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大人から始める合気道(歴史について)


 天気がよいがとても涼しい、気持ちのよい朝だ。洗濯を済ませ、家に入るとクモがいっぴき壁に張り付いていた。朝のクモは縁起がいいという。それでそのままにしていたら、僕の視線に気付いたフクちゃんが近寄ってきて、パクンと食べてしまった。はたしてこれで縁起の良さは消滅してしまったのだろうか、ちょっと気になる。

 さて今日は合気道の話の続きを書く。前回の最後に流派について書くと予告していたが、流派の前に歴史に触れておいたほうがよいかと思い考えを改めた。今回は歴史について。

 合気道は案外新しい武術である。合気道という名称で体系化したのは植芝盛平(うえしばもりへい)であり、植芝盛平は明治16年生まれで、主に活躍したのは昭和に入ってからなので、昭和から生まれた武道といえる。袴を穿き、神棚に拍手を打つ様子に古来からの武道のように思えるが確立されたのはとても新しい。といっても柔道も加納治五郎からであり、剣道も近代剣道として確立されたのは大正の天覧試合からであるといっていいと思う。空手であれば船越義珍を近代空手の祖とするならば大正、昭和期になるわけで、剣道、柔道、空手、合気道の四大武道は全て明治以降に生まれたものといえるのだが。(それぞれの源流は近世、あるいは中世まで遡れるらしいが、詳らかではない)

 合気道は植芝盛平が作り出したものだが、そこには非常に近いお手本があった。武田惣角の大東流合気柔術である。植芝盛平は青年期に農地を開拓するため北海道に渡っている。同時期に武田惣角も北海道で大東流を指導しており、たまたま盛平が開墾していた村に惣角が現れ技を伝授されたようだ。
 合気道は植芝盛平が創始してものである。しかしそれは植芝盛平が北海道時代に武田惣角から学んだ合気柔術が元になっている。盛平はそれ以前から武術の習得に熱心で、相撲や起倒流柔術、新陰流剣術もかなりの腕であったようだ。そこで大東流にそれまで身につけた剣術の理合をブレンドして独自の武術として体系化した。しかし他の武術がブレンドされはしたものの、中心となった大東流の要素はかなりしっかりと残っている。僕自身は大東流の経験者に技を一度かけてもらったぐらいしか実際の経験はないが、ビデオを見たりテキストで読む限りでは、基本は大東流とほぼ同じだ。諸説はあるようだが、合気道の直接のルーツを大東流合気柔術であるとしても構わないと思う。

 ではその大東流だが、こちらのルーツははっきりとしていない。ただ武田惣角自身は会津藩において数百年の間に発達し伝承されてきた技であると明言しているのだが。
 今、僕の手元に『武田惣角と大東流合気柔術』という本がある。合気ニュース社のスタンレー・プラニン氏が惣角の息子である時宗氏や大東流の達人、佐川幸義にインタビューをして作った本である。この本によると大東流は会津藩で伝承された柔術を武術の天才、武田惣角が独自に加工して作り上げたもののようだ。
 惣角は鉄兜を叩き切ることで有名な直心陰流の榊原鍵吉の内弟子であった。およそ二年半を榊原道場で過ごしている。榊原道場では、剣のみならず棒、槍、弓、鎖鎌、薙刀も習っている。榊原鍵吉にはよく目をかけてもらったようで、榊原の紹介状をもとに頻繁に他の道場にも出かけている。当時剣豪として名を馳せていた桃井春蔵の道場へも大阪まで足を延ばしている。桃井は惣角の見事な技と俊敏さに目を見張らせた。また実戦の方にも熱心で、暴漢4,5人の足を切り払ったり、山賊を切り殺した話しが残されている。
 このように武田惣角は体術家である前に剣術家であった。それも幕末から明治にかけて多くの凄腕の剣術家が活躍した時代にあって、傑出した剣術家のひとりであった。会津藩に伝わる合気柔術に、この剣の達人の技がふんだんに加えられ、“惣角の大東流合気柔術”は作り上げられたのだろう。

 では会津藩に伝わったとされる大東流合気柔術だが。これは武田家に代々伝わった武術であるといわれている。しかし会津藩は武田家とは直接繋がりがない。いやまったくないわけではないのだが、ちょっとクッションが入っている。それは保科家である。
 保科正直は武田信玄の家臣で猛将として知られる。武田家滅亡後、徳川に使え下総国の領主となる。
 ここからちょっと複雑なのだが、二代将軍徳川秀忠には隠し子があった。正之である。恐妻家であった秀忠は正之の存在を妻に知られることを恐れ、正之を秘密裏に保科正直の養子として送り出す。武田家と徳川家の関係性構築の意図もあったようだ。秀忠没後、三代将軍家光はこの密かな弟である正之を信頼し大変可愛がる。そして正之を会津藩の初代領主に据えるのだ。それ以来、幕末まで徳川家由来の譜代として会津藩は栄えることになる。
 つまり会津藩の城主は徳川家の血筋なのだが、最初の領主正之は保科家の養子であり、表面的には保科家が会津藩の城主となった。会津藩城主は三代目で松平姓に改姓しているが、二代までは保科が会津の領主である。その保科は元、武田信玄の重臣である。そこで、会津に武田の伝統が残っているというのだ。
 これって、かなりの紆余曲折だと思いませんか。歴史は常に紆余曲折の連続ではあるが、これだけ入り組んでいて、そこに奇跡のように大東流が受け継がれていたとは。ちょっと信じがたいというところが本当である。
 ちなみに大東流の祖は武田どころでなく、その大本の源氏であるともいわれている。それも源氏としてもとっても古くて、元祖はなんと源新羅三郎義光である。新羅三郎義光のお兄さんは八幡太郎義家で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の4代前の人だ。

 冒頭に合気道は案外新しい武道だと書いたが、ここまで遡るととても古い武術である。まさに神話の世界である。もうそれが事実であるのかどうかは想像するしかない。残っている文献をもとに、これが史実かどうかを解明することは今となっては難しいだろう。解明できないとすると、すなわち史実ではないと断定されがちだが、僕はあえてこれを史実だと信じたい。
 僕らが今習っている合気道の祖は源新羅三郎義光であると考えると楽しいではないか。それに古い伝承は真実を伝えていることが多いのも事実だ。馬鹿にはできないのだ。あのシュリーマンもギリシア神話を信じて発掘を続け、ついにはトロイの遺跡を発見したのだ。

 頭の整理のため、今度は一番古い伝説から概略を下る。大東流合気柔術は源新羅三郎義光が元祖である。その後、武田源氏の秘技として連綿と伝承される。武田家は徳川によって滅ぼされたが、武田家の重臣である保科家に伝わる。保科は会津藩に命脈をたもち、大東流は徳川時代を密かに生き残る。幕末、会津藩士であった武田惣角が技を継承する。惣角は剣の理合を取り入れ、独自に発展させた武田惣角流の大東流合気柔術を作り上げる。その後、植芝盛平に伝わり、盛平もまた独自のエッセンスを加え、これは上には書かなかったが大本教という神道系の教えを精神的にプラスして、現代に伝わる合気道を創始する。

 さて、思い切ってはしょった合気道の歴史であったが、理解していただけたであろうか。会津藩以前の歴史は、伝承によるもので信憑性は高くないといわれているが、あえて記してみた。

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神経鞘腫体験記(3)


 今日は神経鞘腫の続きである。過去2回分はカテゴリー“神経鞘腫”に収録されています。読まれていない方はよろしかったら、そちらから読んでください。

 しばらく考えた。あの若い先生に手術をお願いすべきか。良さそうな先生である。こちらの質問に一生懸命に答えてくれる。それに九段坂病院のルールなのだ。最初に見た医師が主治医になるのは。他の患者もみなそのルールに従っている。若い先生に診てもらった後、看護婦さんに聞いてみたら、若い先生があなたの主治医で、今後も変更されることはないと断言された。やはり若い先生に手術を任せるしかないのだ。
 それから2,3日ぐらいだろう、考えに考えた。ネットで情報を漁りまくった。それで知ったのだが、神経鞘腫って、ほんと珍しい病気らしくて、あまり関連サイトがないのだ。少ないネット上の情報と、渡辺先生、九段坂病院の若い先生から聞いた情報をもとに判断しなくてはならない。
 僕がそのとき持っている情報は以下のような感じだ。神経鞘腫は神経にできる腫瘍である。十万人にひとりといわれる珍しい病気だ。腫瘍ができる場所には傾向があり、主に脳、脊椎、手の神経である。僕の腫瘍は背中(腰椎なので、医師は腰という表現をしていたが、僕の感覚としては背中である)の内側にある。腰椎の内臓側にはみ出した形でくっついている。だから大きさにも拘わらず、外見的には分からない。手術をする場合は、腹部からか、あるいは背部からとなる。背部の場合、背骨が邪魔をしているので、一部を削除しなくてはならない。削除した骨はもとに戻すことができない。つまりそこの部分の背骨が欠落するので、もしかしたら背骨の強度が下がるかもしれない。また腫瘍には良性と悪性があり、良性であれば進行は遅い。悪性であれば、それはすなわち癌であり、急を要する。群発性と単発があり、群発であれば、そのほかに複数ある可能性が高い。また切除しても、後から生えてくるとことも考えられる。若い先生の見立てでは、恐らく良性であり、単発性である。しかし組織を採取するまでは断言はできない。そして組織を採取するためには手術が必要となる。つまり手術まで悪性かどうかは診断できない。
 これだけの情報で判断をしなくてはならないのだ。
 そして僕は判断を下した。やはり中井先生にお願いしたい。
 病院のルールなんか、なんだ。こちらは命がかかっているのだ。そんなことに気を使っていられるか。できるだけのことをして、それでも駄目だったら、若い先生に任せよう。もちろん九段坂病院の外科医である。一流の脊椎手術の専門家であろう。しかし、より高い確率を望みたいのだ。背中の真ん中に、鶏卵より大きな腫瘍があるのだぞ。背中といっても脊椎の腹部側だ。手術をするとしたら、腹から裂くのか、背中から背骨の一部を削除して行わなくてはならないのだ。少しでも腕のいい医者に頼まなくてはならない。
 決心した翌日、会社のビルの地下にある渡辺外科に相談にいった。
 「せっかく紹介状を書いてもらったんですが、最初に診てくれたのが若い先生で、その先生が僕の主治医になるルールなんだそうです。それで手術もその若い先生がするみたいなんです」
 「そうなんだ。あら中井先生じゃないんだねぇ」ええ、先生しらなかったのぉ、と思ったが口には出さなかった。
 「そこで相談なんですが、もう一度中井先生当てに紹介状を書いていただけませんか。強く中井先生の手術を望むって書いて欲しいんです」ちょっと図々しいかと思った。2回も紹介状を書いてもらうなんて。それにルールを曲げることになるし。医者同士としてはまずいのかもしれない。しかしあっけなく、
 「いいですよ。やっぱり中井先生がいいよね、そりゃ」と快諾してくれた。
 「ありがとう、ございますう」

 僕は喜び勇んで九段坂病院に予約の電話をかけた。するとここでまた問題が生じた。中井先生は大人気で、診察の予約も2ヶ月も待たなくてはならないのだ。そして、診察後に手術の予約を入れることになるのだが、中井先生はとてもとても大人気なので、手術はその3ヶ月、あるいはもっと先になってしまうという。
 それでも良いですかと、病院の事務の人に聞かれた。そんなぁ。どうして背中にでっかい腫瘍がある病人が、そんなことを判断しなくちゃならないんだよ。ちょと殺生じゃない、と思った。が、これももちろん口には出さなかった。
 若い先生でも手術は2,3ヶ月先になるのだ。2,3ヶ月も半年も同じだ。きっと良性だよ。ならば急がなくてもいいんだ。初志貫徹でいこう。ということで、多少気持ちが揺れたが中井先生で予約をお願いした。予約の電話を入れたのは2006年の10月だったと思う。診察の予約が取れたのは12月の中旬だった。

 神経鞘腫体験記(4)へ


鎌倉の苔寺・妙法寺


 今日はひさしぶりの天気だ。リュックに地図とノート、ポットに入れたコーヒーを積めて、妙法寺へでかけた。

室町時代に立てられた総門
室町時代に立てられた総門。一番古い建物である


 妙法寺は苔の寺である。鎌倉という街の中のお寺というよりもむしろ山寺といってよい、緑満つる場所にあり、日影多く、山からの湿気もあり、苔の生長に適しているのだろう。仁王門の内に伸びる石段はすっかり苔で覆われている。今は保護のため、階段は使うことはできないが、間近でみることはできる。自然に生えてきたのだろう。京の苔寺とは違った野趣溢れる苔の風貌を目にすることができる。

苔むす石段
苔むした石段。保護のため、今は登ることができない


 妙法寺は鎌倉の東部、大町にある日蓮宗の寺だ。この辺りは谷戸(やと)となっておりかつては松葉谷(まつばがやつ)と呼ばれた谷(やつ)である。谷戸あるいは谷は鎌倉に数多くある地形の名称で、いや鎌倉に限らずそう呼ぶのだろうが、特に鎌倉ではこの呼び方である地形を表する。その地形とは山間に食い込むように伸びる谷間のことである。
 鎌倉は三方が山に囲まれており、山には切れ込むように谷が放射状に存在する。狭い鎌倉では、谷は貴重な平地であり、山から新鮮な水が流れる生活に適した土地である。鎌倉の谷戸は古くから豪族の館や寺社が建ち、人が多く住む土地であった。
 妙法寺は大町の外れにあるが、大町、小町は鎌倉時代、庶民が生活する下町であった。武家は鶴岡八幡宮の近くに、あるいは周りを囲む谷(やつ)に邸を構えていた。一方、商人や職人は大町、小町に集まって生活し、庶民の町を形成していたのだ。ちなみに鎌倉時代の小町は現在の小町通り商店街の辺りでなく、今も小町大路と言われる鎌倉彫資料館がある通りの周辺を指した。大町は現在と変わらないと思われる。
 大町、小町の当時の様子を想像した文が『鎌倉歴史散歩』(大仏次郎編)にある。「この辺りには、だから昼は盲法師が辻に立ち、その傍を侍所や政所の若武者たちが騎馬で走りすぎるかと思うと、人相の悪い浪人が商人を値切りたおして品物を持ち去ったり、頭巾をかぶった破戒僧がそっと簪(かんざし)を買ったりしたかもしれない」

 妙法寺は日蓮上人が鎌倉に来て最初に草庵を結んだ場所といわれている。他に近くにある安国論寺と長勝寺も日蓮草庵の地と考えられているが、どこが実際の場所であったのかは不明である。日蓮が住んでいた当時は寺などなかったわけだし、草深い山間の土地でもある。日蓮が鎌倉で活動していた時期は20数年にも及び、一箇所に定住していたとはむしろ考えにくい。この辺り、当時の松葉谷のどこかで、転居することもありながら、庵を結んでいたのだろう。
 日蓮がではなぜ松葉谷に庵を結んだのかというと、おそらくそこが庶民の町と近い場所であったからだろう。松葉谷はすぐ裏には名越の峠が控える山間の土地ではあるが、大町、小町の下町は近い。日蓮が辻説法をしたと伝えられる場所までも歩いて10分程度である。日蓮上人は妙法寺辺りから、毎朝出勤するように大町、小町まで出かけ、『鎌倉歴史散歩』の表現のような風景の中で、布教活動に精を出していたのだろう。

 日蓮が住んだといわれる草庵は法華堂として残った。当時の法華堂は残っていないが、江戸時代になってから水戸家によって建てられたお堂がある

法華堂
江戸時代になってから建てられた法華堂


 時代が下り、足利直義(尊氏の弟)により殺された大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよし)の息子である日叡上人により、延文二年(1357)年、法華堂のある今の地に妙法寺が建立された。日叡は日蓮ゆかりの土地であり、父護良親王の最期の地である鎌倉に寺を建てたのだ。
 この寺は寺格として、相当高いものであったようだ。というのは足利尊氏の命により、京都に法華堂が移された。その場所は京都大本山本圀寺(ほんこくじ)になっている。
 また、江戸期も繁栄しており、十一代将軍徳川家斉(いえなり)は度々、この寺を訪れている。そのために当時は総門、仁王門、法華堂が朱塗りにされており、将軍参拝の際は、緋毛氈(ひもうせん)が敷き詰められたそうだ。今は仁王門のみが朱で残っている。

朱塗りの仁王門
朱塗りの仁王門



 妙法寺には有名な伝説がいくつかある。そのうち有名なものをふたつ紹介する。ひとつは白猿の伝説である。文応元年(1260)8月27日、日蓮が夕べの読経をしていると、一匹の白い猿が現れた。白猿は何か訴えるように日蓮の袖を引っ張り始めた。引っ張るにまかせ猿について行くと、いつしか山の上まで来た。暫くすると草庵の周辺に怒声が聞こえる。いずれかが日蓮を目標に、襲撃してきたのだ。
 日蓮は白猿が命を救うために、現れたのだと気が付いた。礼を述べようと足元を見ると、白猿はもういない。辺りを見回すと、近くに山王権現の祠があった。白猿は山王権現の化身であったのだ。これが日蓮の法難のひとつ、松葉谷の法難である。日蓮は山王権現の化身に救われて、松葉谷の法難から逃れることができたのだ。

 もうひとつは、化生岩屋(けしょういわや)の伝説である。化生とは妖怪や化け物のことだ。建長五年(1253)のある日、日蓮が今は妙法寺の境内にある岩屋(洞窟)にいたところ、化生が現れた。日蓮が読経、説法をすると、姿を消した。その後、化生はその岩屋に現れなくなったという。今、その岩屋には日蓮上人座像が安置されている。写真に撮って来たが、かなり不気味な場所である。
 さてこの化生とは何であったのか。この地は名越の丘陵地帯である。名越は北条氏の一流の名称で、三代執権の北条泰時の弟、朝時(ともとき)から始まる。朝時の子、光時(みつとき)は北条本家との政争に破れ、伊豆へ配流となった。光時の弟の時幸(ときゆき)は直後、病死をしている。北条による「吾妻鏡」では病死とされているが、葉室定嗣という公卿の日記には自害させられたとある。このとき現れた化生は、無念を抱き死んだ時幸ではないかといわれている。

化生岩屋の日蓮上人像
化生岩屋に坐る日蓮上人


 妙法寺は人の少ない寺である。駅から少し遠い。遠いといっても歩いて30分もかからないのだが。途中に本覚寺や妙本寺がある。一緒に見て回れば、さほど距離は感じない。
 護良親王御墓にまで登ると、鎌倉の街が一望でき、雲がなければ富士山がよく見える。静かな山寺の様子を呈するこの苔寺に、もう少し人が来ても良いのではと思うのだが。
 ただし、当寺の開放日は真冬、真夏は土日のみである。春と秋はウイークデーも拝観できるが。しかし、その春と秋とはいつなのかは定かではない。今日、寺のひとに聞いてみたが、そのときになってみないと分からないそうだ。とても長閑なお寺である。

護良親王御墓から見下ろす鎌倉
護良親王御墓から見える鎌倉の街と由比ガ浜


俳句・短歌の新聞広告 “ほめほめ詐欺”からの考察


 昨日、テレビでニュースを見ていたら、俳句や短歌の新聞掲載を電話で勧誘し、掲載後高額な掲載料を請求する事件が相次いでいるという特集をやっていた。
 特集ではある高齢被害者のケースを紹介していた。その被害者は俳句を趣味として、同人誌などに俳句を載せることがある70代の女性である。
 ある日突然、女性の家に男性から電話がかかってきて、「同人誌であなたの俳句をみたが、とても素晴らしい作品だ。ぜひある大手の新聞で掲載をしたい」と言われた。俳句を褒められたことに気をよくしていると、「しかし新聞に掲載するためには掲載料が必要である。10万円かかるが、ぜひ掲載して欲しい」と続けられた。有料であるならばと断り、その日は電話を切った。すると、それから何度も電話がかかってくるようになった。電話では繰り返し「あなたの俳句は素晴らしい。新聞に掲載すべきだ」と言われ、次第に心が動くようになった。大手の新聞に好きな俳句を掲載できるなんて、年齢的に最後のチャンスかもしれないと考え、10万円程度なら掲載してみようと思うようになった。
 掲載を了承すると、数日後また電話があり、「あなたの作品には他にも沢山、良いものがある。ぜひそちらも掲載させて欲しい。しかしそれにはさらに料金が必要で、全部で48万円になる」と言われた。女性はそんな大金は払うことはできないと電話で断る。しかし数日後に、「もうすでに新聞に掲載された。掲載されたのだから、掲載料を支払ってもらわなくては困る」という電話があった。騙されたと思ったが、掲載された以上、仕方がないと考え、48万円をその男性の広告会社へ支払った。

 このことについてブログに書こうと思い、背景などを調べるためにネットで検索をしてみた。すると4月7日、国民生活センターが「高齢者をねらう、短歌・俳句の新聞掲載への電話勧誘-趣味につけ込む商法に注意」という報道発表をしていることが分かった。また産経新聞では4月20日「短歌や俳句の掲載トラブル急増」、読売新聞では広島版で5月11日「電話でベタ褒め 短歌・俳句掲載 高額を請求」、東京新聞では5月12日「“ほめほめ詐欺”ご用心 俳句・短歌持ち上げ 高額掲載料を要求」という記事を掲載している。
 読売の記事はすでに削除されており読むことができなかったが、産経、東京新聞の記事はまだ掲載されていて、読むことができた。両新聞ともに「国民生活センターが注意を呼びかけている」といった発表記事のスタイルであった。
 また朝日は広告局作成のコーナーで「俳句・短歌を趣味とする方、気をつけて」というタイトルで、読者に注意を喚起している。これが中々苦心の後が伺える書きぶりであった。
 今年の冬に広告局に80歳を超えた女性から電話があった。朝日掲載の俳句集広告に掲載するよう広告会社から勧誘があり、申し込んでいないのに掲載料を請求されたといった苦情であった。しかし調べてみると女性の事実誤認であることが分かった、というものだ。
 最初は読み間違いではないかと思い、読み返してみた。しかし読み間違いではない。なぜ、朝日は詐欺まがいの行為で被害が続出しているので、注意が必要であるとする注意喚起の文章において、自社にも読者から苦情があったが、自社のケースでは読者の誤認であったとする事例を載せているのだろうか。これでは注意が必要なのか、必要でないのか分からない。新聞社の文章としては、お粗末な事例の掲載である。

 さて、この多数の被害者が続出し、「国民生活センターが注意を呼びかけている」詐欺まがいの広告はどの新聞に掲載されているのだろうか。不思議なことにどの社のサイトを見ても、それは載っていない。テレビのニュースでは大手の新聞だと言っていた。大手の新聞とすると、朝毎読日経産経のどこかであろう。さて、どこか。そして、なぜどこであるのかを他の新聞は掲載しないのだろうか。他紙の事件は勇んで報道する新聞社が、なぜ今回は揃って報道しないのか。

 それはその詐欺まがいの広告を掲載している新聞社というのは、ほぼすべての全国紙であるからだ(日経は掲載していないかもしれないが)。
 そんなことがはっきりと断言できるのか、と問われるならば、断言はあえてしないが、かなりの確立でそうであろうと答えたい。1,2ヶ月の新聞スクラップを図書館で調べてみればすぐ分かることであるが、そんな手間をかけなくても想像はつく。
 先ほど書いたように、今まで新聞社および系列のテレビ局は他社の事件、例えば社員が痴漢をしたとか、会社を乗っ取られそうになったとか、人事で揉めているとかは他のニュースを差し置いても最優先で掲載する傾向にある。他社が詐欺まがいの広告を掲載し、それが“おれおれ詐欺”のような社会問題になっているのにかかわらず、報道しないわけがない。つまり自らも疚しいところがあるから、報道できないと考えるのが普通である。
 
 全国紙に限らず、多くの新聞社が“ほめほめ詐欺”広告を掲載している。

 でもそれはあくまでも悪質な広告会社が新聞社の名前を語って作った広告なのだ。新聞社は広告会社から広告の掲載を依頼されて掲載しているだけである。その広告会社が個人を騙して俳句や短歌を集め、俳句特集広告や短歌特集広告を作ったとしても、新聞社はそんな細かいことまでは分からない。罰すべきは悪質な広告会社である。新聞社はむしろ被害者である。

 恐らく新聞社はそうしたスタンスを保ちたいと考えているはずだ。新聞社は詐欺行為が自社の広告スペースで行われていることについて、まったく知らないということにしておきたいのだ。だから朝日の広告局はあんな頓珍漢な“注意喚起”の文章をサイトに掲載しているのだ。

 しかし当然、新聞社はその事実を把握している。新聞社には毎日、何十、何百もの苦情や問い合わせの電話がくる。それはレポートとしてまとめられる。当然、役員会で発表される。あんな“ほめほめ詐欺”広告を掲載して、読者から苦情が来ないはずがない。知っているのは広告局の担当者だけではない。経営陣はみな知っているはずだ。

 なぜ知っていながら、そんな悪質な詐欺広告の掲載を容認しているのか。たかだか1ページの広告紙面を埋めるために、どうしてリスクを犯すのだろうか。

 新聞は現在、詐欺まがいの広告すら欲しいという究極の状態に陥っているからだろう。
 正しい数字は知らないが、各社の広告の売り上げは全盛期の半分もいってないはずだ。これは大変な事態である。広告収入の割合は各社で異なるが、おおまかに言えば全体の売り上げのうち、約半分は広告によるものである。つまり全売り上げの25パーセント程度が広告の落ち込みにより、ダウンしているのだ。
 新聞社は追い込まれている。その危機的な事態に対応するために、今までは自主規制していたあまりよろしくない広告主とまで付き合うようになってきた。“ほめほめ詐欺”はそのひとつである。
 “ほめほめ詐欺”は犯罪として事件化するかもしれない。その場合は、新聞社も手を引くであろう。しかし犯罪にまではいかないが、かなりグレーな広告主は他にもいる。たとえば消費者金融や金融先物、結婚紹介という名目の出会い系サイト、ギャンブル、薬事法すれすれの健康食品など。この中にはまっとうな企業もあるだろうし、そうでないところもある。以前新聞社はそうしたグレーな企業の広告掲載を自粛してきた。しかしそれではやっていけないところまできている。その結果が“ほめほめ詐欺”広告の掲載である。“ほめほめ詐欺”は根の深い問題なのだ。

 では最後にその根の深い問題について、簡単であるが思いついた要因を挙げてみたい

(1) 利益追求に偏った経営
 目先の利益に捕らわれている。極端な利益追求の結果、読者からは不信感を持たれ、広告主には媒体価値を認めてもらえなくなった。
(2) セクショナリズム
 各局が権益争いをし、全社を横断的に俯瞰できる経営者がいない。
(3) 業界としての馴れ合い
 今回の“ほめほめ詐欺”もそうだが、他社が掲載していれば、自社も構わないだろうと判断する。独立した経営方針を自ら放棄し、思考停止に陥っている。
(4) 責任の所在があいまい
 今回のことでいえば、“ほめほめ詐欺”広告は誰が許可したのか。当然、広告局内に審査部はあるだとうが、そこの責任と決め付けることができるのか。経営者は責任がないのか。恐らく誰も責任を取らないであろう。
(5) 社会の木鐸としての矛盾
 これが一番の問題点だと思う。例えば政治に対し、企業の責任者に対し、新聞は瑕疵があれば厳しく糾弾する。ところが一方、自分のことについてはいい加減なことをしている。部数の割り増し、外部の販売員を使った過度な販売競争、電波行政に対する政治力の使用、談合的な記者クラブ制度、そしてグレーな広告の掲載など。こうした矛盾点が読者離れを引き起こしていることに、新聞社は気付いていない。

大人から始める合気道(道場の選び方2) 


 前回は道場を調べる方法と体験入門について書いた。今日は、その道場があなたに合った道場なのかどうかを判断する方法について書いてみたい。

 まずちょっと極端というかケースによってはまったく当てはまらないこともあると思うが、今自分がもっとも興味をもち、また精度の高いと考えている道場の選び方を最初に紹介する。
 それは道場主の体型によって判断する方法だ。ずばり、自分と体型の似ている道場主の道場を選ぼう。
 合気道は体術である。自らの体をもって、敵の体を投げ、押さえつけ、きめる。自らの体は武器であり、場であり、対象である。自らの体の運用によって技を出す。つまり体が総てなのだ。当然、間(ま)というものがそこには介在するが、それも体から派生したものである。また間には敵との距離や技のスピードやタイミングが含まれる。こう考えると合気道は体にすべてが集約できる。合気道は体自体であると極言することもできると思う。
 体というものは場であると書いたが、この場合の場とは制約を有する空間である。当然、敵を含めた場なのだが、あくまでも中心は自分にある。自分の手足が動く範囲が一義的には場となる。二義的には視線の届く範囲や、さらに自分が属する組織や地域までも武道的な場といえると思うが、まずは一義的な意味に集約して考えたい。
 一義的な場では、体のサイズが大切なポイントになる。手足が長ければ、制約された場は広くなるし、短ければ狭くなる。背が高ければ場の空間は高くなるし、低ければ場も低いものとなる。
 体はまた対象である。対象とは自分が運用する道具であり、そこには力(パワー)や技の巧拙、体重、腕の太さなどが含まれる。筋力が強ければパワーがあるだろうし、体重が重ければ、それを利した技も可能である。
 つまり体型によって、合気道は変わってくるのだ。僕は身長170センチ、体重60キロ、日本人としては若干小柄かもしれないが、まぁ平均的な体型だ。こうした平均的体型の男は、平均的体型の師範の技が盗みやすい。大きな先生に教わり、大変参考になることもある。しかしどうしても体のサイズの制約から理解が難しいケースが多い。一方、体型が似ている師範の技は理解が比較的容易である。今はできない技であっても、それがいつかはできるのではという感じをもつことができる。
 僕の場合は幸いにも平均的なサイズなので、文京の道場でも逗子の道場でも道場主は似た体型の方である。体幹力や呼吸力などのような武道的な力には大きな差があるが、例えば握力や背筋力、腕力など物理的な力は僕とそう変わらないと思う。
 例えば僕が身長185センチの外国人と稽古をしていて、どうしても一教がかからないとする。そんなときは道場主がその外国人を相手にした場合、どのような一教でさばいているのかを研究する。仮に僕はリーチの差がネックとなり一教ができないと考えていたとしよう。ところが同じリーチ差があるはずなのに、師範は軽々と抑え込むことができる。どうしてなのか。僕は師範の技を分析し、解を導くことに努める。同体型の方が師範の場合、そうしたアプローチが可能になる。
 このように道場主の体型と弟子の体型が似ている場合、技を咀嚼するうえでその弟子は非常に有利となるのだ。
 では道場主とのサイズが違ったとしても、他の師範や上手な先輩の中に似た体型の人がいた場合はどうだろうか。その場合は、きっと似た体型の人の技が一番参考になりやすいと思う。しかし道場主のカラーは道場全体に染み出てくるものだ。もし選択することが可能ならば、できれば体型の似た道場主がいる道場をここでは薦めたい。

 しかしこれは道場がその人にあっているかどうかをみる一つの指標に過ぎない。それも“技”に限定をしての場合だ。
 合気道を始める目的はひとそれぞれであろう。健康のため、会社以外のひととの交わりを求めて、ただ楽しみたい、いろいろな目的があり、普通はひとつではないだろう。いくつもの目的や理由があり、それが漠然と一体化して、合気道を始めようと考えたはずだ。ならば、技の上達だけを考えて道場を選ぶことは避けるべきかもしれない。それ以外の要因もまた同時に考慮しなくてはならない。ではそれ以外の要因については、どうであろうか。それについてはまた後日触れてみたい。
 その前に、技についてもうちょっと。これもまた道場主の体型というは一つの要因にすぎないのだ。ただ非常に重要な要因ではあると思うが。

 道場を選ぶポイント。まず“技”からとらえた側面として、一番目に道場主の体型を挙げた。しかし“技”からのみ捉えてみた場合でも、考えてみればその前に知っておいた方がよいことがあった。それは合気道の背景である。次は道場を選ぶ上で抑えておいた方が良い合気道の流派と特徴について触れてみたい。

全日本合気道演武大会で内田樹先生を見かける


 土曜日は第48回全日本合気道演武大会に出場してきた。今回で5、6回目の参加である。途中、病気をしたり、なんと昨年はうっかり忘れていたりで、10年の合気道歴のうち、約半分ぐらいの参加率である。内田樹さんが、約40年の合気道歴で皆勤賞だとブログに書かれていたことを思い出す。こういう積み重ねが、人物としての相違に現れるのだろう。
 ところでその内田先生に武道館の更衣室でばったり会った。会ったといっても内田先生は僕のことを知らないので、こちらが見かけたといった方が正しい。ただし、ばったり会ったといってもそう、大袈裟でないようにも思う。
 自分の出番が近くなり、着替えるために更衣室に向かったのだが、僕より少し前に出番であった内田先生が更衣室にいた。内田先生のブログのファンである僕は、いきなり本人の出現に目を丸くして、思わず凝視してしまった。当然、先方も強い視線に気が付き、一瞬目が合った。
 先生は「日本辺境論」や「下流志向」などの著作がある著名な学者である。しかしテレビに出演しないことを旨としており、それがために“顔を知られていないことは喜ばしいことだ”とブログによく書かれている。なので突然、僕がびっくりした表情で見つめたものだから、きっと視線の主を知り合いだとでも思ったのだろう。一瞬、「なに?」という表情で見つめ返された。しばらくして「ああ、読者のひとりだろう」と合点されたようで、視線を移されたが。
 その後、内田先生は僕の視線をあえて無視するように振舞われていた。僕はそれを幸いにと無遠慮にジロジロ見てしまった。
 内田先生の印象は、ひとことで“ゴツイ”というものだった。以前、池袋西武のカルチャーセンターで甲野善紀氏との対談を見に行き、一度ナマを見ているのだが、そのときよりもゴツかった。対談ではスーツを着ていたので、あまり感じなかったのだと思う。
 道着の内田先生はいかにも合気道歴40年の体型をしていた。二の腕が図太く手首も太い。腹回りがあって袴がよく似合う。ご本人は背が高いとブログで書かれているが、正直そうは思わなかった。175以上ぐらいはあるかもしれないが、若い人が大勢いた更衣室の中では背の高い感じはしなかった。それより、歴戦の合気道家らしいごつさが目立っていた。
 その後、先生はお弟子さんたちと一緒に演武をされたと思うが、更衣室で順番を待つ僕は見ることができなかった。いつか内田先生の演武を見てみたい。

 さて、久しぶりの全日本だったが、気が付いたことがあった。それは参加者が世代代わりをしているなということだ。
 師範演武の一番バッターは、植芝家4代目の充央氏であった。充央氏は20代か30代前半の若者である。その人が並み居るベテラン師範を差し置いて最初に演武をした。また湘南合気道連盟の武田師範のご子息も模範演武で出演していた。この人もおそらく30代、あるいは40代前半だろう。若い師範である。
 一方、“気”の演武の渡辺信之師範は出場していなかった。漫画家のはりすなおさんも来ていなかった。岩間の斎藤守弘先生はもうこの世にいない。毎年、畳の上に立つだけで会場を沸かしたかつての老師範がいない。代わりに若い師範たちが多くの機会を与えられていた。
 三代目の路線が明確に出ており、また三代目が四代目への禅譲への道筋をはっきり示されていることが印象に残った大会であった。

初夏の収穫


 今日も良い天気だ。いつもどおり4時半に起床して、メールのチェックやニュースを読んだりする。今日は合気道全国演武会の開催日だ。10時前に家を出なくてはいけないので、あまり色々なことはできない。忙しいのだが、散歩にでかける。
 散歩先でクレッソンを収穫。これは予め採るつもりで出かけたのだが、帰路、野イチゴを発見した。真っ赤に実ったきれいな野イチゴが沢山、小道の脇に生っていたのだ。よく生った大きめなのをいくつかクレッソンを入れたビニール袋に放り込む。思わぬ収穫である。
 昨日は浄妙寺へ行く途中、セリを採ってきた。また夕方の散歩ではフキを採ってきた。どれも少し季節遅れで硬くなりかけているが、まだ大丈夫だ。おそらく今年最後の春の野草かもしれない。

 これは野イチゴ

洗って皿に盛った野イチゴ。明日食べる予定!



 洗った後のフキ。この自然のフキは、薄皮を剥かなくても大丈夫

<昨夜、洗っておいたフキ


 今朝採ったばかりのクレッソン。サラダにするとうまいのだ

<今しがた採ったクレッソン


 昨日採ったセリ。さてどんな料理に使おう

<報国寺の近くで採ったセリ



鎌倉・浄妙寺を歩く


 本日は快晴。空は晴天。風はそよ風。小鳥はぴーちくぱーちく。こんな日は、仕事だと称してパソコンの前で一日過ごすことはまさに罪悪である。ということで、本日は朝一で浄妙寺へ行ってきた。
 浄妙寺は歩いて20分、ここもまたよく行くお寺である。逗子に越してきて、最初に行った鎌倉の寺であったと思う。より近い報国寺でなく、なぜ浄妙寺であったかというと、浄妙寺は鎌倉五山のひとつであるからだ。鎌倉五山のひとつなら、よいお寺に違いない。ミシュラン三ツ星のレストランへおばさんたちが押しかけるように、ミシュランのレストランへは行けない僕は向かったのだった。

 そして本日である。朝一で向かったのだが、拝観一番乗りとはいかなかった。わずかの差で、中年女性の二人連れが僕より先に入っていった。別に一番を目指していたわけではないのだが、普通の日に駅から遠い浄妙寺まで、こんな時間に来ているひとがいることに驚いた。
 さて、浄妙寺だが先ほど書いたとおり鎌倉五山のひとつである。では鎌倉五山ってなに?ということになると思うが、それは臨済宗の格付けである。ご存知の方が多いかもしれないが、おさらいの意味で書くと、(一位)建長寺、(二位)円覚寺、(三位)寿福寺、(四位)浄智寺、(五位)浄妙寺である。鎌倉には他にもたくさん臨済宗のお寺があるが、この五寺は別格であると特に格付けされたものである。では誰が決めたかというと時代によって変わってくるようだが、初めは鎌倉幕府の北条氏が、続いて室町幕府によって選ばれ、今の五山は足利義満のときのものが定着したようである。

山門から見た本堂
山門からみた本堂

 浄妙寺は1189年、足利義兼(よしかね)により草創され、当時は「極楽寺」という真言宗のお寺であった。1189年って鎌倉時代の前なのになんで足利さんがお寺を建てたの、と思われる方もいると思う。ご存知のとおり鎌倉幕府は1192年(諸説があるようですが)、源頼朝により開かれた。鎌倉時代の前なのに、室町幕府の足利さんが鎌倉辺りでお寺を建立したって不思議ですよね。
 足利ファミリーというのは、実はとても古くて由緒のある家柄だ。足利は源氏と同じ清和天皇を祖とする軍事貴族だ。義兼の父は義国であり、その父は義光である。そうあの八幡太郎義光なのだ。つまり足利は源氏ファミリーなのだ。
 義兼の母は源頼朝の母と姉妹であり、また妻は北条政子と姉妹であった。つまり頼朝と義兼は従兄弟であって、女房は姉妹同士という、とても近い親戚であったのだ。当然、足利は源氏として関東に大きな勢力を築き、当時の有力豪族のひとつであった。その古い豪族が「極楽寺」を草創したのだ。その後、寺は義兼の息子である義氏(よしうじ)により臨済に改宗された。さらに時代は下り、足利尊氏により浄妙寺と名を改められたのだ。浄妙とは尊氏の父である貞氏(さだうじ)の戒名である。
 ちなみに、寺周辺の地名は浄寺という。おなじ読みであるが、漢字が異なる。これは、この一帯はかつて浄妙寺の寺領であり、地名も浄妙寺とされたが、江戸時代になってから、貞氏の法名を地名にすることを憚り、“妙”を“明”と改めたのである。またまたちなみに、徳川も源氏に連なると自称しているので、源氏の祖先に気を使ったのかもしれない。

 と、歴史の話しはここまで。ここからは現在の話しである。浄妙寺は現在、石窯で焼いたパンで有名である。ここに来ると必ず買って帰る。特にパン好きではないのだが、とても美味しいので買ってしまう。そのぐらい美味しいので、お薦めである。それで今回も石窯のパンを買いに行った。
 石窯パンは浄妙寺の境内だが、少し離れた場所で売っている。石窯ガーデンテラスという場所だ。とてもおしゃれな洋館で、お寺の敷地内にあるって不思議である。オープンは10時であったが着いたのは20分程度前だった。写真を撮ったりして時間を潰していると、お店のお姉さんが支度をしているのに気が付いた。そこで、なんでお寺の境内にお洒落な洋館があって、そこでパンなんか売っているのかを聞いてみた。
 その洋館はある貴族院議員の邸で10年ほど前に寺が買い取ったそうだ。土地はもとから寺の敷地内で、貴族院議員は土地を借りて、そこに邸を建てたらしい。それが老朽化し寺が買い取ることになったのだが、とても立派な建物だしなんとか保存をしたいと考えた。しかしそのまま保存をすると費用ばかりが嵩む。そこで邸で商売をしようと、ここは現代のお寺らしい発想をした。邸を保存するためには住んでいるときと同じように火を使ったほうが、維持には良いらしい。そこで住職は石窯焼のパンを思いついたそうだ。すごい!。さらにパンだけ焼いていてももったいないと、邸を大きく改造し、今はレストランとして営業している。
 以上、お姉さんの話だ。ちなみにこのお姉さんはフィギュアの安藤美姫に似ているとてもチャーミングな女性であった。それも最近の試合と恋愛でお疲れ気味のミキティでなく、高校生でデビューしたばかりのころのプリティなミキティだ。パンを買ったときに写真を撮らせてもらったのだが、さすがにこのブログで公表はできないので、オープンテラスの様子を紹介する。

石窯カフェテラスと働くミキティ
お寺の境内にあるとは思えない、お洒落なお店だ

 今まではこのオープンカフェまでしか入ったことがなかった。でも実は、建物の中がすごいのだ。建物の中はレストランになっていて、とても高そうなのでいつも外でお茶を濁していた(飲んでいた)のだが、見学だけでも大丈夫ですよ、とミキティが言ってくれたので初めて入ってみた。入ってみてわかった。これは、絶対入らなくてはなりません。外も良いけど、中はすごいです。特に中庭が。
 いつか俺も成功したら、こんな素敵な中庭を眺めながらランチを取りたいと思いながら写真を撮っていたら、メニューを見つけた。なんと外のオープンカフェと同じ値段である。これなら今の僕でも来られるじゃないか、と思った次第です。多分、それでもちょっと先になると思うけど。
 店を出ると、外のカフェにいたミキティがどうでしたかと、聞いてきた。とても良かったですと応えると、嬉しそうに微笑んでいた。「また、ぜひ(ここは強調)いらしてください」と言われ、とても気をよくして帰路についた次第である。

内庭から望む石窯カフェテラス
内庭から望む洋館。庭はたくさんの花で溢れていた

 もうひとつ。お寺を出るときに今度は入館券を売る女性と話ができた。そういえば、入るときに石窯ガーデンテラスの庭が良いと教わっていたのだ。こちらの女性に教わっていたことはすっかり忘れていたが、出口に来て思い出し、「お庭、とても良かったです」というと、こちらも嬉しそうに微笑まれた。なんでもあの庭は今の季節がもっともきれいなんだそうだ。今日の僕はついているみたいだ。

 ここは猫の寺でもある。そんな話しは聞いたことがないというなかれ。僕が名づけたのだ。いつも山門付近や本堂付近に猫がいる。それもかなりリラックスして、近づいていっても逃げることはない。猫好きな僕は思わずシャッターを切った。

山門にたむろする猫ちゃんたち
山門によくいる猫たち

 また、参道右脇の小道を行くと鎌倉の地名の由来であるといわれる藤原鎌足が“鎌”埋めた場所が「鎌足稲荷」としてあるとのこと。鎌足は“大化の改新”の大願成就を稲荷に感謝し、鎌をその地に埋めたそうだ。そこに今、鎌足稲荷として小さな祠が建っている。
 「なんとか少しでも早く、今の稼ぎだけで食べていけますように」と、僕も大願を掛け、祠に手を合わせたのだった。

大願をかけた藤原鎌足稲荷
大願をかけた藤原鎌足稲荷


大人から始める合気道(道場の選び方)


 合気道を始めてちょうど10年になる。まだまだ初心者だが、自分なりに一生懸命やってきたと思う。始める前は武道がこんなに面白いとは、こんなにのめり込むとは想像もしていなかった。この10年で、少しは経験を積んでこれたのではと考えている。机上の稽古の方も結構熱心に行ってきたし。それで僭越かもしれないが、合気道をこれから始めようとする人、あるいは始めて間もない人のために、自分の経験や知識、考えを書き纏めていこうと思う。まず第一弾は道場の選び方である。

 先ず最初に道場を見つけなくてはならない。自分の場合はインターネットで調べてみた。当時は東京都文京区に住んでいたのだが、グーグルで“合気道”を検索すると一番上に“文京区合気道連盟”のホームページが現れた。こここそが、現在も通う我が道場である。
 これはまったく、まれなケースだと思う。“合気道”と検索して、第一位に出てくる道場が自宅のすぐ近くにあるとは。たまたま先生のひとりがITに詳しくて、早い時期からホームページを立ち上げており、さらにページも充実していたので、そのようなことになったのだが。ちなみに現在も“合気道”で検索すると、「本部道場」、「wikipedia」、「文京区合気道連盟」の順で、第三位である。
 神戸女子大の内田先生(合気道六段)がよく自分の武運についてブログで語っているが、自分もやはり武運があるのだと思う。内田先生の場合はたまたま自宅からすぐのとろこで多田宏師範という名人の道場があったことを誉れとしているが、自分もたまたま近くの道場がグーグルの検索一位でありこれは武運であると言祝ぎたい。しかし近くに名人の道場がなくても、グーグルの検索上位に来る道場がなくても、心配はいらない。良い先生にめぐり合える、道場で気心の通じる仲間に出会えるなど、どれも武運だと思えばよいというだけの話だ。

 さてその後、合気道の道場をいくつか、ほかにも空手や剣術、棒術などの道場にも行く機会があった。そのほとんどはホームページを持っていなかった。ホームページを持っているケースの方がはるかに少ないのだ。しかし最近はホームページに力を入れる道場も増えてきた。ホームページを持っているということは、外に対して門戸を開いているということであり、新人を受け入れる意思があるということでもある。地元の道場をネットで調べてみるという選択肢はやはり有効であると思う。

 では他の方法にはどのようなものがあるのだろうか。確実なのは最寄りの体育館やスポーツセンターに問い合わせてみる方法だろう。柔道場があるところなら、大抵は合気道をやっている。それも複数の団体が稽古をしている場合もある。それらの情報を体育館やスポーツセンターは丁寧に教えてくれるだろう。
 もうひとつ挙げるとすると、やはり紹介だ。友人、知人で合気道をやっている人がいたら、その人が通う道場に連れて行ってもらう、あるいはその人の紹介で地元の道場を訪ねてみる。本当はこれがもっとも確実な方法かもしれない。道場の雰囲気を、知人を通してうかがい知ることができるのだから。しかしそうした知人をもつ幸運が誰にもあるわけではない。そうした幸運がある人は、これはまた武運があるということなのだろう。それともうひとつ、区市町村の運動振興課のような部署に問い合わせることもできると思う。

 さて、地元の道場の場所は分かった。さぁ、次は見学だ。
 まず、見学したいと申し出て、受け入れてくれなければ困ってしまう。これは当然ですね。先方が受け入れる意思がないとしたら、それは無理だ。
 そのような道場がはたしてあるのかというと、結構あるのだ。どうして受け入れてくれないか、入門したことがないので想像するしかないのだが。
 文京区の道場の例だと、見学してから実際に黒帯までゆける人は40人に一人の割合だ。残りの39人は途中で辞めてしまう。文京はそれを織り込み済みで、初心者を受け入れている。僕も初心者を指導することがあるが、すぐに辞めてしまうとやはり脱力感を感じる。見学不可の道場はそうした非効率を避けているのだろう。それだけ熱心だとも言える。しかしながらいくら熱心でも門戸を開いていないのなら、そこはご縁がなかったということだ。選択肢から外さなくてはならない。
 また見学をするためにはまず入会を求める道場がある。以前、そのような道場に通ったことがあるが、そこはとても良い道場だった。矛盾するようだが、まったくの初心者はあえてそうした道場を選ぶ必要はないのではないか。入ってみたら、まったく合わない、あるいは合気道自体に興味が持てないというケースもある。初心者が無駄になるかもしれない入会金を払うというリスクを取る必要はないと思う。
 文京では見学は無料。それどころか、本当にやり続ける自信が持てるようになるまで、入会を強要することはない。最長なら3ヶ月ぐらいは入会せずに参加することができる。このような道場は他にも結構ある。現在、同時に通う逗子の道場も最初の1ヶ月ぐらいは無料で通わせてもらった。
 3ヶ月間無料というのは極端かもしれないが、初心者はせめて1,2回の体験稽古を認めてくれる道場を選んだほうが無難である。それは入会金のリスクを避けるためだけではない。そうした初心者フレンドリーな道場は、色々な面でフレキシブルであり、おおらかな傾向にあるからだ。例えば仕事が忙しくて来られない期間が続いたとしても理解してくれる。上下関係が緩やかである。老若男女、様々な人が来ている。そしてここが大切なのだが、初心者が多い。
 入ってみたら上級者ばかりで初心者は自分だけというのは心細い。同程度の人間がいて、お互いに励ましあうことは心の支えになる。また自分より後輩が入ってくるというのもよい。後輩と稽古することにより、自分の技の上達を知ることができる。

 道場を見つけ、体験稽古も受けてみた。さて、そこの道場は自分にあっている道場なのだろうか。通い続けるべき場所なのだろうか。ひょっとして一生のお付き合いになるのかもしれない。隣町にも同じような道場がある。そちらの方が良いのではないか。当然、そうした疑問や不安は沸いてくるだろう。次の回では、そこのところを書いてみたい。

竹の寺、報国寺(鎌倉の寺社)


 昨日、報国寺へ行ってきた。報国寺は家から歩いて15分、僕の家から最も近い鎌倉の寺である。普通、報国寺へ行くにはJR鎌倉駅からバスに乗り、“浄明寺”停留所で下車をする。金沢街道と平行して流れる滑川(なめりかわ)を越え、徒歩3分の場所にある。
 僕の場合は報国寺のある宅間ヶ谷(たくまがやつ)を山側から越えて侵入し、ほぼ宅間ヶ谷を縦断するようにして寺へ進む。谷(やつ)の中央には古い石組みの側溝が流れており、今の季節はセリや雪ノ下が青葉を日に光らせているのを眺めながら歩くことができる。
 バスで来る場合のルートだと、滑川を越えると先ほど書いた。川に架かるのは“華ノ橋”と呼ばれる小さな橋である。その名の由来は報国寺の先にある“華頂宮邸(かちょうのみやてい)”で、そこは報国寺を過ぎてすぐのところにあり、先ほどの側溝が横を流れる小道を2,3分上ったところだ。小道の左に建つ邸は古い洋館で、映画の撮影によく利用されるという。なるほど典型的な豪奢な洋館造りである。邸の裏にはよく整備された庭園が広がり、普段は無料で開放されている。華頂宮は元宮家であるが臣籍降下し侯爵家となった。邸は侯爵の別荘であり、近代になり別荘地となった中世都市鎌倉の別の顔をこの邸から伺うことができる。報国寺に行かれる方は時間があれば、少しだけ脚を延ばされると良いのではないか。

 報国寺は足利尊氏の祖父家時が1334年に創建したとされる(上杉重兼が開基とする異説もある)。家時の墓といわれる石塔が、報国寺の裏にある衣張山(きぬはりやま)にはある。

報国寺の山門
報国寺の山門

 創建の前年に鎌倉幕府が滅亡している。また翌年の1335年は、尊氏が後醍醐天皇より賊徒の烙印を捺され、新田義貞が出陣した年である。報国寺は激動のさなかに創建された寺である。
 開山は仏乗禅師で、禅師は建長寺の無学祖元の弟子といわれる。その縁か現在、報国寺は建長寺派に末寺で臨済宗を奉じている。
 かつては土地の名から“宅間寺”と呼ばれていたことがあったらしい。また宅間法眼作といわれる迦葉尊者(かしょうそんじゃ)の像があるため“迦葉寺”ともいわれた。しかし今は“竹の寺”と呼ばれることの方が多いだろう。
 そうここは竹の寺なのだ。本堂左に竹の庭への入り口がある。200円を払い一歩踏み込むとそこは、鮮やかな緑の線が数限りなく空高く突き刺す静かなる場所なのだ。京都の嵐山も竹で有名である。あそこはより広く、もっと大雑把だ。一方、こちらはより瀟洒で繊細である。前後左右100メートルにも満たない空間だが、一面竹の庭は異空間というのに相応しい。時間や場所を忘れ、ただ竹を揺らす風を感じるのみだ。

異空間のような竹の庭
異空間にさ迷い出たような錯覚に陥る竹の庭

 昨日は朝一番でこの竹の庭に入った。風に舞い落ちる竹の葉を掃いている女性と話すことができた。5月の竹庭はあちこちからタケノコが顔を出している。ほとんどはタケノコとはいえないぐらい大きく成長してしまった若竹であるが、まだ美味しそうなのもいくつか残っている。これだけの数のタケノコだ。寺の食膳に並ぶこともあるのではないかと聞いてみた。すると驚くべきことに、まったくタケノコは採らないという。生えてきたものは全て自然にまかせ、好き放題に伸ばすというのだ。
 以前、小さな竹の庭がある家に住んでいたことがある。生えていたのは10本程度の竹であったが、毎年かなりの数のタケノコを採取した。竹が密集してしまうので、採らなくてはならない。当然、採ったタケノコは美味しくいただいた。
 ところが竹の寺ではタケノコを採らない。それなのにあれだけ見事な竹が均一に、決して密集することなく生え揃っている。竹の寺の不思議だ。

ちょっと成長しすぎたタケノコ
タケノコとしてはちょっと成長しすぎだが、、

 しかしひとつ種明かしをしてもらった。タケノコは採らないが、7、8年の竹は刈り取るという。そうであったとしても、見事な竹林である。

 報国寺のあるのは宅間ヶ谷(たくまがやつ)で、宅間法眼というひとが迦葉尊者の像を作ったということには触れた。宅間法眼は勝長寿院を源頼朝が建立する際に京から呼び寄せた宅間為久(ためひさ)の子孫であり、宅間一族は代々絵画や像を作る芸術家集団である。その一族が住み着いたのが、報国寺のある宅間ヶ谷で、一族の名がその土地の名として呼ばれるようになった。
 宅間法眼は数多くの像を報国寺に残した。特に有名なのが迦葉尊者の像であるが、明治23年(1890)の火災で惜しくも炎上してしまった。今残るのは模刻像である。ただし法眼作といわれる釈迦如来坐像は今も本尊として残っている。

 報国寺を語る上でどうしても忘れていけないことがある。それはここが一般に門戸を開く禅道場であるということだ。毎週日曜に暁天坐禅として行われ、希望者は在家信者の指導のもとに坐ることができる。
 僕も2回ほど参禅した。指導はとても丁寧でまったくの初心者も安心して参加することができる。鎌倉という場所柄、ガイドブックを手にした若い女性や年配のグループなど多数が参禅しており、中にはどうしても結跏趺坐どころか。半跏も組めない人がいたが、あぐら座りで頑張っていた。

暁天坐禅が行われる迦葉堂
暁天坐禅が行われる迦葉堂

 最初に参禅したときは、ベテラン在家が居並ぶ迦葉堂でともに経を読み、朝粥までもいただくことができたが、2回目は人数が多いためか、本堂で初心者のみの参禅だった。経も典座も省かれていて残念な気がしたが、何度か通うと迦葉堂での参禅に加わることができるという。たしかにほとんどの初心者参加者は一回のみの参禅で止めてしまうようなので、真剣に座るベテランの邪魔になることは避けねばならない。もっともな対応だと思う。一回のみの参加者も、そこは宗教の地であり修行の場であることを心して参加しなくてはならないのは当然のことだ。

 坐禅道場である迦葉堂の裏は枯山水となっている。竹の庭もよいが、ここは明るく開放的で違った趣がある。朝早かったので、庭の手入れを見ることができた。ならされる石の庭を見ながら初夏の日差しを受け、静かな時間を過ごした。裏の山では鶯が鳴いていた。

迦葉堂裏の枯山水
迦葉堂裏の枯山水


祖先の地を参る


 慌しい週末だった。PCを開く間もなく、4日ぶりのブログ更新である。
 まず土曜日は合気道の稽古に本郷まで。それから駒込にある友人の家での飲み会に参加した。飲み会といっても参加者は自分を入れて3名だけ。それも自分以外は女性という展開で、とても幸せな時間を過ごした。
 事前に尋ねたところ、手ぶらで来て欲しいと言われたが、そうにもいかずに駒込に着いてから何を買おうかと散策。窮乏生活突入直後ということもあって、焼き鳥を手土産にご自宅に伺った。駅から5分のところにあるきれいなマンションだった。
 マンションでは美味しい料理が用意されていて、ビールにワインなど、たらふく飲んで食って、あっという間に酔っ払った。最後は膝枕までしてもらったりして、至福の時間を過ごした。しかし翌日が早いので8時半にお邪魔し、帰路を急いだ。

 翌日は老父とともに父の故郷である甲府に出かけた。父との二人旅も、父の故郷への旅も始めてである。どんな旅になるのか、不安もあった。新宿から乗ったスーパーあずさでは興奮しているのか、父は甲府の思い出を話し続けた。
 父の両親、つまり僕の祖父母はともに甲府出身である。結婚してのち上京し、父は浅草で生まれた。なので正確には甲府は父の故郷ではない。しかし祖父母の出身地であるので、我が家で甲府は父の故郷ということになっている。
 浅草で生まれ、日暮里で育った父だが、甲府で生活したこともあるという。戦争中で、疎開先として祖母の実家で2年弱を過ごしたからだ。
 父は6人兄弟の下から二番目で、上の兄姉は独立しており、また妹は学童疎開で福島へ行っていた。高校生(旧制中学)だった父だけがひとり、祖母の実家に預けられたらしい。
 祖母の実家は甲府盆地の南西部にあり、かなり大規模な農家であったらしい。しかしそのとき男衆はみな戦争に行っており、残っていたのは父にとっての祖母と出戻りの伯母という女性二人だけであった。高校2年の男子学生は男手として、農作業を期待されたのだろう。

 この旅は父にとっても60年ぶりの帰省であった。酔うと話す疎開先の田舎の風景は相当変わっていたようだ。祖母と伯母と3人で過ごした家は当然、建て替えられており、今は伯母の孫が住んでいる。その家で当時の面影を残すものは神棚と仏壇、それと庭にぽつんと立つ厠だけだった。厠は今は使われていないが、どういうわけか取り壊されもせずに、そのままの姿で残っていた。僕は古い田舎のトイレに興味深々で、中に入ったり写真をとったりしたが、父はあまり興味がないようで、外から眺めるだけだった。

厠の前を歩く父


 その家に着いたのは午後3時ごろだった。すでに我々は昼食を取っていたが、懐かしいだろうと甲府名物のほうとうを出してくれた。“ほうとう”は父の好物で、甲府の田舎の“ほうとう”ほど旨いものはないと口癖のように言う。しかしいざ本場のほうとうが出されても、昼食を食べた後の老人には負担らしく、ほとんど箸をつけることはなかった。僕も昼飯を食べた後であり、さらに昼飯は甲府駅前の店でほうとうを食べたばかりであり、ちょっと苦しい状況だったが、根性で完食した。腹が一杯であったが、駅前の店よりもうまかった。

伝家の“ほうとう”


 何度も甲府の疎開先の話は聞いている。家の前の小川には蛍が舞い、小さな寺と見渡す限り田畑。目を少し遠くに向けると、四方は盆地を囲む山。僕の中の甲府も戦前、戦中のものだった。しかし実際に目にする甲府の田舎は、小奇麗な一戸建てが軒を重ねて立ち並び、小川はコンクリートの蓋がされていた。しかしがっかりしているかなと盗み見る父は、まったく感傷的な態度を示すことはなかった。

 その日は近くの寺にある先祖の墓に参り、線香を上げ、5時近くにそこを出た。夜は湯村温泉というところに泊まった。温泉場ということでかなりの田舎を想像していたが、甲府駅からバスで15分程度のところにあり、普通の住宅地の中にあった。窓をあけるとアパートや駐車場が目に飛び込むような場所であった。

 翌日は路線バスを小一時間ほど乗り、昇仙峡という観光地にいってきた。ここも甲府の外れなのだが、父も始めてだという。前から行きたかった場所であるらしい。
 ケーブルカーに乗ったり、岩魚を食べたりしながら過ごした。あっというまに帰りの列車の時間になった。帰りのスーパーあずさでは、父はすぐ寝息を立てた。

本日より窮乏生活に入ります


 昨年4月から今年3月まで、預金通帳に記載されている支出をすべて書き出してみた。そうしたら恐ろしいことが判明してしまった。このままだと、思ったより早く資金がショートしてしまう。
 大体、収支については把握しているつもりだった。家計簿みたいなものは付けていないが、ざっくりと頭の中で計算をしていた。現実の数字とはそんなにかけ離れていないだろうと思っていた。ところが結構、かけ離れていたのだ。
 このブログはかなり知り合いの人も読んでいるし、自分の実名、写真も公表しているので正直な数字を書くのはちょっと憚られる。でも、知りたいでしょ。みなさん。そこで出血大サービスで数字を公表してしまいます(ざっくりだけど)。

 昨年、僕が使った金額はローンの支払いや税金、年金など全て含めて約500万円であった。
 どう思われますか。多いと思われますか。少ないと思われますか。普通のサラリーマンなら、きっと平均的な支出額だろう。でも僕は失業者なのだった。それにひとりものだし。僕としては予想以上の額であった。おそらく400万円以下で抑えられたと思っていたのだが。
 昨年度は税金の額が大きかった。というのも皆さんご存知の通り、地方税は前年度の収入から計算される。それと健康保険も結構な額になる。これもまた前年度の所得を基にした数字になるからだ。それと昨年は翻訳学校にも通っていた。開業一年目であり、プリンターやデジカメなどちょっとした小物は購入した。こうした要素があり、ある程度は覚悟していたが、500万円はちょっとかかりすぎだ。
 僕と同時期に退職した人との話しを総合すると、家族構成で多少は異なるが、何も贅沢はしなくても毎月3,40万円はかかるらしい。例えば40万円で計算すると年間480万円だ。大体僕の昨年の支出と同じである。でも僕は一人暮らしなのだ。彼らは大抵子供が2,3人いる。その分、税金は安いかもしれないが、僕より相当掛かってあたりまえだ。
 それに昨年はどこにも旅行にもいかず、大きな買い物もしなかった。車も持っていない(免許も失効してるし)。どちらかというと慎ましく暮らしているタイプなのだ。
 正直、なんでこんな額になったのか想像がつかない。預金通帳にはもちろん明細は書かれていない。ATMで10万円引き出したとか、VISAカードで52、000円使ったとか、そんなザックリした数字だけだ。本当はATMで引き出した10万円が何に使われているのかが大切なのに。大切なそれが、分からんのだ。メモなんかしてないし、覚えていないんだもの。
 ということで本日から、家計簿を付けることにした。といってもちゃんとしたものは面倒なので、手帳に書き込んでいこうと思う。

 できれば今年は250万円で過ごしたいと考えている。いきなり半分なんて、そんな無茶なと思われるでしょ。僕もそう思う。でも計算上は不可能ではない。普通のサラリーマンって、小遣いはいくらぐらいだろうか。僕は現役のときは結構ルーズな生活をしていたから10万円ぐらいだったが、普通なら3万から5万円ぐらいだろう。その程度の小遣いで、自炊しながら慎ましく生きていけば250万円は可能な計算だ。なので、友人の皆さん、しばらく僕は付き合いが悪い男になります。それはこのような理由があってのもので、みなさんと縁を薄くしたいと思っているものでは決してありません。いつの日か、収入がそれなりになった暁は、がんがんお付き合いさせていただきますので、それまではご容赦のほどを。

 さぁ、サブタイトルにあるように本当に今後、僕はどうなるのでしょうか。みなさん、楽しみではないですか。僕はマジで楽しみです。自分自身のことですが、暫く暖かく見守っていく所存です。

新聞のページ数について(2)


 先月、新聞のページ数についてのブログを書いた。そのページがよく読まれている。有難いことに今でも検索してそのページに飛んでくる人が毎日のようにいる。興味のある方が多いようなので、もう少し新聞のページ数について書いてみることにする。
 まずは、前回の訂正を。日経が48ページ、読売、朝日が40ページ、毎日が32ページ、産経26ページぐらいが今の相場だと書いたが、読みが甘かったようだ。先日、日経を買って改めてページ数を見ると32ページだった。土曜か日曜かだったと思うので、たまたま少なかったのかもしれないが、恐らく平日でも36ページぐらいだろう。日経で32~36ページとなると、朝毎読では28ページ程度だろう。随分、少なくなったものだ。

 さてまずは新聞ページ数の物理的側面について書いてみたい。上記のページ数を見て、何か気付かれたことがあるだろうか。答えは産経の26Pを除いて、各社のページ数は全て4の倍数であるということだ。
 新聞紙はB2版のサイズの紙を二つ折りして作られている。なので1ページのサイズはB3となる。そのB3の裏表に印刷するので、一枚の新聞用紙(B2版)で4Pの紙面ができる。この一枚の新聞用紙を10枚重ねれば40ページ、8枚重ねれば32ページの新聞となる。つまりいつも4の倍数となるのだ。では産経の26Pはどうして可能かというと。これはB2を6枚と、B3を一枚使って構成させているのだ。しかし一枚だけB3を使うというのは作業効率が悪い。ゆえに通常新聞社は4の倍数のページ数を選択する。急な広告が入ったような特別な場合のみ、B3を一枚混ぜて作る。

 もうひとつ、物理的側面について。新聞は輪転機という大きな印刷機で印刷する。この印刷機では書いて字のごとく、巨大なロールを回転させ、その上に用紙を乗せて印刷する。普通の印刷は平版といって、裁断された紙にハンコを押すようにペタペタと印刷していく。この方法だとサイズを自由に調整でき便利なのだが、印刷に時間がかかる。時間を特別に争わない書籍などは、この方法で印刷される。
 一方、輪転機は裁断せずに、巨大なトイレットペーパーのような用紙のロールに直接印刷していく方法である。裁断は印刷の済んだ後に行う。輪転機だとサイズの自由は利かないが、ものすごいスピードで印刷することが可能である。時間が命である新聞印刷では、この輪転印刷を採用している。
 新聞社はひとつの工場に必ずこの輪転機を複数台、所有している。そして一台の輪転機では基本的に4ページ分だけを印刷している。だから32Pの新聞を作るには輪転機が8台必要となる。同じ輪転機を2度使えばいいではないかと思われるかもしれないが、新聞は時間が命である。輪転機を2回使う余裕はないのだ。
 また輪転機は巨大な印刷機だ。そして非常に高価である。さらに新聞社の印刷工場は都心にある場合が多い。これも時間の成約を考えて消費地に近い立地を選んだがだめだ。これらの理由から印刷工場はギリギリの台数しか輪転機を備えていない。予備の輪転機など一台もないというのが、普通である。
 このギリギリの台数という数の制限により、新聞の最大ページ数は決まってくるのだ。8台しか輪転機がない工場では32Pの新聞しか作れないという具合に。
 各社にとって、ページ数は経営方針の柱のひとつである。確か日経は48P、読売、朝日は42P,毎日、産経は32Pぐらいだと思う(うろ覚えだが)。このページ数を前提に工場の建設計画や編集、制作の人員構成が決まるのだ。
 このように新聞のページ数は各社の輪転機の台数により、上限が決まる。今日は広告が沢山あるから、あるいは大事件が起こったからといって、いきなりページ数を上限より増やすことは原則、できないのだ。(原則、と書いたのは例外が存在するということだ。急を要さない内容なら、予め刷っておくことができる。例えば正月紙面のように)

 各新聞社に最大ページ数が存在することはご理解いただけただろう。では、この最大ページ数はどうやって決められているのだろうか。
 新聞を作る現場サイドはページ数を多くしたがる傾向にある。特に編集局はその傾向が強い。自分たちが書き、あるいは担当した記事が新聞に載る可能性が高くなるからだ。前回も書いたが、結構ボツになる記事は多いのだ。取材した本人は勿論のこと、デスクあるいはその上司である部長や局長もなるべくボツ記事は増やしたくない。
 広告局も広告を載せるスペースが増えるので、ページ数が多いほうを好む。広告もスペースの関係でボツになることがあるのだ。苦労して取ってきた広告は、クライアントへの立場もあり、絶対掲載したい。
 販売局も読者への受けを考えて、少しでもページ数が多いことを望んでいる。他社より少ないページ数では販売競争上不利になる。せめて他社と同程度、できれば大いに越したことはないと考える。
 一方、経営者サイドは経理的な判断を下すことになる。編集、広告、販売が希望し、読者が喜ぶからといって、闇雲にページ数を増やすことはできない。その分、原価が増えてしまうのだから。
 最大ページ数はこの落とし所で決まることになる。特に重要なファクターは広告である。基本的に用紙原価を上回る広告を稼げるならば、ページ数を増やすほうが経営上よろしい。そこで経営は経済状況や販売部数、広告局の実力を鑑みて、そのときに確実に埋められる広告紙面の量を推測して、最大ページ数を決めるのだ。

 各新聞には最大ページ数という物理的な制約があること。そしてどうやって最大ページ数が決められているのかについて、ご理解いただけたであろうか。ちょっと物理的制約の面の割に、ソフト的な制約についてはあっさりした頭でっかちな文章になってしまった。
 今後、編集局、広告局、販売局、あるいは制作局やデジタル部門などについて、より掘り下げて書いていきたい。ページ数の問題は各局の中心的な問題でもあるので、そこでまた取り上げていきたい。
 ということで、今後も新聞社のあるいは新聞自体についてをテーマにした記事を書いていくつもりである。

雨の一日


 今日は一日雨である。窓から外を眺めながら仕事をする。
 何度も書いていることだが、雨の日に自分が濡れる恐れのない場所から、雨を眺めていることはとても心地よい行為である。小さなころから好きだった。
 そうだ、雨の日にキャンプをしていて、テントの中で雨の過ぎるのを待って一日過ごすことも好きだった。テントの中の方がかえって雨音がよく聞こえる。外界に近い分だけ、その隔たりを感じることができる。
 雨音をBGMに本を読む。夕方になったら、ホットウイスキーなどちびちびやる。あれは、いい。

 ところで今朝ニューヨークタイムスを読んでいると、新しい最高裁判事の候補についての記事が出ていた。エレナ・ケーガンという女性が候補者だそうだ。
 アメリカでは最高裁判事の人事はとても大きなニュースになる。一方、日本ではまったくといっていいほど法曹界の人事について話題とならない。だから専門家でない限りは、誰が今の最高裁裁判官なのかは知らない。なのに選挙では最高裁裁判官の信任を問う。知らない人の信任を負かされても弱ってしまう。あれは実に偽善的なセレモニーだと思う。

 アメリカに話しを戻すが、アメリカの最高裁判事は9人だそうだ。今回初めて、プロテスタント系の判事がゼロとなるかもしれない。今回辞める判事が唯一のプロテスタントで、エレナ・ケーガンがユダヤ人だからだ。こうしたことが話題になることもアメリカらしい。
 では他の8人の詳細だが、6人がカソリックで2人がユダヤだそうだ。エレナ・ケーガンに決まった場合、なんと9人のうち3人もがユダヤ人になるのだ。ユダヤ人、恐るべしだ。
 金融界でのユダヤ人の力は広く伝播しているが、法曹界でもその力はとてつもなく大きいことを改めて知らされる。

 ニューヨークタイムスには、メキシコ湾のオイル漏れ事故の記事も載っていた。今も原油は流失し続けている。すでに海産物に大打撃を与えているが、今後は生態系へのダメージも相当大きくなると同紙では予想していた。
 さて、遠いメキシコ湾の事故であると、我々日本人は悠長に構えていることはできない。なぜって、日本のすぐ近くで例の国が海底油田を採掘しているからだ。もし同様の事故が起きた場合、あの国はどのような対応を取るのであろうか。
 黄砂が飛んでいっても知らん振り、最近ではスモッグまで日本に飛ばしているのに平気な顔である。油が沖縄のさんご礁を真っ黒にしたからといって、態度が変わるとは思えない。考えるだに恐ろしい話しだ。
 それにしても黄砂やスモッグについては、日本政府よ、もっとしっかりと抗議すべきだぞ。

神経鞘腫体験記(2)


 神経鞘腫の続きである。

 「九段坂病院には中井先生って脊椎の手術では有名な先生がいるんですよ。知り合いだから紹介状を書いてあげますよ」
 「はぁ」
 「中井先生に頼めば大丈夫。うん」
 気落ちする僕に渡辺先生は励ますように言った。

 その日は会社に戻った後、仕事が手に付かなかった。さっき見せられたレントゲンには大きな腫瘍が写っていた。それはとても大きなものだった。鶏の卵よりも一回り大きいサイズだという。あんなに大きな異物が脊椎に生えているなんて。
 過去に見たドラマや映画を思い出した。腫瘍で苦しむ患者を主人公にしたものばかり。激痛、車椅子、包帯をぐるぐる巻きにされた頭、そして死。
 その日から死について、自分の人生について真剣に考えるようになった。
 
 翌日、紹介状を手に九段坂病院へ向かった。
 病院についたのは始業直後の9時ごろ。初診なので色々と手続きをすませ、ようやく整形外科の窓口に行けたのは10時近くになっていた。すると今日の当日受付は9時前に終わってしまったと言う。明日、早い時間に来るか、予約をしてから後日来て欲しいと。
 ええ、始業直後に着たのに間に合わないなんて。そんな殺生な。僕はあわてた。それに急を要する患者なのだ、僕は。脊椎にでっかい腫瘍ができているんだ。そんな悠長なことをいってられるか。それに一応、仕事もあるし。二日続けて休むわけにはいかないよ。
 「そこをなんとかできませんか。なんだか腫瘍があるらしいんですよ。すぐに診てもらえって、他の病院で言われて来ているんです」
 看護婦さんはとてもいい人だった。入院後も何度も感じたことだが、九段坂病院のスタッフはみな親切なのだ。同情してくれた看護婦さんは「ちょっと待ってください。なんとかしてみます」と僕の切迫した表情を見て言ってくれた。
 その日の担当医は2名だった。どちらかに許可を得ているようだった。ひとりが快諾してくれた様子で、一番最後に診てくれることになった。ああ、助かった。
 2時過ぎに診察の時間がやってきた。その先生とは後日仲良くなり聞いたのだが、診察は本来午前中のみなのだそうだ。当然、僕の診察が済むまで昼食も休憩も取れなかったそうだ。
 それは若い先生だった。
 持参したCTのフィルムを見せた。
 「腫瘍ですね。そうですね、多分神経鞘腫でしょう」
 「はぁ」
 「でも組織を採取して、調べてみないとはっきりとしたことは分かりません」
 若い先生は、組織を調べてみないと神経鞘腫なのかどうか、そして悪性か良性かが分からないと言う。そして組織を調べるには手術が必要なのだそうだ。つまりいきなり手術になるわけだ。
 手術はどの程度のものかと問うと、もっとよく調べないと分からないが、腹から、あるいは背中から開き、脊椎に付着している腫瘍を切除するものだが、3時間程度で済むという。

 結局、よく分からないのだ。腫瘍がなんなのか。悪性なのか良性なのか。単発性か群発性か。治るのか治らないのか。
 そして次のことも言われた。手術を受けるとしても、手術の予約が3ヶ月先まで入っているので、その後でなくては手術をできないのだそうだ。そしてそれさえも今すぐに手術の予約をした場合でだ。
 そんな先で大丈夫なのだろうか。もし悪性だったら緊急を要するのではないか。そこを問うと、恐らく良性だろうから、その場合はかなり後でも問題はないらしいと応える。ええ、だって手術しないと良性か悪性か分からないのでしょ。その手術が最短でも3ヶ月先だなんて。もし悪性だったら、僕どうなっちゃうのぉ。
 そしてもうひとつ大事なことを言われた。手術をするとした場合、執刀するのはその若い先生になるのだそうだ。初診で診た先生が、その患者の主治医となるルールがあるのだそうだ。手術を行うのは有名な中井先生ではないのだ。

 その日は不安な気持ちがむしろ増して、手術の予約も入れずに帰ってきた。渡辺先生にもう一度相談してみようと考えた。


 神経鞘腫体験記(3)へ


お嬢さんとのお別れ(正療園)


 もう7年間も続けて食べていた玄米がある。三谷さんという埼玉の歯医者さんが主催する身土不二の会というのがあって、そこが岩手県の正療園というところに依頼して作っている完全無農薬の米だ。
 7年前たまたまネットで完全無農薬のお米を探していて、見つけたものだ。歯医者さんがやっているのだからきっと信用できるだろうと思い、取りはじめた。
 たまに虫が入っていることがあった。ときには雑草の種が混入していることもあった。それも完全無農薬だからということで、むしろ好ましく受け止めていた。
 お米、僕の場合は玄米で頼んでいたが、は注文してから脱穀し、直後に真空パックされて送られてくる。だからとても新鮮で美味しい。うちにくるお客さんは玄米が始めての人もみなそろって美味しいと言っていた。その美味しい玄米を中止することにした。

 昨年、一度お米が届かないことがあった。2ヶ月ぐらいたってからお米が送られてきた。お米とともに手書きの詫び状が入っていた。
 今年になってまたお米が届かなくなった。2ヶ月に1度送ってくる契約だったので、お米のストックが切れてしまいスーパーで買い足した。4月まで待ったがまだ届かない。しかたなく催促のメールを送った。ところが1ヶ月してもなんの返事も来ない。
 さすがに腹がたった。そこで思い切って契約を打ち切ることにした。その契約打ち切りのメールにも返事が来ない。以前は常にクイックレスポンスであったのだが、何かが変わったのかもしれないと思った。
 ところが昨日、いきない玄米が送られてきた。契約打ち切りのメールは1週間以上前に送ってあるのにもかかわらず。いつもはメールで要件を済ませるのだが、そこで初めて電話を掛けてみることにした。

 三谷さんは、声の感じからして大人しそうな、優しげな感じの男性であった。いかにも几帳面なお医者さんという感じだ。
 催促のメールは最近見つけたらしい。そこであわてて玄米を送ってきたそうである。中止のメールは見ていないという。完全な自分のミスであると何度か謝罪の言葉を口にされた。
 完全無農薬のお米の販売は完全にボランティア的活動で、特に事務は三谷さんが手作業で行っているという。だからこういうこともたまにあり、お客さんからは電話で催促や苦情が来ることもあると正直に言っていた。その真面目な口調に好感をもった。玄米は取り続けようかとも考えた。しかしやはり中止することにした。
 事務の杜撰さにちょっと閉口したことも事実である。しかしより大きな理由がある。それは値段だ。僕が取っている玄米の値段は10キロで6600円プラス送料840円かかる。スーパーで買う普通のお米の倍ほどの値段だ。今の僕にはちょっと贅沢な品である。
 これも縁なのだなと思った。高価な完全無農薬の玄米はちょっと良いとこのお嬢さんみたいなものだ。お付き合いするにはお金がかかるのだ。新聞社に勤めているときはお付き合いできたお嬢さんだが、仕事がほとんどない翻訳家となった以上、そのお付き合いは負担となる。お嬢さんの方もちょっと心変わりしているようだし、思い切って別れることにしよう。

 最近、お米が切れていたので近所の西友で何度か白米や玄米を買った。西友にはグレートバリューという自社ブランドがある。買ったのは一番安いグレートバリューのお米だ。
 このグレートバリューのお米は、例えるなら地元の商店街でアルバイトしている女の子みたいで、付き合いやすい。しばらくは庶民的なこの女の子とお付き合いすることにしよう。

神経鞘腫体験記(1)


 神経鞘腫(しんけいしょうしゅ)の体験記を書く。普通、病気について個人的な体験をつづる場合、“闘病記”とすることが多いと思う。僕も最初は「神経鞘腫闘病記」というタイトルをつけた。でも何か違うと思った。大袈裟だ。事実を伝えていない。なぜなら、僕は神経鞘腫と戦いはしなかったからだ。
 病気を告げられたときはショックを受けた。家族に病気を伝えたときは申し訳ないと思った。会社に病気の説明をし、長期休暇の願いを出したときは敗北感を感じだ。検査は痛かった。手術は怖かった。術後はものすごく痛かった。でも僕は戦っていない。ただ流れに身を任せていただけだ。
 だからこれから書くのは体験記である。僕が神経鞘腫という病気を通じて得た経験、そして感じたことを書いていく。

 神経鞘腫とは病気の名前である。以前、僕が患った病気の名前だ。とても珍しい病気らしい。。どのぐらい珍しいかというとあるサイトによると10万人に一人の発症率だそうだ。1億2千万の1万分の1だと1200人。日本に1200人しか患者のいない病気なのだ。しかしこれは後からわかったことなのだが、実際は年間の発症数が1200人ということで、患者の数はもうちょっと多いと思う。どちらにせよ珍しい病気であることには違いがない。
 さて病名を告げられてから慌ててネットでこの病気について調べてみた。しかし情報は少なかった。ただし幾つか医者や病院の発表する記事を読むことができた。これはこれで大変参考になった。それと同時に患者の書いた体験記もいくつか見つけることができた。実はこれが非常に多くの情報を与えてくれた。
 そこで僕もこの病気を患っている患者やその家族の一助になることを願い、また自分の備忘のためにも神経鞘腫の体験記を記すことにする。
 なので普段のブログとは趣を異にする。興味のない方もおられるだろう。その方には申し訳ないが、今日はお休みということにさせていただきます。なお、何回かシリーズで書いていくつもりである。いつ2回目を書くかは未定だ。主にブログのネタがないときに書いていくつもりだ。


 2006年の夏。背中が痛み始めた。激痛ではない。鈍痛というか、特に意識しないと気付かないような痛みだ。だから初めのうちは気にもとめなかった。ただなかなか痛みが止まない。少しずつ気になるようになってきた。
 僕は酒が好きなので、恐らく肝臓かすい臓あたりが弱ってきたのが原因でないかとひとり推測をした。以前、上司でひどく酒好きな人がおり、よく背中の痛みを訴えていた。僕ら周りの人間は、きっと酒の飲みすぎで内蔵のどこかがやられたんだよと噂をした。結果は案の定、肝臓を病んでいるようだった。今回の自分も同じケースでないかと想像した。

 2006年秋。相変わらず鈍痛は続く。そのころ会社で定期的に健康診断を受けていたのだが、肝臓、すい臓ともに悪い数値は出ていなかった。しかし急激に悪くなったことも考えられる。やっぱり肝臓かすい臓だろう。再検査をしてもらうことにしよう。そこで勤め先のビルの地下で開業する渡辺内科というクリニックで診察を受けることにした。
 まずは問診を行った。渡辺先生は肝臓やすい臓の病気ではないだろうと言う。なぜなら僕が痛みを訴える場所は肝臓、すい臓の位置ではないからだ。一応その日は血液検査も行った。
 2、3日後、結果が出た頃を見計らって再度、渡辺内科へ向かう。血液検査の結果は肝臓、すい臓ともにシロであった。しかし痛みは続くのだ。念のためにCTスキャンを撮ることとなった。渡辺内科にはCTの設備がないため、CTやMRIを専門に撮影する病院を指定され、そこで撮影することにした。

 さらに2、3日後。銀座にある専門の病院でCTを撮る。実はこの病院は何度か来ている。
 数年前から咳が続き、胸の撮影をするために、やはり渡辺内科から指定を受け、来ていたのだ。咳の方は結核やら肺がんやらを心配して撮影をしたのだが、結果は咳喘息であった。咳喘息とは軽い喘息の一種のようなもので、たまに悪化すると本物の喘息になってしまう。だからなめてはならない病気なのだ。そこでステロイド系の薬で治療をすることになった。それがちっとも良くならない。2年ぐらい咳が続いたと思う。なかなか治らず苦慮した咳であったが、その頃住んでいた東京の本郷から、今住んでいる逗子に引っ越したら、パタッと止んでしまった。
 さて、CTの撮影についてだ。CTの撮影自身はなんということはない。簡易ベッドのようなカプセルのようなものに寝転んでいればよいだけだ。20分程度で終了したと思う。

 それからさらに2、3日後。仕事中に携帯へ渡辺先生から連絡が入った。
 「今、仕事中ですか」
 「はい、そうですが」
 「今から来られますか」何やら不穏な雰囲気である。恐らく緊急を要する事態が判明したのだろう。行かなくてはならない。
 「はい。今すぐ行きます」
 仕事を途中にして、病院に飛んでいった。診察室に入ると先生と看護婦さんが待ち構えるようにして、CTのフィルムを見せてくれた。
 「ここです。大きな異物が写っているでしょ。これ腫瘍なんですよ」
 「え、腫瘍ですか」
 「はい。おそらく神経鞘腫という腫瘍でしょう」
 初めて聞く名前だった。その後の先生の説明によると、神経鞘腫とは脳や脊椎などの神経にできる腫瘍で悪性と良性がある。悪性であればそれはすなわち癌ということで、大変危険な病気である。良性の場合は大きなおできみたいなもので、手術すれば完治する。ただしこれも単発で終わる場合と群発性のものがあり、群発性の場合はひとつを切除してもまた別に生えてきてしまい、これもやっかいな病気であるとのこと。
 「それで僕はどのケースなんですか」
 「CTを見ただけでは分かりません。おそらく良性で単発性であると思いますが。組織を採取して調べてみないと分からないんですよ。それととても珍しい病気なので正直申し上げて、ここではこれ以上のことは分からないんです。専門の病院を紹介しますから、すぐに行ってください」
 
 渡辺先生は脊椎の治療では国内有数の病院である九段坂病院に紹介状を書いてくれた。後日、僕はそこで8時間にも渡る大手術を受けることになる。

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天昇、RAM。鎌倉な一日。


 昨日は一日、逗子で遊んだが、今日は鎌倉で遊んできた。

 産経の元同僚のTさんが鎌倉に住んでいて、我が家から鎌倉までの近道を教えてくれるという。それでわざわざ鎌倉からバスで来てくれて、我が家から一緒に近道を歩いて鎌倉まで行った。
 いつも鎌倉までは歩く。普段は我が家があるハイランドから報国寺に出て、その後鶴岡八幡宮を抜け、段葛を通っていく。これだと鎌倉駅まで一時間弱かかる。Tさんが教えてくれた道は大町を抜けていくのだが、こちらは30分強だ。半分近くの所要時間で済む。大町は何回か散歩したことがあるのだが、鎌倉駅まであんなに近いとは知らなかった。これからはこの道で行こう。

 さてTさんと向かったのは鎌倉駅すぐ横にある丸七商店街の中の立ち飲みや“天昇”だ。夕方5時に入ったのだが、すでに満席というか、立ち飲みだから満立ち状態だ。つまみは150円~400円程度で立ち飲みとしては平均的。生ビール450円はちょっと高いかな。
 まぁ立ち飲みだから味はさておき雰囲気はなかなか良かった。狭い店内でお客同士が譲り合い、カウンターから離れているお客には、カウンターの客が料理をリレーで渡したりして。
 ひとり客が多くて、常連なのか、その日に隣り合わせただけなのか、そんな雰囲気で談笑している。逗子の三遊亭もそうだが、立ち飲みはひとりで入れるのがいい。それとひとり客は、2、3杯飲んでさっと帰っていく。これも気楽でよろしい。
 5時から8時ぐらいまでいたが、最後は余り物なのかな、イカの刺身を小鉢で全員にサービスしていた。小鉢を配って歩いていたのが、店をしきるおばさんの娘で、頬っぺたがぴちぴちした可愛い子だった。客のおじさん連中は皆嬉しそうに頬っぺた娘から小鉢を受け取っていた。
 ここの会計はTさんが出してくれた。Tさん、ご馳走様でした。

 さてその後、河岸を変えてまたもや立ち飲み、でもこちらはバーの“RAM”へ。この店はいつもTさんと絞めで入る店だ。鎌倉で飲んだときはバスで帰るのだが、ハイランド行きは1時間に1、2本しかない。なので時刻表を確認して、バスの時間まで飲むという按配だ。
 今までは時間が早かったからなのか、“RAM”では女の子がカウンターに入っていたが、昨夜はオーナーの男性がひとりで店を仕切っていた。
 この店も立ち代り入れ替わり、お客が絶えない。とても繁盛しているように見えるのだが、オーナー曰く、経営は大変だとのこと。1杯600円程度で一日50杯売れたとしても3万円だもんなぁ。たしかにバーの経営って、見た目より難しいのかもしれない。
 ああ、それとここのオーナー、正直ちょっと無愛想である。かけているレコードのジャケットを私が手にとって見ていると、黙って私の手からジャケットを奪い、棚の上に戻した。黙ってジャケットを取った私もマナーがなってなかった。でも一言なんか言っても良いんじゃないかなぁ。客の手から無言で奪い取ることはないんじゃないかと思った。
 早い時間に行くと、女の子がカウンターにいて、にこやかだ。おしゃれで安くて、悪い店じゃない。

逗子図書館、つく志、浜の映画祭、キクヤ食堂。逗子の一日


 昨日は一日、逗子で遊んだ。

 まずは図書館へ。調べ物があり昼ぐらいから入ったが、連休中なのに結構なひと。
 窓際の席で本を読んでいると、若くてお洒落っぽい女の子が隣の席にきた。白い素足に真っ赤なペディキュアと図書館では目立つ装いだ。こんな女の子がゴールデンウイークに図書館に来るんだなと、感心していると、しばらくして大学生風の男がやってきた。なんだ、図書館デートみたいだ。
 ああ、別になんの下心もなかったですよ。だから男が来たからといって、がっかりなんかしていません。いや本当です。それと逗子の女の子の名誉のため書いておきますが、逗子図書館にも可愛い子は結構きます。でも艶かしい素足に真っ赤なペディキュアはちょっと目立ったという話しにすぎません。

 続いて知人と合流して、以前から行きたいと思っていた“つく志”へ。いつも図書館へ行くときに前を通り、そのちょっと汚げな店構えになにやら風格を感じていた。
 味は悪くはなかった。揚げ物系は美味しい部類だと思う。マグロのぶつ切りがお薦めだと聞いていたが、これは特筆するほどではなかった。
 ただこれは他の人のブログにも書いてあったが、女将さんがちょっとこわい。こちらが注文をしても返事はなし。聞こえていないのかと思い、再度言うと、睨まれた。なんだか注文して悪かったような気がしてしまった。それでも常連客はいるようで、女将さんと楽しげに話をしていた。きっと一見さんには厳しいのかもしれない。
 値段は店構えからいって、安くもないし高くもない。味はまあまあ。サービスは上記のとおり。総体的な評価をすると、まぁ60点ぐらいかな。女将さんが一見さんにも優しければ、80点ぐらいだろうか。

 それから逗子海岸でやっていた“浜の映画祭へ”。入場料はひとり1000円。早く行けば椅子に座れるが、私たちは開演直前にいったので砂浜に直接座った。でもこちらの方が寝転べてよかった。なぜかって風が結構強かったからだ。寝転んでいると風をあまり受けないで済むでしょ。
 昨日は天気予報では25度まで上がる夏日と聞いていたが、日が落ちてからの海岸は寒かった。まだ映画祭はしばらく続くみたいだが、これから行かれるひとはぜひ暖かい装備をして行かれることをお勧めします。
 上映されたのはメキシコ映画の『天国の口』という映画。メキシコでは大ヒットしたそうだが、さもなん。青春していて寂しげで、悲しくて、そしてかなりエッチで。ちょっと前のヨーロッパ映画のノリであった。日本人は好きなタイプの映画だと思う。ただしかなりエッチな表現があるので、子供づれは控えたほうがよいと思う。お父さんお母さんが気まずくなること請け合いである。

 最後、これも以前から気になっていた“キクヤ食堂”に入った。海岸で体が冷え切った後だったのでホットウイスキーを頼む。カウンターの席だったので、カウンター内にあるピザ焼き釜からの余熱がありがたい。
 いつも人で賑わっているのは知っていた。確かにここはお勧めです。古い民家を改装したような店構え(おそらく実際にそうだと思う)で、とてもおしゃれです。価格もリーズナブルだし。これは食べていないので推測ですが、料理もうまそうだった。
 来ている客もおしゃれ系な若者、かつての若者がいっぱいで、とても和やかな雰囲気だった。それとこれが大切なのだが、店員の愛想がとてもよかった。またこわい人が出てきたら困るなと思っていたのだが。杞憂に終わり、ほっとした。

 にこやかな店員に店の外まで送られて、ほろ酔い加減で歩いて家まで帰った。家に帰るとお腹を空かしたフクちゃんと大ちゃんが玄関で待っていた。長い逗子の一日であった。

アメリカンアイドルな日々


 今日もまたアメリカンアイドルを見てしまった。2時間も。
 今週中にある本のシノプシス(企画書)を書かなくてはならない。今日中に2章分を読んで、それをまとめる予定だ。一応、1章分を午前中に済ませることができた。昼飯を作りに階下に行き、テレビを付けた。するとアメリカンアイドルが始まったばかりではないか。それも2時間も。これみちゃ、仕事が遅れる。と分かっているのだが、ついついアメアイの魅力に抗うことができずに、見てしまった。
 しかしなんであんなに面白いのかねぇ。去年はアダムとかいうすごいのがいて、彼を見たさに見続けてしまったが。今年は今年でまた良いのがいる。今年は女子が豊作だといわれていたが、ここに来て男子も実力をアップ。なかなか負けていない。

 こんなことをオジサンががひとりブログで書いていても仕方がない。さぁ、これから残りの章をかたずけましょう。そして夕方までに終えて、走りに行こう。実は先週からまた走り始めたのだ。また脚が痛み出したのだけど、でもちょこっとなら大丈夫だろう。今の季節は走っていると気持ちが良い。脚がこれ以上、痛まなければよいのだが。

ボツの知らせが来た


 昨日、N社から連絡が来た。N社にもちこんでいた翻訳企画がボツになったそうだ。ざんねん。
 前回のブログで書いたC出版と今回ボツになったN社、それとべつにI社に企画を検討してもらっている。もし3社とも決まったらどうしよう。めちゃくちゃ忙しくなるなと、皮算用していたら、あっけなく杞憂と終わった。まだ2社残っているが、そう簡単にはいかないだろう。

 さてN社への企画だが、“世界の長寿地域をめぐる”といった内容のルポタージュである。たしか6地域(もう忘れている)をまわるのだが、その中に沖縄が入っている。
 世界には突出して平均寿命が長く、そして100歳まで生きる人の割合が高い地域が点在しているらしい。そこを探訪することで、長寿の秘密を解き明かしていくのだが、なかなか面白い本である。
 沖縄も入っているし、日本の読者に受け入れられるのではと思ったのだが。N社の判断はNGであった。実はN社はこの本の存在を1年以上前から知っていたようだ。それで実際、取材を受けた沖縄の関係者に連絡もとりマーケティングを行っていたそうである。知らぬはわたくし一人というものだ。

 こんなことでめげてはいられません。今までもんもんと、逗子に籠もっていましたが、今後は積極的に売り込みに出歩く所存です。

 しかし新しい本は却って、難しいかもしれないことが分かってきた。私の目に留まるような本はすでに出版社が情報を掴んでいる確立が高い。それよりももっと古い本で、翻訳がされていないものの方がよいかもしれない。そうした本は、なぜか出版社の目から漏れていた可能性がある。またはその当時は出版不可とする判断を下したが、その後社会情勢が変わってきた可能性もある。
 古くて翻訳されていなくて、それで良い本。そんな本がそうあるわけではない。でも見つけなくちゃならない。今年中に決めなくては、生活がなりゆかなくなるのだ。


 ところで夕べの長谷川穂積、残念だった。長谷川こそ日本ボクシング会の至宝である。あの亀三兄弟など、足元にも及ばない実力と才能の持ち主である。今回の相手は強敵であるとは思っていたが。完全に隙を作ってしまった結果の、ミスである。天才長谷川といえでも、一発が当れば倒れるのだ。今までは逆に相手に隙を作らせ、そこを針の目を抜くように突いていたのだが。
 負けは負けだ。残念だが、またカムバックすればよい。
 長谷川は具志堅の13回防衛の記録更新を目指していたようだが、できれば別階級への転向をしてもらいたいと思っていた。長谷川なら4階級ぐらいいけるような気がする。この負けを好機として、別のベクトルに進みさらなる勝利を重ねていってもらいたい。


プロフィール

山本 拓也

Author:山本 拓也
職業:翻訳者
過去の職歴:HSBCを経て産経新聞社
家族:妻、フクちゃん(猫オス 3歳)、大吉くん(猫オス 2歳)
住まい:逗子

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