スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

久しぶりの上京(仕事としては)


 28日(水)、久しぶりに東京へでかけた。以前、翻訳企画の売り込みをしたC出版社が話しをしたいといってきたのだ。
 午前11時にアポ。家は余裕をもって、8時半に出る。2時間半前です、すごいでしょ。あまり都心に出かけたがらない理由がお分かりになるでしょ。

 企画は米国のある情緒的障害をもった著名人の自伝で、昨年秋に見つけ、今回とは違う出版社に提案していた。随分長い間待たされてしまったが結局、ボツとなった。あわててC出版に持ち込んだ。C出版とはコネもなく、存在自身も知らなかった出版社であったが、アマゾンで類似書の出版が多数あることを知り、電話で売り込んでみたのだ。
 まったく飛び込みで出版社に売り込むのは今回が始めての経験だった。以前、産経新聞社で広告営業をしていたときに何度となくやった行為だが、同じように緊張した。担当者は私よりずっと若く、話しやすい人だった。こんな若い人相手に緊張している自分が可笑しかったが、翻訳者としては新人なのだから当然だろう。向こうはいい年をしたおじさんのあがり様をどう思っただろうか。まぁ、翻訳企画は翻訳者の態度でなく、本の良し悪しと、翻訳者の実力こそが問題なのだから、そこのところをどう評価されても構わない。なので、別にどうでもよいことではあるのだが。でもあがってしまったことは、ちょっと恥ずかしかった。
 その若い編集者は企画自体には興味を示してくれた。そでで版権がまだ渡っていないかどうかを確認してくれることになった。とても嬉しい。ただし編集会議に出すうえで、企画書が弱いということで、補足追加を指示された。
 ゴールデンウイークはしこしこ企画書を書く直す作業に費やすことになった。といってもGWなど、まったく関係のない生活をもとからしているのだが。

 せっかく都内に出てきたので、C出版の後は、産経新聞社を同時期に希望退職した元同僚と会った。退職後、自分で会社を始めたのだが、起業一年でまだ売り上げはないらしい。今年度こそ天王山になると覚悟を語っていた。私と同じ、立場だ。私も今年こそ、天王山の年になると思っている。お互いに健闘を励ましあった。

 そのあと、この4月に会社を立ち上げたT氏の事務所にいく。T氏とは産経新聞社時代、仕事を通じて知り合った。元は広告関係の会社にいて、その後通信社の広告企画部門にいた。そしてこの1月、通信社を退職し、自分の会社を興した次第である。
 T氏から退職以前、起業についての相談を受けたことがある。そのとき聞いた事業内容にはあまり賛同できなくて、反対したのだが、今回立ち上げた会社はそのときの企画とは大きく異なっていた。事業案内を読み、話しを直接聞いて、これならきっとうまくゆくのではと感じた。T氏の健闘も祈りたいと思う。

 リーマンショック以降、私のまわりでは会社を辞めた人間が多い。その中でまだひとりも成功しているものはいない。1年やそこらで結果が出るわけではないのだが、現実は厳しい。

 こういうことを書くと青臭く思われるかもしれないが、成功するのか否かは、その人の心がけ次第だと思う。金銭欲にとらわれ、目先の利益を追求するばかりでは、まわりに受け入れられないだろう。

 たまに都心に出て、人と会うと刺激があってよろしい。ああ、考えてみれば稽古のためには毎週末上京しているのであった。忘れていました。

スポンサーサイト

吉田秀彦という柔道家について


 吉田秀彦が引退した。まずはこれだけ日本の総合格闘技を盛り上げてくれた功労に拍手を送りたい。
 しかし引退といっても総合格闘技からの引退である。総合から引退した後はまた柔道の世界に戻るという。
 柔道に戻るという噂は聞いていたが、それは指導者として戻ることだと思っていた。吉田は吉田道場を手広く展開しているので、そこの道場主として柔道界に復帰するのかと考えていたが、どうもそれだけではないらしい。選手としても復帰する意向があるようだ。
 協会のルールだとかで指導者であれば一年、選手としては3年間柔道界に戻れないらしい。吉田は3年後には選手としてカムバックをしたいと言っている。

 柔道は素晴らしい武道だが、あまりに過酷であるため、選手生命が短い。大抵は学生止まり、一流選手で五輪を目指す場合などで、30歳程度。それで選手としては引退となる。その後は指導者の道しかない。
 なんだかもったいないと思っていた。しかし稽古は厳しいし怪我が多いのだから、中年になって続けるのは無理なのだろう。そう思っていた。しかし吉田はそれを覆すつもりだ。

 産経新聞社の大先輩に古森義久さんという人がいる。ワシントン支局長などを長く務め、今も現役でワシントンに駐在している大物記者である。古森さんは慶応の柔道部出身で柔道5段。今もワシントンの道場に通われている。
 古森さんが以前に何かに書いていた。日本の柔道は学生柔道で、高校あるいは大学を卒業すると同時に完全に柔道と縁を切ってしまう。しかしアメリカの柔道は生涯柔道で、40代、50代の白帯が嬉々として稽古にやってくる。日本の柔道も生涯柔道にしなくてはならない、と。

 私は38歳で合気道を始め、合気道により多くを教わり、得ることができた。技や体力を考えれば、もっと早く始めていたほうが良かったはずだ。しかし中年から始めたことのメリットも大きかった。若いときには気付かないだろうと思われることに、多く気付き、体得できた。
 あれだけ素晴らしい武道である柔道。大人になってからも続けることができたら、どれだけ多くを得られるか。

 吉田はぶれない柔道家だと思ってきた。総合に転出したときも彼が目指すのは、柔道家がどれだけの戦いができるのかへの挑戦であったと思う。昔、前田光世や木村政彦が世界に腕試しに出たように。
 だから当然のごとく古巣に戻るという。それも選手としてだ。

 吉田選手。生涯柔道、生涯現役をぜひ貫いてください(選手としてはいつか引退しなくてはならないときがくるでしょうが)。当然、勝てなくなるでしょう。しかし50代、60代で地方大会や予選に吉田選手が出場し続ける場面を想像するだけで、嬉しくなります。柔道ファンも増えるに違いありません。

内需拡大について


 内需拡大をしろという。評論家も学者も政治家も、みなが口を揃えて内需拡大の必要性を訴える。
 内需拡大って、つまり物を買えということでしょう。今あるものを捨てて、新しいものを買えということでしょう。例えば壊れかけた電化製品を修理したり、道具を大事に使って長い間使用したりすることは否であり、そんなものはいち早く打ち捨てて、貯金があるならそれを崩し、ないなら消費者金融でも闇金でもどこでもいいからローンを組んで、買いなさいということでしょう。
 こんな価値観の時代は、人類史上始めての出現である。
 さて今後どうなるのだろうか。近視眼的に見れば、内需拡大は経済を活性化させ、我々の生活は上向くだろう。しかし時代を鳥瞰した場合、はたして正しい戦略なのだろうか。それは私には分からない。ただなんとなく、落ち着きが悪い気がする。
 私の気分はさておいて、内需拡大の秘策がある。これって当たり前すぎるのか、あまり政治家や評論家は口にしないが。とても効果的で、さらに幸福度との相性がよい政策であると思うのだが。

 池田勇人の「所得倍増計画」が日本の高度成長のスターターになったことは人口に膾炙している。そこで私は(私のオリジナルだとは思わないが)「住居面積倍増計画」をもって、新しい時代のスターターとしたい。
 今、平均的ファミリー向けのマンションの広さは70平米というところでしょう。これを140平米にする。一戸建てなら100平米のところを200平米とする。これを国家的目標として打ちたて、その目標に向かい政府は法律を立案し、補助を実施し、産業界は知恵を絞り、ビジネスチャンスを開拓するのだ。

 私は今あるテレビを捨てて3Dに買い換えることには躊躇がある。でも家が今の倍の広さになって、大きなリビングがあり、それに相応しいサイズのテレビを購入することなら、むしろ前向きに検討したい。
 もう物で一杯なのだ。家の中は。これ以上、ごちゃごちゃと物を溜め込みたくはない。政府がいくら涙声で物を買ってくださいと、懇願しても物理的にもう限界だ。置く場所がないんだから。でも家が倍の広さになれば、また情況は変わってくる。

 アメリカ人の消費性向が高いって、そりゃ当たり前でしょう。家が広いんだから。それに庭も広いし。地下室はあるし、ガレージもある。あのぐらい広ければ、大型テレビだって、クルーザーだって、中には庭に自家用飛行機を格納している人もいるけど、それを可能にするのはスペースだ。

 日本は人口減少時代に突入した。今までは不足がちな住宅の確保が政府にも国民にとっても大きな目標だった。でもこれからは質に拘ろうではないか。
 200坪ぐらいの敷地に200平米ぐらいの家を建てて住む。これが平均的ファミリーの家となるのならば、内需拡大も当然進むだろう。そこに住む人間の生活の質も変わってくるだろう。

 政治家のみなさん、こんな政策で参院選、戦ってみたらどうでしょうか。国民は明るい将来像を描けて、とても楽しい選挙になるのですが。


掃除の効能


 掃除を久しぶりにした。正直に明かそう。2週間ぶりである。これって、普通?もしかして中年男の一人暮らしとしては普通、あるいは多少はちゃんとしている方かもしれない。でも私は結構、きれい好きなのだ。なので2週間も掃除をしない部屋はとても気持ちの悪い空間だった。それが晴れて、快適な空間になった。とても良い気持ちだ。
 さて掃除だが、きれいになった事実はこれはこれで大変喜ばしいことなのだが、掃除という行為自体がまた精神衛生上とても大きな効果をもつ。
 我が家は築40年の一戸建で4LDK。一部屋は畳だが、古い造りなので他は全て絨毯が敷き詰められている。だから掃除機をかけるのにとても手間がかかるのだ。掃除機をかけるだけで約1時間もかかる。掃除を始める前は、正直億劫に感じる。体力も結構使うし。しかし、私はこの苦行のような1時間が実は甘露をもたらしてくれることを知っている。
 掃除機をかけるのにはコツがある。部屋の隅から順々に絨毯の目を揃えるように撫ぜていく。これは学生時代、プリンスホテルでアルバイトして教わったものだ。目が揃った絨毯はまるで刈り揃えられたグリーンのように、その存在だけでハーモニーを感じさせる。
 そしてもうひとつのこつ。それは肩の力を抜いて、体の中心線を意識しながら、同じペースでかけることだ。これは私のオリジナルのアイディアである。この方法を見つける前の掃除はまさに苦行そのものであった。ところがこの方法を知ってから、掃除は私にとってエクスタシーとなったのだ。ちょっと言いすぎかな。
 このオリジナルの方法も実を明かせば別のオリジナルがある。それは素振りである。かつて指導を受けた香取神道流の畠山先生の教えを思い出しながら、掃除機をかけるのだ。先生が木剣を振る姿をイメージしながら、掃除機のパイプを動かす。木剣を振るように掃除機のパイプを静々と前後させるのだ。この行為を続けると段々と意識が丹田に集まり、集中力をまし、そして心穏やかになっていくのだ。
 そして1時間の掃除を終えると、あら不思議、頭の中のもやもやは晴れ、すっきりとした気持ちになるのだ。ちょっとした頭痛などは治ってしまう。

 一時間の素振り、でなく掃除をして、心晴れやかになった。なんだか人生が開けた感じさえする。仕事上のよいアイディアも浮かんだ。プライベートで考えていたことについての決断もできたように思う。
 さあ、今日はこれから合気道の稽古に行こう。きっと今日は技の切れ味も良いはずだ。(じゃぁ、毎日掃除しろよ、って声が聞こえてきそうですね)

ウンチだらけの日々とは、もうおさらば


 今日、大ちゃんの抜糸をしてきた。これでエリザベスカラーをしなくてすむ。エリザベスをしていたせいで、大ちゃんはお尻の周辺を舐めることができずに、うんちをした後、お尻のばっちい状態が続いていた。すぐに気付いた場合はアルコールタオルで拭いてあげたが、夜中やうっかり気付かない場合は、部屋も大ちゃんもうんちだらけということがあった。だから怖くて大ちゃんをリビングに入れることができなかった。でもこれからは自分でお尻を掃除できる。リビングでフクちゃんと堂々と遊ばせることができる。めでたしめでたしだ。
 しかし猫にエリザベスカラーを付けて生活させることがこんなに大変だとは思わなかった。付け始めはフラフラして可愛そうだったが、それにはすぐ慣れた。フクちゃんと元気に走り回ることもできるようになった。でも、トイレの後がねぇ。お尻は汚いし、砂を掻いた爪の間にもウンチが入り込むし。この10日間はアルコールタオルのお世話になりっぱなしだった。

 苦しかった日々の大ちゃんの写真を掲載しておく。写真にカーソルを置くと、解説が出ます。

エリザベスをつけておすまし顔の大ちゃん

フクちゃんとごろ寝する大ちゃん

抜糸前、恐怖におののく大ちゃん


新聞のページ数について(1)


 この間、図書館にいったときに久しぶりに産経新聞を読んだ。久しぶりというのはちょっと語弊があるかもしない。なぜならネットでは毎日のように産経を読んでいるからだ。

 ところで“紙の産経”を久しぶりに手にして、その薄さに驚いた。その日の産経新聞は26ページだった。いや、産経新聞社を辞めた昨年3月のころも26ページだった。だから驚くには当らないのだが、それ以前は32ページ体制が長く続いており、その感触が手に残っていて、改めて違和感を持った次第だ。
 それで新聞の紙面について改めて考えてみた。

 新聞がテレビと比較して優位である点はどこなのだろうか。いくつかあるだろう。その中でも大きな優位点のひとつがページ数を自由に増減できることだと思う。テレビは24時間という枠が固定されており、それを上回ることは不可能である。しかし新聞はいくらでもページ数を増やすことができる。あるいは減らすこともできる。
 そこで思うのだが、なぜ新聞は毎日、ほぼ同じページ数なのだろう。ここでは26ページが少ないことについて言及しているのではない。なぜ毎日26ページなのかについて語っているのだ。(産経以外でもあてはまる。読売や朝日なら40P,毎日は32P,日経は48Pぐらいかでしょうか)
 私は産経を辞める直前に、資材関連のセクションにいたので新聞社には紙面計画というものがあることを知っている。紙代は新聞社のコストの中でもっとも高い割合を占めるもので、その調達計画は経営上重要である。だから今期は予算上から26ページでいこうと決めたら、26ページの紙面を作らなくてはならない。それを上回ると支出が予算を超過してしまう。
 しかしそれはあくまでも年間、あるいは月ごとのトータルでの目標でいいわけだ。毎日26ページにする必要はない。なのに多少の増減はあるものの、おおよそ新聞社はページ数を守る。
 同じ程度の量のニュースネタが日々発生するわけではない。それなのに毎日、ほぼ同じページ数とは。新聞はせっかくの優位点を放棄していると思わざるを得ない。
 内情を知っているので、気持ちは分かる。紙面構成を固定していた方が、新聞は作りやすいのだ。従業員のシフトもあるだろう。しかしそれは新聞社側の理屈であって、読者のニーズに応えたものではない。
 もうひとつ内情を語る。ネタが溢れている日は、かなりの記事がボツにされ、ネタの乏しい日は無理やりのような記事がひねり出される。これってもったいない話しだと思いませんか。別にシフトを急遽変更しなくても、記事が豊富な日もあるのです。そんな日は増ページすればいい。逆にネタがない日は減ページすればいい。

 もうひとつついでに。新聞には固定した紙面構成が存在する。内政、外信、経済、文化、スポーツ、社会面などだ。またその紙面構成ごとに編集部が存在する。内政には政治部、外信には外信部というように。各部は毎日、ほぼ決まったページ数を割り当てられ、記事を作成する。
 これも日々、流動化すべきではないか。政治ネタがないときには政治面はなくてもよい。経済ネタが多い日は経済面を増やせばいい。

 何がいいたいかというと、新聞社も供給サイドから需要サイドへ視点を移すべきだということだ。毎日の総ページ数や各面のページ数を硬直化しないで、読者が必要とする記事があればそれに対応すべきだ。

 先月だったか東洋経済で“新聞、テレビの崩壊(こんな感じのタイトル。でもちょっと違うかもしれません)”が特集されていた。本当に特に新聞は存亡の危機に立たされていると思う。約100年の間、新聞社の経営は安定してきた。潰れた社はほとんどない。こんな産業は他にない。しかしこの10年、事態は一変した。新聞業界は非常に難しい場面に来ている。

 読者に阿る必要はない。しかし自らの因習に捕らわれ、あるいは体制維持を優先するようなことは厳に慎まなければならない。
 昨年の1月から新聞を取っていない。ネットで事足りると思ったからだ。ネットの方はページ数が無限であり、紙面構成もフレキシブルだ。その点は新聞社もきちんと対応できている。ネットでできているのだから、紙でも挑戦してほしい。ネットで培った柔軟性を紙面製作でも生かし、読者の意向に応えて欲しいと思う。

ホーキング博士の語る“攻撃性と進化”


 ホーキングの『時間順序保護仮説』を読んでいる。そこでこの本の主要なトピックではないのだが、興味深いテーマが語られているので紹介する。

 人類は原始生物から30億年以上の月日を費やして現在の姿に進化してきた。ところが文明は長くて1万年程度の歴史しかもたない。1万年前の“ひと”と現代人は機能的にまったく同じ程度である。しかし文化はまったく異なる段階に来ている。
 人類は進化の段階で攻撃性を身につけてきた。ダーウィンの“自然淘汰”の考えによれば、恐らく偶然に攻撃性を有した固体が生き残り、その過程を繰り返すことにより攻撃性をDNAに固定化してきた。攻撃性を有するほうが弱肉強食の自然界では生存に有利だからだ。
 30億年の歳月をかけて攻撃性をDNAにしっかりと根付かせた人類である。この攻撃性は科学が今ほどの水準でない段階では人類にとって有利に働いてきた。しかし科学はDNAが想定できないスピードで進化している。現代の人類はDNAが制御できないほど強力な武器を持つようになったのだ。
 武器は10年単位の猛スピードで進化を続けている。一方、人類のDNAはそのままに据え置かれ、相変わらず攻撃性を有している。この齟齬は今後どういう結果を生むのだろうか。我々の本能としての攻撃性は、やがて進化を続ける武器とある限界点を超えてリンクする。そのとき人類は全体の生存を脅かされることになる。
 そしてもうすでにその臨界点は越えられているのだ。つまり現代の人類は非常に不安定な状態に置かれていることになる。なにかちょっとしたきっかけがこの不安定なバランスが崩す。その後大きな安定が訪れる。考えたくないのだが、それは人類滅亡であり、その方がよほどバランスとしては納まりがいいのだ。ここまでのホーキングの話はショッキングであるが常識的で、とくに珍しいものではない。ここからが面白い。

 恐らく銀河系のどこかに我々以外の知的生物が存在する。それらはもしかしたら私たちのすぐ近くにいるのかもしれない。でも彼らはその存在を知られないようにしているのだ。それはその方が人類にとっても彼らにとっても都合が良いことを彼らが知っているからだ。

 その地球外知的生物もまた我々と同じように進化の歴史を歩んできたはずだ。そのなかで彼らはきっと攻撃性と調和のバランスという難問をうまく解いてきたはずだ。なぜならそのバランスが一方に崩れると、知的進化は滞り、地球にやってくるような科学技術を開発することはできない。また攻撃性が高すぎれば自滅してしまうだろう。
 
 ここでホーキングは宇宙人に人類の未来を助けてもらおうとは当然、言わない。ホーキングは人類にもこの宇宙人と同じような未来があるはずだと唱えるのだ。
 人類の知性は科学技術だけでなく、自らの責任という概念を発達させてきた。この責任は家族や隣人との関係を安定化させ、社会を住みよいものにしてきた。
 この責任を発展させ、より安定したものとする。その充実した責任と攻撃性の釣り合いがうまく取れた場合。そのときのみ、知的生命体は生存を許されるのだろう。

 もうひとつ面白いことも言っている。ホーキングはこのままいけば数十年後に人間は宇宙へ移住することも可能になる。そのときは仮に地球上で核戦争が起きても、人類という種としては滅亡を逃れることができるだろうと。

 そうかもしれない。でもそんなのは嫌だ。やはりバランスよく地球で生存し続ける方の道を我々は進むべきだ。

もしかして、深遠広大な中国の戦略?


  土曜日は同窓会があった。どこの同窓会かというとアメリカに留学(遊学?)していたときの仲間で25年ぶりの再会である。
 20人弱集まった。みな40代後半から50代前半のおじさん、おばさん達であったが、往時の面影はそのまま。みな一目で当時の顔を思い出すことができた。今の中年は若いのだ。みなあまり変わっていない。というより、変わらないひとばかりが同窓会には集まるのだろうか。
 以前、何かの小説で学生時代学業優秀で眉目秀麗な青年が、その後仕事でも家庭でも失敗し、さらには頭が禿げ上がり、同窓会の誘いに逡巡するというものを読んだ記憶がある。そんなものかもしれない。社会的にも外見的にもあまりにみすぼらしい情況にあると本人が思った場合は、同窓会にはこないのだろう。それにしても皆の変わりなさには驚いたのだが。

 さて同窓会では当時留学していたカリフォルニアの話しに花が咲いた。その中で大学にいたある中国人の話がでて、彼のことを久しぶりに思い出した。確か彼はアメリカに残ったはずだが、今頃どうしているのだろうか。
 私はアメリカに2度、留学している。その間沢山の中国人留学生と知り合った。多くは国費留学生、あるいは上流階級の子弟であり総じて優秀であった。その優秀な留学生の恐らく半分がそのままアメリカに滞在する道を選んだ。アメリカで自由な空気をいったん吸ってしまえば共産党一党独裁の息苦しさには耐えられないのだろう。知っている範囲では、かなりの人が国家の意思を無視して、居座っていたようだ。
 しかしあれだけ国家統制が厳しい国で、いったん外国に出たからといって、それも国家の財政の支援により留学していながら、学位を取得した後に帰国しないことが許されるのだろうか。残した家族は大丈夫なのだろうか。その後、身柄を拘束されでもしたら厳罰が待ち受けているのではないだろうか。他人事ながら心配をしたものである。
 ところがどうも様子は異なるように思える。案外のほほんと滞米を延長し、そのままアメリカ企業に就職したり、大学に教員として残ったりしている人が多い。あまつさえ、数年後に中国に帰国し、家族を一緒にアメリカに引き連れて帰ってきたりしている。どうなっているのだ。
 かなり長い間、疑問に思っていた。そこで考えたのだが、あくまでも、私の個人的な推測だが。
 中国は留学生の何割かはそのままアメリカに居残ることを想定して、留学生を送り出しているのではないか。さらにいうと、底意は留学生という優秀な中国人を自らの意思によりアメリカに根付かせようとしているのではないか。
 アメリカにはかなりの数の中国人がいる。それは1800年代から続く、華僑の流れであり、低賃金労働者としての移民の歴史である。全米各都市にチャイナタウンがあり、そこで彼らはレストランやクリーニング店を経営し地元にしっかりと根を下ろしている。しかし彼らのアメリカでの地位はあくまでも低い。
 今、大学や大学院を終えてアメリカに残る中国人は以前の中国人とは違う道を目指している。企業のエグゼクティブであり、創業者であり、大学教授であり、政治家である。そしてすでにかなりの中国人がそれぞれの道で成功を勝ち得ている。
 中国はこのことを予め対米見込んで、留学生に対し甘い措置を取り続けてきたのではないだろうか。
 当然そこには中国の滞米戦略が見え隠れする。内部からアメリカを取り込み、いつかくる滞米直接対決を有利に運ぶ布石を敷いているのだ。
 中国が現在のところアメリカに対して唯一大きく勝っているのは人口であろう。中国はその人口を国家戦略として有利に利用すべくアメリカの中枢部に人材を送り続けているのだ。そう考えると、あのクラスメートの中国人が気軽に滞米を選んだことが肯けるのである。

「行くのか武蔵」を読む


 以前、日経の書評で見かけたことを当ブログ紹介した「行くのか武蔵」(好村兼一)をようやく読んだ。
 随分と吉川英治の「宮本武蔵」や井上雅彦lの「バガボンド」とは異なるストーリである。巻末を読むと、最近武蔵について新たな事実がいくつか発見され、そのことを織り込んだとある。吉川の武蔵はほとんどが創作であることは勇名である。吉川をベースにした「バガボンド」も当然同じである。
 好村の武蔵は事実に基づいたストーリであるという。これは読まずにはいられないではないか。

 まず好村の武蔵の特徴は、武蔵よりも父“無二”の話が中心であることだ。なぜこうなったのかは不明だが、おそらく新たな資料というのが無二に関するものが多かったのだろう。
 無二を中心に進められる武蔵の成長譚を読んでいて、合点したことがある。そのことは吉川武蔵や井上武蔵を読んでいて、とても不満であり不思議に思うことでもあった。なぜ武蔵があのように強いのかということだ。吉川、井上の武蔵にはそこの秘密が出てこない。子供の頃から悪鬼のごとくの悪餓鬼で、大人の無頼漢を撲殺したとかいう話がいきなり出てきたりする。しかしいくら体力のある子供でも、初めから大人を殴り殺せるほど強くはないであろう。強くなるには修行が必要である。吉川武蔵、井上武蔵にはそこが省かれている。子供が日々強くなっていく過程は小説の題材として、格好のものであると思うのだが。不思議にそこは書かれていない。しかしそのフラストレーションを好村武蔵は払拭してくれる。
 当小説のほとんどが、父無二と武蔵の関係に注がれている。逆に吉川一門との対決や、生涯60戦無敗の部分は割愛され、いきなり巌流島の決闘になる。そこは吉川武蔵に任せるといったところだろうか。
 父、無二は武蔵に負けずと劣らずの武芸者である。新當流と新陰流を学び、二刀流である當理流を創始した。當理流は無二が不断の稽古と戦場という実践の場で編み出した新剣法である。
 その荒武芸者の父の厳しい教えにより武蔵は実力を身につけていく。ここがこの小説の肝となる。

 もうひとつ好村武蔵の特徴を挙げれば、武蔵がとてもジェントルマンであるということだ。例えば子供のころ大人の剣士を殴り殺した場面がやはり出てくるが、そこは父無二を侮辱され、無念を晴らすために鍬の柄にする棒をお互いにもち決闘したことになっている。ただの乱暴ものではないのだ。父の汚名を晴らすために、やむを得ず立ち上がったのだ。ねぇジェントルマンでしょ。
 また五輪書を書き、書や画の才が有名な武蔵であるが、吉川武蔵ではなぜそれだけの学識があるのかもまた省かれている。一方、好村武蔵では無二に自ら頼み込み寺の住職に手習いに行くなど、学についての修行の場面も描かれている。無二が唖然とするほど少年武蔵は勉強熱心なのだった。
 初体験の場面もある。初出陣の前、無二が武蔵を男にするために、自らの愛人を提供する。ここはまぁ、ジェントルマンとはあまり関係ないけど、なんとなくほのぼのするでしょ? しないかなぁ。
 修行に熱心で、向学心が篤く、孝行者の武蔵。好村武蔵はまったくもってディセントな男なのだ。

 さてこの本についてはここまで。ちょっと武蔵について以前から思っていることを少しだけ書く。歴史上最強の武芸者といえば、大抵は宮本武蔵を挙げるだろう。ところが自ら剣を学び、あるいは剣豪ものの好事家といわれる人の間では、武蔵の評価はそんなに高くない。まず専門家(?)の間で最強と目されているのは、飯篠長威斎、上泉伊勢守、愛洲移香斎の3名であろう。なぜ、一般人と専門家の間で意見が分かれるのか。
 答えは、一般人はきっと宮本武蔵しか名前を知らないから、武蔵が当然一番になる。ひとりしか知らないんだもの、一番に挙げるのは当然ですね。では専門家はというと、武蔵が早くに実践から退いてしまったことに物足りなさを感じるからであろう。武蔵の評価は低い。と、私は思う。
 また武蔵に二刀流(二天一流)の異端を感じることも遠因かもしれない。長威斎は鹿島、香取の諸派の源流である。移香斎は陰流の、伊勢守は新陰流の祖である。いずれも日本剣術界の一大勢力であり、現代剣道に大きな影響をあたえた流派の開祖達である。そこのところの正嫡性も玄人には人気の原因かもしれない。

 さて色々書いたが、もうひとつ話は流れて。「バガボンド」、この意味をみなさんはご存知でしたか。私は実は知りませんでした。なんてへんてこなタイトルなのだろうと思っていた程度でした。きっと赤塚富士夫の「天才バカボン」と007のジェームズ・ボンドあたりがくっついてできたタイトルぐらいに思っていました。でもそうではありません。そう思っているひと、私以外にも実はいるのでは、、。
 答えは英語の“vagabond”が由来です。この間、たまたま英文を読んでいて“vagabond”という単語が出てきて、おお、と思ったのでした。翻訳家(自称)としたことが、情けない。辞書で調べて始めてその意味が「放浪者、漂流者、さすらい人」であることを知りました。
 私こそが本当の“馬鹿凡人”であると知った次第でした。お粗末。

肛門腺を取ったのに、臭くなった大ちゃん


 大ちゃんが肛門腺摘出手術を受けたことはすでに書いた。これでスプレー行為ともお別れ。なんとなく常に“ちょいくさ”であった状態は、もう昔のこと。今は可愛いお尻をぷりぷりしても、なんにも臭くない。大ちゃんがPCの前に座っても恐れる必要なない。はずだ。
 たしかに現在、大ちゃんは和室に幽閉状態なので、PCにスプレーされることは絶対ないので、そこは恐れる必要はない。PCどころか、肛門腺がないのだから、スプレー行為自体ももう完全にありえないし。
 でも、ちょっと違う。なにか匂うのだ。それも、日増しに臭くなってきた。
 しかしながら、今回の臭さは以前とは違う種類の臭さである。前の匂いはクサヤのような、とても臭いのだが、まぁ考え方によっては、食欲をそそるというか、ある種の感性の持ち主なら、ひょっとしたらセクシーな気持ちになるかもしれない臭さだった。しかし今回の臭さは、どんな感性の持ち主でも、近づきがたい臭さだ。いや、これも蓼食う虫も好き好きだ。好きなひともいるかもしれないが。
 どちらにせよ私にとっては、以前よりもより醜悪な感じを催させる臭さである。しかし醜悪な臭さだが、馴染みのある臭さでもある。本郷の道場に通うときに乗り換える新橋駅の地下通路で、この香を鼻にすることがある。そう、ホームレスの方々から放たれる匂いだ。
 匂いの源に鼻を近づけ探ってみると、そこは毛をきれいに刈られたお尻およびオチンチンの周辺であることが判明した。そこから、例のホームレス臭(最近はぜんぜんしないホームレスもいますが)がする。この匂い、いったいなんなのか。それはすぐに分かった。なぜって、私自身、自分のパンツからごくまれですが、この匂いが放たれていることがあるからです。そう、おしっこの臭いなのだ。
 大吉君は現在、エリザベスカラーを首に巻いてる。手術後の傷跡をなめないようにしているのだが。その結果、傷跡だけでなくて、オチンチン周辺も舐めることができなくなった。
 猫はとてもきれい好きな動物である。年がら年中、自分の体を舐めたり、前足で撫でたりして、グルーミングしている。でもかわいそうな大ちゃんは、エリザベスカラーをしているせいで、グルーミングができないのだ。手術したのが月曜日で、今日は金曜日。5日もグルーミングができないと、結構匂うようになる。
 以前、アメリカの国立公園の父と呼ばれるジョン・ミューアの本を読んでいて、時たま森の中で出会うインディアン(今はネーティブアメリカンっていいますね)の臭さには閉口させられる。自然の動植物は匂わない、あるいは良い香りがするものばかりだが、人間だけはなぜあのような醜悪な匂いを放つのだろう。という文章に出会ったことがある。きっとジョン・ミューアが出会ったインディアンはあのホームレスの匂いがしたのだろう。人間は風呂に入らないと、おしっこくさくなるのだ。
 しかし風呂に入らなければおしっこ臭くなるのは、実は人間だけではなかった。猫もおしっこ臭くなるのだ。人間で言えばお風呂、猫だとグルーミングをしなければ。
 大ちゃんは、今とてもかわいそうな状態である。ひとり和室に監禁されていて、とても寂しげである。私の足音を聞くだけで、にゃーにゃー切なさを訴える。そのたびに私も切ない気持ちになる。
 でも今回、猫(おそらく動物一般も)も人間と同じように、手入れを怠る(大ちゃんの場合はしたくても、できないのだが)と、例の匂いがしてくるという、大発見をしたことは、これは吉としなくてはならない。
 この大発見を知ったなら、天国のミューア先生も目を細められるに違いない。


姿勢について


 藤平光一の『氣の威力』を読み返した。藤平先生らしい、自信たっぷりの文章にちょっと圧倒されながらも面白くていっきに最後まで読み終えた。
 藤平先生は元合気会の主要メンバーで植芝盛平翁の教えを直接受け、10段を印可されている。特に氣の運用に力を入れ、独自の道を進まれた。「氣の研究会」を設立し、藤平合気道を探求されている。
 この本も氣が主なテーマであるが、中で一部「姿勢」について触れているところがある。印象深く読んだので、今回のブログで取り上げてみたい(藤平先生は“気”を“氣”と書くことに拘られているので、あえてここでも“氣”と言う文字を使う)。

 「姿勢が悪いとやる氣がでない」という一文に次のようなことが書かれている。「最近の子供が見かけより弱くなった理由は、姿勢が悪いことである。現代人は忘れがちだが、毎日の生活のなかで姿勢ほど重要なものはない。人間のすべての臓器は背骨の前側にあり、胸椎や腰椎がそれを支えている。したがって、姿勢が悪くなると、内臓が圧迫されて、全身の働きが弱ってくる。そして、生命力が衰え、やる氣がなくなり、困難に耐える力も失せてしまうのである」

 私も最近の子供や若者の姿勢の悪さが気になっていた。
 近くの小学校に通う子供たちを見ると、低学年の子はみな姿勢がいい。ランドセルをしょう背中はまっすぐに伸びている。きっと人間は本来、姿勢がいいものなのだろう。だから小さな子供は総じて姿勢がいい。それが4年生ごろから、背中をまるめ、首を前に突き出した子供が目立つようになる。4年生とは、他者や異性を意識する年頃だ。恥ずかしさや、ちょっと悪ぶってみたい気持ちが芽生え、姿勢の悪化につながるのだろう。
 こんなことを偉そうに書いている私も、姿勢がよくない。私の場合は、姿勢を悪くする要因となった人物がいる。姿勢を悪くした張本人はジェームス・ディーンである。私は今の子よりも幼かったので、異性や不良っぽさを意識し始めたのは中学生になってからだ。その頃の憧れの人物がジェームス・ディーンだった。赤いスイングトップを着て背中を丸めてタバコをくわえる。中学生の私の目にはどれだけ、カッコよく映ったことか。すぐ、真似をし始めた。タバコはくわえなかったけど、ポケットに手を突っ込んで、ジャンパーの襟を立て、猫背で街(近くの八百屋とかある商店街ですが)を闊歩した。
 その結果が今の姿勢の悪さだ。合気道を始めてから、意識して姿勢を正しているが、鏡に映る自分の姿は亀のように首が前に出てしまっている。スイングトップは似合っても、胴着では、亀になってしまう。随分直そうと努めているのだが、骨格がすでに固定化されているので、なかなか難しい。

 『氣の威力』の最後に野球の広岡、長島、王と藤平先生の座談会が載っている。この3名は藤平先生に合気道や気の運用を学んだ弟子なのだ。
 長島がいう。「先生はよく正しい姿勢の重要性について話されますが、ケガの多い選手というのもどこか体のバランスが悪いですよね。こういった姿勢の問題は子供のうちから氣をつけてもらわないとね」。広岡が続ける。「そうです。正しい姿勢というのが、いちばん楽なんですよね。授業中だって、いい姿勢をしていたほうが勉強がよくできる。ところが、みんな悪い姿勢でやっているから、生命力も弱くなって、やる氣をなくしている」

 野球界の大御所も姿勢の重要性を認める。彼らの経験からでた言葉であろう。
 たしかにイチローも松井もサッカーの中田もみな姿勢がよい。アスリートだと顕著だが、アスリートに限らないはずだ。広岡が指摘するように、学力にも影響する。やる氣そのものに影響するのだから、人間生きていく上での全てに影響を与えているといってもよい。

 今、教育に武道を取り入れようとする動きがある。色々な意見があるようだが、私は基本的に賛成である。ただしその前に、“姿勢”を教育に取り入れた方がよいのではと考える。良い姿勢の習慣は一生の宝になるはずだ。日本の子供たちが全員、姿勢がよくなったら、それだけで未来はうんと明るくなるように思う。

大ちゃん、肛門腺の摘出手術を受ける


 うちの次男坊の大吉君が肛門腺摘出の手術を受けた。

 肛門腺は猫や犬にある臭い袋である。肛門の左右にあり、シッポを持ち上げると2箇所の小さな穴を見ることができる。そこから非常に臭い液体を出す。普段は便をするときに自然に出るので、飼い主も気付かずにいて、その存在を知らない人も多い。猫や犬が電信柱や人の脚にお尻を擦り付けることがよくあるが、あれは肛門腺から例の液体を出して、つまりマーキングしているのだ。猫にお尻を擦り付けられ、可愛いななんて思っていると、実は臭い分泌物を付着されているのだ。といっても普通はごくわずかで、人間の臭覚では気付かないのだが。

 ところが我が次男坊は分泌量が多い。赤ちゃんのときから、こいつなんか臭いなと思っていた。長じると、普段の臭いはしなくなったが、ときたま凄いのをする。それも決まって、私のデスクの上で。最近、していないな、と油断していると、プスっと、スプレーを出す。
 先日もPCに向かっているときに、一発出した。それも過去最大の量を。あまり量が多いので、スプレー状にならず、ポタポタと滴が落ちた。あわててアルコールタオルでデスクやPC、そのとき出していた本を拭いたが、臭いはなかなか消えなかった。それで、肛門腺摘出の決心をした。

 以前、犬を飼っていたときには、肛門腺を定期的に絞っていた。その犬は体が大きかったから、絞りやすかった。大ちゃんも、なんどか絞ってあげたのだが、この子の肛門腺は絞るのが難しくて、きれいに絞りきることができなかった。それにものすごく嫌がる。
それでかわいそうだと思ったのだが、手術を断行。

 昨日、病院から帰ってきて、和室に隔離してある。というのもフクちゃんと一緒にすると、フクちゃんがお尻をなめてしまうからだ。獣医からぜったいにお尻は舐められないようにしてくださいと、きつく言われている。本人(猫)もお尻を舐められないように、エリザベスカラーをつけている。これをつけていると、猫は犬と違って体が小さいから、歩くのもヨロヨロだ。見ていてとてもかわいそうだが、舐めてしまうと化膿してしまうので、仕方ない。この状態が2週間続くそうだ。

 ちょっとグロテスクだが、摘出した肛門腺、手術後のお尻の様子、エリザベスカラーをしている大チャンの写真を掲載する。ちょっと勘弁と思う人はスクロールダウンしないように。

エリザベスをつけて、悲しげな表情の大吉

摘出した肛門腺

手術後のお尻


林育群とAKB48


 昨日は初めて葉山マリーナの建物の中に入った。中にある中華「青羅」でランチを食べてきた。
 葉山マリーナって、結構大衆的ですね。中にはお土産屋らしきものが幾つか入っていて、どことなくハトヤチック。なんだか奥に入ると大浴場や大宴会場があるかもって、様子である。きっと観光客が多いので、こうなったのだろう。ヨットのオーナーは素通りして、どこかのもっと洒落た店に行くのだろうか。
 そして「青羅」だが、これもまた大衆的な店内であった。味のほうも大衆的。ちょっと化学調味料的な出汁が利いている。まぁ、最近の中華って、どこも同じなのかもしれない。昨年、産経を辞める際に、製紙メーカーの人に横浜中華街のかの有名な聘珍樓に連れて行ってもらったが、そこも化学調味料の味がした。中国人は実利で動くので、化学調味料を使う魅力に抗えないのかもしれない。
 15年前にニューヨークの中華街で入った店はうまかったなぁ。あの店も今は化学調味料を使っているのだろうか。

 さてネットで遊んでいて、Lin Yu Chun(漢字では林育群)の記事を見つけた。知ってますか? なんでも台湾のオーディション番組から出た第二のスーザン・ボイルらしい。記事の写真は大木凡人のような風貌のおかっぱ頭の太った男。さっそくユーチューブで見てみた。ホイットニーの“I Will Always Love You”を歌っているのだが、確かにうまい。風貌と歌唱力のギャップはスーザン・ボイル並みだ。写真だけ、ここに貼っておく。動画の貼り方は知らないので、ご興味のあるかたはユーチューブで検索してください。

林君の勇姿

 台湾で第二のスーザン・ボイルが出たのだから、第三は日本から出るかというと、私はちょっと難しいのではと思う。まず林育群はホイットニーを英語で歌っている。英語はかなりうまい。あれなら米国人も聞き取れる。もし林君(こう書くと日本人みたいですね)が広東語で歌っていたとしたら、あんなにユーチューブで閲覧されることはなかっただろう(今の時点で500万回を超えている)。
 日本人の歌手も英語で歌うときがあるが、あまり上手な人はいない。以前、誰だったか忘れたが、日本の歌手が英語で歌うのをアメリカ人に聞かせたが、何を歌っているのか全然分からないと言った。そうだと思う。
 その点、台湾人の林君の英語は綺麗だ。

 そして、以前スーパー・フリーじゃなくて、スーパー・フライのところでも書いたけど、日本人の歌唱力ってどうよ、という話しだ。この点について、音声学をやっていた知人に聞いたことがある。彼女いわく日本人は胸式で呼吸するから、声量がないのだそうだ。確かに、思い当たる。アメリカ人の友人の話す声は腹から出てるもんな。私も英語を話していて、たまにうまく腹から声が出ると、なんだか発音がよくなったような気がする。
 中国人もアメリカ人ほどではないけど、腹式で呼吸する習慣があるようだ。ホイットニーのような曲は腹から声を出さないと、よろしくないのだ。
 腹式が苦手な日本人には、西洋の曲を歌いこなすのが難しい。
 この2点から、私は日本人から第三のスーザン・ボイルが出現することはないと予想する。ちょっと寂しいが、これはこれで良いのだ。これも日本人の個性なのだと思えば。

 一方、日本人にはあのアニメ声やアイドル系の歌唱がある。これもまた世界を席巻している。ちょっとまえマギボンっていう子がやっぱりユーチューブで随分人気となったが、あの子なんか日本のアイドルを完全に意識してたもんね。
 イギリスから戻ったばかりの友人が、ヨーロッパでもアニメの人気がすごくて、パリで開催されたコミケでは、向こうの子がわんさかコスプレで参加していたと言っていた。

 それでAKB48である。えらそうに書いても一度も聞いたことはないが。電車の中刷りで写真を見た程度だけど、今人気なんでしょ。また秋元康がプロデュースしているとか。
 そう、この手の分野は日本が強いのだ。チームプレイのダンスというかマスゲームのような全体的な動き。鼻にかかった歌い方。上目遣いの視線。これこそが日本のお家芸である。
AKBについては、見たことがないので想像ですが。モー娘みたいのものでしょ、きっと。

 米国やフランスのオタクがいくら真似をしても、決して本家を凌駕することはないだろう。日本人がホイットニーをうたっても、あまりパッとしないように。

 林君の歌を聞いて、そんなことを考えた次第です。

 

草食系の若者&中年


 10日(土曜)、産経関係、その他仕事で知り合った友人、知人、そのまた知人、友人約30名が集まり拙宅でバーベキューをする。午前中は曇り空だったが、午後からは目も覚めるような快晴。気温もあがり、絶好のBBQ日和であった。
 このメンバーでのBBQは、逗子に引っ越してきてから毎年、2~3回行っていて、今回で10回目ぐらいだと思う。これだけの数のほぼ独身(数名の既婚者あり)の男女があつまり、春の日差しの下、ワインを飲し、肉を貪り食い、饗宴を繰り広げ続けて5年。その間、浮いた話しを聞いたことがない。一組のカップルも誕生していないのだ。
 男女ともに個人的に話を聞くと、ほとんど恋人なしで、募集中であるという(ただし自己申告なので、真偽の程は不明。結構、手持ち札は明かさないひともいるしね)。ならば仮にこのメンバーの中で機会があればデートしてもOKって、人がいるのかをこっそり聞いてみると、いるという。じゃぁ、アプローチしてみたらというと、自分からは無理、という返答である。これは男女ともにだ。
 それじゃどちらも待ちの姿勢で、進展するわけがないじゃないか。
 草食系男子って、ことばをメディアで目にすることがある。どうもその傾向は本当のようである。では女子の方はメディアが喧伝するように、肉食系かというと、我がメンバーでは、その限りでないらしい。
 残念なことに、心の中ではあのひとがもし誘ってくれたら、デートしたいんだけどと、男女ともに切望し続けているだけなのだ。待ちの姿勢が何年も続くだけで、ずっとお友達でいる。実は仮想カップルが何組もいるのに。
 自分が20代の頃なら(29歳で一度、結婚しているので)、きっと2,3人には声をかけていただろうと思う。今風に言うと、私はまったくの肉食系青年であったから。元肉食系からみると、不甲斐ない最近の若者たちである。
 では今は独身なのだから、肉食系中年となって自分で範を垂れたらどうかというと、これは面倒だ。パッションがわいてこないのだな。つまり草食系中年と相成ってしまった次第である。
 しかし肉食系中年ってのにも、あまりなりたいとは思わない。ちょっと枯れていて、そんな枯れかけた中年の姿に若い娘が、恋心を抱くってのが、理想だが。

 これって若者に聞いた言葉、そのものではないかと、今書きながら気付くのであった。
 

相模湾を望む丘の上で記念撮影をする若者と中年


沖縄の米軍基地について


 昨日のブログでは内田樹の外交についての考え方を書いた。その後、私のもう一人好きなブロガーである法政大学教授の鈴木晶さんのブログを覗きにいくと、これまた外交関係の話が書かれていた。
 そこに「あるジャーナリストのルポによると、米軍は沖縄から撤退してグアムに移転しても全然かまわないと思っているらしい」と書かれていた。さて、どうだろう。

 私が思うに、米国は沖縄を押さえておきたいと考えている。
 米国は内田先生が「日本辺境論」で書いているように、西漸志向がある。東部13周から始まり、南部、中西部、そして西部を開拓し、フランスやメキシコと戦い、領土を広げてきた。その後太平洋をも西漸し、ハワイを取り、フィリピンを押さえ、ついに日本と衝突したのはみなさんご存知の事実である。そして日本を越えるとどこの国があるのか。ベルリンの壁が崩壊するまでは、その先にはソ連があった。当然、当時の仮想敵国はソ連であった。
 もうひとつアメリカの軍事的国是というか戦略として、自国の領土では戦争をしないというものがある。西漸戦略自体が、自国の中心である東部13週から少しでも遠くまで領土を拡げ、火の粉が自分の頭に直接かからないようにすることを目的としている。
 戦争をするなら、他国の領土でする、というのが米国の大切な命題なのだ。
 ソ連と冷戦を繰り広げているときも、しっかりと米国はソ連と熱戦も続けている。熱戦の場所は朝鮮半島、ベトナム、アフガニスタンである。みな、米国の外であり、ソ連の外である(ソ連もまた東漸運動という米国とは逆のベクトルを進むが、同じ志向を持つ国なので)。
 ベルリンの壁崩壊後、仮想敵国は暫く存在しなかった。しかし、現在情況は大きく変わっている。当時のソ連以上に強大なライバルが現れたからだ。言わずもがなの中国である。
 さて中国とぶつかる場合に熱戦の地はどこになるだろうか。それは当然、台湾となるはずだ。

 だから米国は沖縄を基地として保有し続けなくてはならない。台湾は沖縄の目と鼻の先である。いったん有事となれば、沖縄に基地を持っている意義は大きい。
 それと日本人は沖縄の基地の意味をたんに戦争を起こさないための政治上のバリア程度に考えているが、米国はより実践的な意義を沖縄に期待している。実際に台湾で衝突が起きたときの前線基地として考えているわけだから、使い勝手が大切になる。日本が提案するような、一部を九州や徳之島に移転するなど、実戦上不便になる選択を容認できるわけがない。
 もうひとつある。かりに台湾での戦争に敗れた場合である。その次、中国との戦場になるのはどこか。おそらく米国は沖縄を想定しているはずだ。沖縄は日本の領土であり、沖縄が戦場となれば日本も参戦せざるを得ない。日本という強力な駒も利用できる。
 この戦略を取れば、仮に中国との戦争で負けが続いたとしても、グアムやハワイという米国領土まで戦線が押し込まれるまでには相当の備えができる。恐らくそこまでは負けないと米国は想定しているはずだし。
 日本人は沖縄の基地問題について考えるとき、当たり前だが日本の立場を中心に考えがちだ。しかし視線を変えることも必要である。アメリカから見ると景色は相当変わってくる。

 このブログを書く前にニューヨークタイムズで“Okinawa”を検索してみた。結果は、該当記事はほとんどなしであった。アメリカ国民は沖縄の基地問題にそれとど興味を抱いていないのだ。興味をもって見つめているのは米国政府の中央や軍部に過ぎない。
 そうだろう、アメリカはいま他で戦争している最中なのだから。毎日多くの米国の若者が死に続けるイラクやアフガニスタンに国民の関心は向いているのだから。

 

「日本辺境論」を読む


 昨日は良い天気だった。朝、起きると昇る朝日が窓から見えた。朝日が見える朝は久しぶりだ。その後も一日好天。頑張って机に向かっていたけれど、我慢堪らず夕方散歩に出る。雲がほとんどない空が夕日で色づく時間だったが、朝のような冷たく気持ちのよい空気が広がっていた。裏の小山に上り、相模湾を見下ろす。静かにヨットが行き交っているのが見える。散歩に出てよかった。
 さて今朝も良い朝だ。ゴミ出しに外へ出ると、向かいの家を工事しているおじさんと目が合う。向かいは半年前から建て直しをしており、今は最後の外回りを工事している。工事のおじさんと「いい天気ですね」「気持ちの良い朝ですね」と会話を交わす。笑顔で挨拶を交わすと、気持ちがさらに良くなる。じゃれつく猫の頭をなぜてあげるのも癒されるが、それとは別のリラックス効果がある。一人暮らしをしていると、こんなおじさんとの会話が嬉しい。

 さて、内田樹の「日本辺境論」を読んだ。内田先生のブログはほぼ毎日読んでいる。読み始めて、もう5年以上にはなるのではないか。かなりのヘビーリーダーである。毎日、内田先生の文章を読んでいるので、内田イズムが自然と私の体に滲みこんでいる。私が発する言葉や書く文章のかなりが、先生の言葉を滋養として生まれたものだと思う。
 しかしこれほど滲み込んでいる内田イズムであるが、外交や政治となるとどうも私の体は受け付けない。拒絶反応を示してしまう。他者の臓器を移植した後に、体全体がその受け付けを嫌がるように、内田先生の言葉を私の体は拒絶する。そんなもの受け付けたら、体が壊れてしまいますよ、と体自らが訴えているように。
 なぜだろう。確かに内田先生の外交や政治に関する知識は素人同然で、事実関係もあいまいである。語られる言葉はみんな内田先生がフランス哲学や武道を通して仕入れてきた知識から捻り出したもので、無理を感じることが多い。しかし、それはそれで、例えば教育論や宗教、音楽を語るときには、その無理やりのようなこじ付けが、まるで名人芸のように目を見張らされる。内田先生の頭の良さに、説得力に感心させられる。
 ところが、外交と政治に関してはどうも様子が違う。なぜだろう。
 私は内田先生がこのふたつを語るときに、そこに“意地悪”な気持ちが含まれているからだと思う。この“意地悪”に私のからだの免疫機能が反応するのだ。内田先生はよくブログで、自分の性格の悪さは人後に落ちないと語る。しかし、ブログは人なり。毎日、あれだけの量を書いていて、毎日あれだけの量の文章を読んでいれば、自然と分かる。内田先生の例えば、生徒、弟子、師匠、友人など隣人に注がれる目は優しい。そこに“毒”は感じられない。例えば日本の教育制度や武道について語るときも、慈愛が感じられる。しかし外交、政治を語るときの先生の言葉には慈愛が感じられないのだ。
 きっと内田先生は気付いていないのだろう。ご本人は同じスタイルで書いているつもりであると思うが、毎日ブログを読んでいる私には分かるのだ。
 この本は、いつもブログで書かれていることのパッチワークである。しかし底意に“毒”が盛られているので、気をつけて読む必要がある。お腹を壊す可能性あり、である。読後感があまりよろしくない。
 内田先生は、師を持つことの大切さについてよく語る。内田先生は、私の師のひとりである。先生は私のことなぞ存在さえ知らないのだが。
 この本を通じて、内田先生は師とどの程度の距離を持つべきか、場合と情況により変わる距離感を私に教えてくれているように思う。師は常に何かを授けてくれるものだ。
 

猪子寿之さんについて


 先日、「森は知っている」を逗子図書館に返却に行ったついでに「東洋経済」を読んでいたら、猪子寿之チームラボ代表取り締役社長のインタビュー記事が載っていた。猪子さんはチームラボの社長だが同時に私が以前在籍していた産経デジタルの取締役でもある。それで何度か見かけたことがある。

 始めて会い、そして話す機会があったのは産経デジタルの設立パーティの席であった。産経デジタルは産経新聞社のデジタル部門を分離してできた産経の子会社で、トランスコスモス社から資本提携を受けている。それで産経とトランスコスモスから役員が送り込まれていたが、その中にどういうわけか猪子さんも入っていた。猪子さんは産経やトランスの社員、役員ではない、と思う。おそらくトランスと関係のある人だと思うが、産経の一社員であったにすぎない自分には、そこのところは不明である。
 さて、猪子さんを始めて見掛けたときの印象は大変、インパクトのあるものだった。今でもよく覚えている。私は人の顔を覚えるのが苦手だが、猪子さんとそのとき同時に紹介されたトランスの役員で産経デジタルの役員にも就任した森山さんの顔は一度で覚えてしまった。
 ふたりは確か少し遅れて入ってきたと記憶している。会場にはすでに産経の社員やアルバイトが大勢いて、すでにアルコールも入っていた。その中に現れた二人は、明らかにその他のメンバーとは異質であった。森山さんは身長180センチ近く。そして猪子さんは190センチぐらいではないか。立ち並ぶと、小柄なおじさん達の中で、聳え立つように見える。またふたりとも背中までの長髪、ヒゲ面、ノーネクタイ、ジーンズ。まぁ、しかし産経のアルバイトにも似たような風貌の人間がいなくはない。しかしなんといっても雰囲気が変わっていた。ちょっと不思議な感じの人なのだった。

 森山さんのことは別の機会で書きたいと思う。今日は猪子さんについて。

 猪子さんは会場に入るとすぐに、産経のお偉いさんの方へ挨拶に行き、その後もずっとその近くにいた。パーティは立食だったので、私は産経デジタルの社員として、始めてみる猪子さんのもとに挨拶へ伺った。おそらくそのとき猪子さんは30歳ぐらい、私は40を過ぎていた。しかし立場は猪子さんが役員、私は平社員に過ぎず、当然こちらからの挨拶となる。
 私は少しばかり期待していた。若い猪子さんが、産経デジタルを、つまり産経のデジタル部門に新風を巻き込んでくれるのではないかと。新風を巻き込むためには、実体を知る必要がある。私はそのとき、産経デジタル部門の最古参の社員のひとりで、産経Webの立ち上げメンバーであり、“ichimy”という当時としてはわりと画期的なニュースサイトの企画者であり、唯一人の運営担当社員であった。きっと私の話しを聞きたいはずだ。産経が今までどのようなデジタル運営をしてきたのか。そうすれば、何が問題で、強みはどこなのかが見えてくるのでは。きっと役員からは散々、話しを聞いているであろう。しかし産経の役員は元記者ばかり、デジタルについては素人である。デジタルの現場は見ていない。だから現場を一番長く経験している私から話を聞いてみたいと思うのではないか。と、思った。それで少し意気込んで挨拶に行った。
 しかし猪子さんはそっけなかった。軽く会釈するだけで、また産経の役員連中や森山さんたちとの輪に戻ってしまった。きっと大切な話しの途中であったのだろう。しかし、正直いってがっかりした。
 わたしが猪子さんと話しができたのは、あれが話といえばだが、その一回のみだった。役員なのでたまに社内で顔を合わせることはあったが、その後話をする機会はなかった。長髪をなびかせて、長身でさっそうと歩く姿を廊下で見かける程度だった。

 猪子さんはなぜ30歳ぐらいの若さで産経デジタルの役員になったのか。私には本当のところは分からない。ただ推測するにすぎないが。
 猪子さんは東大卒。卒業と同時にチームラボという会社を立ち上げている。チームラボという会社が何をする会社なのかも分からない。色々な人に聞いたり、ネットで調べたりしたが、どうもよく分からない。ネット関連の会社であることは分かる。“サグール”という検索エンジンを開発した。何とかというネット関連の賞を獲得した。そのぐらいだ。きっと旧来の人間が理解できる枠の外にある会社なのであろう。
 東洋経済によって、多少新しいことが分かった。猪子さんは“ぐるなび”の母体であるNKBの役員だったそうだ。有名な滝久雄社長に見初められ、会った3回目でいきなりNKBの役員になるよう懇請された。

 それを読んでなんとかく分かったような気がした。猪子さんは、必殺のジジ殺しなのだ。悪口で言っているつもりはない。誤解のないように。
 私が始めて猪子さんを見たときのインパクトを滝社長や産経の住田社長、産経デジタルの阿部社長は感じたのだろう。東大卒の肩書き(もちろん実力も)。オシャレなファッション。チョイ悪風の風貌。見上げるような体躯。何かしてくれそうな気がする。平凡なわが社の社員では、考えも及ばないアイディアを出してきそうだ。そう、老経営者に感じさせる何かを猪子さんは持っている。

 ちょっと話しを変える。東洋経済の中で猪子さんは自分の過去について少し語っている。
 高校生のときに「日本経済を再生せよ」という電波が落ちてきたそうだ。さて、どうやって再生するのか。大企業に入って内部から再生しよう。しかし一社員として入社したら、再生できる立場になるまでに時間がかかる。そのとき鹿島建設の社長が3代続けて婿養子で、3人とも東大卒であったことを知る。そうだ、その手があると、「逆玉」を狙うことを決意。しかし通っていた高校の大学進学率は50%程度。決して進学校ではない。そこから東大へ進学することは至難の業。と、普通の人は考えるとこだが、猪子さんは違った。まったく意に返さず、東大を受験。そしてしっかり一発で東大理一に合格してしまう。
 東大に入学後、インターネットの存在を知る。そして硬直化した旧来の産業では日本を再生できない。ダイナミックなネット産業こそ自分の、そしてこれからの日本の生きる道だと確信する。そして、あっさり大手企業への逆玉戦略を捨てる。
 ではネット産業をどう構築すべきか。猪子さんはそれを「おしゃれハイテク」と「おもしろハイテク」というふたつのキーワードで語る。
 さて、私が知る猪子さんの具体的な産経デジタルでの実績だが、それは産経デジタルが運営する“iza”というサイトへのアドバイスだ(役員だから現場には直接降りてこない。アドバイスは役員会でする)。どの程度、猪子さんのアドバイスがizaに反映されているのかは知らない。あまり反映されていないのかも知れない。東洋経済にも産経デジタルでは、やりたいことの20~30%しか実現できないといっている。
 そうであろう。なぜなら“iza”に「おしゃれハイテク」や「おもしろハイテク」というコンセプトが散りばめられているとは正直、思えない(ちょっと辛らつでごめんなさい)。

 東洋経済を読んでいて分かることは猪子さんが日本の政府、古い体質の会社は駄目だと感じていることだ。目指すのはアメリカ型である。とくに目標とするのはグーグルとアップルである。
 私も猪子さんにはぜひグーグルやアップルを目指してもらいたい。
 猪子さんは経営者に何かを期待させる特殊な才能がある。そしてそれをうまく利用してきた。あの若さでNKBや産経デジタルの役員に就任した。
 しかしNKBの役員はもう辞められたそうだ。産経でもやりたいことの2,3割しか実現できていない。もう、ご自分でも気付いていられると思うが、大企業の中では猪子さんの本当の才能を開花させることはできない。
 スティーブ・ジョブスやラリー・ペイジ(この人ともパーティの席で話したことがある。10分以上サシで話せたので、これは話したと言っていいと思う。とても印象深い話しができた。いつかこのことについても書きたいと思います)のように、自らアイディアを生み出し、自らそれを実現し、そのためには自ら組織を作り上げていく。
 もう、本当の目標は見えているのではないか。たしかにすでに成功している企業の経営者から声を掛けられて、悪い気がするわけはない。もとから逆玉を狙ったこともある人だから、少々その気はあるのだろう。それも戦略上、悪いことではない。しかし戦略はときと場合により変更すべきだ。
 東洋経済に掲載されていた写真を見ると、あのパーティで受けた精悍なイメージと比べ、頬がふっくらとし表情も穏やかな様子だった。猪子さんが見限ったおじさんたちとちょっと似てきているように見える。
 日本を引っ張っていく企業を作り上げるのには時間が必要である。さらに経営者としての若さとパワーが。そろそろ腹を決めた方がよいのではないだろうか。それだけの才能と強い意思を持ちながら、社内政治と保身で雁字搦めになった組織で浪費するのはあまりに惜しいと思うのです。
 (産経デジタルが特にそうだといっているのではありません。組織とはすべてそういう性格を持っているものだ。できあいの組織に横から入って改革する、その非効率が問題ではないかと思うのだ)


「森は知っている」を読む

 「森は知っている」は米国の生物学者ベルンド・ハインリッチが書いた自然にまつわるエッセーである。舞台はメイン州。ハインリッチ先生はメイン州に300エーカーという広大な森を所有し住んでいる。森にはアメリカ北東部でもっとも多いストローブマツの林が広がり、バルサミモミ、アカトウヒが点在する。ベニカエデやサトウカエデ(メープル)が秋には紅葉し、白樺の仲間であるキハダカンバが貴婦人のように静かに佇む。
 ハインリッチ先生はお隣のバーモント州にあるバーモント州立大学の教授である。そこまで車で通勤をしている。実は私、バーモント州立大学のすぐ近くに住んでいた。産経新聞社の留学制度を利用して、バーモント州の別の大学に通っていたのだが、その大学はバーモント州立大学と同じバーモント州最大の街バーリントンにあった(最大といっても人口は20万人)。
 なのであの辺りの様子はよく分かる。アメリカの大自然というと、コロラドやモンタナなどロッキー山脈をイメージしがちだがアメリカは広い。メイン州やバーモント州のある北東部にも立派な森がある。
 その森は日本人に馴染みやすいタイプの森だ。ロッキー諸州の森のように背後に雄大な山脈を控えているわけではない。ジャイアントセコイアのような巨大な木が聳え立っているわけでもない。なんとなく日本の山、それも東北や九州の山のように比較的なだらかな小山が連続する風景なのだ。
 そうした穏やかな風景の中で、ハインリッチ先生は自然と優しく接し、しかしプロとして厳しい目で生態系を観察をする。日本でいうとムツゴロウ先生のような位置づけだと思うが、書いていることは随分とことなる。ムツゴロウ先生のエッセーも大変楽しいが、主題は自然より人間であることが多い。しかしハインリッチ先生はあまり人間に興味がない。常に視線は森と森の生き物に注がれる。
 こういう作家は日本にはいないなぁと、思う。どうだろう。いたらぜひ読んでみたい。
 この本で初めて知ったことは多いが、次のことはとくに印象深かった。
 2つあるのだが。まず木に生える芽には2種類ある。ひとつは花の目。もうひとつは木の芽である。木の芽はひとつの森では同じ時期に一斉に芽吹くそうだ。そういわれれば、そうだろう。この辺りだと今がまさにその季節だ。一斉に新緑は芽吹く。どうしてだか、知っていますか。私は知りませんでした。答えは、葉が芽吹く季節とは太陽が本格的に輝きだす季節だからだそうです。木は光合成で栄養分を自ら作り出す。なので太陽の動きには敏感で、どの木も同様に反応するために葉が芽吹くのが同じ時期になるそうだ。ゆえに常に太陽の季節である熱帯では年中芽吹きの季節になる。言い換えれば芽吹きの季節はない。落葉もただ古くなった葉から落ち、それに続いて新しい葉が芽吹く。
 しかしもう一つの芽である花の目は季節をずらして芽吹くそうだ。そのわけ、知っていますか。これも私は知りませんでした。花の仕事は受粉である。受粉には風による受粉と虫や鳥による受粉がある。風による受粉は葉の芽吹き同様に、ほぼ同じ季節に起こる。それは葉が芽吹く直前だ。なぜなら、葉が受粉の邪魔になるために、葉が茂る前に花粉を飛ばすからだ。
 もうひとつの虫、鳥による受粉。こちらはあえて季節をずらす。なぜなら虫や鳥の数には限りがある。他の種と競争を防ぐために時期をずらしているそうだ。それと時期がずれれば、虫や鳥の餌を長い間供給でき、受粉お助け人である、彼らの命を守ることにつながる。お互いにメリットがあるのだ。
 もうひとつのトレビアはフィンランドについて。この話しはメイン州を舞台としたエッセーとは別に後半に書かれてあるものだ。フィンランドといえば、我々には森と湖の美しい国。自然を大切に守っている国というイメージがある。しかしハインリッチ先生の見解は違う。今フィンランドにある木の98%は同じ樹齢のヨーロッパアカマツとドイツトウヒだけなのだそうだ。つまり98%は人間の手で植えられた木で、人口の森だ。その結果、生態系は破壊され、植物や動物の半分が絶滅寸前の状態にあるという。あの美しいフィンランドが。オーロラの下に延々と続く森林にはたった2種類の木があるのみで、他の植物や動物は瀕死の状態であるとは。驚きである。

 この本も逗子図書館で借りてきたものである。寝る前に少しずつ読み進めていった。とても美しい貴重な話ばかりで、もったいなくてゆっくりと読んでいった。おかげで貸し出し期間を1週間も過ぎてしまった。さすがにやばい。今日、これから返しに行ってきます。雨が降りそうなので、そろそろ出なくては。

最後のハローワーク

 今日がハローワーク、最後の認定日。今、帰ってきたところだ。先週行ったばかりだが、支給日が4、5日しか残っていなくて、本日も行ってきた。幸いにも緊急対応策とかで1ヶ月ばかり延期されたが、これでおしまい。雇用保険の支給は本当におしまいである。本日から自分で稼がないと、干上がってしまう情況に本格的に突入する。
 今朝はなんと夜中の1時に目が覚めた。しばらく布団で頑張っていたが結局2時ぐらいに起き出した。私は実に気の小さな男である。1時に目が覚めると、すぐに頭をよぎったのは本日が最後の認定日であるということだ。きっと寝ている間も、脳のどこかで考え続けていたのであろう。
 雇用保険が切れることはずっと前から分かっていた。それを前提に資金計画も立てている。それなのに、なぜ? この不安感は。
 実は不安な要素がいくつかある。まずこの春、受注予定だった大きな仕事が流れた。それを期待して、今年の収入を計画していた。そして、以前から出版の企画書を出している出版社から返事がなかなか来ない。どうしても出版したい本がある。つてがあるのはその出版社のみだ。そこで受けてもらえないと、他をこれから探さなくてはならない。その出版も収入計画に、これはプラスアルファとしてだが、入っている。
 だから収入計画を見直さなくてはならないのだ。今のままではあと1年ちょっとしかもたない。なんだ、結構余裕があるじゃないか、と思う方。いえいえ、そうでもないんです。というのは、出版の場合は収入に結びつくまでに時間がかかるのだ。まず本を探し、企画書を作成して、出版社に売り込み、成約したら、翻訳する。それから実際の出版まで数ヶ月かかり、それが売れて、そのお金が回りに回って、印税として入ってくるのにはさらに数ヶ月から1年。だから最初の本探しから考えると1、2年はかかるのだ。だからその1、2年の間、食いつなぐ資金がないと、デッドロックしてしまう。ということはですね、もうそろそろ1つぐらい企画を通さなくてはならない時期なのだ。
 やぁ真剣ですよ。今年1年、実務翻訳をしながら、のんびり本を探し、1冊でも出版の企画が通ればいいと考えていた。でも実際に実務翻訳を少しばかりやってみて、同時に出版翻訳も企画書作りや試訳をして、自分には出版翻訳が向いていると分かってきた。いや、もっとはっきりいうと、どうしても出版翻訳をやりたいことに気付いたのだ。
 余裕資金はないことが分かってきた。実務という回り道を経ずに、出版に進みたいという気持ちも明確になった。すると答えはひとつ。なんとしても近いうちに出版の企画を通さなくてはならない。

 外は桜が満開だ。逗子は桜の多い地域である。私の住む住宅街の街路樹はみな桜。家から見える丘には山桜が点在する。そうした景色を眺められる逗子の春は良い。今日は天気もよくて、爽やかな日和である。あまり心配ばかりしていられない。最後の認定日にこんなに綺麗な桜を見られたんだから。きっと幸先の良い兆しであろう。今年度はほんに、頑張らなくてはなりません。

桜の街路樹

山桜(あまりよく撮れてないけど、ほんとはきれい)


先週のできごと

 一週間ぶりの更新。先週はほとんど机に向かわなかった。向かえないほど忙しかったわけではないのだけど、そこそこ忙しく、それに気分がちょっと鬱ぎみで怠けてしまった。しかし本日は4月最初の月曜日である。気分一新で新年度に望みたいと思う。

 先週は火曜、ハローワークに行ってきた。これは書いたかな。では水曜、映画を見てきた。見たのは「ナイン」という映画。モテモテおじさんの妄想と現実をミュージカル形式で撮った映画だ。色々なものが詰め込まれていて、ちょっとお腹が一杯になった。美女がやたら沢山出てくるのだが、あまり好みの女優はいなかった。むしろ主役のモテモテおじさんがカッコよく、同年代の自分としては、参考になった。あんな長髪オールバックにしてみたい。髪の薄さも同じぐらいだし、長髪はもう諦めていたけど、あの感じならOKかもしれない。でも以前、ちょっと伸ばそうとトライしたときに、段々と麻原彰晃になってくる自分がいて、断念した。やっぱり無理かな。
 木曜は母の古希の祝いをした。千葉にある“ラ・クッチーナ ハナ”というイタリアンの店でやった。千葉でレストランを多数経営するハナグループのひとつだが、なかなか良いお店だった。千葉といっても四街道に近く、周りは雑木林に囲まれ、窓から見える景色は軽井沢のよう。サービスもよくて、料理もうまかった。それに一番気に入ったのは、千葉駅までバスで迎えに来てくれたこと。本当は10名以上でないと送迎バスを出さないそうだが、7名だったが特別に対応してくれた。今度家族でまた何かの集まりをするときにはここを使いたいと思った。
 金曜は一日ゴロゴロ。
 土曜は文京の合気道仲間が20名近く集まり、花見がてらBBQを拙宅で行った。天気がよくてまさに花見日和。みんなとても楽しんでくれた。夜は今まで撮りためた演武会のビデオを上映。10年前の若かりし己の勇姿にみな、盛り上がった。10年ですっかり老け込んだ人も、あまり変わっていない人もいて面白い。
 日曜は前日の飲み疲れで、一日ゴロゴロ。家で一日テレビを見ていた。午前中は政治討論番組を。午後はケーブルを見た。ケーブルをザッピングしていると、昨年は見続けた“アメリカン・アイドル”をまたやっている。新シリーズが始まったのだ(といってももうハリウッドに移っているので、かなり前からやっているのだろうが)。その日は女性のみの出演だったが、昨年に比べレベルアップしている。昨年は女性に見るべき人がいず、実力は男性に集中していたので、今年の女性は楽しみだ。 “アメリカン・アイドル”の2日分放映を見た後は、同じくフォックスTVで“グリー”というドラマを見た。午後2時からずっと8時ぐらいまでまとめて放映していたが、ほとんど見てしまった。向こうの俳優は、歌がうまい。ああいうドラマは日本じゃ、無理だろうな。日本人は総じて歌が下手だから。そういえば日本人の歌下手で思い出したが、先日ある人が“スーパーフライ”という人の歌唱力がすごいと力説していた。後でユーチューブで見てみたが、正直ピンとこなかった。でもあのぐらいで日本人としては“歌唱力がすごい”部類なのだろう。やっぱり日本人は演歌なのかなぁ。森進一はうまいと思うもんなぁ。
プロフィール

山本 拓也

Author:山本 拓也
職業:翻訳者
過去の職歴:HSBCを経て産経新聞社
家族:妻、フクちゃん(猫オス 3歳)、大吉くん(猫オス 2歳)
住まい:逗子

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
最新トラックバック
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。