれる庭


 さて瑞泉寺だが、鎌倉幕府滅亡後は足利氏による支持を受け、鎌倉公方初代の足利元氏(もとうじ、尊氏の四男)が中興の開基となっている。関東十刹(かんとうじっせつ)の第二位に列せられ、当時は荘厳を極め、塔頭(たっちゅう)は十二院あったといわれている。
 こう書いてもちょっと説明が必要であろう。まず、鎌倉公方とは関東十カ国を治めた室町幕府の出先機関である。出先機関といっても今の中央省庁の出先機関とは異なり、その土地の支配者である。幕府に代理して、土地の豪族に睨みを聞かせていたのだ。
 次に関東十刹だが、禅宗の寺格の序列で、まず五山がきて、続いて十刹がくる。関東では鎌倉五山があり、その下に関東十刹だ。じゃあ、あまり偉くないではないかというなかれ。お寺の数はものすごく多いので、十刹に列せられることはとても権威あることなのだ。
 そして、塔頭だ。禅宗の大寺で祖師などの高僧が死ぬと、その徳を偲んで塔が建てられた。そこを塔頭といったが、後に寺の敷地内に立てられた小院を指すようになった。その小院自体が寺領などを持つ独立した経営を行うこともある。つまり会社で例えれば、子会社みたいなものだ。瑞泉寺は子会社が12社もある大会社みたいな大寺であったというわけだ。
 ではなぜそんなに栄えたかというと、関東公方の足利ファミリーはただお寺を支援しただけでない。自らの墓を任せ菩提寺としたのだ。お墓の管理は今でもお寺の経営で大きなウエートを占めるが、当時も同じだったのだろう。関東一の実力者一家のお墓の管理を任されて、大きく繁栄したのだ。

 ところでこのお寺にはいくつかの不思議な話が伝わる。“どこも苦地蔵(どこもくじぞう)”の話は有名なので、もうひとつのほうをここでは紹介する。それはムジナの話だ。 信心深い良いムジナの話と悪いムジナの話がある。まず良いほうを。開山まもないころ、山から出てきた一匹のムジナが境内に住みついた。とても信仰心が篤く、寺男に化けて、毎日夢想国師のお説教を聞きにきた。仕事も真面目にやっていたそうだ。ムジナなのに。
 もうひとつは悪いムジナの話。瑞泉寺の住職と永安寺(ようあんじ)の住職が仲のよいことを知って、あるときは瑞泉寺のあるときは永安寺の住職に化け、互いの寺に行き、ご馳走にありついた。いつか悪行がばれ、捕まえられ殺されたという話だ。そのぐらいで殺すことはないのになぁと、思う。でもムジナだから仕方がないのか。良いムジナの話だけを信じたい。
 この写真は多分、良いムジナである。夢想国師の説法は、ムジナだけでなく近隣の狸や狐までもが列をなして聞きにきたそうである。それら獣たちを葬ってムジナ塚として今も祀られている。では悪いムジナはというと、この石像は良いムジナだと思うが、その他大勢の獣たちとして葬られているのだと思う。そう思いたい。
 ああ、ここでムジナについてひとこと。ムジナってなんだろうと、子供の頃昔話を聞かされて思っていた。大人になって調べてみたが、どうもパッとした回答が見つからない。アナグマであるとの説が有力とされているが、狸だともいわれる。最近になってハクビシン説も有力視されてきた。でもハクビシンて帰化動物じゃない、昔もいたの?とも思えるが。最近の研究では江戸時代にはもう帰化していたらしいので、それもありえるそうだ。しかしあんなに昔話によく出てくるムジナが、現代ではどの動物を指すのかがはっきりしていないって、こちらの方が不思議な話である。

本殿裏の庭園(国名勝)
ムジナの石像。良いことをすると石像まで作ってもらえるが、悪いことをすると、、、

 さてお寺に話を戻して。山門近くに吉田松陰の石碑がある。以前から、なぜここに松陰先生の碑があるのか不思議に思っていた。今日、調べてなぞが解けた。
 吉田松陰の外伯父が瑞泉寺の住職だったのだ。多難の中、国を憂う若き松陰先生は禅僧である伯父さんのところを何度か尋ねている。伯父さんに色々相談に乗ってもらったのだろう。伯父さん一緒に江ノ島まで遊びに(多分、海水浴とかの遊びではないと思う)も出かけていることが分かっている。嘉永七年3月、下田に停泊中の黒船に乗って密航をしようと企てた事件の際も、決行前に瑞泉寺に泊まっている。そんな縁で、松陰先生の石碑が瑞泉寺に建てられているのだ。
 瑞泉寺には他にも大宅壮一の碑や山崎方代の歌碑があったりする。この渾然一体感が禅寺らしくなくて面白い、と僕は思う。

吉田松陰先生の石碑
吉田松陰の石碑

 そういえば、お寺の人にこっそり教えてもらったのだが、瑞泉寺には“さるやんごとなきお方”がお忍びでよく来られるそうだ。お名前は伺ったが、ここでは伏せおく。ひじょ~うに高貴なお方ですぞ。


 最後に、まったく瑞泉寺には関係がないのだが、今日のプリティーショットを一枚。朝、日の当る窓の前で寛ぐフクちゃんである。フクちゃんお得意のセクシーポーズです。
 国士、松陰先生の話の後、不謹慎ですみません。

お得意のセクシーポーズのフクちゃん
フクちゃんのサービスショット


安国論寺をゆく(鎌倉の寺社)


 安国論寺。不思議な名前の寺だ。立正寺でも安国寺でもない。
 立正寺なら正しさを立つ、あるいはまことの道に進むことを祈念する寺と考えることができる。安国寺なら国を安んじる、太平の世の中を希求する寺なのだと思えばいい。しかし安国論寺なら、これは立正安国論でしかない。立正安国論、国家諫暁(こっかかんぎょう)の祈りを込め日蓮が岩窟に籠もり書き上げて、執権北条時頼に上程した建白書の名だ。その建白書の名が寺の名前となっている。

安国論寺の山門
安国論寺の山門

 日蓮がこの書を草したとき、世は鎌倉を中心に天変地異が相次いでいた。まず1256年暴風雨が来襲し、疫病が蔓延した。翌年8月、大地震が起こり、神社仏閣ことごとく崩れ落ち、山は砕け、人屋は倒壊し、地は裂け、水が湧き出し、火災が起き、鎌倉の町は灰塵と帰した。翌月も余震は続き、11月にはまた激震があった。さらに翌年は旱魃と風水害に見舞われ、飢饉疫病が襲い掛かり、折り重なる死骸で町は悪臭に包まれた。日蓮は立正安国論を次の言葉から始めている。
 「旅客来たりて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変地夭(てんぺんちよう)飢饉疫病遍く天下に満ち広く地上に迸(ほとばし)る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり死を招くの輩、既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し」

 日蓮が立正安国論で訴えたのは、人々が正しいお経である「法華経」に背き、法然が唱え、あるいは一遍が踊ることで願う念仏信仰に帰依しているから災難が起こるのだということだった。念仏を捨て、法華経に帰依しなければさらなる災厄は続くだろうと予言もした。そしてその予言は当る。元寇である。

 国を憂い、命がけで書き上げた政策は、しかし幕府に取り上げられることはなかった。他宗をあからさまに攻撃する日蓮に他宗派は怒り、襲撃をする。松葉ヶ谷の法難である。命からがら逃げ延びたが、今度は幕府が流罪とする伊豆の法難である。

 しかし日蓮の宗徒は当然、立正安国論を誇りとし、偉業としてこれを讃えた。そしてこのお寺を建てた。ひとりの人間が書き上げた書が名前となっている寺がここ以外にあるだろうか。歴史も宗教にも素人の僕が偉そうに書くことではないのだが、他にはないのではと思う。
 まったく日蓮宗の個性、不思議を感じさせるお寺の名前である。

 さて前置きが長くなったが、安国論寺は静かな緑に囲まれた良い寺である。ここもまた人が少ない。今回、9時の開門とともに入ったが、10時に出るまでお寺の人以外、誰とも出会わなかった。静かに参拝することができた。
 山門の脇には「日蓮上人草庵跡」と書かれた石碑が建つ。そうここもまた日蓮の草庵跡だ。先日紹介した妙法寺もそうだった。妙法寺の項で書いたが、日蓮が鎌倉に滞在したのは約20年の長い期間である。その間、この松葉ヶ谷(まつばがやつ)を渡り歩いたのだろう。草庵が複数あっても不思議ではない。
 山門を抜け暫く行った右には草庵跡である“御小庵”がある。現在ある建物は元禄年間(1688~1704)に尾張徳川家の寄贈により建てられたものだ。

 そしてその奥に御法窟(ごほうくつ)と言われる岩屋がある。しかし岩屋は今、御小庵の建物に塞がれていて見ることはできない。日蓮が立正安国論を書いたといわれる洞窟がここなのだ。このお寺のもっとも中心地といえる御法窟を直接見ることができないのは残念だ。

御法窟の前の石碑
御法窟の脇に建つ石碑。御法窟は見えない

 御小庵のすぐ脇には熊王殿がある。熊王というと、名前から山王様のような神様が祭られているのかと思うが、境内を掃いていた寺のひとに聞くと、そうではない。熊王さんは日蓮の弟子の名前なんだそうだ。高弟のひとりで、ここに祀られている。さらに面白いことを聞いた。今もその子孫がおられ、苗字が熊王さんなのだ。ときどき参拝にみえられるという。

本堂
参道から望む本堂(祖師堂)

 御小庵の正面には本堂(祖師堂)がある。おそらく普通はまず本殿に参られ、それから御小庵、熊王殿と来る順番かもしれないが。ここも尾張徳川が再造したのだが、昭和36年火災により消失し、現在の建物はその後再建されたものである。
 僕が行った時は、さきほど書いたとおり他に参拝客はいなかった。お寺の人に断り、本堂に上がらせてもらった。正面に祭壇があり、本尊らしきものが見えた。おそらく“日蓮上人座像”だと思う。

日蓮上人座像を祀る祭壇
本堂の中。祭壇の中心に小さく座像が見える

 本堂を過ぎると一般のお墓がある。しかしここも一見の価値ありだ。なぜならここにはあの“目刺しの土光さん”のお墓があるからだ。土光さんは熱心な法華経信者で毎朝、お題目を唱えていたと聞くが、お寺はここであったのだ。財界の天皇と言われ、行革を推進した大物の財界人でありながら、常に質素で過ごした土光さんのお墓に向かい、“僕も質素に暮らしています”と手を合わせた。自分の場合は質素を旨としているのでなく、背に腹かえられないだけなのだが。でも何となくシンパシーを感じてしまった、愚かな僕なのであった。

 さらに行くと日朗上人御荼毘所があり、そこを過ぎて少し山を登ると南面窟がある。おそらく日蓮上人が立正安国論を草した洞窟はここだと思う人が多いだろう。そんな雰囲気のある洞窟である。
 しかしここは松葉ヶ谷の法難の際、白猿が招き日蓮が隠れた場所とされる。そう、ここもまた妙法寺と同じ伝説のある場所だ。ここのお猿さんも山王権現の化身であるのも同じだ。
 お猿の伝説がなぜ、この辺りに多いのか。このお寺の裏に猿畠(さるばたけ)という地名の場所がある。どうも、そこからお猿の伝説が生まれたようだ。ちなみに今、猿畠には日蓮宗の法性寺(ほっしょうじ)が建っている。

 さてどんどん登ろう。このお寺は本堂や庫裡(くり)などは狭い範囲に建てられているが、境内は結構広い。裏山までがその敷地内で、山道が長く続いている。ぐるりと裏山を巡れるが、鐘楼の方へ周る道を進む。鐘楼を過ぎてしばらくアップダウンを過ごしたら、富士見台に着く。眼下には鎌倉の街と江ノ島が望める。空気が澄んでいれば富士が見えるというが、今日は晴天だったが靄で見ることができなかった。

見下ろす鎌倉の市街地
富士見台からの遠望


鎌倉駅前の“あさくさ”と逗子マリーナ前の魚屋さん


 土曜日は天気がよかったので妙本寺に行ってきた。今回はブログに書くことを目的で行ったのではない。ただぶらりと散歩で出かけ、ついでに入ったといった感じだ。拝観料も取られないようだったし。とても良いお寺だったが、下調べもしていない。近いうちにまた尋ね、じっくりとブログで紹介したい。

 妙本寺の後、お腹が空いたのでランチを取ることにした。どこに行こうというあてもなかったので、最初に出会った麺類が食べられる店に入ることにした。なるべく駅の近くには行きたくなかった。土曜で混んでいるし、駅の近くは観光客目当ての店が多いと思ったからだ。しかし妙本寺の近くに店は一軒もなかった。
 どんどんと駅に近づく。ついに若宮大路まで来てしまった。しかたなく信号を渡り駅に向かって歩く。すると信号を渡ってすぐの場所に随分レトロな雰囲気のレストランを見つけた。ディスプレイを覗くとラーメンがある。店の名前はなぜか“あさくさ”であった。駅のすぐ近くだし、店名は“あさくさ”だし、なんだか嫌な雰囲気がした。しかし最初に決めたルールは守らなくてはならない。最初の麺類屋さんということで、この店に入ることにする。
 店の中は外観以上にレトロであった。昭和40年代ごろ、各地にあった普通のレストランという感じだ。ラーメンやご飯ものも食べられるし、コーヒーも飲める。ビールや酒もあるし、そしてクリームソーダなんかもある(ちなみのここではクリームソーダがあったかどうかは記憶していない)。
 当時は普通のレストランであったが、平成22年の現代ではとても珍しいタイプのレストランかもしれない。あまりのレトロぶりにかえって最初の不安は払拭され、雰囲気を楽しみ始めた。
 メニューを見ると値段もかなりレトロである。コーヒーやアイスクリームは300円。そしてラーメン500円。チャーハン700円。そんな感じだ。500円のラーメンを注文してみる。
 出てきたラーメンはこれまた昔風のもので、なかなか美味だった。麺はちょっとのび気味だったが、これまた当時のラーメンではよくあったことで、懐かしいと思える。ちょっと贔屓目になってはいるが。
 総じて良い店だった。鎌倉駅周辺でランチを取るときにはいつも呻吟する。しかしこれで今後は悩まないで済む。次もたま来よう。そう思える店だった。駅前なのに空いていたしね。

 “あさくさ”を出た後、シャトルバスに乗り逗子マリーナへ向かう。目当てはマリーナ向かいの魚屋だ。時間が遅かったので、種類はあまり残っていない。それでも新鮮な黒ムツがあり、一匹(840円)買う。それから漁港に隣接しているシラス屋さんでシラス干し(400円)も購入。またシャトルバスで鎌倉まで戻る。
 このシャトルバス、とても便利だ。土日のみの運行だが1時間に4本も出ている。車のない自分には重宝な存在である。それと一番大切なこと、無料なのだ。

 シャトルで鎌倉まで戻ると、そこから歩いて帰る気力はなくなっていた。暑い一日だったから。それで京急バスに乗る。ハイランド行きのバスは観光客で満杯だったが、ほとんどは浄明寺で下車した。報国寺か浄妙寺に行くのであろう。僕のブログを見てくれた人いるのかなぁと思った。
 最近、報国寺や浄妙寺をグーグルで検索すると僕のブログがなんと一ページ目にくるのだ。えへん。

 家に帰るとフクちゃん、大チャンが暑い部屋でくっついて寝ていた。窓を閉め切ってでかけたのだ。フクちゃん、大チャン、ごめんね。

仏像のお寺、“杉本寺”(鎌倉の寺社)


 梅雨入りをしてから、初めての晴れの日。週間予報を見ると、今日以外は1週間すべて雨だそうだ。そうと分かれば、今日しかあるまい。ノートやカメラなど、いつもの道具をもって本日は杉本寺へ出かける。
 杉本寺はその縁起を奈良時代に遡ることができる天台宗の古い寺だ。鎌倉で一番古い寺ともいわれている。また坂東三十三所観音霊場札所第一番の寺でもある。

杉本寺の入り口
金沢街道に面する杉本寺の入り口。幟が見える

 家は7時半に出た。杉本寺には7時50分着。このお寺の開門は8時と早いのだ。8時前なのにも拘わらず、先客が一名いた。
 杉本寺は先ほども書いたとおり、坂東三十三所観音霊場札所第一番の寺である。朝一にこの寺を訪れ、それから札所巡りを始める人が多いのだろう。先客の年配の男性も、札を受け取っていた。
 第一番の札所であるためか密教寺院であるためか、そこは不明だがこのお寺には沢山の幟(のぼり)がはためく。白地に黒で書かれた文字は“十一面杉本観音”とある。
 杉本寺は金沢街道沿いにある。街道と平行して流れる滑川にかかる犬懸橋のすぐ近くが入り口だ。入り口はとても狭いが、白い幟がよく目立つので入り口を見失うことはないだろう。
 この群立する幟を見て、実は長い間敬遠して入らなかった。ちょっと禍々しい印象なのだ。しかし一度中に入ってその印象は一変した。ここは貴重な場所だ。なぜ貴重な場所なのかはもう少し後で説明する。何度か訪れて、今は寺内を知っているので、この派手さがかえって好ましく思えるから不思議だ。
 さて狭い入り口からはまっすぐ石の階段が伸びる。途中、案内所があり拝観料200円を払う。案内所のからすぐ先には仁王門がそびえる。仁王門には運慶作と伝わる口を開いた阿形(あぎょう)像が右に、口を結んだ吽形(うんぎょう)像が左に立ち構え、参拝者を迎えてくれる。

仁王門
仁王門。お札がたくさん貼られている

 仁王門を抜けると苔の階段が見える。今は梅雨の最中であるためか、苔は緑に瑞々しく輝いていた。先日の妙法寺の苔の階段もよかったが、こちら杉本寺の苔の階段もこじんまりしていて、侘びのある美しい石段だ。この階段は鎌倉石の一枚石に段を刻んだものといわれる貴重なものだ。磨耗が烈しく、今は保護のため登ることはできない。ほとんど丸くなった階段に苔が張り付く様子に、この寺の歴史を感じる。

苔の石段
本堂にまっすぐ伸びる苔の石段

 苔の石段の左には新しい階段が作られていて、我々はこちらを登る。登りきるとそこに本堂が現れる。この本堂は四方が五間の正方形をした茅葺(かやぶき)で、古い密教寺院の特徴をよく表している。茅はお寺の人によると17,8年に一度、張り替えているそうだ。主に東北から職人を呼ぶそうで、大変な手間と費用であろう。伝統を守るということは、簡単なことではない。

本堂
茅葺屋根のご本堂。正方形の典型的な密教寺院


 さて本堂に上がろう。そう、ここは本堂に入ることができるのだ。幟をはためかせ禍々しく見えた顔の裏には、実は親しみやすさという裏の顔があったのだ。

 お堂に上がると、さらに驚かされる。目の前に何体もの仏像が、それこそ手を触れようとすれば触れることができる距離にお立ちになられているのだ。そして、この仏像が大変見ごたえのあるものばかりなのだ。これこそが、冒頭に貴重な場所であると書いた理由である。
 まず正面に黄金の十一面観音が立つ。これは寺の人によると源頼朝が寄贈したものであるとのこと。史実であるのかは別として、この寺は頼朝と縁の深い寺である。ひょっとして、と思わせるお姿だ。
 そして右で睨みを効かせているのが宅間法眼浄宏(たくまほうげんじょうこう)作と伝えられる毘沙門天像だ。僕はこの像を見て、まず法眼の作で間違いないと感じた。まったくの素人の僕であるが、そう直感させる像の出来栄えである。大変凛々しい男前のお姿だ。この像を見るためだけでも杉本寺に来る価値はある。
 正面には三体仏像が立っている。中央は十一面観音、右は毘沙門天、そして左手にももう一体の仏像(こちらも十一面観音像)がある。こちらは新しいものと思われるが、資料によっても寺の人の説明でも、どういう由来かは不明であった。
 この比較的新しいと思われる左手の観音像のさらに左に地蔵菩薩がいらっしゃる。運慶作と伝わるものだ。この地蔵菩薩、なんと優しいお姿か。ここは天台宗のお寺なので、おそらく護摩を本堂で焚くことが多いのだろう。煤で真っ黒なのだが、その表情の柔和さ、悲しさは煤で覆い隠すことはできない。地蔵菩薩の前で跪きお姿を拝見していると、時間の過ぎるのを忘れてしまう。
 今度は毘沙門天の右に目を移そう。そこにも慈悲の表情を浮かべた地蔵菩薩がいらっしゃる。こちらは鎌倉時代の安阿弥(あんなみ)作と伝わる。そしてそのさらに左には小さな仏様の集団がお揃いだ。観音三十三身である。こちらも運慶作とのこと。
 そうここには運慶作と伝わる像がいくつもあるのだ。運慶の作といわれる作品は全国に数多いが、真偽のほどは不明である場合が多い。杉本寺の運慶も確認されたものではないようである。しかしまったく紛い物かというとそうではないであろう。運慶は平安末期から鎌倉初期に奈良を中心に活躍した仏師だが、頼朝の要請で鎌倉に来ていることは分かっている。葉山の小さなお寺である浄楽寺には運慶作と確認されている仏像が何体も収蔵されている。また運慶は当然、ひとりで仕事をしていたわけでなく、集団で請け負っていたはずだ。現代でいう工房のようなものだ。杉本寺の運慶作品もその工房の作であるかもしれない。
 さて、このお寺ではもう少し仏像を拝まなくてはならない。なぜならまだご本尊まで行き着いていないのだ。黄金の十一面観音像の裏に進むと、奥にぼんやりと仏像らしきものが3体伺える。ここが当お寺のクライマックスであるご本尊が祀られる最深部だ。ここは残念というか当然だが、すぐ近くにまで寄ることはできない。奥の小部屋はガラス越しに見るだけで、薄暗い明かりの中でお姿を想像するしかない。
 3体はみな十一面観音菩薩像である。中央は慈覚大師作と伝えられる寄木造彫眼(よせきづくりちょうがん)で平安後期の作品(国重文)。右は恵信僧都作といわれる寄木造玉目(よせきづくりぎょくがん)で鎌倉中期の作品(国重文)。そして左はなんと行基作と伝わる一木造りで平安後期の作品(市文)である。

 杉本寺は寺伝によると天平6年(734年)光明皇后の命により行基が創建した。慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が中興開山で恵信僧都源信(えしんそうずげんしん)が十一面観音像を安置して、坂東三十三箇所観音霊場の第一番になったと伝えられている。
 関東にはここ以外にも行基が創建したと伝わる寺が多い。しかし行基が関東に来た史実はないようである。これは私見だが、行基のような修験者が奈良、平安時代には各地で修行していた。その地に寺が建ち、行基の創建と伝わったのではないかと思う。鎌倉の土地は頼朝以前も、かなり古い時代から開かれていたようだから、きっと修験者も西国から流れてきたのだろう。

 観音霊場として名高い杉本寺について書くなら、観音様にまつわる二つの逸話を書かなくてはならない。
 一つ目は逸話というか史実であるようだが。文治5年(1189)、大倉観音堂(本堂)が火事にあった。別当の浄台坊(じょうだいぼう)は身の危険を顧みずに炎上する本堂に飛び込み、ご本尊を運び出した。今も残る本尊である。これは吾妻鏡にきちんと書かれている史実だ。ここから伝説が生まれた。実は観音菩薩は運ばれたのではなく自ら歩いて逃げ出したというのだ。杉の根元で火を避けて一人で立っているところを僧が発見し、匿ったそうだ。ここから杉本寺の名前が生まれたとされている。
 もうひとつは行基が作ったといわれる左の観音様の話だ。門前を不信心の者が馬にまたがったまま通り過ぎようとすると、かならず落馬してしまう。その噂を聞いた建長寺の開山である蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が、観音に祈願し、自らの袈裟で観音像の顔を覆った。するとその後、馬から落ちる者がいなくなったそうだ。そこからこの観音像は“下馬観音”あるいは“覆面観音”という、ちょっとかっこいい名前で呼ばれてもいるのだ。ちなみに今、その観音様には袈裟はかけられていない。どうしてだろう。そのことを寺の人に問うと、古いからなくなったんじゃないかと答えてくれた。今も不信心の人が多いと思うが、車なら大丈夫だということだろうか。

 最後に、これは逸話ではないのだが。本堂右手に“熊野大権現”と“白山大権現”の祠がある。その左に小さな古い祠があり、丸い石がひとつは祠の中に、もうひとつは祠の外に置かれている。これは何なのだろうか。ご存知の方がいらっしゃれば、ぜひ教えて欲しい。
 資料を探したが、該当するものはなかった。ただ近いものとして『鎌倉歴史散歩』(大仏次郎編)に「・・・鎌倉石が二つころがっている。それは重ねてあったもので、上の石には、風化しているが石仏の首の浮彫が見え、下のには、凹みがある。『新編相模風土記』には、「地蔵堂、石像、長三尺四五寸、像の前に凹みあり、由来詳ならず。或伝に、此石仏を杉本太郎義宗が身代の地蔵という。按ずるに延元二年此に自尽せし斯波家長等が為に造建せし石仏なるべし」と記して、石仏図をのせているほどだ、なんとか保存したいものである」と書かれている。
 これがそうなのだろうか。

不思議な石
これが不思議な石


鎌倉の死の世界


 由比ガ浜南遺跡をご存知だろうか。現在、鎌倉海浜公園がある場所で、鎌倉時代の墓場、および処刑場だったと考えられているところだ。何年か前に発掘調査が行われ、そこで夥しい数の人骨や獣骨が発掘された。
 『中世都市 鎌倉と死の世界(五味文彦・斎木秀雄編』を読んで知った。発掘現場の写真も載っているのだが、その数、様子はものすごい。これだけの骨が一箇所から発掘されるとは、それも都市の真ん中で。鎌倉時代、鎌倉は当然日本の中心地であり、人口も5万人ほど(これは諸説が当然あるが)いたようで、その分死者の数も多い。その埋葬はこのように行われていたのだ。
 鎌倉には“やぐら”といわれる防空壕のような横穴が約4000箇所ある。この“やぐら”が、埋葬というか、死体を投げ捨てる場所だと考えられていた。この本では明言を避けているが、どうも“やぐら”は墓地でなく、瞑想の場所であったようだ。すると別に墓地が必要となる。その一部が由比ガ浜南遺跡であったのだろう。

 ではどのぐらいの遺体がこの遺跡に埋葬されていたかというと、これがよく分からない。なぜなら偉人の墓所と異なり、集団墓地であるここでは各遺体をきちんと埋葬していないからだ。単体で埋葬されている場所もあるのだが、ほとんどが集積埋葬である。また遺体はフルパーツ残こっているわけでなく、一部のみを埋葬しているケースもある。散逸もある。
 本では一応の推定数は載せている。最小個体数は3,681体。性別は男性1078体、女性811体、性別不明1972体。このうち集積埋葬から検出されたのは3114体である。
 鎌倉というと合戦で、刀傷をもった遺体が多いかと思うが本によるとそうでもないらしい。例えばある集積埋葬では158体の遺体が確認されているが、そのうち大人が108体で37体に刀傷が認められている。つまり大人の34%が刀傷を持つということになる。
 しかし本では、この割合を少ないとしているが、今改めてこの数字を眺めると決して少ない数字ではないですねぇ。34%が死の直接の原因とは限らないが、刀傷を持つ世の中とは。恐ろしいではないか。
 刀傷の程度だか、これもまた凄まじい。ある女性の頭蓋骨の写真が載っているが、頭頂部から後頭部にかけて完全に切断されている。その切断面のきれいなこと。日本刀で頭を叩ききると、あんなにきれいに頭蓋骨さえ切断できるとは。タランチーノの「キルビル」で頭を真横から日本刀でスパッと切断するシーンがあるが、あんなことは不可能だと思っていた。タランチーノは考証をサボったなと考えていたが、どうもこの写真を見る限りではありえる話だ。日本刀の殺傷能力、および当時の人の剣操作の技術に驚愕させられる。

 鎌倉時代の鎌倉を知る手がかりとなる文献は少ない。京や奈良では貴族の日記があるが、鎌倉にはそれがないからだ。このような遺跡の発掘は文献の少なさを補う意味で大変貴重である。また文献では見えてこないリアルでより生活に密接した資料となるという意味でもまた貴重である。

明月院 紫陽花の寺(鎌倉の寺社)


 逗子から電車で北鎌倉へ向かった。北鎌倉で降りたのは数名だった。そのとき、反対車線に東京方面から来た下り電車が到着した。
 北鎌倉は無人駅のような小さな駅である。その小さな駅に下り電車から降りてきた客は、ホームから溢れ落ちるほどの数であった。いったいどこに向かうのだろう。時間は朝の8時半、曜日は水曜日、天気は雨である。これだけの人が平日の雨の朝、何の目的でこの小さな駅に降り立つのか。まさか明月院ではあるまい。きっと円覚寺だろう。
 円覚寺へ向かう人も確かにいた。しかし円覚寺を素通りして、まっすぐ線路と平行して走る小道を歩く人の方が多い。もしかして、もしかして。
 明月院に行くにはその小道を左折する。小道を埋める人の波は、僕と同じように左折する。これは確実だ。みな明月院に向かうのだ。
 紫陽花の季節に明月院を訪れたいと思っていた。しかしきっと混むであろう。しかし平日の早朝、それも雨の日ならば人も少ないに違いない。そう踏んで、雨の水曜日を選んで明月院に来た。しかし明月院の人気は予想以上のものであった。

 小道を左折すると小川が左に流れる。小川の淵には紫陽花が植えられている。段々と雰囲気が出てきた。100メートルぐらいだろうか、暫く小川に沿って進むと正面に総門が見えた。明月院である。雨の中に浮かぶ総門、その周りに青く佇む紫陽花。たしかに絵になるお寺である。
 華やいで見えるのは紫陽花だけでない。傘の花もまた、色とりどりだ。傘の波も僕と同様に、総門に進む。拝観料は500円。さすが人気のお寺だ。強気の拝観料である。

総門
明月院の総門

 明月院はいくつもの変転を経てきたお寺である。寺伝によると、山之内経俊(やまのうちつねとし)が平治の乱で戦死した父、俊道の供養として、1160年に創建した。
 その後、この土地周辺は北条家の別邸となり、第5代執権、北条時頼は1256年自らの持仏堂として最明寺を建立した。出家した時頼は最明寺入道と呼ばれるようになる。
 ここで時頼についてのエピソードをひとつ紹介しよう。謡曲『鉢の木』で世に広まった話だ。『増鏡』にも同様の話が記載されている。ちなみに近くに“鉢の木”という精進料理の店があるが、入ったことはないがこの逸話から名前を取ったのだと思う。

 佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)という武士がいた。所領を失い貧しい生活をしていた。ある大雪の日、ひとりの旅僧が訪れ、一泊を求めた。貧しい源左衛門は薪もないような状態であったが、鉢で大切に育てていた梅、桜、松を焚いて歓待をした。その夜、自分は落ちぶれてはいるが、馬と武具だけは大切にしている。いざ鎌倉というときにははせ参じるつもりだと、覚悟の程を旅僧に語って聞かせた。
 数年後、緊急事態が発生し、源左衛門は鎌倉にやってきた。すると幕営の中央にはあの日の旅僧が立っていた。旅僧は最明寺入道時頼であったのだ。
 時頼は源左衛門の心がけに感心し、失った所領を復活させた。さらに鉢の木ゆかりの梅田、桜井、松井田という地名の領地を与えた。
 本当にあった話だろうか。一応通説では、時頼は善政で民心を得ており、水戸黄門のような廻国伝説が生まれたという。さらに鎌倉武士の心構えを説いているとも言われる。

 さて寺の歴史に戻ろう。最明寺は時頼の死後に廃寺となる。時頼の子時宗(第8代執権)は父の廟所の地に、蘭渓道隆を開山としてし、禅興寺(ぜんこうじ)を再興する。禅興寺は関東十刹(かんとうじゅっさつ)の2位、後には1位の大寺である。
 明月院はこの禅興寺の塔頭の首位であった。当時は明月庵といった。禅興寺はその後、廃れるが、明月院が残り現在にいたる。
 明月院について書くと、開基は山ノ内上杉氏の祖である上杉憲方(のりかた)。開山は密室守厳(みっしつしゅごん)である。1394年、上杉憲方が死ぬと、法名を“明月院殿”と号し、このときに寺の名も明月院としたと言われる。
 ちょっとややこしい歴史をもつお寺だ。僕もいくつかの資料を引っ張りながらこれを書いているが、頭の整理が難しい。

 紫陽花のお寺に参る人は、あまり興味のない寺史かもしれない。しかし総門を入ってすぐ左に向かうと北条時頼の廟と墓がある。多くの参拝客も廟と墓所に手を合わせている。あの“鉢木”の時頼の墓であると知って参る人も少なくないのであろう。

 時頼廟を参道に戻ると、そこからはまさに紫陽花の小道である。細い参道の脇には雨に濡れた紫陽花が参拝客を迎えてくれる。紫のまぁるい、よく見る種類の花が中心だが、色や形がことなるものも少なくない。よく整えられて禅寺の、紫陽花の小道はたしかに一見の価値がある。

参道
一瞬、人が途切れた参道から山門を望む


 紫陽花の小道をまっすぐ進むと山門がある。山門をくぐると正面に本堂が立つ。ここは紫陽殿ともいわれる、紫陽花寺の中心地だ。本堂には本尊である聖観世音菩薩坐像(市文)が祀られている。少し距離があるので、お顔ははっきり見えない。ここの参拝客はご本尊よりも紫陽花に興味があるので、本堂には人が少ない。眼が慣れるまで粘って、それでもしっかりと観音様を拝ませていただく。
 今は特別展示ということで、本尊の左に北条時頼坐像(県重文)が鎮座されていた。こちらもじっくりと拝見する。両像とも写真撮影は不可ということで、なんとか記憶のフィルムに残すよう目をこらす。
 本尊の左には丸窓の小部屋がある。こちらは300円ばかりをユニセフに募金をすると入室することができる。せっかくなので募金をし、部屋に上がる。部屋ではお茶とお煎餅が用意されていて、自由に飲食することができる。緋毛氈に正座し丸窓から雨の庭を眺め、茶と煎餅をいただく。

丸窓
丸窓から本堂の裏庭が見える

 この部屋には僕以外、親子2人と、妙齢の女性がひとりいるだけだった。妙齢の女性とお茶を飲みながら少し話しをした。大田区にお住まいで中学生のお嬢さんがいるそうだ。普段は近くの電機メーカーにパートに出ているが、その日はパートが休みなのでひとりで来たということだ。鎌倉のお寺が好きで、たまに一人で来られるそうだ。お腹が空いていたのか、「煎餅はひとり一枚」と書かれていたが、二枚しっかり食べられていた。
 本堂でお茶を飲んでいる間に、さっきまでの大雨が小ぶりになってきた。本堂を出て、左奥の開山堂に進む。額には「宗猷堂(そうゆうどう)」と記されている。開山の密室守厳の坐像が安置されている。堂内は明るくそれほど広くない。かなり近くで坐像を拝むことができる。

 開山堂の右には鎌倉十井のひとつ“瓶(つるべ)の井”がある。鎌倉十井では唯一、今も水が沸く井戸であるそうだ。庭水などに使用することがあるという。

 開山堂の左には鎌倉で最大級のやぐらがある。冒頭書いた、山之内経俊(やまのうちつねとし)が平治の乱で戦死した父を供養したのがこの場所である。これは大きなやぐらを掘ったものだと思った。
 上杉憲方の墓であると伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)もやぐらの中に安置されている。また奥には釈迦、多宝如来の二仏とその両側に十六羅漢像の浮き彫りがあるが、暗くてよく見えない。
 一昨日、「鎌倉の死の世界」というタイトルでブログに書いたが、やぐらは鎌倉の墓所だといわれていた。しかしどうもそうではないという説が最近は有力のようだ。瞑想の場だったというのだ。この明月院のやぐらを見て、なるほど墓所であり、瞑想の場でもあったのかもしれないと感じた。本堂で仏像を前に坐禅をするように、やぐらで仏像と並び瞑想に入っている古い時代の僧の姿がイメージされた。

やぐら
関東最大級のやぐら。中央が宝篋印塔

 このやぐらがこのお寺の最深部だ。雨も上がったことだし、帰りはゆっくり紫陽花を見て歩こう。
 紫陽花が両脇に並ぶお庭には本堂ややぐらの何倍もの人が熱心に紫陽花を眺め、写真を撮っていた。
 他にも紫陽花寺と呼ばれる寺が鎌倉にはある。しかしなぜこの決して大きいとは言えないお寺に人が集まるのか、境内一杯に植えらる色とりどりの紫陽花を眺め分かったような気がした。見事な紫陽花とそれを楽しむ参拝客であった。

紫陽花の道
帰りの紫陽花の小道ではまた少し雨が降り始めた


スポーツジムに行ってみる


 逗子アリーナというところにトレーニングルームがある。いわゆるジムである。そこに昨日、行ってきた。
 半年前に一度行き、登録カードを作っておいた。公営の体育館でよくある仕組みで、ジムを使う前に講習を受けなくてはならないのだ。逗子の場合、講習、といってもトレーナーがマンツーマンで教えてくれるのだが、を1日だけ受ければ登録カードを作ることができる。それを半年前に作っておいた。
 このジムはいわゆるフリーウエートがなく、どちらかというと高齢者の健康維持が目的の施設で、講習を受けた段階で行く気をなくしていた。それで半年、行かずに過ごした。

 僕のジム歴は結構長い。産経が法人契約していた後楽園のスポーツセンターには10年程度通ったと思う。その間、平均して週2日は行っていた。多いときは週5日程度、通ったと思う。31歳から32歳の約2年間、アメリカで過ごしたが、その間は週5日、一回2,3時間のトレーニングを励行していた。でかいアメリカの大学生に混じって、ベンチプレスなんかをガンガン挙げていた。体重は今より20キロ近く重かった。だからジムにはちょっとうるさいのだ。高齢者の健康維持向け施設じゃなぁ~と、思ったのも仕方がないでしょ。。

 今は毎日、家で終日を過ごす。体がなまるので、簡単なトレーニングを自宅で行っている。通販で購入した懸垂マシーンを使って、懸垂10回程度を3セット。拳立てプッシュアップを30回。バーベルを使用してのショルダープレス10回程度。それと四股を200回。このメニューをゆっくりこなして45分程度。ほぼ毎日行っている。
 でも最近は暑い。暑くて、トレーニングができない。それで梅雨明けをしてから、自宅トレーニングを完全にサボっていた。
 終日家で、パソコンや本に向かい、話し相手はフクちゃんと大チャンのみ。こんな生活を続けていると、どうも鬱になってくるようだ。この間、西友に買い物に行って、レジの人と話そうとしたら、うまく声がでない。これはやばいと思った。やはり、外にでなくてはいけない。話す機会はなくても、外に出て、体を動かさなくては。

 ということで昨日、逗子アリーナまでチャリで飛ばし、トレーニングルームで汗をかいてきた。
 マシーンばかりだし(つまりフリーウエートがないということ)、マシーンもベンチプレスや立つタイプのスクワットのような、大きな筋肉に直接負荷がかかるマシーンはない。ベンチプレスの代わりはチェストプレスで、スクワットは腰掛けてやるタイプだ。
 でもきちっと反動を付けずにゆっくりやると、当然のようにきく。高齢者用だと舐めてはいけない、と反省をした。それにもうジムトレーニングを10年近く行っていないのだ。最盛期より20キロも軽い体だ。それと、年齢も高齢者用マシーンに相応しいものになってきているのかもしれないし。
 とにかく、結構楽しかった。
 マシーンは10種類程度あったが、全マシーンを10回3セットずつゆっくりやると1時間以上がかかった。
 逗子アリーナからの帰りの自転車は、行きよりもペダルが軽かった。家は山の上にあるのだが、延々と続く坂も、気持ちよくペダルを踏むことができた。

 本日は筋肉痛である。胸、背中、腕とまんべんなく筋肉痛だ。とても心地よい。筋肉痛って、なんか好きである。
 体調はいいし、気持ちも明るくなったように思う。これからはたまに行ってみようかと思う。今日は大雨なので、行かないが。



きのこシーズン到来


 ここのところ尖閣問題が続き、少々重たい雰囲気になっているので、今日はかる~い話題で。
 今日の逗子は寒いし(一昨日までは、暑くて短パン、Tシャツだったのに)、雨が降ったり止んだりの天気だったが、思い切って散歩へでかけた。近くに鎌倉幼稚園という、とてもセレブチックな幼稚園があるのだが、そこを過ぎ、裏の山道を歩いて、ぐるりと一時間ばかり歩いた。
 幼稚園では子供達が、結構な寒空の下、小雨交じりの中、庭で裸足で駆けずり回っていた。あんまり可愛いので、立ち止まってじっと見てしまった。するとひとりの女の子か近づいて来て、手を振ってきた。お話しでもしたいなと思ったが、先生の視線が気になる。私のことを園児の父親か、怪しい変態オヤジだかを見極めようとしていると思われる。たぶん怪しい変態オヤジではないが、園児の父親でもない。あなたは園児の父親ですかと問われれば、明らかに否であるが、あなたは怪しい変態オヤジですかと問われて、はっきり否とこたえる自信はない。それで大変残念だったが、その場を立ち去った。小心者の、嫌らしい男です。わたしは。
 しかし、暇なオヤジが近所の幼稚園児とお話もできないなんて、いやな世の中になったものだ。いや、私の心がけが悪いだけなのか。
 
 さて、気を取り直して、その後公園というか、山の周辺というかを散策した。そろそろキノコが出始めているのではと思って、キョロキョロしながら歩いた。すると少しだが生えていた。最初に見かけたのはタマゴテングタケモドキみたいなやつ(これ、毒です)。写真も取らなかったし、現物も手元にないので同定はできないが、どちらにせよ危険な香りのするキノコだった。それとシロツルタケ。これも毒キノコだ。毒キノコとはいえ、ついにキノコが顔を出し始めた。自然の世界は正確に季節を受け止めている。暑い暑いといって、いつまでも短パン、Tシャツでいて、いきなり寒くなり、それでもその姿で過ごし、鼻をすすっているの誰かとは(俺)とは違うのだ。
 さらに暫く歩くと、外人が日本人の子供達を公園で遊ばせていた。この近くに、普通の家を改築して外人が英語だけで子供と接するという、冒険的な幼稚園があるのだが、どうもそれらしい。ちょっと興味があったので、これもまた様子を伺った。先生は流暢な英語でしゃべっている(当然かな)。それで、子供は?と、耳をダンボにしていると、これは残念ながらジャパニーズイングリッシュであった。しかし、なんか凄い光景であった。かえって流暢な英語なら違和感がないのだが、5歳ぐらいの子供がジャパニーズイングリッシュを話すと違和感がある。でも、その幼稚園の名誉のために書いておくが、子供はずっと英語で話していた。これは、立派である。
 さて、その公園を過ぎると、一本の木に、白っぽい物体が付着しているのに気がついた。これは、ひょっとして、キノコではないか。走り近寄ると、案の定キノコであった。それもいい感じのやつ。種類は分からなかったが、そっともぎり取る。柄がしっかりとした、良いキノコだ。今日はキノコを採るつもりはなかったので、入れ物を持ち歩いていない。それでそのまま手でくずれないように、注意して持って帰った。

 帰ってから辞典やネットで調べて、種類が判明した。ヤナギマツタケである。いやいや、判明とは言い切れないのだが、恐らくそうだと思う。色々な写真と比較してみたが、相当に似ている。街路樹や公園樹によく生えると書いてある。香りが強いとも(香りからヤナギマツタケの名前ができたらしい。マツタケっぽくはないが、かなりのキノコ臭はする)。おそらく間違いない。
 このキノコは食べられるとのこと。味も良いとある。さあ今夜にでもちょっとだけ、食べてみよう。いっぺんに食べて、もし違うキノコだと怖いからね。まずはちょっとだけ。

ヤナギマツタケ
ヤナギマツタケと思われるキノコ。今夜人体実験で、その正体が判明する

床の間の大ちゃん

上の文とは関係ないのだが、床の間の大吉。かわいいでしょ。床の間はこの夏、大チャンのお気に入りの場所だった。でももう暑くないので、来ないかな?


中学生のカップル


 今、ジムから帰ってきた。時間は午後6時ちょうど。あたりはほぼ真っ暗。その帰り道、中学生の帰宅とバッティングした。中学校の前の道にはガキどもがたむろしていた。そいつらの前を自転車で通るとき危なかったので、ベルを鳴らした。そしたら、メスのガキが「チリリリンだって」とほざきやがった。腹が立ったが、そのまま通り過ぎた。大人をからかいやがって。なんだ、オヤジがチャリに乗っちゃ悪いのか。ベルをチリリリンと鳴らしちゃ、いけねえのか。こんちくしょう。このブスめ。

 と、腹を立てながら進むと、先に一組の中坊カップルが歩いていた。そこは坂で私は自転車を降りて押して登る。とてもキツイ坂なのだ。一度だけ、根性でこいで登ったことがあるが、サウナに入った後のように汗だくになったので、その後、素直に押して歩くことにした。
 とにかく、その坂を自転車を下りて歩いていたのだ。すると前に、そのカップルが歩いていた。そいつらがまた、歩くのが遅いこと。自慢じゃないが、私も自転車を押して歩いているので、遅い。そのガキどもはその自転車を押している私より、さらに遅いのだ。どうなってるんだ、いったい、若者よ。それで、そいつらにすぐに追いついてしまった。
 その前にも沢山、中坊がいたが、そいつらはその日始めて見たカップルである。さて、なぜ彼らは中学生の恋愛市場で勝者となりえたか。中年オヤジは羞恥心が欠如しているので、追い抜きざまに男女の容姿をチラリと見た。さすがにジロジロは見れなかった。
 男子は身長、173センチ、細身。日に焼けて、ニヤケた奴。ハンサムじゃないが、なんとなく中学時代にはモテるタイプだと見受けられる。勉強ができそうで、ちょっとワルっぽくて。
 して、女子だが。身長158センチ。細身。スカートの丈短し。オッパイはなし。これがやっぱりというか、案の定、かわいい子であった。それも不機嫌そうな表情なんかして、ちゃんと女をしていた。男との駆け引きを心得ていると見た。
 その女子の方だが、どこかで見覚えがある。そうだ、小学生の頃、よく見かけた子だ。その子は小学生の頃から可愛いかった。髪の毛もサラサラで、今時の小学生らしくお洒落であったし。
 そうか、そのまま育ったな。ちゃんと、色気まで備えちゃって。
 やはり、中学生の恋愛市場は非情なのである。可愛い子とカッコいい子はモテるのだ。シンプルな弱肉強食の世界である。

 そういえば、私は中学の頃、全然モテなかったな。結構、カッコいい方だったのに(自己評価による)。自分でその理由は分かっている。それは、子供っぽかったからだ。今でも子供っぽい中年であるが、中学生の頃はさらに子供っぽい中坊であった。モテなくて、当然である。
 あのカップルはその点、可愛いだけでなくて、その歳なりだが、大人っぽい雰囲気を持っていた。きっと、二人ともモテるだろうよ。しばらくは。。

 しかしな、君ら。中坊の頃、モテた奴は、結構大人になってモテなくなる奴が多いのだぞ。不思議なことに。反対に中坊時代は、女っけ(男っけ)がない奴の方だ、努力の甲斐かどうか知らぬが、モテてきたりするのだ。ほんと、不思議である。
 かく言う私も、黄金時代は20代から訪れたのだ。はぁ~。何書いてるんだろ。

ユズのマーマレード&ユズ酢、ゆずな日々


 先週末、庭に生えているユズを収穫した。今年は30個程度。かなり少ない。しかしこれでもここ数年では一番の収穫量だ。でも、その前はもっと取れたのだが。
 逗子に越してきて5年目の秋である。この5年の収穫量はおおよそ以下のとおり。

2006年 ゼロ
2007年 10個
2008年 100個
2009年 10個
2010年 30個

 上の数字を見て一目瞭然だが、2008年が断トツで多く、他はドングリの背比べというところだ。2008年の時点では今後はさらに増えていくだろうと予想していた。うちのユズの木はまだ若いので、成長過程だと考えたからだ。ところがどうしたことだろう。2009年以降、低迷が続いている。
 うちの木のサイズを考えると100個でも特に多いとは思わない。2~300個はできても不思議でない。
 何も肥料もやらず、剪定もしていない結果なのだろうか。最近、ちょっと反省して米のとぎ汁だけは蒔いていたのだが、今年の30個はそのちょっとした効果だろうか。あるいは2008年も特に肥料をやっていないので、ミツバチの減少が原因かもしれない。何年か前から報じられているが、その影響とも考えられる。

 さて、たった30個のユズであるが、これが結構な量の製造物に生まれ変わった。ユズ酢が500cc程度。ユズのマーマレードは2リットルぐらい。下がその写真である。真ん中の赤いラベルの小さな瓶がユズ酢である(他にもあるが現在、冷凍中)。他はすべてマーマレードだ。ちなみに後ろに見えるのは大吉。なんでも興味津々の大吉は、キッチンでの撮影に普段との違いを感じ、チェックに来る。大吉はチェックマンなのだ。我が家は監視社会といわれている。

 味はまだ試していないが、どうだろうか。一昨年100個の大漁の際、作ったものはマーマレード、ユズ酢ともに美味しかった。今年も同じでできだといいのだが。
 これだけのマーマレード。しばらく、ランチはパンになりそうだ。

マーマレード&ユズ酢
ユズのマーマレードとユズ酢、と大吉(旧ソ連を彷彿させる監視社会の我が家)

マーマレードを作っているところ
なんだかフカひれのような見た目だが、これがユズのマーマレード。土鍋で煮込んでいるところ


逗子駅前駐輪場について


 11月15日(月)、JR逗子駅西口駅前に新しくできる有料駐輪場の申し込みに行ってきた。ちなみにこの新しくできる駐輪場は正式には“逗子駅裏東自転車駐輪場”というらしい。逗子駅の西口にあるにもかかわらず、“逗子駅裏東自転車駐輪場”という名称だ。なんだかややこしい。さらにややこしい話をもうひとつ。JR逗子駅には東口と西口があるが、東口が東方に、西口が西方に位地しているとう当然思うだろうが、実は違う。東口は南方に西口は北方に面しているのだ。だからこの“逗子駅裏東自転車駐輪場”は実際は北方に位置する逗子駅西口にできる駐輪場の名称である。

 さてこのややこしい正式名称を有する新設される有料駐輪場の土地は、元は無料の駐輪場があった。駅のほぼ正面にあり便利がよく、毎日多くの自転車やバイクが駐輪していた。この無料駐輪場が12月1日より有料となって生まれ変わるわけだ。なんだか芳しくない話に聞こえるが、そうでもない。なぜなら元の無料駐輪場は大変混雑していたからだ。朝早く空いているうちに奥の方に停めて置くと、夕方取り出そうとしても他の自転車が邪魔でなかなか出すことができない。ときには担いで持ってこなくてはならないほど、込み合っていた。また乱雑に停められていると、停められる自転車の数が少なくなるので、市が雇ったオジサン方が、自転車をぎゅうぎゅうと押し込んで効率的に駐輪する。このとき必ずしも元に置いた場所に押し込んでくれるわけではない。全然、違う場所に移動して押し込むことがよくある。だから帰ってきたときに自分の自転車が止めておいたはずの場所になく、夜、まっくらな中、自転車を探し回らなくてはならないことがよくあったのだ。また以前の駐輪場は屋根なしの野ざらしであり、さらに地面は土がむき出しであった。だから雨が降ると自転車は当然濡れるし、また地面は水溜りがあちこちにでき、靴は泥だらけになること必至であった。有料となれば、この点は改善されると思われる。
 新駐輪場の料金は自転車の場合、月額だと2000円。一日だと150円だそうだ。これで上記の問題が解決されるのなら、それは改善と考えてもよいであろう。

 ところがだ。いくつか大きな問題があるのだ。以前の無料野ざらし駐輪場には常時4~500台の自転車が停まっていた(オジサンに聞いた話)。この数字は瞬間当りの数字である。ある平日の日中に停まっている自転車の数を数えてみたら、4~500台であったというものだ。その日はたまたま駐輪していなかったが、普段はよく使っているだろう自転車の数は含まれていない。これらをプラスしたら、この数字の1.5~2倍程度の自転車があるのではないかと私は思う。しかし新しい有料駐輪場の自転車スペースは323台に過ぎない(市のホームページによると)。それにこれこそが問題なのだが、323台のうち、月ぎめで契約できる数は160台に制限されるらしい。残りの163台は当日限りの駐輪(一日券)にまわすのだ。さきほど、平日の日中に停まっている自転車の数が4~500台と書いた。少ない方を取って400台としても、毎日通勤、および通学で自転車を利用し、無料野ざらし駐輪場に停めていた自転車は常時400台はあるのだ。当然、この400台の自転車保有者は月ぎめで契約を望むだろう。そのほうが安いし、確実に駐輪できるのだから。ところが実際に契約できるのは160台に過ぎない。残りの240台は忙しい朝に、毎日、150円のチケットを購入しなくてはならないのだ。しかもそれができるのは163台のみ。駅まで自転車で行ってみたら満車でしたと断られる可能性は数字上、毎日77台にもなるのだ。これらの人がまた自転車で家まで戻って、それからバスで来なおすとは考えられない。きっと路上などに違法駐輪するだろう。

 こんな簡単な概算が分からないはずがない。なぜ逗子市は現状より少ない自転車しか停められない駐輪場を建設するのだろう。ネットで探してみたが、新しい駐輪場の完成図は公表されていない。なので推測に過ぎないが、新しい駐輪場は平場になるのではないか。なぜ平場と推測するかというと、12月1日まであと2週間しかないが、ビルが建てられる兆しはない。それに新しい収容台数が今より少なくなるのだから、重層構造になるとは考えられない。
 駐輪場の場所は西口から徒歩1分の一等地である。広さも2~300坪はあるような土地である。そこに平場の駐輪場を作るとは(推測ですが)。一度、平場とは言え建設してしまえば、作りかえることは容易ではない。なぜ最初からビル方式にしないのだろう。きっと予算の問題だろうが、市の予算配分上、決して下位にくるような案件ではないはずなのだが。
 逗子駅周辺は毎朝、家族を車で送り迎えするマイカーで渋滞する。この渋滞を解消する最良の手段は自転車であろう。健康にもよいし環境にも優しい。自転車先進国のヨーロッパのみならず、中国ですら無料自転車の貸し出しを大々的に行う時世である。予算の問題はあるだろう。しかし“なぜ”逗子市は世界の潮流に抗うような、行政を行おうとするのだろうか。“なぜ”が頭の中を駆け巡るような、逗子市の対応である。

 さて11月15日だが。以前、自転車置き場の係りのひとに「そんなにすぐに一杯にならないから、1週間以内に申し込めば大丈夫だよ」といわれていたが、念のため初日の15日に出かけていった。受付開始は10時だが、係りのオジサンは1週間以内なら大丈夫だといったぐらいだから、少しゆっくりいっても大丈夫だろうと思い、10時半に到着した。ところが、見て驚いた。すでに長蛇の列ができていた。
 目算すると160人近くすでに並んでいる。列の前の方のひとに聞くと、9時から並んでいるというのだ。オジサンを信じた私が愚かだった。もしかしたら申し込めないかもしれない。

 以前、話を聞いたオジサン他が受付をしていたが、これもまた問題があった。一時間程度待ったが、列はほとんど進まない。なぜ進まないかというと、ふたりずつ、申込用紙を渡し、のんびりの記入させているのだ。列の先頭にたどり着くと、ようやく用紙を渡される。それからオジサンの前にある机で用紙に住所、氏名、使用期間を記入させられる。それだけだが、時間がかかるのだ。目の前に座るオジサンに質問しながら記入しているので。オジサン(つまり逗子市だが)が必要としているのは、記入された申込用紙だ。それさえ受け取れば、よいはずだ。ならば用紙を列に並ぶ人に一斉に配布し、それぞれ記入してからオジサンの机に来てもらえばいいはずだ。
 そこでオジサンの中でも一番偉そうな人に、その旨を言ってみた。すると書く机がないとの答えだった。市役所から持ってきたらどうかと尋ねると、それはできないとそこは強弁する。でもたとえば、建物の壁だとかを台にして記入することはできるはずだ。オジサンにそれを言っても、無理だとしか答えてくれない。しかしそんな私とのやりとりを目撃している、列に並ぶ他の人々からの援護射撃があった。オジサンに不満の視線があびせられたのだ。一人が意見しても効果は薄いが、大勢の視線は効果が大きい。するとオジサンは気が変ったようで、他のオジサンたちを集め協議を始めた。
 協議の結果は、私が意見したとおりになった。いや、それ以上に。私はその場で、書き込んでもらい回収もその場ですればよいと考えていたが、オジサンたちはさらに一歩進んだ解決策を考案した。当日の夜7時までに提出すれば受け付けることになったのだ。オジサンたち、やればできるじゃないですか。まずはやれやれである。

 さて、用紙が配られ始めたのはめでたいことだが、肝心の問題が残っている。用紙が私まで回ってくるのだろうか。
 列の最後部近くでドキドキしながら、用紙を待った。その結果。配られました、ラッキーに。申込用紙にはナンバリングがしてあったのだが、私が受け取ったのは152番であった。160人中の152番である。ぎりぎりセイフだ! そのとき実は、163人の人が並んでいた。3人の人は無情にも、NGである。
 しかしオジサンたち、ここでまた協議に入った。協議の結果は、その場にいた人は全員受け付けることに。163人全員が申し込むことができたのであった。パチパチ。よかった、よかった。天晴れな大岡裁きである

 だが、しかし。しかしである。考えてみれば、その後来た人はどうなるのだろう。きっとオジサンは私だけでなく、他の人にも今週中なら間に合うと言っていたはずだ。それを信じ、あるいは平日の10時には忙しくて来られなかった人たちは少なくないに違いない。

 列の近くにいた人が教えてくれた。オジサンたちは市の職員ではないと。市は駐輪場の運営を民間にアウトソーシングしており、オジサンたちはそこのスタッフにすぎないと。それを聞いてから、オジサンたちに言ってもしかたがないと合点した。何も決める権限がなく、ただ言われるままに受付をするオジサンたちを責めるべきではないのだ。かえって矢面に立ったオジサンたちは災難であったのかもしれない。

 市に対して不満ばかりを訴えることには抵抗がある。逗子市はそれなりによくやっていると思う点も少なくないし。しかし市民の声が届かなければ、当局も対策は打てまい。そこであえて逗子市に申し上げる。市民が足である自転車をより快適に簡便に使用できる環境を整備すべきである。駐輪場については、長期的、計画的な方針で臨んでほしい。


まんだら堂へ行ってきた


 我が家の裏にある山を少し下ったところに、まんだら堂という場所がある。名越の切り通しの近くだ。以前から、ここはいったいなんなんだろうと思っていた。山道の途中が柵で閉ざされ、「まんだら堂」の表示がある。柵は厳重に施錠されていて入ることができない。国土地理院の2万5千分の一の地図で見ると「まんだら堂跡」とちゃんと書かれている。すぐ近くには「妙行寺」というのもある。しかし周りを散策した限りでは寺らしき建物はない。まんだら堂には入ることができない。
 その辺りはなんとも不思議というか奇怪な雰囲気が充溢している。近くには山の中にポツリと一軒の洋館が建つ。逗子駅からも見えるのでご存知の方も多いかと思う。外見から“サリーちゃんの館”といわれている家だ。名越の切り通しの近くの平場には動物や無縁者の慰霊碑が立っている。火葬場もすぐ近くにある。そうだ、足元を通るトンネルは有名な心霊スポット“おばけトンネル”だ。晴れているときはそうでもないが、曇っている日に辺りを一人で歩いていると背筋がなんだか寒くなることがある。カラスがやたらと多い。

 そんななんとも不思議な雰囲気十分な場所が公開された。逗子の市報に掲載されていて知り、先週末に行ってみた。まんだら堂は想像していた以上の場所であった。
 いつも閉ざされている柵は開けられていた。興味津々で山道を登った。すぐにまんだら堂が見えた。まんだら堂は“やぐら”であった。それも凄い数の。
 やぐらとは鎌倉周辺で見ることができる防空壕のような横穴だ。鎌倉室町時代の武士や僧侶の墓だといわれている。穴の中には石灯籠のような五輪塔が並ぶ。
 このやぐらが無数にあるのだ。入り口で配っていたパンフレットによるとその数は150穴にもなる。150という数だけでも大したものだが、鎌倉にはここより多いやぐら群は1,2箇所あるらしい。まんだら堂のすごいところはやぐらが縦3段に並んでいるところだ。それはまるでシルクロードの遺跡のような景観である。案内してくれたガイドの人は“やぐらマンション”と呼んでいた。私にはトルコの遺跡、カッパドキアのように見えた。もちろん、規模はそれよりはうんと小さいが。

 残念なことにカメラを持参するのを忘れていてここで紹介することができない。おそらくまた公開されると思う。一見の価値はある。ぜひ見ていただきたい。
 当日はボランティアのガイドの方が3,4人。見学者が2,30人程度いた。その人たちと話すことができたのだが、中にはここだけで世界遺産に登録できる価値があると力説する人がいた。見てもらえば分かるが、そんな意見も決して大袈裟ではない迫力だった。

 冒頭書いた地図上の妙行寺は今はないそうである。それに元から寺としての体裁を整えた建物ではなかったようだ。有志の個人が当時荒廃していたまんだら堂を整備して、そこに庵を立て妙行寺と称していたそうだ。今はその土地も逗子市が購入していて庵もない。

 もうひとつサリーちゃんの館だが、以前は日興証券の社長さんの自宅であったそうだ。今は別の人が購入し、住まわれているという。普通の住宅なので、くれぐれも探検などしてはいけない。

 まんだら堂は現在、逗子市が整備をしており、近年中に常時公開を始めるという。鎌倉が申請している世界遺産だがまんだら堂も含まれており(むしろ中心的な扱いであるらしい)、そうなると世界遺産となるのだ。

 ところで、まんだら堂が世界遺産に登録されたら、我が家も近くなので世界遺産に登録されることになるのだろうか。それって良いことなのか、面倒なことになるのか。分からないが、なったら嬉しい気もする。


逗子市長選について


 12月12日、逗子市の市長選挙が実施される。立候補者のひとりの公約が目に付いた。市長の給与を引き下げるとある。耳障りの良い公約である。
 逗子市長の月給は現在、91万円である。そのほか期末手当(ボーナス)が約4か月分出る。合計すると年収1456万円である。公約ではこの額をさらに減額するという。

 逗子市は職員が約500名いる。その他に非常勤もいる。これを会社と考えると、社員500人とアルバイト数百人のそれなりの規模の会社となる。仮に株式会社逗子市とした場合、市長は株式会社逗子市の社長である。この社長さんの年収は1456万円だ。とても良心的というか、献身的な社長さんである。現実社会において、従業員数500人の規模の会社で、これより低い年収の社長がいるところは、そうはないだろう。
 市長と社長は立場が違う。市長は公務員であり、公僕であるのだから、所得などにとらわれてはいけないという考え方もある。でも、この考え方は、組織運営上はあまり効率的な考え方ではない。なぜなら、大方の人は所得のために働いているからだ。つまり大方の人は、市長の候補者とはなりえない考え方なのだ。ほとんどなり手のない職業に、優秀な人材は集まらない。優秀な人材を募りたければ、大方の人が魅力を感じる処遇を提示しなくてはならないはずだ。
 今、例えば東大や京大、早慶などの一流大を卒業したエリートの多くが外資系の銀行に流れるという。かつて私がHSBCにいたときは、最優秀は国家公務員。次が都銀。そして、そのずっと下に外銀があった。当時も東大卒がHSBCにいたが、それは中途組みで、都銀からヘッドハンティングされてやってきていた。ところが、今は最優秀の学生が初めから外銀を目指すという。その理由は給料だ。外銀なら、30歳代で1億円以上稼ぐことは不可能ではない。1456万円なら、普通に働いていても40歳ぐらいで届くだろう。

 市長の場合は確かに、給料目当てでなる人は少ないであろう。しかし、だからといって世間の相場(組織のトップとして)と著しくかけ離れた処遇を押し付けることには無理がある。優秀な人間が手を上げにくい環境になるというだけでなく、さらに限られた立場の人しかなり手がなくなってしまう。いつクビにされるか分からない。さらに給料はそれほどでもない。そんな職業を目指す物好きは、相当の暇のある資産家か、年金暮らしのお年寄りぐらいだ。

 もうひとつ、気になることがある。市長の給料を下げることに賛同して、投票するひとの気持ちだ。確かに1456万円は一般サラリーマンの年収よりは高い。だから市長はもらいすぎだ、と考える気持ちには、嫉妬が見え隠れするのだ。嫉妬が政策や人事に影響を与えると、碌な結果をもたらさない。嫉妬が政治を撹乱した事件で思い当たるのは、文化大革命であり、ポルポト政権である。
 ちょっと飛躍したかも知れない。逗子市民が、ポルポト支持者と同じ心理状態で市長を選ぶことはないだろう。しかし、嫉妬ややっかみが選挙行動に現れないとは言えなくもない。
 われわれは自重しなくてはならない。

 私がもし、ひとりで市長を選ぶことができ、さらに市長の給料も決めることができる、いわゆる企業のオーナーのような立場なら、逗子市長には市長として日本一高い給料を払うだろう。そして、日本一優秀な市長を連れてきたい。
 ユニクロの柳井社長の年収は29億円だそうだ。ソフトバンクの孫社長は9億円である。しかし不平をいう社員は少ないであろう。もしこんな年収はいらないから、もう経営は放り投げると言ったら、慌てる社員は多いと思うが。かけがえのないトップというものは、それだけ得るのが難しいのだ。


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逗子市長選について(2)


 昨日書いた逗子市長選の話の続きである。
 市長の給与額削減の目的は、公式には財政の建て直しであろう。逗子市長の年俸は昨日、1456万円と書いたが、これを減額していくらにするつもりだろう。1200万円ぐらいだろうか。きっとその程度が限度だろう。あまり低いと首長として、首の座りが悪くなる。
 公約を実現しても、削減できるのは256万円だけ。あまりに小さな額である。

 と書いて批判するのは簡単な話である。批判だけなら誰でもできる。やはり批判するには、それなりの対案を示すべきだろう。そこで財政も市政もまったくの素人であるが、僭越ながらいくつか、対案をここに示したい。幼稚な対案であるので、これから先は笑いながら読んでいただきたい。

 市財政再建にはふたつのアプローチがある。ひとつは経費の削減、そしてもうひとつは収入の増加である。経費削減はすでに先人が試みている。また経費については内情を知らないと手が出せない部分である。何も実情を知らない私が語ることはきっと無責任となるだろう。そこでここでは、増収案についてだけ書きたい。
 増収もふたつのパターンがある。ひとつは税収のアップ。もうひとつは事業による新たな財源確保である。新規事業については後日、書きたい。本日は税収アップの案について書く。
 税収アップと書くと、増税が浮かんでくるかもしれないが、市民である自分が増税案を対案として出すつもりはない。税金の自然増をここでは目指す。

 では、税の自然増のために具体案とは何か。ずばり、逗子のワイキキ化、あるいはビバリーヒルズ化計画である。逗子をハワイのワイキキビーチやビバリーヒルズのような観光的に魅力のある土地とするのだ。そして観光客を呼び込み、経済を潤し、結果、増収を目指す。
 では具体的にどうすれば、ワイキキやビバリーヒルズのような街にすることができるだろうか。以下、具体案を箇条書きで記す。

(1) ブランドショップを誘致する。
(2) 画家や彫刻家などアーティストの作品を販売するギャラリーを誘致する。
(3) 逗子駅から海岸に向うどこかの道を市がリードを取り、計画的に観光ストリートとする。
(4) 観光ストリートでは、ブランドショップやギャラリー、さらにはハイセンスなレストランなどを営業する。
(5) やる気のある地元の商店も、観光ストリートに参加してもらう。

 非常に大雑把な概略は以上のような感じである。
 私はハワイやロサンジェルスが好きだ。なぜ好きかというと、自然と都会がうまく融合している土地だからだ。自然だけなら、ハワイよりもワイルドな土地はある。ロスも当然だ。しかし、ハワイやロスほど両者がバランスよく組み合わされている場所はあまりない。
 逗子はこのバランスをうまく融合できる可能性を秘めている土地だ。関東の他の土地を見回して、逗子を凌ぐ潜在力を持っている土地は見当たらない。
 視点を関東から日本全国にまで広げれば、たしかに他にも良い土地はある。札幌、博多の周辺や沖縄など。しかし逗子はそれらに上回る強みがある。東京が近い。鎌倉が隣にあるということだ。こんな可能性を持っていながら、なぜ逗子市はそれを利用しないのだろうか。
 

 この案では、逗子市民の最大の関心事である“自然環境”を破壊することはない。むしろ自然との融合を立脚点にするので、市民も行政もより自然を大切に扱うようになるだろう。自然保護は強化され、街の景観は向上し、産業は育成される。
 もうひとつ、ポイントとして考えたいのは人口だ。通常、市財政を語るとき人口は大切なファクターとなる。人口が多いほど、税金が増えるから、行政は人口増を望む傾向にあるのだ。しかし、逗子ではこれが二律背反的な問題となる。人口が増えれば、住居数が増加し、ひいては開発につながる。しかし逗子の場合は、人口増を抑制し、かつ増収を図らなければならないのだ。通常の自治体が目指す人口増は逗子では禁じ手になる。
 観光は外から人が来て、潤うものだ。人口は増やす必要がない。上記案では人口増に期待せずとも、財政を強化することができる。

 新しい市長さん(現役続投も含む)、どうです。逗子のワイキキ化、ビバリーヒルズ化計画。挑戦してみませんか。さらなる具体案、興味があれば、お話しします。いつでもお尋ねください!(ちょっと調子に乗りすぎました)

 逗子市長選について(3)へ


逗子市長選について(3)


 逗子市長選が終わった。現職が当選した。当選した平井市長は、おめでとうございます。落選したお二人は、ご苦労様でした。やはり現職一人だけの選挙では寂しい。強豪相手に立候補したおお二人には労いの言葉をお送りしたいと思います。

 さてタイトルは“逗子市長選について(3)”だが、直接に選挙についてではない。また政策について。それも候補者や当選した現職市長の掲げた政策でなく、私が考える政策についてだ。
 前回は市財政の建て直しのための税収増案を書いた。今回は新規事業について書く。
 これは以前から考えていたことで、ある市会議員には話したことがある。その議員はあまりピンとこなかったようだが。

 毎日のように我々の家のポストにはチラシやパンフレットが放り込まれる。この数が非常に多い。我が家の場合、毎日2~5通は来るように思う。2,3日家を空けていて、ポストを覗くと大変なことになっている。チラシでポストが占拠され、必要な郵便物が入る隙間もないような状態になる。これはとても困る。
 以前、入院で1ヶ月間家を空けた。私は一人暮らしなので、その間家は無人となる。この辺りは結構、泥棒が多いらしいので、不在が露呈するのは好ましくない。チラシで溢れかえったポストは不在の証明になってしまう。郵便物は郵便局で1ヶ月間、配達をストップしてもらった。しかし放り込まれるチラシは容赦がない。こちらが入院していようがお構いなしに、毎日投げ入れられるのだ。困った私は、たまたま近所に母の友人が住んでいるので、その方に定期的にポストを点検してもらうことをお願いした。近所に知人がいたから何とかなったが、いなかった場合は、ポストをガムテープで塞ぐなどで対処せざるを得なかった。そんなことをしたら、不在が一目瞭然なのだが。

 そこで提案である。逗子市は条例で勝手なポスティングを禁止するのだ。そして代わりにポスティングを逗子市が引き受けるのだ。当然、有料である。
 どこかは忘れたが、このシステムを採用している国はある。以前、何かで読んだことがある。是非、新市長さん、このどこかの国の制度を調べ、逗子市でも採用していただきたい。

 もう少し詳しく書く。逗子市で商的あるいは、公的も含め、チラシやパンフレットを各個に配布したいと思う事業者は、配りたい地域と日を指定し、その枚数を市(あるいは市が選定する業者)に預ける。市あるいは選定業者は例えば、1枚3円といった料金で引き受け、期日に他のチラシと一緒に配布する。
 市はチラシの配布を独占することにより、収益を得ることができる。また業者はいままで個別に配布員を雇って一枚ずつ配っていたのを、市あるいは選定業者に依頼することで、その手間を省くことができる。恐らく複数をいっぺんに配ることにより、コストを抑えることもできるだろう。
 そして、これが肝心なのだが、市民は不在を市に連絡することにより、その間のポスティングを拒否することができるのだ。例えば私のように入院したり、長期の旅行にでかける場合は、ポスティングのストップを依頼すればよい。そうすれば不在をポストから推測される危険性がなくなる。また恒常的にポスティングを拒否したい人には、それに答えてもよいだろう。配布物でポストが汚れるのを嫌い、またまったくチラシを必要としていない高齢者や単身者などは、それを望む人も多いだろう。
 もうひとつ利点がある。チラシにはときに反社会的なもの、教育的によろしくないものも混在している。市をスルーすることで、こうした悪意のチラシを排除することができるのだ。

 市から配られたチラシには、市が配ったという証の例えば印を押せばいい。印がないものは不正であることが分かるので、印なしのチラシが配られた場合は、市民は市に訴え、その業者にペナルティを課すことができる。これも罰金刑(当然、デリバリーに掛かる費用の数倍の金額)にすればよいであろう。

 どうだろうか。市民はポストが綺麗になり、不在も泥棒に知られなくなる。悪徳業者のチラシを根絶でき、そして市は新たな収入源を持つことができる。
 市は実際にデリバリーをする能力はないだろう。しかしそんなのはどこかの業者を選べばよいのだ。新聞の販売店や、宅配便、ちらし配布会社などに募れば、沢山の手が上がるだろう。入札にして、信用ができ、安価なところを選べばよいのだ。

 この案は自分の経験から生まれたものだ。必要としているものは必ずいる。ぜひ、実施してもらいたい。そのほかにもいくつか、新規事業の案がある。機会があれば書いていきたい。


湘南国際マラソンと打ち上げ


 日曜日は湘南国際マラソンの応援に行ってきた。湘南国際マラソンを見たのは初めてだ。すごい人だった。予想を遥かに超えていた。沿道は延々と応援のひと。これは福岡国際マラソンやボストンマラソンのような世界記録を狙うような選手やオリンピッククラスの選手が出場する大会ではない。たんなる市民マラソンだ。それなのに応援の人垣は湘南の海岸線沿いを途切れることなく続いていた(らしい。自分は鵠沼しか見てないが、走った参加者が言っていた)。
 選手の数も凄かった。1万以上だという。1時間ほど鵠沼海岸で見ていたが、まるで初詣の人の波のように、延々と選手が押し寄せるように走ってくる。今回、二人の友人を応援したのだが、1万の人の中から見つけるのはとても骨が折れた。運よく、二人とも見つけることが出来たが。
 今回、参加した友人は筑紫さんと小海さんだ。ふたりともフルマラソンを完走した。本当に、ごくろうさまでした。見ていて、とても感動した。一瞬だが、来年は参加したいと思ったほどだ。すぐに我に返ったが。
湘南国際マラソン
鵠沼海岸付近を走る選手と応援のひとびと

 鵠沼を走り去った2人はその後、大磯まで走る。それから合流地点の藤沢まで電車でやってくる予定だ。我々応援組は、ふたりの健闘を慰労すべく、先に店に入ることにする。12時過ぎに某居酒屋に入り、二人がやってくるまでしっかり席を確保した。その間、ビール、焼酎、ホッピーを飲み、モツ鍋、寿司、アンキモ等々、をむさぼり食いながら、4時間近くを過ごす。二人が来たのは4時近かった。我々はすっかり出来上がっていた。
 その後、一部の人は帰り、残ったメンバーでカラオケに繰り出す。2時間コースで歌いまくり終わったのは8時を回っていた。8時間も飲み続けた我々は、走っていないのにもかかわらず、フルマラソンを走ったかのごとく疲労困憊酩酊の状態とあいなった。小海さんは本当にフルマラソンを走った後にも拘わらず、しっかり8時過ぎまで藤沢で飲み続け、歌い続けた。そしてその後は都内まで電車で帰っていかれた。すごいパワーである。ああでなくては厳しいインターネット業界の最前線で戦うことはできないのだろう。

 私が家についたのは10時前。その後、フクちゃん、大チャンにご飯をあげて、すぐに就寝。起きたのは8時を回っていた。他のみんなは当然、いつも通りに起きて、出社しているはずだ。翻訳家家業はやはりお気楽なのかもしれない。今週中の締め切りがまだ、全然終わっていないのに。寝ていたければ、寝ていることができる。すべては自己責任である。
 とはいっても、今週は本業の翻訳を頑張らねば。締め切りまで全速力で、すっとばすぞ。そして締め切りを終えたら、また飲むぞ。

好き、横須賀


 私の住む逗子から横須賀は近い。JRで行くと、ちょうど10分で横須賀駅に着く。逗子からは最寄の都会である。逗子にはない行政機関やデパート、コンサートホールなどがあり、度々出かける。昨日はパスポートの申請に行ってきた。

 横須賀の中心部は京急の横須賀中央駅周辺である。JRの横須賀駅からは歩くと15分程度かかる。結構、離れているので普通は京急を使う。逗子も京急が通っているのだが、線が異なり、横須賀中央駅へ行くのには金沢八景で乗り換えが必要で時間がかかる。それに料金もJRだと190円だが京急だと260円。それで昨日はJRで行ってきた。
 JRを使うのは悪くない。近いし安いし、それにJR横須賀駅周辺の景色が綺麗だからだ。景色を見ながら、横須賀中央まで歩くのは楽しい。駅の前には海に沿って公園がある。公園からは横須賀港が望めるのだ。
 来たことがある人はみな知っているのだが、初めて横須賀港に来た人はきっと驚くはずだ。なぜなら横須賀港には軍艦や潜水艦が停泊しているからだ。
 軍艦や潜水艦は巨大な兵器なのだが、なぜが恐怖感を与えない。あまりに大きいからだろうか。横須賀港の風景に溶け込む姿は、むしろ美しい。
 これが戦闘機や戦車だったら違った印象を与えるのだろう。騒音も凄まじいだろうし。だから空軍や陸軍のある街は地元民から毛嫌いされるが、海軍は愛されるのだ。
 横須賀には海上自衛隊と米軍のベースがある。規模はどちらが大きいか知らない。しかし街への影響は確実に米軍が勝っている。横須賀はアメリカの臭いが濃厚な街だ。それもベースがある土地特有のバタ臭い香りが漂っている街だ。

軍艦と潜水艦
軍艦と潜水艦が並んで停泊している。この他にも何艘もあった。

 
 今日のタイトルは「好き、横須賀」だが、私は横須賀が好きだ。好きなのはアメリカのバタ臭さが理由のひとつ。しかしもうひとつ理由がある。日本的な猥雑さだ。横須賀はインターナショナルな街だが全然、洒落た街ではない。青山よりも六本木、銀座よりも新宿に近い。いやもっと粘質でウエットな街である。
 私はB級グルメが好きだ。B級グルメという言葉ができるずっと以前からB級グルメファンである。ラーメン屋が2軒ならんでいたら、かならず汚い店を選ぶ。居酒屋が2軒あれば、古い方の店に入る。
 横須賀はB級グルメ店の宝庫である。観光客目当てのハンバーガー屋や海軍カレーの店は素通りする。ああ、でもハンバーガーは結構おいしいと思う。ただちょっと高い。かなりサイズが大きいが、ひとつ1300円ぐらいするんだもん。マックの倍以上だ。B級グルメファンとしては、あまり食指が伸びない。
 今までいくつかの店を発掘した。かなりレベルは高かった。今回は以前から入りたいと目星を付けていた店に入ってみることにした。目的地は市役所前の公園脇に立つ“岩松”。B級グルメ界の有名ブログ「恰幅の良い彼」でも絶賛をしていた店だ。
 恰幅の良い彼が頼んだ海鮮天丼を注文した。値段は700円。普通の天丼が530円だったので、注文の際は少し躊躇してしまった。しかし今回は、思い切ってど~んと、豪勢にいってみた。
 凄いのが出てきた。地元で取れたアナゴが中央に起立している。どんぶりも普通より一回り大きい。これで700円なら、断然安い。
 結構、女性客が入っていて、多くが海鮮丼を食べていた。いや、凄いですね。女性の方々。よく食べられる。私は比較的大食いだが、かなりお腹にこたえた。まったく問題なしの満腹感であった。
 味は、B級グルメらしさを貫いていたと言っておこう。都内なら“いもや” かな。ちょっとそれよりは上かもしれない。

 食べ終わって店を出たのが午後1時。夕食は午後8時であった。でも夕食時まで、しっかり濃厚な油が胃の中で蠢いてました。B級グルメ、恐るべし。やっぱり横須賀はよい。

岩松の海鮮丼
これがあなごタワーだ。食べ終えた後は、ゲップ連発間違いなし!



確定申告と「芳むら」


 昨日は予定通り、確定申告に行ってきた。しかし予定はそこまで。愛車でびゅーんと行く予定であったが、テクテク歩いて行ったのだ。直前に駐車場が気になりネットで調べると、この時期はクローズされているという。そうだろうな、みんな車で行ったら大変なことになるもんな。せっかくのドライブを楽しみにしていたが、仕方ない。

 そういえば、以前のブログで確定申告に記入する売上高を1万円ぐらい間違えたと書いた。それを修正するかどうか迷ったのだが、結局修正しないことにした。修正すべく計算をしなおし、すべてOKというところまで行ったのだが、書類がない。大半の書類は予備を持っていたが、一部の書類が一枚しかない。さて、どうするべきか。やはり黙ってそのまま出してしまおうかとも思ったが、再提出を求められたり、脱税で御用になったりしたら嫌だ。そこで税務署に電話をかけて尋ねてみた。
 「あの、確定申告のことですが、とても収入が少ない者なんですが、一万円ほど売り上げを少なく記入してしまって。ああ、どちらにせよ税額はゼロなんですが。これって修正する必要はありますか?」 恐る恐る聞くと、
 「ああ、それぐらい、いいですよ」 と声の感じ大ベテランの税務署員の返答。なんだ、やっぱり。
 ということで1万円ばかり過少申告をすることになった。

 税務署はとても混んでいた。当初は青色申告の会が催している直前相談コーナーに寄ってから、提出しようかと思ったが、大行列ができている。聞くと一時間半はかかるという。そんなに待つ気はない。なんで金を支払う側が、そんな苦労をしなくてはならないのだ。ああ、俺の場合は払わないか。さらに源泉が戻ってくる。もらう立場であったが。そこでまっすぐ、申告コーナーへ行く。ここも行列。でも比較的、進行は早く10分程度で終了。
 昨年は申告時期開始の2日後ぐらいに行ってきた。時間も朝一。そのときは青色申告も待ちはゼロ。申告書の提出も待ちはなし。今回もそんな感じを予想していたが。やはり最終週は混む。来年度はもうちょっと早く来たほうが良さそうだ。

 11時半ぐらいに提出が終わると、腹の減りが気になった。せっかく鎌倉まで来たので、何か食べていこうと考えた。鎌倉には産経のTさんが住んでいる。Tさんの仕事はシフトなので平日でも休みのときがある。もしかしたら居るのでは、居たら一緒にどうか誘ってみようと思い、電話をした。生憎、Tさんは会社にいた。しかしTさんに、うまい飯屋を聞くことができた。
 「芳むら」という魚を食べさせる割烹のような店だ。かなり親父が偏屈らしい。威張っている親父がやっている店は苦手だが、Tさんの強い勧めがあり、一応覗いてみることにした。果たして親父は偏屈であった。
 11時35分に店に行くと暖簾が出ていない。Tさんは11時半に開店だと言っていた。暖簾を出さないスタイルかと思い、ドアを開けると、仏頂面の親父が睨む。開いているかと聞くと、まだだという。何時に開くかと訪ねると、よく分からんだと。なんじゃ。さらに12時前には開くかと問うと、たぶん50分ぐらいだろう、と嫌々返答。嫌々な気持ちになるのはこっちの方だ。この時点でかなり、食欲がなくなる。そこで店を出る。
 しばらく他の店を探したが、良いのが見つからない。そうするうちに11時50分になった。一応、もういちど店を覗いてみることにした。すると丁度親父が暖簾を外に出していた。当然、私の顔を覚えているはずだが、完全に無視。ますます入る気がなくなった。しかし親父が外に出したメニューを見て、気が変わった。昼の定食が700円からなのだ。安い。安さが一番だ。親父が偏屈でも、安ければ持ちこたえることができそうだ。魚の定食で700円なのだ。それにTさんいわく、親父は素もぐりをして、自分で突いた魚を出すらしい。だから安くて新鮮なんだそうである。ならば、いっちょ入ってみっかと気が変わる。

 入ると小さなカウンターと座卓がふたつだけのこじんまりした店だ。どれも古く汚れているが、不潔感はない。掃除はきちんとされているように見える。
 メニューを再度眺めると、これがまさに偏屈度爆発の様相だった。ランチメニューは大きく三つにカテゴライズされていた。一番安い700円のものは、「貧民定食」と名打たれている。鯖の塩焼きだとか、ほか2種類。次に安いのは850円の「平民定食」。わらさの刺身定食だとかほか2種類。最上は「中流定食」で1000円。鮪定食ほか2種類。
 最上で中流だ。親父、なかなか冷静である。最上でも1000円じゃ、中流か。まあそのとおりだが。しかし、よくこれだけお客の気をくじくことばかりできるものである。ちょっと感心。
 わたしは正真正銘の貧民である。こう名を打たれたら、やはり貧民であるところの誇りを見せなくてはならない。当然、堂々と貧民定食を指定すべきだ。しかし結果は。背伸びをして「平民定食」を頼んでしまった。いや背伸びではない。わらさのさしみに惹かれたのだ。親父が銛で突いてきたものかもしれないじゃないか。
 さて、味だが。大変、満足なものであった。逗子、葉山で安い、うまいといわれる魚の店は何軒か行ったが、トップクラスである。850円であれだけの料理を出す店は、あまりない。
 さしみは切り身が厚く、新鮮。量も申し分ない。付け合せにおそらく自分で漬けた糠漬け。なかなかのできである。私の糠漬けといい勝負である。それと豆腐を魚のそぼろで包んだもの。これも美味。あとはカボチャとゴボウのなんか料理したものであった。ともに良し。そして味噌汁がうまい。化学調味料が入っていない。とても素朴だがうま味のある味だ。ごはんは普通。だが量がよし。

わらさ定食850円なり
これが平民定食じゃ。平民も悪くないのぉ。850円なり。

 親父は偏屈だが、料理はまる。トータルとしては、また来たいと思う評価だ。あれだけの料理を出して、鎌倉の中心部(ちょっと分かりづらいが)にあって。親父の愛想がよかったら、大変な行列店になってしまうだろう。あの仏頂面でちょうど良いのかもしれない。ちなみみ私の他には男性が二人だけだった。空いていて、これも良かった。

 帰りは久しぶりに鶴岡八幡宮を抜け、報国寺を通ってトイレを借りて、山をひとつ越えて戻ってきた。腹ごなしによい散歩になった。途中の側溝にはもうセリが少し出ていた。雪ノ下はうんとあった。今度、おひたしと天ぷらにでもしようかな。


プロフィール

山本 拓也

Author:山本 拓也
職業:翻訳者
過去の職歴:HSBCを経て産経新聞社
家族:妻、フクちゃん(猫オス 3歳)、大吉くん(猫オス 2歳)
住まい:逗子

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