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ユニクロ的な世界について

 今日はハローワークに行ってきた。最後の認定日の予定であった。ところが延長給付ということで30日間支給が伸びることになった。うん、ラッキー。

 延長給付で気をよくして、いつものユニクロに行く。ハローワークの後のお決まりのコースである。
 もう金沢八景のユニクロには何回来たであろうか。一年近く来ているので11回目かな。最初の頃は普通の商品を購入していたが、最近は知恵が付いてワゴンセールの品を中心に物色。今回は980円のシャツを購入した。
 レジではカードを使用した。支払いを済ませた後、財布の中を確認すると千円札が一枚もない。これはしまった。これからQBで散髪をしようと思ったのに。千円札がないとQBで散髪ができないではないか。
 そこでレジのお姉さんに一万円の両替を頼む。するとここではできない、地下にあるダイエーのサービスカウンターへ行ってくれと申し訳なさそうに言われた。そんなもんかな、と思った。が一応、でも今商品を買ったばかりだから、なんとかできませんかと聞くと、ちょっと思案顔。そしてカードでの支払いを取り消してから、再度現金で支払うことができると教えてくれた。それでその通りにした。
 でもなんだか変な感じである。だってカードの取り消しって、結構面倒な手間がいるのだ。もう一度カードを渡して、再度カードリーダーで読み込ませる。出てきたレシートに再度サインをしなくてはならない。それからまた、初めから現金にて支払いを行う。あ、それとなんだか上の人の承認がいるらしく、場内アナウンスでマネージャーのような人を呼んでいた。これすべてに要した時間は10分程度。
 こんな面倒なことしないで、ただ一万円札を両替してくれればいいのに。よっぽど簡単に済むではないか。
 でもユニクロでは両替サービスをしないルールがあるのだろう。だからレジのお姉さんはしたくてもできないのだ。それで良心的に裏技で対応してくれたのだ。
 ユニクロは非常によく使う店である。最近着ている服の90%ぐらいはユニクロで購入したものだ。安いし質はよいし、それなりにお洒落に見せられるし。失業者の強い味方なのだ(失業者は普通、毎月ユニクロで買い物はしないかな)。ついでにQBも、失業者の強い味方だ(これも失業者は毎月、散髪はしないのかな)。だから悪口は言わないけど。でももうちょっと融通を利かせられてもいいのではないか。QBだって、何が何でも千円札を持ってこないと受け付けないって、ちょっと頑なだよね。千円札のおつりはいっぱいあるのに。
 この徹底した合理主義、厳格なルールの遵守があって、安くて高品質の商品を私たちは入手できるわけなのだが。でも、やっぱりなんだか変である。

 ユニクロ、あるいはユニクロ的な世界といってよいかもしれない。それにはQBも含まれる。そうしたユニクロ的な世界によって享受できるものは多い。今まででは考えられないほどの安価な商品。画一したクオリティーとサービス。
 しかしユニクロ的な世界では提供できないサービスもあるのだな。当たり前だが、世の中ユニクロ的な店ばかりでは、こりゃまずいことになると、本日わたくし、再認識させられました。そしてユニクロに勤めるユニクロ的でないお姉さんの機転に感謝した次第であります。
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逗子市議選落選予想の結果

 先週末は本郷の道場へ日曜日に一度行ったきり、合気道の稽古はそれだけしか行けなかった。日曜は逗子にも行くつもりだったけど、なんだか日曜は朝から調子が悪く、なんというか気分が鬱で、飲んで気分を切り替えたく思い、本郷のメンバーを誘い、御徒町で飲んだ。12時過ぎに店に入り、出たのは5時過ぎ。4時間近く飲んで、まだ辺りは明るい。真っ赤な顔をして千鳥足で電車を乗り継ぎ、逗子まで帰ってきた。おかげで気分は回復できた。

 さて日曜は逗子の市議選が行われた。25名立候補して、当選したのは20名。落選5名。事前に選挙公報を見て、勝手に落選者を予測したが、結果は2勝3敗であった。かなり自信があったが、なかなか選挙を占うのは難しい。
 今回の落選者予想で基準としたのは(1)所属政党、(2)年齢、(3)容姿の3点である。政策や実績はまったく無視して、あえてこの3点で選んでみた。
 まず政党であるが、民主5、自民2、みんな3、公明2、共産2で立候補していたが、恐らく民主以外は全員当選するだとうと予想した。逗子の市議選のように数百票で当選できる選挙では組織票を持つ候補は強い。おそらく選挙の専門家である政党は自らの実力をかなり正確に把握しており、数を絞り込むはずだ。上記の人数は、このぐらいの人数だったら共食いにならず、全員当選するだとうと各政党が見込んだ数だ。なので相当かたい数字であるはずだ。ただ民主の5人はちょっと多すぎる。5人全員の当選は国政の影響もあり難しいのではと読んだ。そこで3名に。
 続いて年齢である。これはシンプルに若い方が有利であるとした。
 最後の容姿であるが、これは主観による美醜を基準とした。
 この3点を総合して予測したのだが、実は最終的に選びこむ際に、この3つの基準を厳密に適用せずに、なんとなく自分の好き嫌いみたいなものを織り込んでいたようである。今から選んだ落選候補者を見ると、上の3つの基準から外れている人が混じっている。そして2勝3敗の3敗の部分、つまり予想の誤りは、どうもこの基準を厳格に遵守していなかったところに原因があるようだ。

 さて結果である。(1)の予想結果はばっちりであった。1人の誤りもなく、各党の当選者数を当てることができた。
 続いての年齢では。無所属の39、47、59歳、不明(見た感じ40代)、民主42歳が落選した。これからは年齢による有利不利はあまりないように見受けられる。が、ちょっとそう簡単にもいえない気もした。実際年齢は確かにばらつきがあるが、見た目の年齢はどうも実際年齢より老けて見える人が多いようだ。
 最後の美醜であるが、これは落選者を具体的に言及することは控える。ただ全体的にいうと、その傾向はあったということがいえなくもないと思える。と、あいまいに総括したい。

 全体的に検証すると、私が基準とした3点はそれほど外れていなかったように思う。政党の基礎票は有効に機能している。年齢は実年齢よりも見た目の年齢が影響したように見える。そして美醜についていうと、イケメン、美人、爽やか、若々しい、といったプラスの面では効果があったように思える。無所属、新人ではとくに容姿が優位に働いていたように推察される。
 
 こんなことを考えながら、選挙を見て不謹慎であろうか。そうかもしれない。しかし選挙公報に書いてある政策や信条にはあまり差を見つけられない。実績についても、かなり積極的に自分で調べない限り、知ることはできない。そうするとやっぱり3つの基準が生きてくるような気がする。












騒々しいのだ

 さっきからとても騒々しいのだ。というのは選挙カーが何台も行きかっているからだ。逗子市の市議選は今週の日曜日に行われる。今週は市議選挙戦真っ只中なのだ。
 雨の中ご苦労なことである。でも一日家にいて机に向かっている人間にとっては、とても迷惑な話である。うるさくて集中ができない。

 いつも選挙のたびに思うのだが、あの選挙カーで名前を連呼する選挙戦術はどうにかならないものだろうか。きっと効果があるのだろう。だからあんな恥ずかしいことをいい年したおじさん、おばさんが励行するのだ。だから立候補者が住民の静かな生活に配慮して積極的に選挙カーPRを自粛することを期待することは難しい。
 そこで提案がある。公職選挙法に一項目を追加してみてはどうか。それは住宅街でのスピーカー、拡声器の使用を禁止することだ。どうぞ華やかにやってください。しかしスピーカーなど姑息な手段は使わずに自らの声をもって堂々と住民に訴えるのだ。すると声の大きいひとが有利になるかもしれない。しかし選挙とは本来そういうものであったのではないか。すぐれた政治家は大きな声を出せる人であったのではないか。それと、いくら声の大きい人でも何時間も大声を張り上げることは不可能だ。であれば自然と言葉を選ぶ。

 これは政治家にとっても悪い話ではない。なぜなら彼らも本音では選挙カーであほのように自分の名前を連呼しながら練り歩くことに良心の呵責を感じているはずだからだ。自分だって立候補者でないならば、町は静かであったほうがよいに決まっている。週末の午後は窓を開ければスピーカーから流されるだみ声でなく、今の季節ならシジュウカラのさえずりを聞きたいに決まっている。だからみんなで同時に止めることが可能なら、そうすることを選ぶはずだ。

 元から賑やかな駅前での演説はどうぞ続けてください。駅の前は人の集まるところで、騒々しいことを前提としている場所である。しかし住宅街ではNGだ。

 政策はホームページで開陳すればよいでしょう。ところがこれがあまり積極的になされていない。今回の市議選にあたり、自宅に配られた選挙公報を読んで興味をもった候補者を3名選んだ。その3名をサイトで検索すると1名しか個人のホームページを開設していないことが分かった。この時点で2名は私の中では落選である。
 ホームページを作ることなんて、手間はかかるが費用はそうかかるものではない。10万もあれば結構なHPが作れる。ご興味のある立候補者は問い合わせて欲しい。私がなんなら作って差し上げる。まぁ、それはそうとして、選挙カーをしたててドライバーやうぐいす嬢(今はいないのかな)を雇うことと比べてはるかに安いはずだ。しかしあまりこちらには積極的でない。
 立候補者の質は有権者の質に左右されるのだろう。なんといっても今の日本では、選挙カーでがなりたてることが有効的、つまり有権者は選挙カーから流れる名前で候補者を選別しているのも事実なのだろう。
 だから公職選挙法でいっきに切ることは難しいのかもしれない。ならばせめて逗子市だけでもそうして自主規定のようなものを作ることはできないか。せつにそう思う。

 それと騒音ついでにもうひとつ、いつも思うこと。それは廃品の無料回収車や石油の巡回販売車が垂れ流すテープによるPR音、あれは酷くないか。
 近くの山を歩いていて森の静けさを楽しみたいと思っていると、下のほうから「テレビ、パソコン、オートバイなど不用品の回収を無料でいたします。鳴らなくても動かなくて結構です」という音声が聞こえてくる。あれは規制できないものなのだろうか。これについても、PRすること事態は規制する必要はない。たんに選挙カー同様、スピーカーの使用を禁止しすればよいのだ。軽トラでもよい、リヤカーでもよい。おすきな運搬手段を使用して、しかしPRは自らの声でのみ行うのだ。昔のさお竹屋や豆腐屋のように。そうすれば、これはこれで風情があって悪くないのだ。

「ヤクザが店にやってきた」を読む

 この本も本郷の古本屋で見つけたもの。著者は宮本照夫氏。山口県出身で若い頃身一つで川崎にやってきて、初めタクシーの運転手。その後、焼き鳥屋や飲食店、クラブ、バーなど多数経営する。その間、一貫して「暴力団関係者の入店お断り」を営業方針として続ける。

 すごい経営者である。この人は恐らくどのような店、会社を経営してもうまくいくだろう。腹の座りが違う。
 当然、川崎で飲み屋を経営していればヤクザはやってくる。初めは客として、そして次第に正体を現し、みかじめ料をたかりに、断られると従業員や他の客を脅かし、店で暴れ、嫌がらせをする。そんなヤクザに対して宮本氏は一歩も引かない。「ヤクザだって客なんだから、入店させてくれたって良いだろう」脅しすかして、ヤクザはなんとか入店しようとする。しかし宮本氏の態度は揺らがない。その男がヤクザだと分かったとたん、何が何でも店から出てもらうのだ。面白くないヤクザは当然暴れる。それでも宮本氏は動じない。

 私は幸いにそちらのホンモノの方とのお付き合いは一度もない。なのでどのぐらい、そうした情況を乗り越えることに勇気がいるのかは想像することしかできない。しかし想像して余りある恐怖であると思う。店や従業員、そして何より宮本氏が大切にするのが顧客であるが、彼らを守るため、宮本氏は身を呈する。

 実はホンモノとはお付き合いしたことはないと書いたがホンモノでないが近い人間とは接触したことがある。いわゆる企業舎弟というやつだ。産経で販売局にいたときに仕事の上で知り合った。
 当時、20代であった私は、とにかくその男との付き合いには気を使った。本来、特別視などしないほうが良いに決まっているのだが、私には度胸がなかった。その男が宴席にいるだけで意識がその男にいってしまう。脅かされたことはない。何度か大きな声を出されたことはある。それも私に向かってでなく、自分の子分連中に対してなのだが。また何かを強要されたこともない。ただたまに誰かに対して大きな声を出すだけだ。ビジネスの話しをするときは静かに話す。
 私は彼に便宜を図れるほどのポジションにいたわけでもないし、付き合いも浅かったのでただ怖いと思っただけですんだ。ビジネス上、何か彼に特別な計らいをしなくてすんだ。
 彼がなぜ恐ろしかったか。それは彼の絶妙な威圧と、金がまつわるときの執着質な目つきであった。彼にとって私はただの本社の若造で、利用価値がないと踏んでいたので、傍観者として彼に接することができた。しかし彼のその狡猾で迫力ある威圧が私に向かってきたなら、私はどう対応できただろうか。上司に泣きつくことぐらいしかできなかったはずだ。
 今考えると無様な私であるが、大方の人もああした威圧のプロと接するときには、右往左往してしまうのではないか。しかしそれこそが、彼らの思う壺なのだが。

 この本を読んだからといって、宮本氏のような堂々とした振る舞いができる人は少ない。しかしヤクザの手口、そしてそれに対応する方法のヒントをいくつか与えてくれる。
 まずはなんといっても、腹をくくって正面から向き合うしかないようだ。向こうは身を呈して乗り込んでくる。出会ってしまったら最後、同じ視線で対応する覚悟を決めなくてはならない。そうしなければ骨の髄までしゃぶられる。そして絶対彼らの挑発にのって手を出してはいけない。あくまでも使っていいのは正義の力だけだ。頼れるのは警察や弁護士だ。この正義の力の行使こそ、実はヤクザがもっとも恐れる効果的な対応法なのである。

 偉そうに書いたが、40代になったからといって20代より度胸が付いたわけではない。同じように気の小さい男である。だからこれを書いていて少々気恥ずかしいのだが、この本をそうしたトラブルに見舞われている人、または可能性のある人に勧めたい。しかし今も新刊が出ているのかどうかは分からないが。図書館にはあるかもしれない。あればぜひ手にとってもらいたい。単にノンフィクションの読み物としてもとても面白い。

「希望格差社会」を読む

 「希望格差社会」(山田昌弘)を読んだ。先週の土曜に本郷の道場へ行った帰りに本郷の古本屋で購入したものだ。

 山田昌弘は現在が希望格差社会になってきていると述べる。では、希望とはなんであろうか。山田昌弘の定義する希望は“努力が報われる可能性”だ。そして言う。「実は、現在起きている情況の中で最も深刻なのは、この『希望の喪失』なのである。皮肉にも高度成長期を経て、ある程度の裕福な生活が達成されたいま、人々が幸福に生きる上で必要なのは、経済的な要件よりも、心理的な要件である。人間は希望で生きるものだから」
 ここまではまったく異論がない。希望の格差は深刻な問題である。現在だけでなく、将来も継続する。生活レベルの差に直結し、生きている喜びを左右する。
 しかしその希望格差が何によってもたらされるかの見解が問題だ。山田はそれは「生まれつき高い能力や資産」を持っているものと持っていないものの格差の結果であるとする。高い能力については詳細を語っていないが、どうも学力や知能のことを言うらしい。この点についても言いたいことはあるのだが、前提が曖昧なので言及しない。
 もうひとつ資産の方だ。山田のいう資産とは子供の属する家庭のいわゆるストックとインカムの両方をさす。そしてどちらかといえば、インカムについて強調しての格差を訴えている。例えば、共働きで奥さんが高所得である場合は有利なのだそうだ。
 それはそうかもしれない。しかし本当に希望格差は能力や資産で生じるものだろうか。
 例えば大金持ちの芸能人の子供がよく覚せい剤に溺れたり、家庭内暴力に走る。一流の芸能人の子供なのだから能力が低いケースは少ないだろう。経済的には確実に恵まれているに違いない。
 一方、貧しい家庭でもすくすくと優秀な子供が育つケースは多い。
 山田の主張する希望の格差は能力や親の資産によって決まるという仮説はある程度傾向として認められるが、それは結果からフィードバックしたものにすぎない。この主張にはもうひとつ前の前提条件が必要になってくるのだ。そのもうひとつ前の前提条件があったために、その家庭は資産を形成することができたり、子供の学力が高かったりするのだ。ではその前の前提条件とは何か。
 それはひとことでいうと道徳心であると思う。この道徳心はかなりあやふやな概念だが、あえて道徳心としたい。道徳心には勤勉さや他者への慈悲。親への孝。約束を守る信。挨拶や感謝の言葉を忘れない礼。向学の智。私が今述べる道徳心はごく一般的に道徳心といった場合のスタンダードな概念だ。この道徳心がキーになるのだ。
 道徳心があり、勤勉であればその結果、裕福になる確率は高いであろう。一流校に行く確立も高まる。そして“努力をすれば報われる”といった成功体験も積むことだろう。つまり道徳心という起点があって、その結果、希望をもて、能力も高め、資産も形成できるのだ。能力・資産と希望は原因と結果でなく、パラレルの関係なのだ。
 もし仮に親が裕福で子供を小さいうちから塾に入れ、沢山の習い事に通わせたとして。しかし親は遊び呆け、子育てを例えばベビーシッターに任せた場合。一方、子供を塾や習い事に通わせる余裕がなくとも、例えば毎晩寝床で本を読んで聞かせ、一緒に宿題をし、家事も手伝わせ、そんな子育てをした場合。両環境での差異は明確に現れるはずだ。
 こういう話をすると必ず「親が貧しければ、本を読んでやったり、宿題を一緒にしたりする暇はない」という反論が帰ってくる。しかしそうした親はパチンコに行ったり、ゲームをしたりする暇はあったりする。要は所得差でなく、道徳心の差なのだ。
 
希望格差社会は深刻な問題である。しかしその原因を単に能力や資産に帰してしまうのは安直で危険だ。うちの子供が不幸なのは貧困が原因だ、という理屈に逃げ込ませてしまう危険性がある。

 実は今、ブログを書いていて、初めて道徳心の差という概念に思い当たった。なので私の中では生まれたての考えだ。今後、もう少し考えを深めてみたい。

再就職支援会社について(2)

 パソナキャリアの○部長に言われたアドバイスでどうしても腑に落ちない点が他にもあり、本日調べてみた。
 部長は「山本さん、そういえば自宅を家賃として経費計上できますよ」という非常に魅力的なアドバイスをくれた。「そうですか、それはありがたい。しかしうちは持ち家ですが、それでも可能ですか」。すると部長は「はい(断言してました)。ご自宅を仮りに賃貸で借りたとして相場を調べ、仕事で使っている部屋の面積とご自宅の総面積の割合で計算した額を賃料として、ご自分に支払ったことにすればよいのです」とのこと。「でも私は個人事業主で、個人事業主が個人につまり同一人物に支払ったことになり、矛盾しませんか」「いえ、個人事業主と個人は別の“格”になりますから大丈夫です」

 上記のように部長は言った。まとめると(1)自宅の家賃を経費として請求できる。(2)自宅が自己所有でも可。(3)自己所有の場合は、家賃相場から適正と思われる家賃を算出する。(4)仕事部屋の面積から家の総面積を割り、家賃相場と掛けて、仕事部屋の家賃を算出する。(5)個人事業主でも可(つまり個人事業主が本人に不動産を貸し出し、それを経費として計上できる)


 以上のようになる。こんなことが可能なのだろうか。個人が個人に貸し出してそれを経費にして計上することができるなんて。とても信じられず、何度も確認したが、またもやちょっとうんざりしたようは表情で、可能ですと断言した。
 念のために、今さっきネットで調べてみた。調べた結果は、部長の誤りであった。正解は以下のとおり。(1)自宅の家賃は経費として計上できる。しかしそれには条件が2つある。(2)条件1は、自宅が賃貸であった場合。つまり自宅が自己所有の場合は不可である。(3)条件2は、仮に自宅が自己所有であっても、法人であれば可能。つまり個人所有の場合は不可。

 当然だろう。自宅が賃貸であれば、他者に賃料を支払っているのだから、それを経費として計上できるであろう。また自宅が個人所有であった場合も、借りているのが法人であれば、個人が法人に貸し出すわけで実際にお金も動いているのだから、問題ない。その場合はもちろん、家賃は個人の収入になり、その分確定申告が必要になる。

 前々回、パソナキャリアの○部長の思いつきのような、誤りの多いコンサルタントの様子を紹介した。今回、また明らかな誤りを思い出したのでご紹介させていただいた。彼の無知はコンサルタントとうい業務上、笑って見過ごせるものではない。もし私が彼の発言を信じて、面倒くさい計算をして、それを経費として計上してしまったら。もちろん税務署から誤りを指摘される程度で、脱税行為として罰せられるようなことはないと思うが、それでも大きな手間が増えることになる。税務署からの信用もなくすであろう。前々回紹介した、「個人事業主の200万円だかそこらの売り上げなら、確定申告をする必要はありませんよ」というのはさらに罪が深い。発言を信じて確定申告をしなかったなら、これはもしかして脱税行為に当るのではないか。

 これから自分がフリーの翻訳家になれるのか、どこかの翻訳会社に就職できるのかは分からない。しかしどちらにせよ、今までのような大きな組織に属し身の安全の保障をされていた身分とは異なる生活になる。覚悟はしているが、やはり自分でしっかりと足場を確認しながら歩まなくてはならないのだ。いいかげんな○部長の対応を通じ痛感させられた。

 それにしてもいい加減なパソナキャリアのコンサルタントであった。

合気道な週末

 先ほど(現時刻は午後6時過ぎ)本郷の道場から帰ってきた。昨夜は逗子の道場で稽古をして戻ってきたのが9時過ぎ。その後電話があったりして就寝が1時近く。今朝は起床8時。10時半に家を出て本郷の道場まで行く。ちょっとお疲れ気分である。今日はこれから風呂に入り、夕食を取ったら早く寝よう(いつも早く寝ているのだが)。明日はまた5時起きで、本郷と逗子の道場のダブルヘッダーの予定。でも雨が降ると、ちょっと辛いかも。逗子の道場までは自転車で行っているので。
 ということで今週末は合気道三昧の幸せな週末の予定である。昨日のプロとは言いがたきコンサルとの面談で付いた澱が綺麗に清浄されるであろう。

 フクちゃんと大ちゃんがお腹を空かせて騒がしくなってきたので、今日のブログはこの辺りで。。

再就職支援会社について

< 本日、産経新聞社が再就職支援を依頼しているパソナキャリアへ最後の面談を受けに行ってきた。そこで再就職支援会社の役割について改めて考えさせられた。
 私の場合は再就職といっても他社への転職は補足的な道にすぎず、翻訳の道へ進むことが大命題である。よってフリーでも、翻訳会社への就職でもどちらでも構わない。そうした理由からパソナキャリアの一般コースでなくセカンドライフ・コースに所属した。セカンドライフ・コースは海外移住、起業、就農、ハーフリタイアなどを希望する人の相談に乗ることを目的とするコースである。
 私の担当者はそのセカンドライフ・コースの責任者で○部長という起業コンサルの専門家だった。この方とのやりとりで色々考えさせられたのだ。
 本日は最後の面談であったが、私にとっては2度目の面談だ。1年間の契約期間だったが、面談の必要性を感じずに今まで過ごしてきたのだ。翻訳の仕事をするうえでとくに起業の知識の必要性を感じていなかったからだ。しかし先日初めての確定申告をして、いくつかの疑問点が沸き、そのときの疑問を質問しながら面談を進めた。

 面談の最初の雑談で○部長が「山本さんは個人事業主になるのだから、200万円ぐらいだったかな、そのぐらいの売り上げなら、いろいろ控除だとかあるから確定申告は必要ないですよ」と言った。はて、そんなことがあるのか。私は税についてまったくの素人だが、本年度の確定申告にあたり少しだけ勉強をした。私の知識の中にそのような規定はない。そこで「それって本当ですか?」と失礼だとは思ったが問うと、ちょっとむっとされたようだが「ちょっと待ってください、資料を持ってきますから」とおっしゃりパソナキャリア作成の<個人事業主が納める税金の種類>という書類を持ってきた。
 ○部長は一生懸命の書類に目を通していたが、なかなかその規定が見つからない。私もその書類を見て、ある箇所に目がとまった。恐らくこのことをうろ覚えをしていて間違えたのだとピント来た。「事業税は290万円まで一律控除とありますが、これじゃないですか」と、聞くと「ああ、そうかもしれません」。
 確かに個人事業主に対する事業税は290万円が一律控除される。しかし個人事業主は所得税と地方税も支払わなくてはならない。両税にも控除はあるがもっと少ない。それにだ。かりに控除が売り上げを上回ったからといって、確定申告しなくていいのだろうか。

 私はこの時点でかなり○部長のコンサルとしての専門知識に疑問をもった。実は以前、電話で確定申告について相談をしたときにも“白色申告”という言葉を知らずに、驚いたこともあったことも思い出した。
 しかしここまではまだよい方だった。その後、私の担当者、つまり○部長に対する “評価シート”を私が書き、封筒で糊付けして○部長に渡し、また面談に戻った。そこから○部長の態度が少し変わったように思う。

 「山本さん、銀行口座は事業用と個人用は分けておいた方がいいですよ」とおっしゃった。そうかもしれない。しかし私の個人的な体験からいうとそうとも言えない。なぜなら個人で仕事をしていると例えば個人のカードを使って、仕事用のパソコンや書籍を購入することがある。カードの引き落としは個人用の銀行口座からだとすると、その分を事業向けの銀行口座に後から入金しなくてはならない。また売り上げは事業用の銀行口座に入金されるので、どうしても生活費などは事業用の銀行口座から個人用銀行口座に入金する必要がある。そうするとふたつの口座間で頻繁に現金を移し変えなくてはならず非常に煩雑だ。ロジックとしては事業用と個人用の銀行口座を分けていたほうがシンプルに見えるが、現実はそうとも言えない。
 結局は年に一度、あるいは毎月の方がベターだが、領収書を整理して経費をまとめ、あるいは売り上げがあった場合はその数字もまとめておく必要がある。なので銀行口座をふたつ作ろうが、ひとつだろうが手間は一緒だ。煩雑な現金の出し入れをしなくて良い分、ひとつの方が簡易であるとも言える。
 そのことを言うと、「しかしルールですからね」という。ルール?、またもや面妖なことをおっしゃる。そこでちょっと意地悪だとも思ったが、「ルールとおっしゃると、税法に載っているということですか」と聞くと、「そうです」とおっしゃる。「ほう、税法に明記されているのですか」というと、「いや、明記はされていないかもしれないが、そんなニュアンスのことが書いてある」という。
 そんなやりとりのあと、「しかし山本さん、税務署がそう言ってるんですから」となぜか発言を変える。「先ほど、税法に載っているとおっしゃい、今は税務署が言うと、おっしゃる。まぁそれはいいとして、それは財務省の通達ですか」とまたちょっと意地悪な質問をする。するとまた、「はい、そうです」という。この時点で二人とも、かなりうんざり状態であった。
 最後の方は「しかしなんでこんなことを気にするのかな」とかなりご立腹の様子。
 この、口座を分けるべきかどうかの激論(?)、をしている最中に、またもやもしや、と思うことがあった。なんとなく○部長が言っている税法だか通達だかの根拠がおぼろげに見えてきたのだ。それは青色申告の申請書に備付帳簿を書く項目があったことを思い出したからだ。その項目の中に預金出納帳がある。預金出納帳とは銀行の預金通帳のことである(友人の税理士がそんなことを言っていた)から、きっとそのことを○部長は言っているのだろう。
 「ああ、なんか思い出しました。青色申告の申請書の備付帳簿のリストの中に預金出納帳がありましたが、それですね」と聞くと、またもやさらりと「そうです」という。
 青色申告の申請書の備付帳簿のリストが税法に明記されているのか、そんなニュアンスが書かれているのか、あるいは財務省からの通達なのかは知らない。しかし、それはあくまで備付帳簿として管理しておけばよいのであって、事業用と個人用の口座を別々に分けなくてはならないというルールがあることを示すものではないと思うのだが。
 これも一応、言ってみました。しかし○部長はかなりご立腹ムードで、「しかし、なんでなんなにこだわるんですかね。初めてですよ、山本さんみたいにこだわる人は」とうい反応。

 私も正直、くどいかなと、感じていた。しかし相手は起業のコンサルタントである。専門家である。そして私が○部長と話した場は私が辞めた会社が大金を支払って(ひとり100万円ぐらいだという噂を聞いたことがある。事実は知らないが、大金だと思う)公に設けた面談の場だ。さらに質問の項目は税務に関する問題だ。こだわって当然ではないだろうか。あやふやなままにすませるべきではない場、テーマではないであろう。

 面談最後の方には「山本さん、好きにしてくださいよ。はっきりいって、私には関係ないんだから」とまでおっしゃっていた。「しかし○部長、先ほど税法に載っているとおっしゃいましたよね。するともし○部長のおっしゃるとおり、ルールとして口座を分けておかなくてはならないのなら、私はルール違反、つまり違法行為あるいは脱法好意になるのではないですか。そして○部長はその違法行為だか脱法行為だかを勧めていることになるのではないですか?」と問うと、「いや、そんなことはないと思いますよ、むにゃむにゃ」とのご返答だった。
 なんだか矛盾だらけで、疑問ばかりが心に残る最後の面談であった。

 今、多くの企業で希望退職制度というリストラが行われている。その中で多くは割り増し退職金とともに“再就職支援”を謳い、公表している。企業からすると“我が社は退職金を割り増しした。さらに再就職支援までしているのですぞ”というエクスキューズの機能をこの再就職支援は果たしている。
 再就職支援とはパソナキャリアのような再就職支援会社へ大金を支払って、希望退職者を預けることだ。
 今朝、○部長の面談で、まだ話がこじれる前に「しかし景気が良くないですね。私の元同僚もみな再就職で苦労していますよ」と私がいうと「そうですか、うちは昨年の200倍の相談者が来てますよ」と、おっしゃっていた。つまり私のように元勤め先から送り込まれてきた希望退職者が200倍も増えているということだ。再就職支援会社は未曾有の好景気に沸いているというわけだ。

 元勤め先が実際いくらパソナキャリアに支払ったのかしらない。しかし2回の面談(電話は毎月かかってきたが)とあいまいな専門知識によるコンサルタント。対外的には再就職支援を行っていると謳えるメリットは大きいかもしれない。しかしその分を退職金に上乗せして欲しかったというのが正直な感想である。


行くのか武蔵

 先週末の日経に好村兼一の「行くのか武蔵」の書評が載っていた。書評を読んで興味を持ち、逗子図書館のサイトで検索すると所蔵ありで予約は一件も入っていなかった。その日はなぜか予約をせず今日、改めてサイトで予約をしようとすると、2件の予約がすでに入っていた。新聞の書評、恐るべしだ。好村兼一のようなほとんど無名の作家の本に予約が2件も入っているなんて、日経の書評の影響に違いない。産経新聞社に勤めていたとき何度か書評の掲載を出版社の人に頼まれたことがある。私は文化部に知り合いはいないし政治力もないので断ったが、書評に取り上げられたい気持ちが、いまさら分かった。といっても産経で日経ほどの効果は期待できないに違いないが。
 日経の書評を読むまで好村氏のことは知らなかった。書評によると東大の剣道部出身で卒業と同時に渡仏、フランスで剣道の普及に努め現在に至る。剣道の最高位である8段範士。
 後からネットで調べるとフランスでは翻訳などをしながら剣道の指導と自己鍛錬を続け、フランス剣道界の随一の実力者であるらしい。作家としては無名だが剣道界では知る人ぞ知る存在である。その剣道の達人が、自らの体験と深い知識を小説に生かそうと思いつき、最近剣豪小説を書き始めたようだ。「行くのか武蔵」ですでに数冊目の小説とのこと。吉川英治の武蔵とはかなり内容が異なるようだ。なんでも最近、宮本武蔵に関する新たな事実が分かってきており、それを小説に生かしたとのこと。史実に正確な小説であるそうだ。興味深い。3件目の予約だけど、1ヵ月後ぐらいには手に入るだろう。読んだら、感想を書きたい。

 今日は料理の写真を掲載する。上は本日のランチで作ったパスタ。近くで採ったセリとクレッソン、スーパーで買った菜の花とマッシュルームをオリーブオイルで炒め、パスタとからめたもの。制作時間10分の簡単料理である。シンプルだけど、春の香り満載でなかなか美味しかったが、ちょっと塩加減が強かった。まだ材料は残っているので、再チャレンジしてみたい。
 下は昨夜作ったセリとクレッソンのサラダ。サラダオイルと塩コショウのみだが、こちらの方がより濃厚に香りと味を楽しめた。

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 そんな感じで、ここのところ毎日セリとクレッソンを食べている。スーパーに行っても葉物野菜は買う気がしない。だって山で採ったほうが、ただだし美味しいのだから。

物語 中国の歴史

 「物語 中国の歴史」(寺田隆信)を読む。10年近く前に中国に旅行へ行く前にあわてて買って読んだ本だ。今回は再読である。予想はしていたが、かなりの部分を忘れている。再読してどれだけ記憶に残ってくれるのか分からないが、前回より少し理解が深まっているように思うので、10年後かりに再再読したとして、今回よりはましであるように思うのだけど。ちょっと自信なし。
 しかし中国という国は不思議な国だ。中国5千年の歴史というが、この5千年の間で中華民族が今の領土を統治していた歴史はほとんどない。ゼロといっていいぐらいだ。例えば領土的に最大であった元はモンゴル民族が支配しており、また現在の中国とほぼ同じ領土を有した清もまた満州族が治めていた。漢や唐も広大な領土を支配したが現代の中国が主張するチベットやウイグルは含まれていないし、それどころか北京以北のほとんども国の外となっている。
 さらに5千年のかなりの期間は分裂国家であった。有名な戦国春秋時代はもとより三国時代、五胡十六国、南北朝、五代十国時代などが統一国家の間に織り込まれる。
 もうひとつ、日本人から見て不思議なことは皇帝の位置づけだ。中国では皇帝はまさに神に等しい存在で、絶対唯一無二である。皇帝ただひとりが絶対的な権力と尊敬を集め、それ以外は宰相であれ皇族であれ、ただの人。極端な話し、皇帝と比較するなら、宰相も皇族も庶民と同列の扱いになる。ところがその神に等しい皇帝が頻繁に殺され交替する。新しい皇帝は例え、漢の高祖や明の太祖のように盗賊や貧農の出であってもまったく差別されることなく、神に等しい皇帝となることができる。
 何度も他民族の専制を受け、国家は分裂を繰り返し、領土という横糸は頻繁に引きちぎられ、易姓革命という皇帝の血脈、つまり縦糸もずたずたに切り刻まれながらも中国はやはり中国として常に存在を続けている。こうなると中国なんていう国家は幻想にすぎないかという考えてしまいがちだが、そうではない。中華民族による儒教を土台にした文化圏は途切れることなくあり続けているのだ。
 今回、「物語 中国の歴史」を再読して改めて中国の不思議に思いを至らした。

 さて、話題を変える。
 今日はパソナキャリアと最後の面談の日だった。しかしすっかり忘れていた。朝10時過ぎにパソナの担当者から電話があり、思い出し平謝りをした次第だ。実はこれが初めてではない。先週末遊びに来てくれた産経のメンバーと去年飲む予定であったのだが、それも失念しており、電話をもらって青くなった。場所は都内だったので、逗子からは間に合わず失礼をした。その飲み会は同僚が産経を辞める送別会であったのにだ。
 なぜこうも忘れてしまうのか。私は結構、そうしたミスは少ない人生を歩んできた、と思う。多分、だが。しかし逗子に籠もってから、結構頻繁に予定を失念する。なぜかは分かっている。それは手帳を見ないからだ。なぜ手帳を見ないかというと、予定がほとんど書き込まれていないからだ。なぜ予定を書き込まないかというと、書く予定がほとんどないからだ。しかしながら、まったく予定がないわけではなく、たまにある。しかし手帳を見る習慣が喪失されてしまったために、たまの大事な予定を忘れてしまう。
 何かよい手立てはないものだろうか。もう、大事な予定を忘れたくない。ほんとに、困っちゃう。

 今日、パソナキャリアに行く電車に乗っている時間、何をしていたかというと、近くの山をブラブラと歩いていた。今日は少し寒かったが、それでも山道を歩くと体は温まり、日差しも気持ちよく、とても楽しい山歩きだった。キノコもひとつ見つけた。ニガクリタケだ。食べられない猛毒キノコだけど、春の訪れを感じた。

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 ニガクリタケを撮影した後、水場でクレッソンを採集。今回はちょっと多めにいただく。サラダにしようかな。

怒涛の週末

 先週末は怒涛の週末だった。金曜は産経の元上司2名と先輩1名が拙宅まで泊まりに来てくれた。元上司の1人が還暦を迎え、そのお祝いだったが、元上司のたっての厳命で、還暦祝いという名目の使用は禁止。だた拙宅で飲み明かすということを目的としての来逗だった。
 金曜日はその準備で朝から部屋や庭の掃除、逗子の魚屋へ買出しに出かけるなどして、あっという間に夕方。一服する間もなくどどっと3人が乗り込み、ばたばたと宴会がスタート。早めに就寝しようね、と思っていた気持ちも酔いとともに忘却し、結局寝床に就いたのは2時過ぎだった。
 夜は大ちゃんが、続いてフクちゃんが部屋に入れてくれコールを連発し、寝たり起きたりして朝を迎える。とても眠い。

 土曜は自宅から近い衣張山に登り、鎌倉を一望する。その後は瑞泉寺まで梅を見に足を運ぶ。途中、元上司からもう梅には遅いんじゃないかという発言があったが、聞き流して瑞泉寺まで行くと、当然、季節は過ぎていた。梅はガクのみを残し、辺りに花びらが少々という状態であった。元上司2人はかなりの巨体の持ち主で、ここまでの徒歩行に相当お疲れの様子であったが、無理をお願いしてさらに歩いて、杉本寺前の“左可井”まで行き昼食。アナゴ丼とソバのセットを食す。そしてまたまた歩いて、逗子の自宅まで戻ってきたが、自分も含め全員、疲労困憊という状態であった。土曜は午前中、風が強く、前の晩の飲み疲れ、喋り疲れもあり、相当効いた。
 4時過ぎに皆さんがお帰りになってから、キッチンに詰まれた食器類の山を洗い、布団などを片付けるとすぐに夜、軽く夕食を取り爆睡した。

 翌日曜日は、久しぶりに合気道の稽古へいく。日曜は稽古以外予定がなかったので、思い切って午前中は本郷の道場へ、午後は逗子の道場へ行く。朝5時に起床して7時に家を出て、家に戻ったのは午後5時半。日曜も疲労困憊状態アゲインで、また夕食直後にベッドに倒れこむようにして就寝する。

 さて今日は夕べの眠り状態が良かったため、気持ちよい朝を迎えることができた。いつもの通り、英語の勉強やちょっとした仕事をこなし昼過ぎに、近くを散歩してきた。
 でかけたのは土曜の強行軍の際、報国寺近くで先輩がセリの群生を見つた場所。改めて見るとセリは若々しくとてもよい状態だった。持参したビニール袋に入れて、家に持ち帰る。今晩はおひたしにしようかと思う。セリを発見してくれた、先輩、ありがとう。


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谷戸とキクラゲ

 いつもジョギングする公園に山に向かう道がある。ジョギングではそこは素通りしてしまうが、その先はどうなっているのか気になっていた。今日は天気がいいので、探検してみることにした。
 予想では、鎌倉の報国寺に向かう山道に続いているのではと考えていた。しかし豈図らん、道はすぐに途絶えていた。ただの行き止まりだ。行き止まりの先は急勾配で、降りることはできない。そこから眺めたのがこの景色だ。

上から見下ろす谷戸




 ここはいわゆる谷戸だ。“やと”と読む。鎌倉に点在する古くからの集落である。この谷戸も鎌倉市になる。昔の鎌倉人は山間に里を作って棲んでいた。現代人が好んで山の上に住みたがるのとは対極をなす。
 どうして谷間に住むのか。日当たりの良い山の上、あるいは南斜面の方が住みやすいと考えるのは現代の利器を享受できる我々だからなのだろう。昔の人はまず水場の近くに住んだのだ。鎌倉の山は低いがそれでも谷間には小さな小川が流れる。その小川の周りに集落ができ、そしてそれが谷戸を形成していったのだろう。

 当然、この谷戸も相当の歴史を重ねた場所だろう。私の住む住宅地はこの谷戸のすぐ上に位置する。昭和40年代に山を切り開いて、作った分譲地である。後から越してきて、見下ろす無礼を働いているのだ。申し訳なく思う。

 帰り道、竹やぶの近くでキクラゲを見つけた。今年最初に見るキクラゲだ。もう少し大きくなるまで放っておこう。そして大きくなったら、採りに来よう。


今年最初のキクラゲ



1Q84と久しぶりの散歩

 午前中一杯かかって村上春樹の「1Q84」を読了。うん、後味の悪い小説だ。こんなエログロが記録的なベストセラーになるとは、今の日本はやっぱり何か歪んでいるのかと考え込んでしまった。
 ストーリーの展開は面白いと思いました。さすがベテラン作家、プロットは巧みで引き込まれます。しかし背景はセックス、スワッピング、自慰、暴力、殺人、新興宗教、そして近親相姦の連続。それと登場人物が、浅薄で気障(これはいつものことだけど)。
 村上春樹って、セックスは描かない作家だと思っていたけど。いつの間にか変わったんだね。といってもデビュー直後の数作と「ノルウェーの森」ぐらいしか読んでないのだけど。
 私は村上春樹の代わり映えのしない、毎回同じようなストーリーが面白いと思っていた。それはサザンオールスターズの曲がいつも同じような曲想であるみたいに。その変わらなさが安心感を与えてくれた。
 でも村上春樹は変わりたかったのかもしれない。ひょっとしてノーベル賞が目の前にぶらさげられたことが原因なのかもしれない。そんなことには飄々と応じることができる氏だと思っていたが、さてどうか。もちろんそんなことが原因でないのかもしれないが。

 さて気分を変えるべく、午後は近くを久しぶりに散歩してきた。
 散歩といえば最近は自分の家から方角でいえば西、高度でいえば高い方にある公園と山に行くのだが、今日は方角でいえば北、高度でいえば低いほうにある池に行ってきた。それはひょっとしたら、そろそろではないかと思ったからだ。
 予想は見事にあたり。池の一番奥に、毎年クレッソンが群生する場所がある。まだ時期がちょっと早くて、一面クレッソンというわけにはいかなかったが結構生えていた。午前中の雨に濡れたクレッソンは午後のひざしで精一杯光っていた。ちょっと手を伸ばし、3本ばかり失敬を。今夜はこれをつまみに一杯やろう。

クレッソンの群生



小沢一郎と福島瑞穂の共通点

 外は雪だ。私の机は仕事部屋の窓に面して置いてあるのだが、こうしてPCを叩いていると面前に雪が降りしきる。さっきまでみぞれ混じりだったが今は、白いしっかりとした雪だ。雪はいいな。とくに部屋の中から見る雪は。

 さて、最近また更新を怠ってしまった。あまり書くことがないので。しかしこうサボってばかりいてもなんだから、何かを書かなくてはと思い、雪を前に書き始めた。

 最近、小沢一郎と福島瑞穂のある共通する点が気になって仕方ない。なんで、ああなのあのふたり。いい歳して、自らちょっと変だと思わないのかな。こう書いて、気付く人はいるのだろうか。

 私が気になってしかたないあの二人の共通点は、話し方だ。あの語尾を上げる、へんてこな話し方だ。いや一般的には別にへんてこではないかもしれない。若い人は結構、ああいうふうにしゃべる人がいる。でもあの二人、福島でも50代、小沢は60代でしょ、きっと。調べてないから確かではないけど。

 どうして、あんな話し方をするのかちょっと考えてみた。それで思い当たった理由は以下。
 恐らくそのように話す人、つまり若者ですね、と一体感を感じたいからではないか。さらに突き詰めれば、若者になりたいと思っているのではないか。
 東京から大阪に転勤して、へんてこな関西弁になって戻ってくる人がいる。そういう人は大抵、関西にいる間だけでも、関西人になりたいと思っている。だからパーフェクトな関西弁を使いこなして、関西人に間違えられることを至上とする、きっと。でもそんなにうまくいかなくて、へんてこな関西弁になって戻ってくる。
 
 あのふたりの政治家も若者と一体感を持ちたい、そしてできれば20代ぐらいに思われたい、と考えているのだ。

 しかし、あのふたりが他の政治家と比較して特に若返りたいと思っているのはなぜか。
 きっとあの二人は他の政治化より無理をしているからではないのだろうか。小沢はいわずと知れた豪腕強面である。福島も私生活では非婚を貫きパートナーと同棲生活を続けているらしい。お二人とも無理をしているのだ。もちろん資質的に一般人とは比較にならないほどタフではあると思う。それでもやっぱり無理をしているのだ。だから一種の赤ちゃん帰りなのだ、あれは。さすが赤ちゃんまでは戻ることはできなくて(家では知りませんよ)、若者止まりで、回帰したのだ。
 毎日、色々な人と戦って、マスコミには叩かれて、友達もいなくて、でも権力欲は人一倍強くて。その結果が、あの語尾を延ばす発話スタイルになったのであろう。


 今日は雪をみながら、そんなことを考えてみた。でも振り返って、周りを見渡すと結構、語尾上げの話し方をする年配の人っていますね。みんな無理してるのかなぁ。



プロフィール

山本 拓也

Author:山本 拓也
職業:翻訳者
過去の職歴:HSBCを経て産経新聞社
家族:妻、フクちゃん(猫オス 3歳)、大吉くん(猫オス 2歳)
住まい:逗子

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