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ワールドカップでの、あの選手の活躍


 日本にとってのワールドカップが終わった。最後は非常に残念な展開だったが、よく選手も監督も、そしてサポーターも頑張ったと思う。お疲れ様でした。
 ところで最後は残念な展開だったと書いたが、実はその場面を見ていない。

 僕は普通、夜8時過ぎにはベッドに入ってしまう。だから昨夜の11時は僕にとっては深夜で起きて見るつもりはなかった。録画して翌朝、見ることにした。
 朝、4時に起きて録画を見た。途中、テレビを付けたとたんにニュースで結果を知ることがないように注意して録画を見始めた。
 みなさんご存知の通り、前後半戦ともに無得点で、延長戦に突入。延長戦もなかなか点が入らない。前半はかなり押されていたが、後半途中から日本も反撃する機会が増えてきた。延長戦ではむしろ押し気味にみえた。これならいけるかもしれない。期待が高まった。よしっ、見るほうにも気合が入ってくる。
 と、突然、番組が変わった。見たことがあるようでないような芸能人かアナウンサーが出て、朝のニュースを解説している。うん?、なんじゃ。よくみると録画再生が終了していて、そのとき放映していた別の番組が映し出されている。なんで。
 なんと、延長したために、途中で録画が終了してしまったのだ。ひどいよ。いいところなのに。
 
 録画機の番組表を使って録画設定をした。この方法だと、番組表に記載されている終了時間で録画はストップされてしまう。
 これだけテクノロジーが発達していて、なんでこんな基本的なフォローができないのだろう。
 以前、手でタイマー予約をしていたときには、スポーツの場合は延長を予測して1時間程度大目に録画したものだ。人間だと、こうした知恵が廻る。しかし機械は正確かもしれないけど、融通が利かない。
 メーカーさん、何とかした方がいいですよ。こんな改良、簡単でしょ。日本再生は、こういう細かいところにヒントがあると思うのだが。

 ところで今回の試合、どの選手も良かったですね。闘莉王なんて川島との接触で、左腕をぶらぶらさせるほど負傷していたのに、気迫のプレーを最後まで続けていた(見ていないけど、多分)。
 マスコミが騒ぎすぎなんじゃないかと思った本田も、この試合に限って言えば、かなり活躍していたと思う。
 松井や大久保も、いつもどおりの運動量で、らしさを出していた。
 でも、僕が一番、この試合で良かったと思う選手は他にいる。それはキャプテンの長谷部だ。何が良かったかというと、入場のとき、それと入場を待つ間も、隣の黒人の小さな女の子と話しをしていたことだ。パラグアイの選手も、他の日本人選手もみな闘志を盛り上げるためか、怖い顔をして黙っている。川島なんて、仁王みたいな顔をしていた。それはそれで、真剣さが伝わり良かったのだが。そのなかでひとり小さな女の子に話しかける長谷部は、優しそうで、かえって頼もしさ、余裕を感じた。

 以前の試合から、選手と手をつないで入場する子供達のことが気になっていた。物凄い形相の選手たちのすぐ脇で待たされ、ブルセラじゃなくて、ブブゼラの音が凄まじいグランドに出て行かなくてはならない小さな子供達は、どんなに恐ろしい気持ちなんだろうと、思っていた。
 選手の横で待つ子供達は、ちらちらと選手の顔を見る。でも選手は当然、無視をする。
 その中で長谷部だけは、子供の視線に気付き、声をかけた。いい奴だなぁと思った。

 試合になっても長谷部を注目して見た。今まで地味で、存在さえ気付かないような選手だった。しかしあの控え室のときと同じように、グランドの上でも実に気配りの利く、良い選手だった。
 岡田監督がキャプテンに指名した理由が分かったような気がした。

 もう一試合、子供と手をつなぐ長谷部を見たかったなぁ。

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神経鞘腫体験記(5) さきはまだ長い


 今日は神経鞘腫の続きである。過去4回分はカテゴリー“神経鞘腫体験記”に収録されています。読まれていない方はよろしかったら、そちらから先に読んでください。

 中井先生は黙って紹介状から目を離した。そして言った。「渡辺先生、元気?」
 え、そんなことなんで今聞くの? そう思ったが、勿論口には出さなかった。
 「はい、元気です。中井先生によろしくお伝えくださいと言われました」
 「そう、元気か、良かった」
 「あの、ところで、僕の主治医なんですが、やっぱり変更するのは難しいんですか」
 「あ、ごめん、それね。いいですよ」
 まじかよ、と思ったが、勿論これも口には出さなかった。そして再び、心の中でガッツポーズである。
 「あの、それって手術も中井先生にお願いできるってことでしょうか」
 一番、聞きたいことを聞いた。主治医って、どういうものか僕には良く分からない。それより直接、手術をこの名医の手で行ってもらいたいのだ。
 「ああ、いいですよ」中井先生は僕の喜びを察知してか、満面の笑みで答えた。
 「ほんどうですか。ありがとうございます」不幸中の幸い、泥中の蓮、災い転じて福となす、地獄に仏、なんて言って表現していいのか分からない。とにかく、救われたと思った。危機一髪である。まずは一歩前進、それも最高の一歩を踏むことができたと思った。

 その日の診察はそれで終わった。この数ヶ月、心配で胃が痛くなるほどだった悩みの幾つかが今日、解決をした。
 僕は悪性腫瘍ではない。背中に生えているのはでっかいが良性の腫瘍だ。サイズが大きいだけで癌ではない。だからすぐに手術は必要ない。そして手術はあの中井先生がしてくれることになった。
 最近、調べまくって分かったことは、手術の結果は医者の腕次第だということだ。腕が悪ければ、盲腸で死ぬこともある。反対に腕がよければ、難手術も高い確率で成功に導ける。
 患者である僕ができることは良い病院と良い医者を選ぶこと、これだけだ。あとはせいぜい、心配しすぎずに心の安静を保つぐらいだ。まずは最初の難関を突破したといえる。考えうる限り、最高の病院と最高の医師をゲットしたのだ。患者としての第一歩は、上出来の第一歩である。

 診察室を出ると、九段病院に初めて来た日に対応してくれた看護婦さんが立っていた。この看護婦さんは朝早く来たにも拘わらず、その日は予約が一杯で、翌日再度来なくてはならないと言われた僕の窮状を見て、便宜をはかり、その日の一番最後に診察を押し込んでくれた恩人だ。その後、中井先生に主治医になってもらいたいことについても相談をしていた。それで早速報告をした。
 「中井先生が手術をしてくれることになりました」
 「ほんと、良かったわね」看護婦さんは自分のことのように喜んでくれた。

 その後、事務管理を担当する係りの人に病室の空き情報と中井先生のスケジュールを伺った。その日は12月の末であったが、病室は2月一杯まで満室。さらに中井先生は4月末までスケジュールが入っているとのことだった。それを聞き、すぐにでも予約を入れたかったが、一応仕事の予定もある。会社に戻り、上司と相談してから予約を入れることにした。

 病院を出ると外は冬の青空だった。冷たいが気持ちの良い風を頬に受けながら、まずは第一関門を突破した喜びを改めて感じた。そして同時に、これはまだスターとなのだとの思いを新たにした。乗り越えなくてはならないことはたくさんある。まだまだ先は長いのだ。
 時間は昼前だった。会社には1時ごろ出社すると連絡してある。まだ時間は少しある。そうだ、あそこに行こうと思った。九段坂病院の氏神様、僕が勝手に決めたのだが、にお参りをしてこよう。今日の報告と、これからのことを祈ってこよう。
 九段坂病院のすぐ近くには靖国神社が静かに大きく鎮座している。冒頭、僕はこの文章は病気との闘いの記録ではないと書いた。しかしそれは、後から余裕を持って思ったことだ。当時としては、何が何でも勝ち抜いてやるという切羽詰った闘争心が僕の中にはあった。
 僕は戦いの神、靖国に行って、戦いの心構えを誓い、そして勇気と運を授けてくれるよう祈りに行こうと思った。

 神経鞘腫体験記(6)へ

子供に恋愛を勧めたがる大人達


 土曜日は雨の中、バーベキューをした。始めたときはまだ降っていなかったが、途中でパラパラときだした。食べるメンバーは部屋の中に避難し、焼くメンバーは小雨に濡れながら焼いてくれた。焼きメンバーの人たち、それと料理や下ごしらえをしてくれた人たち、ご苦労様でした。お陰でおいしくいただけました。

 今回のメンバーは、といってもだいたいいつも同じメンバーだが、主に前職の産経新聞社および産経デジタル関連の人たちである。
 この恒例のメンバーでのホームパーティーは今年だけでなんと3回目。うち一回は鍋であったが。よく逗子まで来てくれるものだ。ちゃんと会費制で、お金はワリカンンで徴収する。駅からは遠い。アトラクションがあるわけでもない。家主は酔っ払って、何もしない。なのに、今年ですでに3回目。いつもひとりでご飯を食べるひとりもんとしては、ありがたい話だと思う。
 静かな部屋が突然、賑やかになり家主は嬉しくなり、昼から酒を飲み続け、猫は恐怖で二階に引きこもり。どちらにとっても、特別な日であった。

 今回はSとTが子供を二人ずつ連れてきた。Tのところは3歳と2歳でまだ小さく、顔だけ出してすぐに帰って行ったが、Sの方は子供と共に泊まっていった。泊まったのはR君(小学5年生)、Kちゃん(2年生)である。二人ともかなりの美男美女である。R君はジャニーズにすぐにでも入れるほどのイケメンだし、Kちゃんはすでにサーファーガールの雰囲気をかもし出す、さらさらヘアの女の子だ。
 ふたりが可愛いからかもしれない。夜になり酒の入った大人達は例の質問を始めた。「好きな子はいないの?」、「バレンタインデーにはチョコを何個もらったの?、あげたの?」
 これは自戒の念を込めて書くが、この手の質問は子供達に恋愛を無理強することになるのではないか。
 「好きな人いるの?」と聞くことは、子供にとっては「君たちぐらいの年齢になれば、好きな人ぐらいいなくちゃおかしいよ!」と聞こえる。「バレンタインデーでチョコは何個もらえたの」は「チョコを少しでも多くもらえるような、モテる男になりなさい」と、「チョコはあげたの?」は「チョコをあげなさい」と聞こえるはずだ。

 これは少し前から感じていたことだが、最近の大人って、これは年齢的な意味での大人であり、精神的には大人とは言えないかもしれない人たちについてだが(自分も含め)、やたらと子供に恋愛関連の質問をしたがる。ホームパーティーの席や、親戚が集まるような場で、子供がいると、必ず2,3人のお節介な年齢的大人が子供を囲み、例の質問を始める。

 初体験の低年齢化や、性的な非行が問題になっている。大人と子供との会話のメインテーマが恋愛であるといった情況がこうした問題の背景の一部にあると言ったら言い過ぎだろうか。
 子供が変わったわけではない。社会が、あるいは大人が変質したのだ。大人の頭の中が恋愛やあんなこと、こんなことで一杯で、それが子供への接触態度に出ているのかもしれない。

 R君、Kちゃん、今度こそ、虫取りに行こうね。また、遊びに来てね。

頑張らない人と頑張る人


 僕は「頑張ろう」と独り言をよくいう。家には僕以外は猫が二匹いるだけなので、誰に気兼ねするでもなく声に出している。

 「頑張らなくてもいいんだよ」という人もいる。むしろ最近は、こちらの声のほうをよく聞く。
 そこでグーグルで「頑張る」関係を検索してみた。やはり大まかに分けて二つの意見があるようだ。
 「頑張ろう」の方では女子プロゴルファーの宮里藍が石川遼の活躍を見て「わたしも頑張らないと」と言った記事。サッカーの中村俊介の「日が当たっていない時ほど頑張らないといけない」と言った記事。同じくサッカーの闘莉王がワールドカップに向けて「僕らはへたくそ。倍ぐらい頑張らないと」と言った記事などである。
 一方、「頑張らなくてもいいんだよ」の方は、有吉玉青さんという人の本「がんばらなくても大丈夫」のアマゾン書評、ハロープロジェクトの「○○ がんばらなくてもええねんで!!」という曲のサイト。そのほか、個人のものブログが多数であった。

 僕は多少、頑張っている方が調子がいい。自分でそれが分かっているので、自然と「頑張ろう」と口にする。例えば一日、何にもする気になれずに、まさに何も頑張らない日がある。どうしてもやらなくてはならない仕事がないない現状では、そんな日はまったく何もしない。何もしなくても、ちゃんとすぐに夕方になる。何の苦労もいらない。ただダラダラと過ごせばいいだけだ。しかし、そんな日の夕方は、とても気分が悪くなる。体調もよろしくない。
 反対に、とても頑張る日もある。早朝から夜まで、仕事に家事に、さらにトレーニングまで、ほとんど休みなしにこなすことができる。こんな日もすぐに夕方がやってくる。そしてこんな夕方はとても気分がよく、体調も優れる。
 自分でこの性向が分かっているので、なるべく頑張った状態に自分を仕向ける。同じようにすぐに夕方になってしまうのなら、色々なことをして過ごし、充実感を得て、体調もよく、するとよく眠れるし、そんな一日を過ごしたい。

 グーグルで検索した2タイプの「頑張り」についてだが、「頑張ろう」の人は今までも頑張ってきて、頑張る効能を知っている人だと思う。彼らに頑張る悲壮感はない。むしろ積極的なパワーを感じる。
 「頑張らなくてもいいんだよ」の方は逆である。頑張っていないのにもかかわらず、悲壮感が漂い、ひ弱さを感じる。
 この違いはどこから生まれたのだろうか。おそらく頑張らない人達は今まであまり頑張る機会がなく、成功体験が体に染み付いていないのではないか。あとちょっとの頑張りで、爽快さが訪れるのに、その前に頑張りをストップして、挫折感を感じる。
 成功体験を持つ人は、次のことに気が付いている。それは体調が良いから、気分が良いから頑張れるのではなく、頑張ることによって、体調や気分を向上できることを知っているのだ。
 これを逆に考える人が、「頑張らなくてもいいんだよ」の人だ。

 「頑張らなくてもいいんだよ」はただし、少し複雑だ。これは“鬱”が絡んでくる。現代の医学では鬱病患者はとにかく休むこと。頑張ったりしては決していけない、ということになっている。そしてたくさん休んで、薬をたくさん飲まされて。すると一部の人は病気が治り、一部の人は益々悪くなったりする。

 病気の人については、僕はコメントできない。よく知らないので。ただ病気になる以前の人。この人たちについても、頑張りすぎは禁物的なコメントが多いようだが。僕は反対の意見だ。
 ノーベル賞を受賞した動物行動学のコンラート・ローレンツ博士は「人間は心の体幹を太くしなくてはいけない」と書いているが、その通りだろう。心が折れないよう、心の芯を太くした方が応用性が高い。
 人生、何が起こるのか分からない。小さな障害にいちいち傷ついていたら、前に進めない。傷つかないように、避けて歩くことは、とてもシンドイ行為だ。それよりも障害を易々と乗り越える脚力を養ったほうが、心安く前に進むことができる。

 最近、頑張らずにいて、調子が悪い僕は、そんなことを思った次第だ。今日から、今から、頑張ることにしよう。

明月院 紫陽花の寺(鎌倉の寺社)


 逗子から電車で北鎌倉へ向かった。北鎌倉で降りたのは数名だった。そのとき、反対車線に東京方面から来た下り電車が到着した。
 北鎌倉は無人駅のような小さな駅である。その小さな駅に下り電車から降りてきた客は、ホームから溢れ落ちるほどの数であった。いったいどこに向かうのだろう。時間は朝の8時半、曜日は水曜日、天気は雨である。これだけの人が平日の雨の朝、何の目的でこの小さな駅に降り立つのか。まさか明月院ではあるまい。きっと円覚寺だろう。
 円覚寺へ向かう人も確かにいた。しかし円覚寺を素通りして、まっすぐ線路と平行して走る小道を歩く人の方が多い。もしかして、もしかして。
 明月院に行くにはその小道を左折する。小道を埋める人の波は、僕と同じように左折する。これは確実だ。みな明月院に向かうのだ。
 紫陽花の季節に明月院を訪れたいと思っていた。しかしきっと混むであろう。しかし平日の早朝、それも雨の日ならば人も少ないに違いない。そう踏んで、雨の水曜日を選んで明月院に来た。しかし明月院の人気は予想以上のものであった。

 小道を左折すると小川が左に流れる。小川の淵には紫陽花が植えられている。段々と雰囲気が出てきた。100メートルぐらいだろうか、暫く小川に沿って進むと正面に総門が見えた。明月院である。雨の中に浮かぶ総門、その周りに青く佇む紫陽花。たしかに絵になるお寺である。
 華やいで見えるのは紫陽花だけでない。傘の花もまた、色とりどりだ。傘の波も僕と同様に、総門に進む。拝観料は500円。さすが人気のお寺だ。強気の拝観料である。

総門
明月院の総門

 明月院はいくつもの変転を経てきたお寺である。寺伝によると、山之内経俊(やまのうちつねとし)が平治の乱で戦死した父、俊道の供養として、1160年に創建した。
 その後、この土地周辺は北条家の別邸となり、第5代執権、北条時頼は1256年自らの持仏堂として最明寺を建立した。出家した時頼は最明寺入道と呼ばれるようになる。
 ここで時頼についてのエピソードをひとつ紹介しよう。謡曲『鉢の木』で世に広まった話だ。『増鏡』にも同様の話が記載されている。ちなみに近くに“鉢の木”という精進料理の店があるが、入ったことはないがこの逸話から名前を取ったのだと思う。

 佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)という武士がいた。所領を失い貧しい生活をしていた。ある大雪の日、ひとりの旅僧が訪れ、一泊を求めた。貧しい源左衛門は薪もないような状態であったが、鉢で大切に育てていた梅、桜、松を焚いて歓待をした。その夜、自分は落ちぶれてはいるが、馬と武具だけは大切にしている。いざ鎌倉というときにははせ参じるつもりだと、覚悟の程を旅僧に語って聞かせた。
 数年後、緊急事態が発生し、源左衛門は鎌倉にやってきた。すると幕営の中央にはあの日の旅僧が立っていた。旅僧は最明寺入道時頼であったのだ。
 時頼は源左衛門の心がけに感心し、失った所領を復活させた。さらに鉢の木ゆかりの梅田、桜井、松井田という地名の領地を与えた。
 本当にあった話だろうか。一応通説では、時頼は善政で民心を得ており、水戸黄門のような廻国伝説が生まれたという。さらに鎌倉武士の心構えを説いているとも言われる。

 さて寺の歴史に戻ろう。最明寺は時頼の死後に廃寺となる。時頼の子時宗(第8代執権)は父の廟所の地に、蘭渓道隆を開山としてし、禅興寺(ぜんこうじ)を再興する。禅興寺は関東十刹(かんとうじゅっさつ)の2位、後には1位の大寺である。
 明月院はこの禅興寺の塔頭の首位であった。当時は明月庵といった。禅興寺はその後、廃れるが、明月院が残り現在にいたる。
 明月院について書くと、開基は山ノ内上杉氏の祖である上杉憲方(のりかた)。開山は密室守厳(みっしつしゅごん)である。1394年、上杉憲方が死ぬと、法名を“明月院殿”と号し、このときに寺の名も明月院としたと言われる。
 ちょっとややこしい歴史をもつお寺だ。僕もいくつかの資料を引っ張りながらこれを書いているが、頭の整理が難しい。

 紫陽花のお寺に参る人は、あまり興味のない寺史かもしれない。しかし総門を入ってすぐ左に向かうと北条時頼の廟と墓がある。多くの参拝客も廟と墓所に手を合わせている。あの“鉢木”の時頼の墓であると知って参る人も少なくないのであろう。

 時頼廟を参道に戻ると、そこからはまさに紫陽花の小道である。細い参道の脇には雨に濡れた紫陽花が参拝客を迎えてくれる。紫のまぁるい、よく見る種類の花が中心だが、色や形がことなるものも少なくない。よく整えられて禅寺の、紫陽花の小道はたしかに一見の価値がある。

参道
一瞬、人が途切れた参道から山門を望む


 紫陽花の小道をまっすぐ進むと山門がある。山門をくぐると正面に本堂が立つ。ここは紫陽殿ともいわれる、紫陽花寺の中心地だ。本堂には本尊である聖観世音菩薩坐像(市文)が祀られている。少し距離があるので、お顔ははっきり見えない。ここの参拝客はご本尊よりも紫陽花に興味があるので、本堂には人が少ない。眼が慣れるまで粘って、それでもしっかりと観音様を拝ませていただく。
 今は特別展示ということで、本尊の左に北条時頼坐像(県重文)が鎮座されていた。こちらもじっくりと拝見する。両像とも写真撮影は不可ということで、なんとか記憶のフィルムに残すよう目をこらす。
 本尊の左には丸窓の小部屋がある。こちらは300円ばかりをユニセフに募金をすると入室することができる。せっかくなので募金をし、部屋に上がる。部屋ではお茶とお煎餅が用意されていて、自由に飲食することができる。緋毛氈に正座し丸窓から雨の庭を眺め、茶と煎餅をいただく。

丸窓
丸窓から本堂の裏庭が見える

 この部屋には僕以外、親子2人と、妙齢の女性がひとりいるだけだった。妙齢の女性とお茶を飲みながら少し話しをした。大田区にお住まいで中学生のお嬢さんがいるそうだ。普段は近くの電機メーカーにパートに出ているが、その日はパートが休みなのでひとりで来たということだ。鎌倉のお寺が好きで、たまに一人で来られるそうだ。お腹が空いていたのか、「煎餅はひとり一枚」と書かれていたが、二枚しっかり食べられていた。
 本堂でお茶を飲んでいる間に、さっきまでの大雨が小ぶりになってきた。本堂を出て、左奥の開山堂に進む。額には「宗猷堂(そうゆうどう)」と記されている。開山の密室守厳の坐像が安置されている。堂内は明るくそれほど広くない。かなり近くで坐像を拝むことができる。

 開山堂の右には鎌倉十井のひとつ“瓶(つるべ)の井”がある。鎌倉十井では唯一、今も水が沸く井戸であるそうだ。庭水などに使用することがあるという。

 開山堂の左には鎌倉で最大級のやぐらがある。冒頭書いた、山之内経俊(やまのうちつねとし)が平治の乱で戦死した父を供養したのがこの場所である。これは大きなやぐらを掘ったものだと思った。
 上杉憲方の墓であると伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)もやぐらの中に安置されている。また奥には釈迦、多宝如来の二仏とその両側に十六羅漢像の浮き彫りがあるが、暗くてよく見えない。
 一昨日、「鎌倉の死の世界」というタイトルでブログに書いたが、やぐらは鎌倉の墓所だといわれていた。しかしどうもそうではないという説が最近は有力のようだ。瞑想の場だったというのだ。この明月院のやぐらを見て、なるほど墓所であり、瞑想の場でもあったのかもしれないと感じた。本堂で仏像を前に坐禅をするように、やぐらで仏像と並び瞑想に入っている古い時代の僧の姿がイメージされた。

やぐら
関東最大級のやぐら。中央が宝篋印塔

 このやぐらがこのお寺の最深部だ。雨も上がったことだし、帰りはゆっくり紫陽花を見て歩こう。
 紫陽花が両脇に並ぶお庭には本堂ややぐらの何倍もの人が熱心に紫陽花を眺め、写真を撮っていた。
 他にも紫陽花寺と呼ばれる寺が鎌倉にはある。しかしなぜこの決して大きいとは言えないお寺に人が集まるのか、境内一杯に植えらる色とりどりの紫陽花を眺め分かったような気がした。見事な紫陽花とそれを楽しむ参拝客であった。

紫陽花の道
帰りの紫陽花の小道ではまた少し雨が降り始めた


ブレッド&バターの幸矢さん、リットン調査団の藤原さんが遊びにくる


 昨夜は有名人が二人も拙宅に遊びに来てくれた。ひとりはブレッド&バターの岩沢幸矢さん、もうひとりはリットン調査団の藤原光博さんだ。

酔っ払いの三人
左から幸矢さん、筆者、藤原さん

 幸矢さんとは以前からの知り合いだ。僕が産経に勤めていたときにビーチクリーニングのイベントで知り合った。
 随分前に聞いた話なので、かなり忘れてしまったのだが、たしか今はミュージシャンとして活躍している娘のAisaさんが子供のころ、一緒に湘南の浜を歩いていて、あまりに汚れているのでふたりでなんとなくゴミ拾いを初めたそうだ。家が湘南の海の近くなので、しょっちゅう海に行ってはゴミを拾い続けた。次第に賛同者や仲間が増えてきた。こんなに人が集まるのならコンサートもついでにやってしまおうということになった。コンサートでは拾ったゴミがチケット代わりで、誰でもゴミを拾えばコンサートを無料で鑑賞できる仕組みにした。

 僕が始めて幸矢さんと出合ったのは、京都府の日本海側の小さな町だった。日本全国から呼ばれて色々なところでビーチクリーニングイベントをしていて、その一環だったと思う。そこでは幸矢さんのお友達ということで尾崎亜美さんも来ていた。
 日本海の小さな町は、幸矢さんと尾崎亜美のコンサートを無料で見られるということで、それこそ町中の人が来ているのではないかというぐらいに、人が集まった。もとから綺麗な海岸で、ゴミなどほとんど落ちていないので、入場券(ゴミ)を見つけるのは大変だったと思う。それでもなんとかみんな入場券を探し出し、コンサートは非常に盛り上がった。
 その夜、スタッフのメンバーと飲んだのだが、僕は幸矢さんの飄々としたキャラクターに参ってしまった。
 幸矢さんは湘南ミュージシャングループの大ボスなのだ(本人は否定しますが)。その下(もと)にはサザンの桑田佳祐やユーミン、さきほどの尾崎亜美など錚々たるメンバーがそろう。幸矢さんのミュージシャンとしての実力を評価してのことは勿論だが、それ以上にあのキャラクターを敬愛して、沢山のミュージシャンが集まるのだと思う。そのぐらい素敵なおじさまなのだ。
 ちなみに湘南ミュージシャングループの親分は幸矢さんではない。幸矢さんが一目も二目も置く、これまた人物がいるそうだ。それは、あの加山雄三さんだそうだ。

 もうひとり、リットン調査団の藤原さんは昨夜が初対面であった。昨日はもうひとりのメンバーがいた。産経新聞社(サンスポ)の記者のSさんだ。Sさんは藤原さんと以前からの知り合いで、また幸矢さんとも旧知の仲である。それで三人で飲むことになり、幸矢さんの家がある湘南のどこかで飲もうということで考えた結果、選ばれたのが拙宅だった。僕は前から幸矢さんと飲みたいと思っていたので、快諾し3人の来訪とあいなった。
 ということで藤原さんはまったく知らない男の自宅でいきなり飲むことになり、最初は戸惑われていたと思う。
 藤原さんはリットン調査団の人だが、最初はただ吉本の芸人としか聞いていなかった。僕はテレビをほとんど見ないので(CNNとアメリカンアイドル以外ってことだけど)、藤原さんを紹介されても誰だか分からなかった。あとからリットン調査団というコンビ名を聞かされ、ああ、聞いたことがあると思った次第である。不勉強でごめんなさい。
 しかし後からネットで調べるとリットン調査団はテレビにほとんどでない幻のコメディアンなのだそうだ。実力は大変あるのだが、ネタが難解で、シュール過ぎるということで、テレビにはあまり出演しないのだそうだ。だからほとんどテレビを見ない僕が、ほとんどテレビにでない藤原さんのお顔を拝見しても、気付かなかったのは当然かもしれない。
 お笑い芸人である藤原さんは、とても寡黙で紳士的なひとだった。初対面の人間の自宅という場所柄かもしれないが、最初はあまりに無口なので、驚いたほどだ。プロのコメディアンというものは、案外そうなのかもしれない。しかし時間も経過し、酔いも手伝い、次第に打ち解け、最後の方は大変、饒舌になられた。自作の落語などもちょっと聞かせてくれた。落語をはなす藤原さんの声の通りに、さすがだと感じた。

 さて幸矢さんからは奥様との馴れ初めについて。奥さんはサザンと同じアミューズのミュージシャンで、サザンと同じぐらい事務所は期待していたらしいのだが、いきなり幸矢さんと結婚すると言い出し、事務所が慌てた話や、ここではちょっと書けない、音楽業界の裏話などを。藤原さんからはネタの作りかたや、ここではちょっと書けない吉本興業と芸人の関係など、非常に興味尽きない話をてんこ盛りで伺うことができた。
 最後は幸矢さん、藤原さん、僕と三人で大いに酔っ払い、ハグをし、またの再会を約してお開きとなった。車を出してくれたSさんはお酒を飲むことができずに、最後まで紳士でした。Sさん、ご苦労様でした。今度はSさんも飲めるような機会を設けましょう。とても楽しい夜だった。

鎌倉の死の世界


 由比ガ浜南遺跡をご存知だろうか。現在、鎌倉海浜公園がある場所で、鎌倉時代の墓場、および処刑場だったと考えられているところだ。何年か前に発掘調査が行われ、そこで夥しい数の人骨や獣骨が発掘された。
 『中世都市 鎌倉と死の世界(五味文彦・斎木秀雄編』を読んで知った。発掘現場の写真も載っているのだが、その数、様子はものすごい。これだけの骨が一箇所から発掘されるとは、それも都市の真ん中で。鎌倉時代、鎌倉は当然日本の中心地であり、人口も5万人ほど(これは諸説が当然あるが)いたようで、その分死者の数も多い。その埋葬はこのように行われていたのだ。
 鎌倉には“やぐら”といわれる防空壕のような横穴が約4000箇所ある。この“やぐら”が、埋葬というか、死体を投げ捨てる場所だと考えられていた。この本では明言を避けているが、どうも“やぐら”は墓地でなく、瞑想の場所であったようだ。すると別に墓地が必要となる。その一部が由比ガ浜南遺跡であったのだろう。

 ではどのぐらいの遺体がこの遺跡に埋葬されていたかというと、これがよく分からない。なぜなら偉人の墓所と異なり、集団墓地であるここでは各遺体をきちんと埋葬していないからだ。単体で埋葬されている場所もあるのだが、ほとんどが集積埋葬である。また遺体はフルパーツ残こっているわけでなく、一部のみを埋葬しているケースもある。散逸もある。
 本では一応の推定数は載せている。最小個体数は3,681体。性別は男性1078体、女性811体、性別不明1972体。このうち集積埋葬から検出されたのは3114体である。
 鎌倉というと合戦で、刀傷をもった遺体が多いかと思うが本によるとそうでもないらしい。例えばある集積埋葬では158体の遺体が確認されているが、そのうち大人が108体で37体に刀傷が認められている。つまり大人の34%が刀傷を持つということになる。
 しかし本では、この割合を少ないとしているが、今改めてこの数字を眺めると決して少ない数字ではないですねぇ。34%が死の直接の原因とは限らないが、刀傷を持つ世の中とは。恐ろしいではないか。
 刀傷の程度だか、これもまた凄まじい。ある女性の頭蓋骨の写真が載っているが、頭頂部から後頭部にかけて完全に切断されている。その切断面のきれいなこと。日本刀で頭を叩ききると、あんなにきれいに頭蓋骨さえ切断できるとは。タランチーノの「キルビル」で頭を真横から日本刀でスパッと切断するシーンがあるが、あんなことは不可能だと思っていた。タランチーノは考証をサボったなと考えていたが、どうもこの写真を見る限りではありえる話だ。日本刀の殺傷能力、および当時の人の剣操作の技術に驚愕させられる。

 鎌倉時代の鎌倉を知る手がかりとなる文献は少ない。京や奈良では貴族の日記があるが、鎌倉にはそれがないからだ。このような遺跡の発掘は文献の少なさを補う意味で大変貴重である。また文献では見えてこないリアルでより生活に密接した資料となるという意味でもまた貴重である。

仏像のお寺、“杉本寺”(鎌倉の寺社)


 梅雨入りをしてから、初めての晴れの日。週間予報を見ると、今日以外は1週間すべて雨だそうだ。そうと分かれば、今日しかあるまい。ノートやカメラなど、いつもの道具をもって本日は杉本寺へ出かける。
 杉本寺はその縁起を奈良時代に遡ることができる天台宗の古い寺だ。鎌倉で一番古い寺ともいわれている。また坂東三十三所観音霊場札所第一番の寺でもある。

杉本寺の入り口
金沢街道に面する杉本寺の入り口。幟が見える

 家は7時半に出た。杉本寺には7時50分着。このお寺の開門は8時と早いのだ。8時前なのにも拘わらず、先客が一名いた。
 杉本寺は先ほども書いたとおり、坂東三十三所観音霊場札所第一番の寺である。朝一にこの寺を訪れ、それから札所巡りを始める人が多いのだろう。先客の年配の男性も、札を受け取っていた。
 第一番の札所であるためか密教寺院であるためか、そこは不明だがこのお寺には沢山の幟(のぼり)がはためく。白地に黒で書かれた文字は“十一面杉本観音”とある。
 杉本寺は金沢街道沿いにある。街道と平行して流れる滑川にかかる犬懸橋のすぐ近くが入り口だ。入り口はとても狭いが、白い幟がよく目立つので入り口を見失うことはないだろう。
 この群立する幟を見て、実は長い間敬遠して入らなかった。ちょっと禍々しい印象なのだ。しかし一度中に入ってその印象は一変した。ここは貴重な場所だ。なぜ貴重な場所なのかはもう少し後で説明する。何度か訪れて、今は寺内を知っているので、この派手さがかえって好ましく思えるから不思議だ。
 さて狭い入り口からはまっすぐ石の階段が伸びる。途中、案内所があり拝観料200円を払う。案内所のからすぐ先には仁王門がそびえる。仁王門には運慶作と伝わる口を開いた阿形(あぎょう)像が右に、口を結んだ吽形(うんぎょう)像が左に立ち構え、参拝者を迎えてくれる。

仁王門
仁王門。お札がたくさん貼られている

 仁王門を抜けると苔の階段が見える。今は梅雨の最中であるためか、苔は緑に瑞々しく輝いていた。先日の妙法寺の苔の階段もよかったが、こちら杉本寺の苔の階段もこじんまりしていて、侘びのある美しい石段だ。この階段は鎌倉石の一枚石に段を刻んだものといわれる貴重なものだ。磨耗が烈しく、今は保護のため登ることはできない。ほとんど丸くなった階段に苔が張り付く様子に、この寺の歴史を感じる。

苔の石段
本堂にまっすぐ伸びる苔の石段

 苔の石段の左には新しい階段が作られていて、我々はこちらを登る。登りきるとそこに本堂が現れる。この本堂は四方が五間の正方形をした茅葺(かやぶき)で、古い密教寺院の特徴をよく表している。茅はお寺の人によると17,8年に一度、張り替えているそうだ。主に東北から職人を呼ぶそうで、大変な手間と費用であろう。伝統を守るということは、簡単なことではない。

本堂
茅葺屋根のご本堂。正方形の典型的な密教寺院


 さて本堂に上がろう。そう、ここは本堂に入ることができるのだ。幟をはためかせ禍々しく見えた顔の裏には、実は親しみやすさという裏の顔があったのだ。

 お堂に上がると、さらに驚かされる。目の前に何体もの仏像が、それこそ手を触れようとすれば触れることができる距離にお立ちになられているのだ。そして、この仏像が大変見ごたえのあるものばかりなのだ。これこそが、冒頭に貴重な場所であると書いた理由である。
 まず正面に黄金の十一面観音が立つ。これは寺の人によると源頼朝が寄贈したものであるとのこと。史実であるのかは別として、この寺は頼朝と縁の深い寺である。ひょっとして、と思わせるお姿だ。
 そして右で睨みを効かせているのが宅間法眼浄宏(たくまほうげんじょうこう)作と伝えられる毘沙門天像だ。僕はこの像を見て、まず法眼の作で間違いないと感じた。まったくの素人の僕であるが、そう直感させる像の出来栄えである。大変凛々しい男前のお姿だ。この像を見るためだけでも杉本寺に来る価値はある。
 正面には三体仏像が立っている。中央は十一面観音、右は毘沙門天、そして左手にももう一体の仏像(こちらも十一面観音像)がある。こちらは新しいものと思われるが、資料によっても寺の人の説明でも、どういう由来かは不明であった。
 この比較的新しいと思われる左手の観音像のさらに左に地蔵菩薩がいらっしゃる。運慶作と伝わるものだ。この地蔵菩薩、なんと優しいお姿か。ここは天台宗のお寺なので、おそらく護摩を本堂で焚くことが多いのだろう。煤で真っ黒なのだが、その表情の柔和さ、悲しさは煤で覆い隠すことはできない。地蔵菩薩の前で跪きお姿を拝見していると、時間の過ぎるのを忘れてしまう。
 今度は毘沙門天の右に目を移そう。そこにも慈悲の表情を浮かべた地蔵菩薩がいらっしゃる。こちらは鎌倉時代の安阿弥(あんなみ)作と伝わる。そしてそのさらに左には小さな仏様の集団がお揃いだ。観音三十三身である。こちらも運慶作とのこと。
 そうここには運慶作と伝わる像がいくつもあるのだ。運慶の作といわれる作品は全国に数多いが、真偽のほどは不明である場合が多い。杉本寺の運慶も確認されたものではないようである。しかしまったく紛い物かというとそうではないであろう。運慶は平安末期から鎌倉初期に奈良を中心に活躍した仏師だが、頼朝の要請で鎌倉に来ていることは分かっている。葉山の小さなお寺である浄楽寺には運慶作と確認されている仏像が何体も収蔵されている。また運慶は当然、ひとりで仕事をしていたわけでなく、集団で請け負っていたはずだ。現代でいう工房のようなものだ。杉本寺の運慶作品もその工房の作であるかもしれない。
 さて、このお寺ではもう少し仏像を拝まなくてはならない。なぜならまだご本尊まで行き着いていないのだ。黄金の十一面観音像の裏に進むと、奥にぼんやりと仏像らしきものが3体伺える。ここが当お寺のクライマックスであるご本尊が祀られる最深部だ。ここは残念というか当然だが、すぐ近くにまで寄ることはできない。奥の小部屋はガラス越しに見るだけで、薄暗い明かりの中でお姿を想像するしかない。
 3体はみな十一面観音菩薩像である。中央は慈覚大師作と伝えられる寄木造彫眼(よせきづくりちょうがん)で平安後期の作品(国重文)。右は恵信僧都作といわれる寄木造玉目(よせきづくりぎょくがん)で鎌倉中期の作品(国重文)。そして左はなんと行基作と伝わる一木造りで平安後期の作品(市文)である。

 杉本寺は寺伝によると天平6年(734年)光明皇后の命により行基が創建した。慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が中興開山で恵信僧都源信(えしんそうずげんしん)が十一面観音像を安置して、坂東三十三箇所観音霊場の第一番になったと伝えられている。
 関東にはここ以外にも行基が創建したと伝わる寺が多い。しかし行基が関東に来た史実はないようである。これは私見だが、行基のような修験者が奈良、平安時代には各地で修行していた。その地に寺が建ち、行基の創建と伝わったのではないかと思う。鎌倉の土地は頼朝以前も、かなり古い時代から開かれていたようだから、きっと修験者も西国から流れてきたのだろう。

 観音霊場として名高い杉本寺について書くなら、観音様にまつわる二つの逸話を書かなくてはならない。
 一つ目は逸話というか史実であるようだが。文治5年(1189)、大倉観音堂(本堂)が火事にあった。別当の浄台坊(じょうだいぼう)は身の危険を顧みずに炎上する本堂に飛び込み、ご本尊を運び出した。今も残る本尊である。これは吾妻鏡にきちんと書かれている史実だ。ここから伝説が生まれた。実は観音菩薩は運ばれたのではなく自ら歩いて逃げ出したというのだ。杉の根元で火を避けて一人で立っているところを僧が発見し、匿ったそうだ。ここから杉本寺の名前が生まれたとされている。
 もうひとつは行基が作ったといわれる左の観音様の話だ。門前を不信心の者が馬にまたがったまま通り過ぎようとすると、かならず落馬してしまう。その噂を聞いた建長寺の開山である蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が、観音に祈願し、自らの袈裟で観音像の顔を覆った。するとその後、馬から落ちる者がいなくなったそうだ。そこからこの観音像は“下馬観音”あるいは“覆面観音”という、ちょっとかっこいい名前で呼ばれてもいるのだ。ちなみに今、その観音様には袈裟はかけられていない。どうしてだろう。そのことを寺の人に問うと、古いからなくなったんじゃないかと答えてくれた。今も不信心の人が多いと思うが、車なら大丈夫だということだろうか。

 最後に、これは逸話ではないのだが。本堂右手に“熊野大権現”と“白山大権現”の祠がある。その左に小さな古い祠があり、丸い石がひとつは祠の中に、もうひとつは祠の外に置かれている。これは何なのだろうか。ご存知の方がいらっしゃれば、ぜひ教えて欲しい。
 資料を探したが、該当するものはなかった。ただ近いものとして『鎌倉歴史散歩』(大仏次郎編)に「・・・鎌倉石が二つころがっている。それは重ねてあったもので、上の石には、風化しているが石仏の首の浮彫が見え、下のには、凹みがある。『新編相模風土記』には、「地蔵堂、石像、長三尺四五寸、像の前に凹みあり、由来詳ならず。或伝に、此石仏を杉本太郎義宗が身代の地蔵という。按ずるに延元二年此に自尽せし斯波家長等が為に造建せし石仏なるべし」と記して、石仏図をのせているほどだ、なんとか保存したいものである」と書かれている。
 これがそうなのだろうか。

不思議な石
これが不思議な石


BPのアメリカ法人社長に対し、議会がハラキリを要求!?


 さっきCNNを見ていたら、東洋人の議員がアメリカ議会でハラキリ発言をして、驚いた。英語でニュースを聞いていたので、ちょっと自信がなかったが、今サイトで調べて、そのとおりだったことが分かった。

ジョゼフ・カオ下院議員


 ハラキリ発言をしたのはベトナム系アメリカ人のジョゼフ・カオ下院議員。発言は下院エネルギー商業委員会の前に行われた公聴会でなされた。
 委員会にはBPのアメリカ代表であるラマー・マッケイ氏が呼ばれており、メキシコ湾海中油田の原油流出事故に対するBPの責任について証言を求められた。そこで被災地であるルイジアナ選出の下院議員のジョゼフ・カオ議員が発言をした。
 「さきほど議長はあなたへ辞職を要求した。ところでアジアの文化においては、それとは違った解決法がある。サムライの時代では、ただ刀を渡し黙ってハラキリを要求する」

 この発言を聞いて、ヤバイなぁと感じた。彼を見た目から、日系人だと思ったからだ。こんな発言を日系議員がしたら、他のアジア系が騒ぎ立てるに違いない。やはり日本人は野蛮だ、残酷だ、過去の過ちを忘れているって。
 しかし調べてみると、冒頭に書いたとおりその議員はベトナム系であった。うん?、ベトナムにもハラキリがあったの? ハラキリってアジアの文化なの? 当然、そんなことはないとは思うが、ネットで関連記事を検索してみたが、そこを突っ込んで書いているものはひとつもなかった。アメリカ人にとっては、ハラキリがアジア文化であるのか、日本固有のものであるのかなんてのは興味の外のようだ。
 それとカオ下院議員もそのあたりをご存知ないのかもしれない。南ベトナム出身のようだが、幼くして渡米してきたようなので。彼はちょっと得意そうに、サムライの切腹の話をしていたから。

 まぁ、向こうのメディアでもちょっと面白い話題として取り上げている程度で、今後この話が発展することはないだろう。それよりもずっと本題の方が深刻だから。

 CNNを見ていると、最近ニュースの8割は原油流出事故を報じている。オーバーじゃない、本当にこのニュースばかりなのだ。ニューヨークタイムズ(ネット版)でもトップは毎日、原油流出関連だ。
 日本で比較するとオウム事件クラスか、いやそれ以上だろう。
 この事故はアメリカにとって未曾有の大惨事であり、大ニュースである。インパクト的には911以上かもしれない。
 これら一連の報道を見ていて、アメリカは変わるだろうなと思った。アメリカはこれから死に物狂いで脱石油の道に進むのではないか。その結果、日本人が考えている以上に、脱石油時代は早くやってくるかもしれない。向うの報道を眺めながら、そう思った。


何だかとっても忙しいのだ


 今朝は3時半に起きた。4時半に目覚ましをかけていたのだが、その前に目が覚めてしまった。もうちょっと布団のなかで粘ろうかなと思ったが、ビデオ(ハードディスクだけど)をかけていたことを思い出した。ワールドカップ日本VSカメルーン戦を録っておいたのだ(1年以上前に買ったハードディスクデッキを始めて使いました)。
 4時前から観戦。正直、サッカーにはあまり興味がないのだが、興奮した。本田がゴールしたときには、早朝にもかかわらず歓声をあげてしまった。猫が驚いていた。ごめんね、フクちゃん、大チャン。
 サッカーを見終えたのが、6時過ぎ。観戦中に朝食は済ませている。
 最近、フクちゃん、大チャンの抜け毛がすごくて、サッカーの間中、ブラッシングをする。ブラッシングで毛が随分飛んだ。それに実は1週間以上、掃除をしていない。気になりだして、その後は掃除機をかけることに。これが約一時間。
 ああ、それと掃除機をかける前、久しぶりに晴れそうな気配だったので、洗濯機を回す。掃除の後は洗濯物を干す。
 猫のトイレの掃除ももちろんする。これが結構、時間がかかる。ゴミをだす。朝食の食器を片付ける。するともう8時過ぎだ。
 それからインターネットでラジオ英会話と入門ビジネス英語を聞く。これが約一時間半。ああ、もう10時過ぎだ。それから翻訳をはじめる。でも1時間で、空腹を覚えて中断。朝食がいつも早いので、昼食は11時からだ。CNNを見ながらソバを食べる。
 12時からまた翻訳。3時間ほどする。
 今、午後3時だ。今日の翻訳時間は4時間だけ。でもこれでもうおしまいだ。なぜなら今ブログを書いていて、これが約一時間。そのあと腕立て、懸垂、四股などのトレーニングで一時間(だいたい毎日やっている)。それからシャワー。するともう5時だ。5時からはアメリカンアイドルを見なくてはならない。現在残るのはわずか2人だ。来週は決勝なのだ。ついに最後まで見てしまった。今週も見逃すわけにはいかないではないか。そして6時からはBSでオランダVSデンマーク戦をする。録画だけど見るつもりだ。日本と同グループだしね。すると8時で、もう寝る準備をしなくてはならない。

 こんな感じで、何だかとても忙しいのだ。アメリカンアイドルとワールドカップが終わるまで、こんな日々が続きそうである。でももうちょっと仕事をしなくては駄目ですね、確実に。明日は頑張る所存です。
 でも今日はこれでPCを閉じます。まだ4時前だけど。

鎌倉駅前の“あさくさ”と逗子マリーナ前の魚屋さん


 土曜日は天気がよかったので妙本寺に行ってきた。今回はブログに書くことを目的で行ったのではない。ただぶらりと散歩で出かけ、ついでに入ったといった感じだ。拝観料も取られないようだったし。とても良いお寺だったが、下調べもしていない。近いうちにまた尋ね、じっくりとブログで紹介したい。

 妙本寺の後、お腹が空いたのでランチを取ることにした。どこに行こうというあてもなかったので、最初に出会った麺類が食べられる店に入ることにした。なるべく駅の近くには行きたくなかった。土曜で混んでいるし、駅の近くは観光客目当ての店が多いと思ったからだ。しかし妙本寺の近くに店は一軒もなかった。
 どんどんと駅に近づく。ついに若宮大路まで来てしまった。しかたなく信号を渡り駅に向かって歩く。すると信号を渡ってすぐの場所に随分レトロな雰囲気のレストランを見つけた。ディスプレイを覗くとラーメンがある。店の名前はなぜか“あさくさ”であった。駅のすぐ近くだし、店名は“あさくさ”だし、なんだか嫌な雰囲気がした。しかし最初に決めたルールは守らなくてはならない。最初の麺類屋さんということで、この店に入ることにする。
 店の中は外観以上にレトロであった。昭和40年代ごろ、各地にあった普通のレストランという感じだ。ラーメンやご飯ものも食べられるし、コーヒーも飲める。ビールや酒もあるし、そしてクリームソーダなんかもある(ちなみのここではクリームソーダがあったかどうかは記憶していない)。
 当時は普通のレストランであったが、平成22年の現代ではとても珍しいタイプのレストランかもしれない。あまりのレトロぶりにかえって最初の不安は払拭され、雰囲気を楽しみ始めた。
 メニューを見ると値段もかなりレトロである。コーヒーやアイスクリームは300円。そしてラーメン500円。チャーハン700円。そんな感じだ。500円のラーメンを注文してみる。
 出てきたラーメンはこれまた昔風のもので、なかなか美味だった。麺はちょっとのび気味だったが、これまた当時のラーメンではよくあったことで、懐かしいと思える。ちょっと贔屓目になってはいるが。
 総じて良い店だった。鎌倉駅周辺でランチを取るときにはいつも呻吟する。しかしこれで今後は悩まないで済む。次もたま来よう。そう思える店だった。駅前なのに空いていたしね。

 “あさくさ”を出た後、シャトルバスに乗り逗子マリーナへ向かう。目当てはマリーナ向かいの魚屋だ。時間が遅かったので、種類はあまり残っていない。それでも新鮮な黒ムツがあり、一匹(840円)買う。それから漁港に隣接しているシラス屋さんでシラス干し(400円)も購入。またシャトルバスで鎌倉まで戻る。
 このシャトルバス、とても便利だ。土日のみの運行だが1時間に4本も出ている。車のない自分には重宝な存在である。それと一番大切なこと、無料なのだ。

 シャトルで鎌倉まで戻ると、そこから歩いて帰る気力はなくなっていた。暑い一日だったから。それで京急バスに乗る。ハイランド行きのバスは観光客で満杯だったが、ほとんどは浄明寺で下車した。報国寺か浄妙寺に行くのであろう。僕のブログを見てくれた人いるのかなぁと思った。
 最近、報国寺や浄妙寺をグーグルで検索すると僕のブログがなんと一ページ目にくるのだ。えへん。

 家に帰るとフクちゃん、大チャンが暑い部屋でくっついて寝ていた。窓を閉め切ってでかけたのだ。フクちゃん、大チャン、ごめんね。

アロエジュースを作る


 下の写真をご覧戴きたい。なんか凄いことになってますでしょ。アロエが成長しまくって、家の周りの通路を塞ぐ繁茂ぶりである。

ちょん切られる心配もなくスクスクと育ったアロエちゃん
ちょん切られる心配もなくスクスクと育ったアロエちゃん

 中古のこの家に引っ越してきたのが5年前だが、そのときはこれほど大きくはなかった。それに当時はアロエがあるのが嬉しくて、しょっちゅうもいではジュースを作っていた。嫌がる来客に「健康にいいんだからさぁ」と自慢げに飲ませもした。しかし次第に飽きてきて、面倒くさくなり、ほったらかしになった。その結果がこの繁茂である。何とかしなくてはならないと思っていた。このままでは本当に通路が封鎖状態になる。切ってしまおうか。
 もちろん吝嗇な僕にそのような勇気があるわけでもない。そこで改めてジュース作りを復活させることにした。
 10本ばかりもいできて、タワシでゴシゴシと洗う。あとはジューサーで、ちょこちょこっと作るだけだ。なんだ簡単じゃないか。なんでこんなに簡単に健康満点のジュースが作れるのに。僕ったら面倒くさがって駄目な奴。
 そう思えたのは一瞬であった。ジューサーを洗う段階で思い出した。ジューサーを洗うことが面倒なのだ。分解してひとつひとつのパーツを洗って。スリコギ状の金属の部分にはカスがこびりついている。スポンジでこすると、スポンジが削られてしまう。力をいれないと、カスがなかなか取れない。これだ、だから面倒臭くなったのだ。
 と悪戦苦闘したが、ジュースは上出来だった。まず試しに一杯飲む。そんなに不味くない。でも飲み安くるために蜂蜜を入れる。うん、なかなか美味しい。これなら、毎日飲めるね。
 ゴクリと一口で飲んで、この夏はアロエパワーで、乗り切るぞと、特に夏が苦手でもないのに、なぜか力がこもったのだった。
 ジューサーを洗うのが面倒だけど、頑張って暫くは続けてみるつもりである。

空き瓶に入れたアロエジュース。これで10本分
空き瓶に入れたアロエジュース。これで10本、一週間分
これは一回分。ひとくちでゴクリ、う~んなかなか
これは一回分、ひとくちでゴクリ。う~ん、なかなか


 今、これを書いていたら変なのが来た。“にほんじゅうせん”とか言ってたが、当然“日本住専”とは関係ないと思うが。
 「わたくし、“にほんじゅうせん”の者ですが、下水管の漏水のチェックに参りました。2、3分で終わりますので、調べさせていただきたいのですが」インターホンごしにその男は言った。
 これを聞いたら、ほとんどの人が水道局の漏水チェックかと思い、敷地内に入れてしまうのではないか。僕は以前、これはうんと以前、大学生の頃なのだが、消火器の押し売りに騙されて危うく買わされそうになったことがあるので、ピンときた。
 「水道局の人?」僕が問うと、
 「いえ違います。水道局は自宅の上下水道の管理はしていませんので」
なるほど、その通りだ。しかし、なぜそ奴が、うちの下水道のチェックをする必要があるのだ。
 「で、どうし確認する必要があるの」
 「漏水していると、大変なことになりますから」
またしても、なるほどその通りだ。下水が漏水していたら、ちょっと面倒なことになる。でも普通、気付くと思うが。
 言ってることはいちいちもっともだが、とにかくへんな男だとピンと来た。僕の感は鋭いのだ。それで語気を強め、「ああ、それもでうちはいいよ」と断った。
 あんなのを入れたら、絶対それこそ大変なことになる。漏水している以上に面倒なこと間違いなしだ。
 このあたりは昭和40年代に建てられた住宅地なので、住民のほとんどは老人世帯である。あのような悪者に騙されなければいいのだが。

安国論寺をゆく(鎌倉の寺社)


 安国論寺。不思議な名前の寺だ。立正寺でも安国寺でもない。
 立正寺なら正しさを立つ、あるいはまことの道に進むことを祈念する寺と考えることができる。安国寺なら国を安んじる、太平の世の中を希求する寺なのだと思えばいい。しかし安国論寺なら、これは立正安国論でしかない。立正安国論、国家諫暁(こっかかんぎょう)の祈りを込め日蓮が岩窟に籠もり書き上げて、執権北条時頼に上程した建白書の名だ。その建白書の名が寺の名前となっている。

安国論寺の山門
安国論寺の山門

 日蓮がこの書を草したとき、世は鎌倉を中心に天変地異が相次いでいた。まず1256年暴風雨が来襲し、疫病が蔓延した。翌年8月、大地震が起こり、神社仏閣ことごとく崩れ落ち、山は砕け、人屋は倒壊し、地は裂け、水が湧き出し、火災が起き、鎌倉の町は灰塵と帰した。翌月も余震は続き、11月にはまた激震があった。さらに翌年は旱魃と風水害に見舞われ、飢饉疫病が襲い掛かり、折り重なる死骸で町は悪臭に包まれた。日蓮は立正安国論を次の言葉から始めている。
 「旅客来たりて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変地夭(てんぺんちよう)飢饉疫病遍く天下に満ち広く地上に迸(ほとばし)る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり死を招くの輩、既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し」

 日蓮が立正安国論で訴えたのは、人々が正しいお経である「法華経」に背き、法然が唱え、あるいは一遍が踊ることで願う念仏信仰に帰依しているから災難が起こるのだということだった。念仏を捨て、法華経に帰依しなければさらなる災厄は続くだろうと予言もした。そしてその予言は当る。元寇である。

 国を憂い、命がけで書き上げた政策は、しかし幕府に取り上げられることはなかった。他宗をあからさまに攻撃する日蓮に他宗派は怒り、襲撃をする。松葉ヶ谷の法難である。命からがら逃げ延びたが、今度は幕府が流罪とする伊豆の法難である。

 しかし日蓮の宗徒は当然、立正安国論を誇りとし、偉業としてこれを讃えた。そしてこのお寺を建てた。ひとりの人間が書き上げた書が名前となっている寺がここ以外にあるだろうか。歴史も宗教にも素人の僕が偉そうに書くことではないのだが、他にはないのではと思う。
 まったく日蓮宗の個性、不思議を感じさせるお寺の名前である。

 さて前置きが長くなったが、安国論寺は静かな緑に囲まれた良い寺である。ここもまた人が少ない。今回、9時の開門とともに入ったが、10時に出るまでお寺の人以外、誰とも出会わなかった。静かに参拝することができた。
 山門の脇には「日蓮上人草庵跡」と書かれた石碑が建つ。そうここもまた日蓮の草庵跡だ。先日紹介した妙法寺もそうだった。妙法寺の項で書いたが、日蓮が鎌倉に滞在したのは約20年の長い期間である。その間、この松葉ヶ谷(まつばがやつ)を渡り歩いたのだろう。草庵が複数あっても不思議ではない。
 山門を抜け暫く行った右には草庵跡である“御小庵”がある。現在ある建物は元禄年間(1688~1704)に尾張徳川家の寄贈により建てられたものだ。

 そしてその奥に御法窟(ごほうくつ)と言われる岩屋がある。しかし岩屋は今、御小庵の建物に塞がれていて見ることはできない。日蓮が立正安国論を書いたといわれる洞窟がここなのだ。このお寺のもっとも中心地といえる御法窟を直接見ることができないのは残念だ。

御法窟の前の石碑
御法窟の脇に建つ石碑。御法窟は見えない

 御小庵のすぐ脇には熊王殿がある。熊王というと、名前から山王様のような神様が祭られているのかと思うが、境内を掃いていた寺のひとに聞くと、そうではない。熊王さんは日蓮の弟子の名前なんだそうだ。高弟のひとりで、ここに祀られている。さらに面白いことを聞いた。今もその子孫がおられ、苗字が熊王さんなのだ。ときどき参拝にみえられるという。

本堂
参道から望む本堂(祖師堂)

 御小庵の正面には本堂(祖師堂)がある。おそらく普通はまず本殿に参られ、それから御小庵、熊王殿と来る順番かもしれないが。ここも尾張徳川が再造したのだが、昭和36年火災により消失し、現在の建物はその後再建されたものである。
 僕が行った時は、さきほど書いたとおり他に参拝客はいなかった。お寺の人に断り、本堂に上がらせてもらった。正面に祭壇があり、本尊らしきものが見えた。おそらく“日蓮上人座像”だと思う。

日蓮上人座像を祀る祭壇
本堂の中。祭壇の中心に小さく座像が見える

 本堂を過ぎると一般のお墓がある。しかしここも一見の価値ありだ。なぜならここにはあの“目刺しの土光さん”のお墓があるからだ。土光さんは熱心な法華経信者で毎朝、お題目を唱えていたと聞くが、お寺はここであったのだ。財界の天皇と言われ、行革を推進した大物の財界人でありながら、常に質素で過ごした土光さんのお墓に向かい、“僕も質素に暮らしています”と手を合わせた。自分の場合は質素を旨としているのでなく、背に腹かえられないだけなのだが。でも何となくシンパシーを感じてしまった、愚かな僕なのであった。

 さらに行くと日朗上人御荼毘所があり、そこを過ぎて少し山を登ると南面窟がある。おそらく日蓮上人が立正安国論を草した洞窟はここだと思う人が多いだろう。そんな雰囲気のある洞窟である。
 しかしここは松葉ヶ谷の法難の際、白猿が招き日蓮が隠れた場所とされる。そう、ここもまた妙法寺と同じ伝説のある場所だ。ここのお猿さんも山王権現の化身であるのも同じだ。
 お猿の伝説がなぜ、この辺りに多いのか。このお寺の裏に猿畠(さるばたけ)という地名の場所がある。どうも、そこからお猿の伝説が生まれたようだ。ちなみに今、猿畠には日蓮宗の法性寺(ほっしょうじ)が建っている。

 さてどんどん登ろう。このお寺は本堂や庫裡(くり)などは狭い範囲に建てられているが、境内は結構広い。裏山までがその敷地内で、山道が長く続いている。ぐるりと裏山を巡れるが、鐘楼の方へ周る道を進む。鐘楼を過ぎてしばらくアップダウンを過ごしたら、富士見台に着く。眼下には鎌倉の街と江ノ島が望める。空気が澄んでいれば富士が見えるというが、今日は晴天だったが靄で見ることができなかった。

見下ろす鎌倉の市街地
富士見台からの遠望


その手があったか“フリーガン”


 昨日だか一昨日だかのニューヨークタイムスで“フリーガン”のルポが載っていた。ネットで調べたら、日本でもテレビが放映したようだ。だからご存知の人が多いかもしれない。

 フリーガンはフーリガンではない。ちょっと似ているけど。フリーガンとはフリー(自由、無料)と完全菜食主義者のビーガンを掛け合わせた造語で、スーパーなどで廃棄された食品のみで生活する人をいう。彼らが集めるのは、廃棄物とはいっても食べ残しではなくパッケージやラップされたままの商品だ。賞味期限を越えていない食品が主な対象で、果物や肉、乳製品など、あらゆる商品を収穫することができるらしい。そのラインナップは店内の陳列棚そのものだということだ。すごいね。

 フリーガン自体の歴史はわりと古く、1960年代からと言われている。反グローバリゼーション主義と環境主義が合体してできあがったライフスタイルのようだ。ヒッピーだとかカウンターカルチャーの流れなんだろう。その後、ヒッピーがファッショナブルでなくなったように、流行に敏感な若者の間でフリーガンもカッコいい生き方でなくなり、数は少なくなっていった。しかし不況も後押しして、信奉者が最近増えている。

 ニューヨークタイムスが紹介していたケースは食べ物だけではない。住まいまでもただで見つけている。そのフリーガンが集団で住んでいる場所は、ニューヨーク州のバッファローでナイアガラの滝がある街だ。かつては工業で栄えたらしいが、今はすたれ多くの廃屋が存在する。不法占拠しているその家は100年ぐらい前の大邸宅で3階建て。部屋は10を越える。
 当局が察知し、立ち退きを迫ろうとしたのだが、なんと近隣の住民が立ち退きに反対したそうだ。
 そこは以前、売春や麻薬売買の場所として、よからぬ人たちが出入りしていて、住民の頭を悩ませていた。しかしフリーガンが住み着くようになってから、よからぬ人たちが近寄らなくなり、治安が向上したそうだ。さらにフリーガンは建物を修繕するので、外観もよくなり、町の美観にも貢献している。
 このフリーガンはなんでもフリーでやってしまおうというポリシーの持ち主だ。彼らの目的は過度の消費社会からの離脱である。だから食べ物だけでない。衣類も家具も、電化製品もみな拾ってきて生活しているのだ。パソコンルームなんてのもちゃんとあって、パソコンが何台か並んでいる。それらパソコンは、拾ってきた部品で自ら組み立てたそうだ。さらに驚いたのは、インターネットに無料で接続していることだ。これは違法だと思うが、近くに大学があり、そこが発する無線LANの電波にただ乗りしているのだ。
 図書室もあって、かなりの本が揃っている。結構、勉強家なのだ。
 自転車ルームもあったな。彼らは車に乗らないから、自転車が足なのだ。これも拾ってきたり、組み立てたりしたものだ。
 そこには世界中からバックパーッカーが集まり、1,2泊なら自由に泊まれるのだそうだ。その世界の若者の間では有名みたいだ。ユースの乗りだね。

 ここ数年、フリーガンを志向する若者が増えてきている。無職の風来坊みたいのが多いのだが、ちゃんと仕事をしていて持ち家や賃貸の部屋に住んでいるのもいる。彼らは食品だけのフリーガンであるが。

 そうか、その手があったのかと、ちょっと考えてしまった。いや、冗談ですよ。と僕が言っても冗談には聞こえないだろうなぁ。

錚々たる師範たちの演武


 日曜は午前中、文京区で合気道の稽古をした後、江戸川区スポーツセンターで行われた「合気道講習会・故石井輝師範追悼演武大会」に参加した。江戸川区合気道連盟が故石井先生を偲び、江戸川区合気道連盟と友好のある道場や先生方に声をかけ実現したものだ。

 追悼演武というものが行われたのだが、その演武者の顔ぶれがすごかった。師範演武では武田義信八段(AKI会長)、荒井俊幸七段(群馬県合気会会長)、針すなお七段(政治漫画で有名なあのひとです。実は合気道家としても有名な方です)、安野正敏七段(本部道場師範)、田中光一七段(翔道会師範)、山口哲六段(山口道場師範)他がまさに華麗というべき演武を披露した。10を越える賛助団体の先生方も演武をされたのだが、こちらも中身の濃いものだった。文京からは上田先生が代表して演武をされた。これもとてもよかった。上田先生、かっこよかったですよ。

 合気道をされていない方には、ピンとこないかもしれないが、これだけの師範が揃って演武をすることは珍しいことなのだ。武道館で年一回開かれる全国演武会を除いては、稀であると思う。
 僕は石井先生という方を存じ上げないのだが、翁先生に直接指導を受けた最後の世代で、山口清吾師範の薫陶も受けている。今回の参加者を見渡せば、石井先生の顔の広さと、人望の厚さを伺うことができる。

 今、日本の合気道界のトップといってもよい師範たちの演武を見て、あらためて合気道の奥深さを感じ入った。あと何十年稽古をしてもあそこまでは到達できないと思うが、しかし山の上の眺望を垣間見ることができて幸せだった。いつか少しでもあの眺望の近くに行けたらと思う。

 講習会では他の道場の若い人と腰投げをガンガンやりあって、昨日、今日は体中が筋肉痛なのか打ち身なのか痛い。幸せである。

新首相誕生と新聞報道


 鳩山由紀夫氏が「国民が聞く耳を持たない」から辞めたいと言って辞職を発表し、その後を受けて菅直人氏が新しい首相になることが決まった。

 昨夜は菅新首相の記者会見中継を、飲みながらテレビで眺めていた。首相番記者の質問は新閣僚や小沢氏の処遇など人事に集中していた。当然、新首相はそれをはぐらかした。当たり前だ、組閣前にそんなことがしゃべれるか。答えが分かっているのに、どうしてそんな質問をするのか。虚しさを覚えるような、内容の乏しい記者会見であった。どこの社の誰が何を質問したのかも、まったく覚えていない。
 ところがただひとり記憶に残った記者がいた。最後に質問した農業新聞の記者である。「日本農業新聞の○○ですが」と最初に自己紹介した時点で、うんざり気分がすっ飛んだ。え、農業新聞? どうして。
 場違いに思えた農業新聞の記者は、他紙の記者よりよっぽど堂々と質問をした。居並ぶ一流紙やテレビ局の記者に遠慮することもなく、飄々とした態度で質問をした。
 質問内容もよかったと思う。経済政策と、まぁこちらは普通だが、農業政策の、たしか1兆円の農家への個別支援政策について質問をした。不意を衝かれた新首相は、少し動揺した様子であった。首相がどう答えたのかは覚えていない。僕自身あまり馴染みのない分野なので。だがあの質問者、および質問は異色際立ち、印象的であった。今後、記者クラブや官僚から意地悪されなければいいのだがと、ちょっと心配にもなったが。
 その前の日だったか、鳩山前首相の“聞く耳持たない会見”でも若い記者がアガリまくってした質問を、どうも落ち着かない気持ちで聞いていた。こちらも最後の質問者で救われた。若者の中でただひとり白髪頭の初老の人がいることには気付いていたが、その初老が質問をした。初老の声はとても落ち着いていた。その声を聞いただけで、こちらも落ち着いた気分になった。

 首相番とか官邸番の記者に、各社は若手を使いたがる。あれはどうしてなのだろう。“聞く耳持たない会見”で最後に質問した白髪頭のようなベテランが、落ち着いた声で、知識と経験に基づく的確な質問をしたほうが、よほど良い記事が書けるだろうに。
 新聞社の上司に尋ねたことがある。教えてくれた理由はおもに三つだった。第一に新人の養成である。老練な政治家を相手に体当たりをして、恥をかき、揉まれることにより、若手に成長を促すため。第二は政治家との個人的関係の構築。政治家との付き合いは、相手が政治家を辞めない限りは長いものになる。この関係が記者と社の財産になるのだ。第三は現場の政治取材は体力勝負であって、若手でしか務まらないから。
 しかし本当にそうであろうか。一昨日、昨日の会見を見ていて、違う理由が思い当たった。
 ひとつは、上の第一番目の裏返しなのだが。二十代の知識も経験もほとんどないような若手記者は当然、首相や幹事長を務めるベテラン政治家からは軽く扱われる。橋本元首相のように質問者に対し嫌味で答える者もいるし、小沢前幹事長のように凄んだり、無視して対応する政治家もいる。こうしたいわば馬鹿にした態度を取られ続けた若手記者は政治家に対してどういう感情を抱くのだろうか。おそらく嫌いになる。ナイーブな記者なら政治家の存在自体に恨みを抱くに違いない。
 若手記者も長じて、デスクになり政治部長になり、論説委員になる。うまくいけば。少しずつ経験を積み、政治家との距離も縮まるだろう。しかし現場の取材はしない。あの夜討ち朝駆けで政治家に食らいついていたのは若い頃の話しだ。今は表面上、ニコニコとした付き合いができるようになった。飲む機会もあるかもしれない。年賀状なんかもやりとりするだろう。しかし若いときに受けた馬鹿にされた態度、それはしっかりと心の奥底に刻み込まれている。現場の直接的な体験は、若い頃しかしていないのだから。あのときの恨み、いつか晴らしてやりたいと、潜在意識に埋め込まれても不思議はない。
 新聞社の幹部は自らの経験をもとに、若手を記者クラブに送り込む。若手にも自分と同じような精神構造植え付けるためだ。そうすることにより社として統一した意識をもつことができる。
 そして幹部は経験的に知っている。大衆はその手の感情が好きだということを。恨みがこめられたメッセージが、大衆は大好きだということを。つまり売れる記事が書けるというわけだ。

 もうひとつある。“聞く耳持たない会見”の最後の記者のようなベテランは、的を得た質問を堂々とする。しかしこれが新聞社としては面白くない。オドオドした若手がちょっと頓珍漢な質問をしたほうが面白いのだ。政治家が怒ったり、軽蔑したりした方が、展開は面白くなる。

 まぁ、本当のところは分からない。飲みながらテレビを眺めていて、思いついたことに過ぎないのだが。

 今日は政治について、もうひとつ。今日の新聞(ネット)を読んで感じたことだ。
 当然、新首相である菅直人氏の過去の実績や政治スタイルを分析した記事があるかと思って産経と朝日で探した。残念ながら僕が期待した内容の記事を見つけることはできなかった。代わりに見つけたのはワイドショー的な性格分析のような記事であった。
 産経は阿比留瑠比という変わった名前の記者が「鳩山氏とは異質の湿った軽さ パフォーマンスの菅氏」という署名記事を書いている。昭和55年の衆院初当選からの簡単な経歴のあと、いくつかのエピソードが紹介されている。そのうちいくつかをここで紹介すると、(1)鳩山弟の発言として「兄と私とで民主党の骨格を作ろうとしていた。後で菅さんが来て『オレが代表をやるのでなければ嫌だ』というので、兄と共同代表になった」。(2)年金未納問題で、頭を丸めてお遍路姿で四国八十八カ所巡りをした。(3)18年の代表選演説で、保守系数学者、藤原正彦氏の著書「国家の品格」を引用した際に、「全く似合わない」と中堅議員からと酷評された。(4)鳥インフルエンザでは鳥丼を、BSE(牛海綿状脳症)では牛丼を、「O157」のときはカイワレ大根3パックをカメラの前でひたすら食べた。(5)公共職業安定所を視察した際に、パソコンによる求人検索で「55歳、月収50万円」と打ち込み、希望月収の高さに、再就職の厳しさが分かっていないと批判された。
 そのほかにも昭和天皇は終戦時に退位するべきだったとした発言や、拉致事件の実行犯である北朝鮮工作員の助命釈放嘆願書に署名したことなども紹介されていた。しかし全体の流れとしては、政治手法や実績よりも菅氏の短気で軽薄な性格を浮き上がらせるようなエピソードを中心とする記事であった。
 ちなみに阿比留瑠記者は産経新聞社政治部のホープとして、非常に期待されている記者である。僕が産経在職中も有能な記者であるとの評価を度々耳にした。
 朝日も同じような内容の記事が「イラ菅、昔から、輝き再び、新首相ゆかりの人々」という見出しで掲載されている。同じような内容なので、紹介は割愛する。

 産経、朝日の記事をともに読んで、暗い気持ちになった。我々がこれからリーダーとして戴く人物は気が短くて、軽薄で、個人的な上昇志向ばかり強く、失敗すれば頭をまるめてお遍路にでかけ、テレビの前では牛丼とカイワレをパフォーマンスで食べまくり、経済観念も何もない。そんな人物の肩に我々の未来は担われているのだ。

 こういう記事を確かに読みたがっている人は多いだろう。僕も例外だとはいわない。しかし各社こぞって、テレビも新聞も。これだけ悪意に満ちた下世話な報道ばかりだと、下世話好きな僕でも少々ゲップが出てくる気分だ。

 頭を丸めてお遍路に出たとか、カイワレを3パックむしゃむしゃ食べるパフォーマンスをしたとか。どれも記事に込められた意地の悪るさで食中毒を起こしそうだ。意地の悪さというのはスパイスのようなものだ。ちょっと振り掛ければ、味は引き締まる。しかし来る料理がどれもこれも、スパイスだらけだとしたら。それを食べさせられるお客は胃潰瘍になること間違いない。

神経鞘腫体験記(4) いよいよ中井先生の診察


 今日は神経鞘腫の続きである。過去3回分はカテゴリー“神経鞘腫闘病記”に収録されています。読まれていない方はよろしかったら、そちらから読んでください。

 12月の診察日がやってきた。正直いって、随分待たされたと思った。96年の夏に背中に痛みを感じ、渡辺内科に行ったのが10月ごろである。すぐに神経鞘腫だといわれ九段坂病院へ駆け込んだのが、その翌日だ。最初に見てもらったのが若い先生で、不安に感じ、名医の評判が高い中井先生(九段坂病院院長)の診察予約をすぐに入れた。予約を入れてから2ヶ月が過ぎていた。そしてようやくその日になった。待望の中井先生の診察日だ。

 九段坂病院の整形外科はものすごく人気のあるところだ。朝、9時から診察が始まるが、8時ぐらいから患者が押し寄せる。日本全国から来るそうだ。9時には待合席が一杯になり、他の科の席にまで整形外科の患者が溢れる。
 そのぐらい人気なのだが、診察室は結構しょぼい。古い診察室は白いカーテンのような布で仕切られているだけだ。だから診察室の前に行くと、医師と患者の声は筒抜けだ。
 予約はたしか10時ごろだった。そのちょっと前に行き、一般の待合室で待った。看護婦さんが僕の名前を呼んだ。待合席から白い布で間切られた診察室の前の席に移らされた。医者の声が聞こえる。おそらく中井先生だ。大きく力強い声だ。いわゆる滑舌の良いというやつだ。
 その滑舌の良い声が大きく僕の名を読んだ。「はい」こちらも少し大きめな、でも病院なので多少控えて返答をした。
 例の白い布をめくって、診察室に入った。思ったより若い。50代前半ぐらいだろうか。額が大きく横広で、いかにも頭の良さそうな顔をしている。顎もしっかりとはっていて、自信に溢れた顔だ。この顔だ。僕が待っていたのは。

 部屋に入ると中井先生は僕のCTを見ていた。
 「神経鞘腫だね」
 「はい」
 「大きいね」
 「はい」
 「違和感ない?」
 「少し痛みます」
 「だろうねぇ。これだけ大きければ」
 「これ、けっこう古いよ。随分前からあるみたい」
 中井先生の説明では、腫瘍を避けるように背骨が発達している。たまにガードレールを避けて成長した桜などの街路樹があるが、あれと同じ理屈で僕の背骨は腫瘍を包み込むように、そこの部分がえぐれて形成されている。つまり成長期にはすでに腫瘍があったと思われる。
 「うん、これだけ大きくなるには期間が必要なんだよ。良性の腫瘍は成長が遅いからね」
 「え、良性なんですか」
 僕は心の底から驚いた。一番、心配していたことがさらりとクリアされてしまったからだ。だって若い先生は細胞を採取してみなければ分からないって、何度も言っていたのに。それであれだけ悩んだのに。
 「あの、でも○○先生は手術してみなくちゃ分からないって言ってましたけど」僕の声は喜びとともに多少、○○先生への非難が込められたものだったろう。
 「そう。でもこれ、良性だよ」中井先生は、僕の嬉しさも非難もすべて包み込むようにニコニコしながら答えた。
 やったー、心の中でガッツポーズを取った。それさえ分かれば、こっちのもんだ。もう、何ヶ月だって待ってやる。今、聞いた話では10代のころからあったかもしれない腫瘍なのだ。焦る必要なんか、全然ない。やっぱり中井先生だ。
 「これ取ったほうがいいよ」と言って、中井先生は説明を始めた。
 この神経鞘腫は良性だが取ったほうがよい。なぜなら今でも成長を続けているからだ。このままにしておくとどんどん大きくなって、しまいにはハンドボール大までなってしまうこともあるらしい。今はそれほど悪さをしていないようだが、神経に直接生えている腫瘍は色々な障害をもたらす。だから症状が出る前に取るべきなのだ。また小さいほうが手術も軽くて済む。

 「神経がね、遮断されちゃうんだよ」ちょっといいかな。と言って、僕をベッドに寝るよう促がした。そこで足を延ばしたり曲げたりさせられ、筋力を調べられた。問題はないようだ。続いてズボンを脱がされ、針で左足をつつかれた。
 「感じますか?」針といっても先の丸いもので、そんなに痛くはない。ほんのちょっとチクチクする程度だ。膝の辺りから徐々に上に向かい、針を当てる。すると膝からわずか3センチぐらいのことろで、「あれ」と思った。感じないのだ。
 「感じません」
 信じられない。僕は知らなかった。自分の左脚の膝からすぐ上が針で突かれても何も感じない状態であることを。針を色々な場所に当てて分かったことは、僕の左脚の太もも前面はほぼ全て感覚がなくなっているという事実だった。
 中井先生は理科の教室にあるような人体模型の、背骨の部分を持ち出して説明してくれた。僕の腫瘍は第2腰椎と第3腰椎の真ん中から生えていて、そこから体に伸びる神経の機能を阻害している。阻害されている神経は左脚へ伸びているもので、その結果左脚の感覚が麻痺している。一度死んだ神経は蘇生することはない。ゆえに僕の左脚の腿の感覚は手術をしても治らない。手術が遅れると、腫瘍がさらに大きくなって、他の障害が生じる可能性が高い。

 気持ちは複雑だった。中井先生はCTの写真を見ただけで良性だと断言してくれた。これはとっても嬉しい。一方、嬉しくない事実も明らかにしてくれた。僕の左脚の太ももの神経は蘇生しない。手術が成功しても、一生そこはなんにも感じないのだ。
 でも考えてみればその日、針を当てられるまで気付かなかったようなことだ。大した問題ではないのではないか。太ももの触感がなくて不便な機会などそうはない。クラブのお姉さんが左隣に座って、手を腿の上に置かれても気付かないことぐらいじゃないか。そんな機会はめったにないしね。
 当然、そのときはクラブのお姉さんのことまでは気が回らなかった。だから複雑ながら、嬉しい気持ちが勝っていた。しかしもうひとつ気になることがある。それはこの自信たっぷりの中井先生が僕の主治医になってくれるかどうかだ。その日はあくまでも診察をしてもらうだけの予約だった。今後、中井先生が主治医になるという話ではない。九段坂病院のルールではあの若い先生が僕の主治医であり、その日はいわばセカンドオピニオンとして、中井先生に診て貰っただけだ。

 僕は渡辺先生に書いてもらった紹介状を鞄から出し、中井先生に手渡した。先生はすぐに封を開け、紹介状に目を通した。読み終えた頃を見計らって、単刀直入に中井先生に言ってみた。
 「中井先生に主治医になってもらいたいんです」


 今日のサービスショット。この写真は昨日の夕方撮影したもの。夕日の当るキャビネットの上で、外を眺めるフクちゃんを撮ろうとしたら、カメラに気付きカメラ目線に。

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ドクダミ茶作りに挑戦


 ああ、また今日も好天だ。昨日は瑞泉寺に行っちゃったし、またお寺じゃなんだしなぁ。でもこんな天気の下、一日中家の中にいるのもなぁ。ということで、本日始めてのドクダミ茶作りに挑戦した。
 ドクダミ茶は何度か飲んだことがある。実家で母が市販のものを飲んでいて、たまに飲まされた。それは癖のないもので飲みやすかった。また産経新聞社で販売局員をしていたときに販売店訪問の際、店のおかみさんに飲まされた。それはおかみさんが裏山で自生しているのを取ってきて自分で作ったもので、かなり不味かった。前任の担当員に、あの店に行くとドクダミ茶を飲まされるから覚悟しろと言われていたので、覚悟して飲んだ。でも僕はこの手のものは大丈夫なほうみたいで、確かに不味いと思ったが、残すほどではなく、ちゃんと飲みきった。おかみさんはいたく喜んで、「最近の若いのはみんなあたしのドクダミ茶を嫌うけど、あんたは偉い」といって、2杯目を注いでくれた。そしてちゃんと二杯目も飲みきった。おかみさんに好かれたのは言うまでもない。おかみさんは僕の訪問を楽しみにするようになった。僕は販売の店回りは半年しかしなかったのだが、異動のときにはとても悲しんで、餞別にドクダミ茶をくれた。


庭に自生するドクダミ
庭に自生するドクダミ。ドクダミでレンガの敷石が隠れるほど


 我が家の庭にはドクダミが自生している。庭といっても西に面する通路のような場所で、なぜかここだけ自然に毎年生えてくる。どのぐらい生えるかというと、ものすごく生えてくるのだ。もう取っても取っても追いつかないほどに、生えてくる。いつもは根こそぎむしり取って捨てている。なんとか根絶できないかと、毎年悪戦苦闘しているのだが、今年も一杯生えてきた。
 ものは考えようである。根こそぎ取ってもまた生えてくるものに対し、これを厄介者だと考えてはいけない。ただ苦しみが増すだけだ。毎年、神が与えてくれる恵みだと思えばいいのではないか。神の恵みならありがたく頂戴しよう。ということで、今年はドクダミ茶を作ることにした。

 朝、サイトでドクダミ茶の作り方を調べてみた。いくつかのサイトを覗いてみたが、だいたい途中までは同じである。ドクダミを取る。取ったドクダミは干す。
 ということで、まず収穫である。ハサミで根元近くからチョキチョキと切る。いつもは根ごとむしり取るのだが、今年はチョキチョキである。神の恩寵が来年ももたらされるようにだ。
 随分、取った。一時間ぐらい取ったかな。でもまだ半分ぐらい残っている。しかし本日の収穫はここまで。取りすぎると干すスペースがなくなるかもしれないからだ。
 そして洗う。実はどのホームページにも洗うことについては書かれていなかった。もしかして洗うことは当たり前すぎて省かれていたのかもしれないし、面倒くさいから洗わない人が多いのかもしれない。どちらなのかは分からないが、一応洗うことにした。僕の庭は殺虫剤や除草剤は使っていないので、人工的な汚染はないと思うが、虫や土でけっこう汚れている。そこでバケツにいれてジャブジャブと洗う。

ドクダミをジャブジャブ洗う
バケツでジャブジャブと洗う。結構、きれい好きである

 それをいったん、梅干用のザルに移す。ここでちょっとだけ乾かしてから、20本程度ずつにまとめ輪ゴムでとめる。輪ゴムでまとめられた束を、洗濯物を干すやつ、なんて名称なのかなぁ、分からないけど、写真のものだ。それに吊るす。

梅干用のザルに干すドクダミ
梅干用のザルでいったん干す


 サイトによると、天気がよければ2,3日。曇りなら1週間程度で、カラカラに乾燥するらしい。今日はすごく良い天気なので、さらに明日も良さそうなので、きっと2,3日で出来上がるだろう。

干しているところのドクダミ
押入れから引っ張り出してきた、“洗濯物を干す例のやつ”にドクダミを吊るす


 乾燥したらそれを煎る。ここはサイトによって異なるのだが、というか普通は干しておしまいのようだ。ただあるお茶屋さんのサイトでは煎っていた。こうすると甘くなって飲み安いとのこと。プロがそうしているのだからと、僕もそうするつもりである。これは後日、報告する。

ドクダミを干す筆者
ドクダミを洗濯物を干す例のやつに干す筆者



 今日のサービスショットは大チャンです。朝のブラッシングだ。最近、毎朝ブラッシングしている。抜け毛がすごいので。毎日、沢山抜け毛が取れる。まるでドクダミみたいな勢いだ。

ブラッシングをされてくすぐったがる大チャン
ブラッシングするとくすぐったがって、こちらを見る大チャン


瑞泉寺を歩く(鎌倉の寺社)


 またまた今日も良い天気だ。6月なのに梅雨の気配はない。いつまでもこの薫風心地よい五月のような天気が続き、そのまま夏になってくれたらよいのだが。

 さて、今日は天気に誘われ花のお寺、瑞泉寺に行ってきた。ここ最近、一番のお気に入りの寺で、鎌倉の寺へ行きたいという客があると、必ずお連れする場所だ。
 鎌倉駅からはちょっと遠い。歩くと一時間近くかかる。でも天気がよいのなら、駅から歩いて来ることをお薦めする。途中、段葛を歩き、鶴岡八幡宮の境内を抜け、杉本寺、荏柄天神、大塔宮、永福寺跡と見所は豊富にある。のんびり3時間ぐらいかけてくればいい。そして最後に行き着くのが、この花の寺だ。最後の最後にたどり着いたこのお寺は、けっして期待を裏切らないだろう。
 瑞泉寺は花の寺だが、それだけではない。紅葉谷(もみじがやつ)と呼ばれる三方を山に囲まれる谷戸(やと)に位置し、今の季節は新緑が、そして秋には文字通り紅葉(こうよう)を楽しめる。この谷戸はなぜか昔からカエデやモミジが多く、それが地名になったようだが、その植生は今も続いている。名前負けしない、風流な景観を今も楽しめる。

花の寺、瑞泉寺の本殿
咲き始めの紫陽花と本殿

 
 瑞泉寺はきれいなだけのお寺ではない。とても由緒正しい寺でもある。嘉暦二年(1327)、二階堂貞藤(法名・道薀)を開基とし、開山は夢想疎石(むそうそせき)である。夢想疎石は国師号を授けられた偉い坊さんであるが、一方庭造りでも有名である。石庭で有名な京都の天龍寺、苔寺の西芳寺(京都)、甲斐の恵林寺(えりんじ)、そしてこの瑞泉寺など、多くの作庭を手がけている。
 その国師の木造夢想国師座像(国重文)がこのお寺の本殿に安置されている。南北朝時代の作といわれ貴重な作品である。本殿の扉が少しだけ開いていて、中が覗ける。薄暗い本殿で本尊の釈迦如来像の右隣に奉られているのだが、迫力あるお姿である。一応、写真に収めてきたので公開する。ちなみに写真撮影不可という表示はなく、朝早く他の参拝客がいなかったのでフラッシュを焚かずに撮った。しかし問題があるようなら削除する。関係者の方、その場合はご一報ください。

木造夢想国師座像(国重文なのだ)む
木造夢想国師座像(国重文)


 瑞泉寺に残る夢想国師作といわれる庭は本殿の裏にある、ちょっと変わったお庭である。写真の通り、山を削って窟を掘り、前に池を作って橋を掛けて。なんとも無骨な庭なのだ。禅寺の庭らしいといえばそうなのだが、同じ夢想国師の作でも天龍寺の石庭とは随分と趣を異にする。しかし夢想国師は裏山も含めてひとつの造作物と考えたようなので、あまり薄汚れた池に焦点を合わせずに、遠景までも視界に入れて眺めれば、それはまた彫刻的な風景であり意匠なのだと見ることができる。はい。ちなみにこの庭園は昭和44,45年に発掘されて復元されたものだ。古いが新しい庭なのだ。

ムジナの石像(多分良いほう)
夢想国師の作といわれる庭


 さて瑞泉寺だが、鎌倉幕府滅亡後は足利氏による支持を受け、鎌倉公方初代の足利元氏(もとうじ、尊氏の四男)が中興の開基となっている。関東十刹(かんとうじっせつ)の第二位に列せられ、当時は荘厳を極め、塔頭(たっちゅう)は十二院あったといわれている。
 こう書いてもちょっと説明が必要であろう。まず、鎌倉公方とは関東十カ国を治めた室町幕府の出先機関である。出先機関といっても今の中央省庁の出先機関とは異なり、その土地の支配者である。幕府に代理して、土地の豪族に睨みを聞かせていたのだ。
 次に関東十刹だが、禅宗の寺格の序列で、まず五山がきて、続いて十刹がくる。関東では鎌倉五山があり、その下に関東十刹だ。じゃあ、あまり偉くないではないかというなかれ。お寺の数はものすごく多いので、十刹に列せられることはとても権威あることなのだ。
 そして、塔頭だ。禅宗の大寺で祖師などの高僧が死ぬと、その徳を偲んで塔が建てられた。そこを塔頭といったが、後に寺の敷地内に立てられた小院を指すようになった。その小院自体が寺領などを持つ独立した経営を行うこともある。つまり会社で例えれば、子会社みたいなものだ。瑞泉寺は子会社が12社もある大会社みたいな大寺であったというわけだ。
 ではなぜそんなに栄えたかというと、関東公方の足利ファミリーはただお寺を支援しただけでない。自らの墓を任せ菩提寺としたのだ。お墓の管理は今でもお寺の経営で大きなウエートを占めるが、当時も同じだったのだろう。関東一の実力者一家のお墓の管理を任されて、大きく繁栄したのだ。

 ところでこのお寺にはいくつかの不思議な話が伝わる。“どこも苦地蔵(どこもくじぞう)”の話は有名なので、もうひとつのほうをここでは紹介する。それはムジナの話だ。 信心深い良いムジナの話と悪いムジナの話がある。まず良いほうを。開山まもないころ、山から出てきた一匹のムジナが境内に住みついた。とても信仰心が篤く、寺男に化けて、毎日夢想国師のお説教を聞きにきた。仕事も真面目にやっていたそうだ。ムジナなのに。
 もうひとつは悪いムジナの話。瑞泉寺の住職と永安寺(ようあんじ)の住職が仲のよいことを知って、あるときは瑞泉寺のあるときは永安寺の住職に化け、互いの寺に行き、ご馳走にありついた。いつか悪行がばれ、捕まえられ殺されたという話だ。そのぐらいで殺すことはないのになぁと、思う。でもムジナだから仕方がないのか。良いムジナの話だけを信じたい。
 この写真は多分、良いムジナである。夢想国師の説法は、ムジナだけでなく近隣の狸や狐までもが列をなして聞きにきたそうである。それら獣たちを葬ってムジナ塚として今も祀られている。では悪いムジナはというと、この石像は良いムジナだと思うが、その他大勢の獣たちとして葬られているのだと思う。そう思いたい。
 ああ、ここでムジナについてひとこと。ムジナってなんだろうと、子供の頃昔話を聞かされて思っていた。大人になって調べてみたが、どうもパッとした回答が見つからない。アナグマであるとの説が有力とされているが、狸だともいわれる。最近になってハクビシン説も有力視されてきた。でもハクビシンて帰化動物じゃない、昔もいたの?とも思えるが。最近の研究では江戸時代にはもう帰化していたらしいので、それもありえるそうだ。しかしあんなに昔話によく出てくるムジナが、現代ではどの動物を指すのかがはっきりしていないって、こちらの方が不思議な話である。

本殿裏の庭園(国名勝)
ムジナの石像。良いことをすると石像まで作ってもらえるが、悪いことをすると、、、

 さてお寺に話を戻して。山門近くに吉田松陰の石碑がある。以前から、なぜここに松陰先生の碑があるのか不思議に思っていた。今日、調べてなぞが解けた。
 吉田松陰の外伯父が瑞泉寺の住職だったのだ。多難の中、国を憂う若き松陰先生は禅僧である伯父さんのところを何度か尋ねている。伯父さんに色々相談に乗ってもらったのだろう。伯父さん一緒に江ノ島まで遊びに(多分、海水浴とかの遊びではないと思う)も出かけていることが分かっている。嘉永七年3月、下田に停泊中の黒船に乗って密航をしようと企てた事件の際も、決行前に瑞泉寺に泊まっている。そんな縁で、松陰先生の石碑が瑞泉寺に建てられているのだ。
 瑞泉寺には他にも大宅壮一の碑や山崎方代の歌碑があったりする。この渾然一体感が禅寺らしくなくて面白い、と僕は思う。

吉田松陰先生の石碑
吉田松陰の石碑

 そういえば、お寺の人にこっそり教えてもらったのだが、瑞泉寺には“さるやんごとなきお方”がお忍びでよく来られるそうだ。お名前は伺ったが、ここでは伏せおく。ひじょ~うに高貴なお方ですぞ。


 最後に、まったく瑞泉寺には関係がないのだが、今日のプリティーショットを一枚。朝、日の当る窓の前で寛ぐフクちゃんである。フクちゃんお得意のセクシーポーズです。
 国士、松陰先生の話の後、不謹慎ですみません。

お得意のセクシーポーズのフクちゃん
フクちゃんのサービスショット


いったい俺は何をしているのだ


 毎回、馬鹿の一つ覚えのように書くが“今日も天気がよくて気持ちが良い”。事実なんだから仕方がない。天気がよいと気分も良くなる。湘南みたいに比較的温暖で気候の良いところに住んでいることを真実、ありがたいと思う。以前、妹が新潟に住んでいた。食べ物は美味しいし、ひともよくて住みやすい場所であったが、からっと晴れることの少ない気候には参ったと言っていた。そうだろう。晴れるのなら、からっと晴れなくてはならない。曇天だと、気持ちもドンとどんよりしてしまう。雨も好きだと書いたことがある。そうなのだが、たまの雨だからいいのだ。毎日、しとしとどんよりでは、これはいかん。

 さて、今日は大チャンの写真をお届けする。最近は天気がよいと窓を開け、網戸だけにしておくのだが、外の空気を感じられるのだろう。網戸のすぐ近くが、猫たちのお気に入りの場所になっている。カーテンをめくって、網戸のまん前に陣取り、真剣に庭を見つめている。とても可愛いのだ。

木漏れ日のなかの大吉
真剣にお庭を見つめる大吉。猫背だが猫だからいいのである


 今日は6月1日だ。ああ、一年のうち5ヶ月が過ぎ去ってしまった。光陰矢のごとし。月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。あ~めん。
 この五ヶ月の間、いったい僕は何をしていたのだろう。仕事は、ほとんどしていない。ごくたまに来る実務の翻訳をしたことは、した。でも、あんな分量では、仕事をしたとは言えない。では何をしていたのか。酒を飲んでいた。ああ、毎日飲んでたよ。酒だけは一日も欠かさずに飲んだ。立派な励行ぶりだ。で、酒で何かが生まれたのか。別に何かを生むことだけに価値があるわけではない。しかし、何も生まないことを粛々と続けることは、これはどうだ。考えなおさなくてはならないのでは、ないか。う~ん。しかし酒だけは、酒だけは止められん。これは断言できる。意志薄弱な俺だが、酒だけは一生飲み続ける自信がある。だから、酒はよいのだ。問題はそれ以外だ。
 毎日、俺は何をしているのだろう。会社を辞めて1年以上経った。もう会社員には戻りたくない。できれば、今のように好き勝手に本を読んだり、ものを書いたり、翻訳をしたり、そんなことで生活を送りたい。でも、今のようでは、生活は送れても、生活は成り立たない。とても難しい問題だ。
 よし、ということで日々の生活の棚卸しで、平均的一日の過ごし方を書いてみよう。そうすれば、何かが見えてくるかもしれない。


4時半:起床
 冬の間は5時であった。でも最近は日の出が早いので、4時半に起きる。早起きは気持ちがいいのである。

4時半から5時:朝のお勤め
 まず小便をする。これはわざわざ断らなくてもよいですね。みんな、しているのだから。それからお茶を沸かす。お茶が沸くまでのあいだ、神棚に手を合わせ、「怒らず、恐れず、悲しまず、明るく元気に過ごします」と誓いの言葉を申し上げる。これは、誰かの本に書いてあったのを真似したものだ。ああ、神棚はホンモノの神棚ではない。冷蔵庫の上に正月にもらったお札や破魔矢を置いただけのものだ。
 次に仏壇に手を合わせる。これもホンモノの仏壇ではない。小さな引き出しみたいのものの上に、線香を立てる小さな皿を置いただけのものだ。ここではご先祖とお世話になった故人に感謝を述べ、それから般若心境を読む。般若心経はもう10年、ほぼ毎朝読んでいる。これも誰かの本に書いてあったのを真似したものだ。意味が分からなくても毎日読み続けると、体にお経が滲みこんできて、立派な人間になれるのだそうだ。もう10年も読んでいるので、少しは立派な人間になれたはずだ。
 そうしているうちにお湯が沸く。お茶を入れる。お茶に梅干をひとついれる。これも誰かの本に書いてあったのを真似したものだ。この誰かは覚えている。安岡正篤だ。このじいさんがこれを飲んでいれば長生きできると書いてあったので、長生きしたいので真似をしているのだ。

5時ぐらい:メールチェック、ニューヨークタイムズ
 お茶をもって二階の書斎に上がる。PCを立ち上げ、メールをチェックする。そう僕のメールチェックはめちゃくちゃ早朝なのだ。僕の生活を知らない人が、僕から携帯にメールの返事が入り「誰か死んだのかしら」と驚いたという話しを聞いたことがある。
 それからニューヨークタイムズを読む。まだ読むのが遅いので、せいぜい2つか3つの記事を読むだけだ。それでもこれは1年前より、確実に進歩していると思う。新聞の英語って、結構独特で分かりにくいのだが、今は辞書を使ってだが、ほぼ100%理解できる。

6時ぐらい:朝食
 朝食を取る。大体、和食だ。ご飯(玄米入り)と味噌汁、自分で漬けた糠漬け、納豆などである。ああ、その前に猫どもにごはんをあげる。前は教育を考慮して、自分が食べた後にあげていたのだが、うるさくてしかたないので、自分よりお猫様にご飯を供する。
 朝食の後はお猫様のおトイレの掃除、自分のゴミだし。自分のひげの手入れ。整髪。大便(これもわざわざ断るほどのことではないのだが)。
 その間、NHKfmのラジオで“朝のバロック”を聞く。とても好きな時間だ。なぜバロックは朝に合うのだろう。オペラでは駄目なのだ、これは絶対。

7時過ぎ:ラジオ英会話
 NHKラジオのラジオ英会話と入門ビジネス英語と実戦ビジネス英語を聞く。今はネットで前週分を好きな時間に聞ける。
 このラジオでやっている英語のお勉強はとてもためになる。僕は大学に約一年、大学院で1年半、アメリカの教育機関に通っていた。なのでアカデミックな本はわりと読める。でも会話はだめなのだ。しゃべることは多少はできるが、ネイティブ同士の会話はほとんどキャッチできない。翻訳していても、会話や口語調の文章になるとお手上げになる。この一連のラジオ英語は僕の弱点を補ってくれるのだ。
 復習をしながら、ゆっくり聞くので2時間近くかかることがある。

9時ごろ:ブログを書く
 ブログはなるべく午前中に書くようにしている。文章を書くのは朝がよいと、誰かの本に書いてあったので真似をしているのである。

11時ごろ:翻訳
 翻訳をしたい本がある場合はそれを読む。または企画書にまとめる。

12時ごろ:昼食
 昼は麺類が多い。ささっと作って、テレビを見ながら食べる。テレビは大抵、CNNである。ヒアリングと時事英語のお勉強である。

1時ごろから5時ごろまで:翻訳ほか
 ただひたすら、原書を読む。あるいは訳す。企画書を作る。

5時ごろ:テレビ、食事
 5時から“アメリカンアイドル”をやっているときは見る。見ながら夕飯を作り、6時前には食べ始める。もちろん、その前に晩酌を始めるが。晩酌は毎日定量である。350mlのビール(第三の)と日本酒を熱燗で一合。7時には食事を終える。アメリカンアイドルも丁度終わる。そうだ、アメリカンアイドルをやっていない日は、日本のニュースを見る。飲んでいるときの英語は辛いので。日本の情報を仕入れる唯一の時間である。

7時ごろから:ストレッチ
 毎晩やっている。でもちっとも柔らかくならない。物凄く硬いのだ、僕の体は。心の方は物凄く柔軟というか軟弱なくせに、体は硬派なのだ。やんなっちゃう。

7時半:読書
 そのとき読んでいる本をもって寝室へ

8時半:就寝

 こんな感じである。え?、寝るのが早いって。うん。僕もそう思う。でも飲むと眠たくなっちゃうんだよね。

 以上のような生活であるが、いかがでしょうか。結構、規則正しいでしょ。ほぼこの生活を1年以上にわたって続けている。そんなにだれた生活ではないのだが、何か不満なのだ。
 おそらく単純な時間の配列でなく、中身なのだろう。これ以上、何をどうするといっても限界がある。睡眠は8時間ちゃんと取ってるので、多少は減らすことができるが。でも問題はそれでは解決しないだろう。翻訳や本を読んでいる時間、あるいはブログを書いている時間。この時間の過ごし方、内容に問題があるのだろう、きっと。
 今日は、ここまで分かったので自分的には満足である。ええ、それでいいの?、と言うなかれ。これが分かっただけでも、本日のブログは意味あるものであった。ようは時間の使い方、言い換えれば集中力なのだろう。さて、これからどうすれば集中力を高め、生産的な仕事に結びつくのかを考えていきたい。徐々にだが。
 ああ、それと時間の配列部分でも、問題がひとつ見えた。それは夕方5時からのテレビだ。これ、やっぱり無駄なように思えるのだ。うん、しかし“アメリカンアイドル”は見たいし。そこで今思うのは、“アメリカンアイドル”の第9ステージはもうすぐ終了する。これをもってアメアイは卒業しよう。やっぱり5時からテレビを見ながら一杯じゃ、早いよねぇ。

プロフィール

山本 拓也

Author:山本 拓也
職業:翻訳者
過去の職歴:HSBCを経て産経新聞社
家族:妻、フクちゃん(猫オス 3歳)、大吉くん(猫オス 2歳)
住まい:逗子

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