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選択の基準は・・・


 学校スレッドというのがあるのは知っていた。実名が踊り、そこが苛めの場になっているという記事を読んだことがある。困ったことだと思っていた。
 しかしこれは子供だけの世界ではないらしい。情けないのだが、古巣である産経新聞社でも同じようなことが行われている。
 “産経”で検索していて、ある2チャンネルのスレッドに行き着いた。某幹部社員の不倫についてのスレッドだ。幹部社員は実名である。当然、書き込んでいる人は匿名である。

 私はその幹部社員のことをまったく知らない。しかしスレッドを読む限り、あまり人望のあるタイプではないらしい。社内恋愛やときには不倫は、どこの組織にでもあると思う。それが実名でネットに出るということは、おそらく対象となる人物に問題もあるのだろう。
 しかし自分は匿名で、対象者は実名で、ネットという公の場で中傷するのは卑怯ではないだろうか。

 人情としては理解できる。私も上司から実に理不尽な行為を受けたことがある。そのときは、ネットでその行為を公表したい気持ちにかられた。行為は実際あったのだし、そのことを事実に即して書くことは、まあ理があると思えなくもなかった。それに相手は絶対的な権力を有する上司であり、自分は無力な部下である。公然と批判することはできないのだ。ならばネットでこっそりと仕返しするぐらいは、許されることではないかと考えた。しかし公表できなかった。それは、私が臆病だったからだ。
 何を恐れていたかというと、公表したことがバレることではない。ネット系の仕事を長い間していたので、バレないやり方は分っているつもりだった。恐れたのは天罰だ。疚しい行為を行えば、必ず巡り巡って、自分に災いが起こると思ったからだ。子供みたいだけど、本当の話だ。

 産経は政治家や若者の道徳観や倫理観の欠如を嘆くコラムを載せることがある。マスコミ界の保守中道を標榜する産経としては、当然だろう。共感して読むことが多い。
 その産経の社員が2ちゃんねるで、上司(おそらく)の実名を挙げ、揶揄するような言葉で中傷し、あざ笑う。

 私達は日々、選択を重ね生きている。右に行くべきか左に行くべきか。進むべきか留まるべきか。私はそんなとき、例の天罰を基準とすることが多い。しかし教養ある産経の社員が、天罰を恐れることはないだろう。ならば何か別の基準が必要だ。
 どんなに知能指数が高い人でも、個人の経験だけに基づいて判断したのなら、道を誤るに違いない。経験にプラスアルファが必要となる。
 「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という。歴史が基準となるのだ。なら歴史が紡いだ人の知恵とは何であろうか。
 ちょっと前まで学問とは、歴史を学ぶことを、特に生き方にまつわる歴史をさした。日本では四書五経や経典であり、西洋では聖書やギリシャ、ローマの古典であった。
 
 サラリーマンをしていると、実務で学ばなくてはならないことは多い。頭に詰まっている知識は昔の人より遥かに多いだろう。しかし生きる智恵、はっきり書くと道義の方はどうだろうか。

 私も天罰を恐れてばかりじゃ、いけないな。自戒を込めて。


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最初から、知っていたかったジェネリック


 今日は喘息の治療で近くの医院に行ってきた。喘息は完治しないそうで、ずーっと行き続けなくてはならない。めんどくさいが、仕方がない。また咳が止まらなくなるよりはいい。
 通院は面倒だが、よい。待ち時間は本を読んでいればいいし。治療費もそれほど高くない。問題は薬の方だ。とても高いのだ。
 1ヶ月前に行ったときは6種類ものクスリを買わされた。2週間前は5種類になった。今回は4種類である。クスリの種類は減ってきているが、価格は高くなっている。それは通院の間隔が広まったからだ。種類は減ったが、数は増えた。その分、クスリ代金も増えてしまった。

 家の近くにある処方箋薬局で調剤を待っていると、ジェネリックのポスターに気が付いた。そこで支払いの際に、ジェネリックを使えるのかどうか聞いてみた。今回の4種類のクスリのうち、1種類はジェネリックが存在するらしい。すでに調剤が済んでいたのだが、駄目もとでジェネリックに替えてくれないか頼んでみた。快くではないが、それほど不満そうでもなく、変更してくれた。
 結果、料金は8000円が6000円になった。1種類を変えただけで2000円も安くなった。大変、助かった。
 しかしこのことにもっと早く気付いていたら。前回も前々回も安くなっていたはずだ。前回、前々回のクスリの名前を覚えていたので、ジェネリックはあるのか聞いてみると、あるという。ちょっと残念。

 喘息は一生のお友達らしい。これからもクスリは手放せない。ジェネリックを知ってよかった。かなり家計の助けとなる。
 しかし最初から医師の方で確認してくれても良いかとも思った。普通、病院に行く患者は、病気のことで頭が一杯でジェネリックまで考えが及ばない。それに気付いていたとしてもお金のことをこちらから言い出すのは、憚られる。今の病院は、クスリは直接売らないのだから、別に売上げが落ちるわけでもない。そうした配慮もサービス業である医院には、必要であると思うのだが。


トライアルの結果と衣張山


 期待していたジャーナル系のトライアル結果のメールが届いた。メールを開くときには手を合わせた。神仏に祈るのは意味がないし、卑怯だと思う。でも思わず祈った。当然、そんな神通力は通じず、結果は不合格だった。
 このトライアルに落ちたら、きっと落ち込んでしまうだろうと予想していた。そして予想通りに落ち込んだ。心の準備はしていたのだが、それ以上にインパクトは大きかった。暫く茫然自失となり、何も手につかなくなった。こういうときの私は、立ち直りに時間がかかる。まる1日、何もできなかったり、昼間から酒を飲んでしまったり。
 しかし昨日の私の回復は早かった。30分ほど、ボーっとしていたが、すぐにいつもの仕事に戻ることができた。落ち込んでいる暇はないのだ。
 結果を知ってから数時間、いつもの予定をこなしてから近くの衣張山に登った。やっぱりそれでも気分転換がしたかった。山道を歩きながら考えた。この失敗を糧にしたい。どうすれば最も効果のある糧にすることができるのだろうか。

 衣張山からは数多くの丘を望むことができる。私は衣張山を今、登っているのだ。しかし隣の丘の方が眺望が良さそうだ。あっちの丘に向おうか。そう思って、隣の丘を目指したとする。すると途中まで登った衣張山を降らなくてはならない。隣の丘を目指すには、また麓からの頂を目指さなくてはならない。私が試みていたことは、隣の丘への浮気ではなかったか。
 私が本気で望んでいるのは出版翻訳あるいは書籍の出版である。本を出したいのだ。ジャーナルの仕事は確かに翻訳料が高かった。仕事も面白そうなものだった。
 あのトライアルに合格していたら、きっとそれに、はまり込むだろう。時間も労力も奪われるだろう。その見返りとして生活の安定はあるかもしれない。でも衣張山は降らなくてはならない。

 落ちたことは残念である。しかしただ落ちたことで塞いではいられない。落ちたからこその高みに臨みたい。私の高みは衣張山なのだ。今まで結構、登ってきたはずだ。頂上はもうすぐかもしれない。
 落ちたことで、隣の丘に向わずにすんだ。そう考えると、気持ちが晴れやかになった。落ちてよかったじゃないか。
 それに合格したトライアルもある。仕事は少しずつ来るようになっている。なんとか生活はできる。

 そんなことを考えながら山道を歩いていると、直に山頂にたどり着いた。山頂からは鎌倉市街が見下ろせる。中世日本の中心地だった街を見下ろしながら深呼吸をした。うぐいすが鳴いていた。ショックはすっかり癒えていた。
 ただひとつ残念だったこと。カメラを忘れたことだ。衣張山からの眺望をブログでアップできなかったことは残念である。


飽食の晩餐


 昨日のスーちゃんのスピーチには泣いた。ひとりでビールを飲みながらテレビを見ていたのだが、涙でビールが飲めなくなった。ひとりでよかった。人には見せられない姿である。
 昔は辞世の句を残す人がいた。高杉晋作のは有名である。私が好きなのは良寛の句だ。

 うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ

 私も来るときが来たら、辞世の句を、あるいは言葉を残したいと思う。できれば良寛のように、飾らない淡々とした言葉を連ねたい。しかし無理だろうとも思う。そんな余裕が持てるとは思えない。それに最期の時が、分るのだろうか。

 スーちゃんは辞世のスピーチを残した。感動的な言葉であった。彼女は私が思っていたよりも、ずっと優れたアイドルであり女優であったのだ。キャンディーズでは蘭ちゃんが好きだった。女優としても華があるタイプだとは思わなかった。しかし記憶には残っている。優れたアイドル、女優の証だ。そしてあのスピーチで彼女は永遠のアイドルになった。

 さて、昨晩はスーちゃんの辞世のスピーチが発表されるとは知らなかった。知っていたらもうちょっと質素な料理を作っていただろう。しかし知らなかったので、ゴージャスな料理を作ってしまった。料理の下ごしらえをしてからビールを飲んだので。
 イタリアから帰ってきてからチーズをどう使おうか考えていた。考えているうちに3週間が過ぎてしまった。その間、ちょっとずつ削っては酒のつまみにしていた。それはとてもうまかった。しかしつまみだけで、あの大量のチーズを食べ切るのはもったいない。冷凍庫で保存してあるのは問題ない。しかし冷蔵庫にしまってあるゴルゴンゾーラはちょっとやばい。アオカビと一緒に赤いカビまで生えてきてしまった。そこでゴルゴンゾーラを使って、ついに料理を作ることにした。
 大量のゴルゴンゾーラとパルメザンを使ったパスタを作った。どのぐらい大量かというと2人前で160グラムである。かなり大きなブロックを丸ごと使った。あまり肉は食べないが、特別にベーコンも買ってきた。ベーコンはなんと270グラム。それとマッシュルームと生クリーム、パスタは買い置きのないペンネも西友で買う。
 チーズと生クリームが濃厚な味を醸し出す、実にうまいパスタができた。イタリアで食べたものより、うまいのではないかと思えるものができた。自画自賛である。イタリアで買ってきた生ハムはアボガドを巻き、オリーブオイルとバルサミコ酢をかけた。スープはオニオンである。
 非常に豊穣でカロリーたっぷりのディナーであった。繰り返すが、うまかった。こんなうまい夕飯をあのような晩に食べてよいのだろうか。腹がパンパンになりながら、考えた次第である。
 良いのだろう。優しいスーちゃんなら、きっと許してくれるに違いない。

ゴルゴンゾーラ
写真映りはいまいちだが、極上のできのゴルゴンゾーラのペンネ。生ハムも大健闘!


雨の土曜


 土曜は生憎の雨であった。雨だったが、予定を粛々と遂行した。まずは外食。結婚後、月に一度は外食をしようかと考えている。先月は旅行に行ったので割愛した。今月は予定通り決行した。
 家から車で5分ほどのところに“竹庵(ちくあん)”という、行列ができる蕎麦屋がある。私は何度か足を運んだことがあり、一度かみさんを連れて行くと約束していた店だ。この店の人気メニューはゴボウの天ぷらだ。いつもこれを食べる。
 11時半に開店で、11時20分に店着。いつもどおり、すでに行列ができていた。でも4番目ぐらいだったので、開店と同時に入店できる。2階の座敷の最奥部に席を取る。
 今回はゴボウの天ぷらと掻き揚げ、それとせいろの大盛りを二枚頼んだ。
 初めてこの店に入ったときはうまくて感動した。その後、何度か行ったか、段々と味が落ちてきているのを実感した。今回もかみさんには、あまり期待しない方がいいと予め伝えておいた。
 しかし結果は、良い裏切りであった。最初ほどの感動はなかったが、それでもかなり回復したように感じた。ゴボウの天ぷらはまずまずだった。掻き揚げは正直、いまひとつ。迫力にかける。そばは、うどん粉の多い白味がかったタイプだが、腰があってなかなかうまい。かみさんは、また来たいと言っていた。

 竹庵の後は大船まで車を飛ばし、西友とイトーヨーカドーへ。カーテンを購入する。うちのカーテンは前オーナーが置いていったものをそのまま使っている。かなり年季が入っていて、穴もあいている。外から我が家を眺めると、カーテンの穴がよく目立つ。貧乏そうで、泥棒防止になるかと思っていた。しかしある人によると、泥棒はだらしない家が好きなようで、カーテンの穴は泥棒寄せになってしまうそうだ。5年もオンボロカーテンを使っていたが、替えなくてはならない。
 本当はカーテンはオーダーで作るべきらしいが、予算の関係で出来合いのものを購入する。2階の寝室と客間の2部屋にあつ4つの窓の分。各窓に2枚ずつ、さらにレースも2枚ずつ必要なので合計8枚のカーテンを買う。寝室はベージュでシックに、客間はちょっと遊び心を入れて、明るい色調である。相当、悩んで購入した。
 帰ってから付けてみると、悪くない。狙い通りの雰囲気となる。悩みに悩んだ甲斐があった。しかし出来合いの品であったため、縦幅が長く、ちょっと野暮ったい。そのうち、ちょん切らなくてはならない。かみさんがやるといっていたが、我が家にはミシンがない。さて、どうしよう。


型(カタ)は強い


 最近、“型”の重要性が空手の宇城憲治の活躍で見直されてきたが、それでも型稽古の評価は低い。型稽古は上達に時間を要する。さらに上達の理解すら、時間がかかる。つまりうまいのか下手なのか、初心者には分りづらい。だから型稽古の評価ができない。インパクトのある試合系が好まれる。

 型は何も複雑なものばかりではない。剛柔流の三戦立ちのような立ち方(スタンス)や、剣術の素振りも型である。
 剣の素振りもいろいろあるが、ただ上段から振り下ろすのも型のひとつだ。この上段から振り下ろす、それだけの動きが難しい。そこには数多くの情報が含まれているからだ。

 以前、ほんの少しだが香取神道流の畠山先生に習っていた。畠山先生の素振りは、他のお弟子さんたちとまったく違っていた。どこがどう、違っていたのかを言葉で表すことはできない。あえて試みるならば、バランスが絶妙といいたい。
 振り降ろす剣は限りなく絶対に近い直線であった。神業のような直線を実現したのは、先生の体全体のバランスが完全であったからだと思う。足の指先から頭の先まで、ぶれがなかった。

 スペースシャトルの先端部分は日本の職人が作っているというニュースを見たことがある。機械で研磨するよりその職人の手わざの方がスムーズな面を作れるそうだ。凹凸があると、超高速で飛ぶと摩擦が生じ、危険である。日本の職人の技が精密機械を上回ると判断したNASAの研究者は、スペースシャトルの安全をマックスにするため、職人に先端部分の研磨を依頼したのだ。

 畠山先生の振り下ろす切っ先も、職人の研磨と同じなのだろう。限りなく正確に近い直線であった。
 先生の素振りの正確さも、職人の研磨技術も日々の型稽古(職人は毎日の仕事が型稽古みたいなもの)の賜物だろう。

 稽古するうえでの型稽古の楽しさは3つあるように思う。ひとつは、型稽古は稽古すればするほど上手くなることだ。上達に限界がないのだ。
 ふたつめは、型稽古はそれぞれが連関しあっていることだ。ひとつの技がうまくなれば、それに引っ張られて他の技も上達する。
 みっつめは、型稽古の上達は累進的であることだ。上級者になればなるほど、技の上達速度が速くなる。これは学問も一緒だと思うが、会得した技(知識)が日々の稽古(学習)を助けてくれるからだ。

 型稽古は実は楽しい。そしてとても効率的なのだ。


人は変るけれど、変らない


 先週の金曜日のことだが、またカリフォルニアに留学したときの仲間と会った。この一年間で3回目だ。留学したのが21歳のときだから27年前のことで、その間いわゆる同窓会はほとんどしていない。20代のころ、1,2回しただけだ。それが27年目にして火が付いてしまったようで、続けて会っている。
 今回はいつものメンバーである、さる有名人の夫人になったN美と、さる大手コンビニのフランチャイズ店を複数経営するK也、さる大手メーカーの部長で三人の子供がバイルンガルであるAひさ、そしていつもリーダーシップを発揮するKスケと私の5人に加え、2名が初参加した。
 一人は鹿児島で会社を複数経営するKトシで、もうひとりは大手電機メーカーS◎NYの辣腕営業マンであるラッシャーである。

 鹿児島のKトシはスポーツ万能の薩摩隼人であった。筋肉隆々の体はいつも真っ黒に日焼けしていた。
 27年前、帰国した後は父親が経営する鯉料理の料亭を手伝っていた。その後、ほとんど音信不通だったので、相変わらず料亭をやっているかと思っていたら、料亭は店じまいしたそうだ。今は老人介護関連の施設を4箇所と部品工場を経営しているという。とても儲かってるみたいだ。年収を聞いたけど、ちょっと言えない額だった。介護関連は給料が安いことで有名だが、実はあれは従業員だけの話なのだ。経営者は、まったく別の話のようだ。テレビによく出るワタミの社長も介護では相当、もうけているんだろうなあ。
 ということで、kトシは地元では有名な実業家であり資産家になっていた。

 ラッシャーは我々の仲間の中では最年少であった。当然、今も最年少である。私が21歳で留学したときに、高校を卒業したばかりの18歳だった。私達はみな語学留学で帰ってきてしまったが、ラッシャーのみは大学に入学し、ちゃんと卒業した。
 18歳のラッシャーは21歳の私から見てもまったくの子供だった。いつも何かいたずらを企み、目を輝かせている童顔の少年だった。それがすっかり落ち着いた中年の男になっていた。2次会の店を迅速に手配し、店では料理の注文を取りまとめていた。一番のしっかり者になっていた。
 
 すっかり貫禄をつけた20年以上ぶりの二人だが、店に入ってきたとたんに分った。不思議なものだ。さらに話しが盛り上がれば、すっかり27年前の二人に戻っている。

 人は変るけど、変らないのだ。改めて気付かされた。
 その中で特に変っていないのは私である(と、みんな言っていた)。体重も頭髪も変わっていない。しかしそれだけではない。相変わらず貧乏である。みんなリッチになっちゃったのに。私もちょっと、変りたい。



リビング学習(勉強法)について


 リビングで勉強する子供の学力が高いという報道はかなり以前に目にしたことがあった。たしか東大に合格した生徒の多くが、子供部屋でなくリビングで勉強する習慣があるというデータをニュースにしたものだった。
 最近、「リビング学習(勉強法)」というものがあることを知った。「リビング学習」はリビングで勉強することに価値を置く。リビングで勉強すると、子供の学力が高まると考えるのだ。おそらく私のかつて見たニュースのデータを逆から捉えて、単純化したのだろう。

 リビングで勉強すると学力が高まる根拠は、かなりこじつけだが、以下の3点に要約されるようだ。(1)周囲の雑音の中で勉強することにより集中力がつく。(2)親が近くにいることで、子供に緊張感が生まれる。(3)家族が近くにいることで、子供に安心感が生まれる。

 しかし残念ながら、リビング勉強法などは存在しない。勉強場所を子供部屋からリビングに移しても、学力が向上するようなことはない。リビングで勉強する子供が勉強できるのは、“リビングで勉強した”からではない。“リビングで勉強できる家庭環境があった”からである。

 リビングで勉強できる家庭環境とは、良好な家庭環境のことである。両親の喧嘩が絶えないような家庭では、子供はリビングに寄りつかない。ドメスティックバイオレンスがあったり、家族にアル中がいれば、やはりリビングに子供はやってこない。子供部屋に篭城するだろう。
 つまり子供の学力と関係があるのは、場所ではなく家族関係なのだ。そこを逆さまにしてしまってはいけない。

 子供の学力を高めるために、慌てて「リビング勉強法」などを子供に強要する親は、その時点で誤っている。そんな付け焼刃のノウハウを信じた時点で、残念ながら出遅れている。
 子供は強要しなくても、大好きで、敬意を抱ける両親が仲良くしていれば、なおかつ勉強の質問に答えられる学力があれば、そしてこれが大切なのだが、リビングに暖かな愛情が溢れていれば、自らリビングにやってくる。勉強も楽しいものになる。それと、もうひとつあった。これはテレビのニュースでは触れていなかったが。きっと子供がリビングで勉強したくなるような家庭では、テレビの視聴時間は短いはずだ。親もリビングでは、静かに読書や勉強をしているだろう。



放射能同様に恐ろしいアスベスト


 トイレの取替え工事を地元の工務店に頼むことにしたことは、昨日書いた。今日、相見積もりを取った大手リフォーム会社の人に、落選の結果を伝えた。そのときアスベストの話しが出た。
 我が家は3年ほど前に屋根を葺き替えたのだが、以前はアスベスト入りのスレート瓦であった。除去には結構な金額と専門家を要した。そのときに業者からアスベストの扱いの難しさと恐ろしさを沢山聞かされた。
 今日来た大手の営業マンもアスベストの恐怖について語っていた。そこから東日本大震災で倒壊した建物で使用されていたアスベストの問題に話しが移った。

 我が家は築40年であるが、営業マンによると20年ほど前までは、アスベストは万能の素材と看做されて重宝されていたそうだ。だから大震災で倒壊した建物も大部分がアスベストを利用している。
 営業マンが帰った後、ネットで調べると、大震災におけるアスベストの飛散状況を最近になって調べ始めたという記事を見つけた。
 
 我が家の屋根を葺き替えた業者の社長は、我が家の工事の最中に亡くなった。原因はアスベストによる胸の疾患である。長い間、闘病生活を続けていたという。
 アスベストを吸い込むと、塵肺、肺線維症、肺がん、悪性中皮腫などになるという。どれも致死率の高い、恐ろしい病気だ。
 我が家のアスベスト入りのスレート瓦を除去したときは、作業員は完全防備でさらに飛散しないよう細心の注意を持って作業をしていた。

 東北では瓦礫の山の撤去が続けられている。地元住民はもとより、自衛隊員やボランティアが数多く作業している。その人たちのアスベストに対する備えはどうなっているのだろう。
 放射能は被爆すると、数年ないし10年以上経ってから白血病が発症するという。アスベストによる肺疾患は30年後だ。潜伏期間は違うがどちらも命に関わる疾患である。
 苦しみのなかで瓦礫を除去する地元民、善意や職責により作業をするボランティアや自衛隊員。30年後の備えを是非して欲しい。



トイレの見積もり結果


 先日、ブログに書いたがトイレの取替え工事をすることにした。2社から見積もりを取った。1社は大手のリフォーム会社で、もう一社は地元の工務店である。
 結果は予想していた通り、工務店が圧倒的に安かった。
 見積もりは2種類の提案を依頼した。①はトイレの便器とウオッシュレットの交換。②はそれに壁紙の交換も加えたものだ。
 大手は①だと約20万円。②は約25万円であった。工務店は①は約18万円。②だと約と20万円である。今回の見積もりは比較が簡単である。両社ともにTOTOの便器を提案してきたからだ。大手はTOTOの商品の中で一番安いタイプの便器とウオッシュレット。工務店は若干上の機種だった。壁紙も大手は安い普及タイプのものを提示してきた。一方、工務店は壁紙のサンプル本を持ってきて、どれでも見積額ですると言った。高そうなのも混ざっていたが、「めんどくさいから、どれでもいいよ」ということだった。さらに工務店の見積もりには、私の指示を勘違いしていて、床の取替え工事も②に加えてあった。
 つまり②で比較すると、工務店は床工事も加えて5万円安い。便器とウオッシュレットは比較的高いタイプであるのにだ。大手に同じ機種で床工事も加えた見積もりを依頼したら30万は超えるだろう。すると10万円の差だ。

 どうしてこんなに違うのだろうか。大手は下請けに出しているから高いという理屈は、今回は当てはまらない。なぜなら工務店に「棟梁のところでやってもらえるの?」と聞いたら、「いんや、こんぐらいの工事なら他に出すよ」と答えたからだ。つまり下請けを使う条件は同じである。
 確かに大手は大勢、営業マンがいる。大手は拙宅の近くに営業所があり、よく御用伺いにくる。女性営業マンが多いのだが、可愛い手書きの「お便り」なんかも月に一度、ポスティングされている。
 女性営業マンは一生懸命説明してくれたが、私の質問にいくつか答えられなかった。すると男性営業マンが後日、説明にやってきた。
 見積もり書も、ちょっとばかり立派だった。ほんのちょっとだが。
 あの営業所には営業マンをまとめる所長がいて、その上には本社があって、課長や部長、役員なんかが沢山控えているのだろう。だから人件費が嵩むのかもしれない。
 それが理由だろうか。そんなことが理由だったら、消費者はたまらない(きっとそうだけど)。消費者には必要ないファクターだからだ。
 価格差が商品とサービスに現れていないのなら、それはいらないファクターである。いくらバックヤードに人が沢山控えていても、立派な本社ビルがあっても、消費者には関係がない。質問に対し、しっかり説明のできる営業マンがひとりいれば十分である。

 工務店の棟梁(棟梁だかどうか分らないが、なんとなく)がいうには、拙宅のある住宅街は近年、老朽化が激しいという。この住宅街は西武が一斉に開発した場所で、どこもだいたい築40年である。だから老朽化は不思議ではないのだが、それ以上に問題が見られる場合があるという。その理由は東京から来た建設業者が作ったからだそうだ。
 逗子は南風が強いそうだ。しかし東京からきた業者はそれを無視して、一定基準で家を建てた。東京でも神奈川でも、まあ通用する一定の基準でだ。ところが地元の工務店は地元の特性に合わせて家を建てる。その差が40年経つと出てくると言う。
 知識と決めの細かさでも工務店の勝ちである。
 

派遣社員の問題は先進国共通


 少々古い本だがP.F.ドラッカーの『ネクスト・ソサエティ』を読んだ。その中で驚かされたことがある。アメリカでも雇用市場において、派遣社員の割合が急激に増えているという話だ。いや、アメリカだけでない。フランスもドイツもだ。先進国では、ほぼ世界同時的に派遣社員の数が急増している。
 派遣の問題は日本固有の問題かと思っていた。円高と人件費高を回避するために、製造業は新興国へ工場を移転した。残った工場もコストを何とか押さえ、競争力を保つために、正社員から派遣社員に切り替えた。事務部門もまた、世界へ拡散した。コールセンターへ電話して、中国訛りのオペレーターが出た経験があるかたは多いだろう。日本企業は海外移転と正社員から派遣社員へのシフトで、世界とコスト競争を戦っている。
 ここまで書いてきて気が付いた。これは円高を抜かせば、日本固有の問題ではない。世界の先進国に共通の問題だ。そうか、だから先進国で一斉に派遣社員が増殖し始めたのだな。
 しかし日本のメディアだけを見ていると、派遣問題は日本固有の問題だと錯覚を起こす。日本のメディアは、もうちょっと客観的でグローバルな報道姿勢が必要だ、と改めて思う。

 さて、またドラッカーは、派遣社員の増加は企業内部の問題ではないと書いている。社会構造が変化しているのだ。だから夫々の企業の努力で回避することはできない。
 やはり日本のメディアを見るだけだと、これも分らない。日本では、派遣の増加は企業の儲け主義だけが要因のように報じてられている。

 社会が構造的に変化している中では、個人が抵抗してもあまり効果はない。むしろ我々はそれを受け入れなければならない。
 ドラッカーはまた、産業構造も変化しつつあると書く。主となる産業が農業から製造業に変化したのは前世紀の後半までのことだ。後半以降は製造業から非製造業へシフトした。個人の仕事も変った。ブルーカラーが減り、テクノロジスト(教師や、病院の検査技師や弁護士助手などの知的労働者)が増えてきているという。
 テクノロジストは組織への依存度が低い。組織に居続けてもトップにはなれないし、なりたいとも思っていない。それよりも他の組織でよりよい待遇、そしてよりよい仕事を得ることを望む。仕事へのインセンティブも、収入からやりがいに変った。

 この本を読んで、自分が会社を辞めた選択は間違えでなかったと意を強くした。辞表を出したとき上司は慰留してくれた。会社では決して厚遇されていたわけではないが、潰れない限り、残ることはできただろう。でも辞めたかった。そこにやりがいが感じられなかったからだ。私は新聞社在職中に8つの局を渡り歩いた。結果、専門性のない企画屋になった。部署が変るたびに、仕事への意欲が減っていった。反比例で、専門性の高い、そして社会的な仕事がしたいという気持ちが高まっていった。
 何年か試行錯誤の後、翻訳家になることを決意した。在職中から翻訳学校へ通い始めた。翻訳家は、語学や得意分野の専門知識が要求されるし、読者という顧客の顔が見える(直接見えないが、想像することはできる)。社会性もあり、やりがいも感じられる。じゃないかな、まだよく分らないけど。

 日本の労働者も、今後さらに、他の組織(会社、病院、学校など)でも通用する普遍的な、そしてかつ専門的な知識が求められるだろう。
 まったく勝手な私見だが、会社の言うなりに働いては駄目だと思う。会社は個人の人生までは考えてくれない。会社の究極の目的は会社の存続だ。会社の存続と個人の幸福が重なっていた時代はそれでよかった。しかし今は会社と個人の目指す方向が異なる。だから自分がどこを目指して生きているのか知らなくてはならない。そうしないと、会社に引きずられ、「なんでこんなところにいるのだろう」という結果になりかねない。
 自分の人生は自分で設計し、方向を定めてキャリアを構築していかなくてはならない。そのためには、自分の人生は自分で舵を取る。そして専門性があって、やりがいを感じられる仕事をする。ひいては自分にそして社会全体への利益となる。これが今日的な生き方である。とドラッカー先生は書いている。


おいらのポンコツ


 RCのポンコツはバイクであったが、わたしのポンコツは我が家と我が身体のことである。

 暫く前から、風呂のお湯を一遍に抜くと、洗濯場の排水溝から水が逆流するようになった。だから2回に分けて、風呂のお湯は捨てていた。それでなんとかやり過ごしていた。ところが先週のある日、朝起きると家が臭い。臭いの源を辿ると、洗面所の排水溝である。風呂場も台所も臭う。明らかに下水に何か問題が生じている。あわてて地元の水道屋を呼ぶ。
 調べてみると下水に庭の木の根がみっしり入り込んでいた。私も現場を目撃したが、そりゃ大変なことになっていた。下水のコンクリート溝が植木鉢のように、根で埋まっている。よくぞこの状態で、今まで排水ができていたものだ。
 水道屋は二人来たが、あっという間に根を掃除してくれた。そして綺麗になった排水溝は水がぐんぐん流れる。悪臭は去り、風呂のお湯は一挙に流せるようになった。しかし、これで問題は解決したわけではない。根はまた伸びる。伸びた根はまた切ればいいから、それはまだ良い。問題は根が入り込んできた穴だ。つまり排水溝に穴が開いているのだ。調べると、そこらかしこに穴がある。この穴は外から根が入り込むだけのスペースではない。逆に内から水が外に漏れるスペースでもある。水が大量に流れるたびに、排水溝から我が家の裏庭には汚水が染み出しているのだ。ただでさえ裏庭は湿気が多い。そこに排水が染み出しているのだから、家に良いわけがない。直さなくてはならない。

 トイレも工事することになった。トイレは故障しているわけではない。ただあまりに旧式で、水洗の度に大量に水を使う。そしてこれが問題なのだが、タンクに水を溜めるのに時間がかかるのだ。およそ5分。この5分は一人暮らしの時には問題を感じなかった。5分以内にトイレに再訪することは稀だからだ。しかし二人暮らしになるとそうはいかない。例えば二人で同時に家を出る場合、直前にトイレに行く。私が先に入り、水を流してしまうと、かみさんが入ったときはトイレのタンクに水がない。5分待たなくては、かみさんの分は流せないのだ。朝の5分は貴重である。
 友人達が大勢我が家に集まると、いつもこれが問題になった。男なら別に流さずに、次の者が入ることができる。しかし女性はそれができない。自分の●●がしっかり流れたことを確認しないと、次の待ち人にバトンタッチしないのだ。ということで、トイレの工事もすることになった。

 昨日、病院に行ってきた。咳が止まないので。以前、勤めていた新聞社の地下で開業していた内科に長いこと咳で通った。そのときは最後まで原因が分らず、おそらく咳喘息ではないかと言われていた。逗子に引っ越してから症状が軽くなり、放っておいた。しかし昨年の11月から再発し、今も続いている。
 今回は専門の医者に診てもらい、完治させようと決心した。多少遠くても、治療費がかかってもよい。完治したい。この咳は実はもう20年以上も続いているのだ。
 ネットで調べまくった。なるべく近くが良かったが、横浜辺りまで範囲を広げて調べた。10ほどの候補を見つけた。しかしどれも、いまひとつパッとしない。電話を掛けて確認すると、大抵呼吸器科は内科の中に併設されていて、どの医師が見るのか定かではないのだ。オールマイティーな内科では、以前診てもらった医者と変わりがない。どうしても呼吸器の専門医に診て貰いたかった。
 結果、家から歩いて15分のところに専門医を見つけた。実はどうせ逗子には専門医はいないだろうと、調べていなかったのだが、念のためと、逗子も範囲に加えて見つけ出したのだ。
 センペル逗子クリニックの別府先生だ。ホームページに経歴が書いてあったのだが、聖路加などの病院にいくつか勤務し、呼吸器科の部長を歴任している。大学の卒業年度を見るとかなり高齢であるのが気になったが、この先生に頼ることにした。
 そして昨日、行ってきたの。いくつかの検査をした結果、喘息であると診断された。今まで何年も病院に通い、CTやMRI、その他数多くの検査をしても結果は分らなかった。それが1日の検査で喘息だと断定された。やはり専門医である。
 昨日は5種類のクスリを処方された。即効性はないが、抑制効果はあるという。私は専門家の意見は素直に聞くことにしている。
 即効性はないと先生は言った。しかし驚くことに即効性はあった。クスリを飲むと、すぐに体が楽になった。咳は完治したわけではないが、明らかに数が少なくなった。胸のいがらっぽさも軽減された。

 今年は“じぬし”宣言も、別の病院で受けた。今は痛みや出血はないが、おそらく未だに保有者であろう。4年前には神経鞘腫の手術を受けた。これは完治したが、左脚太ももの触感は失われた。現在の継続中の疾患は、花粉症と耳鳴りである。耳鳴りはほぼ常時聞こえる。そうだ、老眼も始まっている。お手元眼鏡は欠かせない。そして今まで2.0の視力を誇っていたが、近眼にもなってしまった。まだありますよ。膝と足の裏が痛みを感じることがある。その結果、マラソンを断念した。他にもまだある。あまり病気自慢をしてもし方がないので、このへんで止めておくが、まさしく、“おいらのポンコツ”状態だ。

 マイホームは築40年のオンボロである。6年前に購入してから、屋根を吹き替え、外装は全面塗装しなおし、木部も修理した。軒の裏がはがれてきたので、これも全て板を張り替えた。マイボディーは築48年である。こちらも上記のとおり、修繕がかなり必要となっている。
 ホームもボディーもポンコツであるが、替えはない。家もまだローンが残っていて、買い換えることは考えていない。ボディーの場合は当然、一生これで過ごしていかなくてはならない。両方ともポンコツだが、しかしこれが不思議と気に入っている。メンテナンスしながら、まだまだ使い込んでいくつもりである。


トライアルに初合格


 受けていた翻訳会社のトライアルの合格通知が、イタリア旅行中にメールで届いた。今までトライアルは何度も受けたが初めての合格だ。
 以前のブログでも少し触れたかもしれないが、企業の財務状況などを分析した財務レポートの翻訳である。機密保持契約を結んでいるので詳しくは書かないが、いわゆる格付けレポートである。財務諸表の分析や経営者の経歴などが数ページから20ページ程度にわたり記載されている。経営学や経済学は好きな分野なので、訳していて楽しそうな仕事である。
 
 自分の翻訳ペースが分らないので、当初は週に1本程度でも訳していこうかと考えている。慣れてきたら1日1~2本は訳したい。これも前に書いたと思うが、ギャラがものすごく安い。あまり具体的には書けないが(個人的には公表しちゃいたいんだけど)、数ページから20ページのレポートを1本訳して、ギャラは定額。その金額はコンビニでまる1日バイトした額よりちょっと安い程度だ。つまり一週間に1本しか訳せないと、1ヶ月では4本。コンビニで3日働いた賃金ぐらいしか1ヶ月で稼げないことになる。これでは生活ができない。1日に1本程度こなせるようになれば、コンビニで20日程度働いたのと同額である。これなら、今の私なら生活がなりたつ。だから当面の目標は1日1本だ。
 1日1本はしかし、かなりハードな目標でもある。例えばレポートの分量が20Pであれば、1日で20Pも訳さなくてはならない。10時間働けば、1時間で2ページの計算だ。できればこの仕事は1日5時間程度で済ませたいと思っている。10時間もかかってしまえば、本来の目的である出版翻訳まで手が回らなくなってしまう。1日5時間で計算すれば、1時間に4Pだ。
 今の私のレベルではとても達成できないスピードだ。しかし少し算段はある。レポートはきっと書式が決まっている。例えば財務諸表などは、どのレポートでも項目は同じはずだ。財務諸表のページが10ページあれば、この10Pは翻訳しなくて済むかもしれない。過去の翻訳が使える。
 そこでマクロを勉強しようかと考えている。なるたけパソコンに任せられることはパソコンを利用する。人間が訳すのは、機械では手に負えない部分に限る。
 まだ実際に始まっていないので、この手段が可能なのかどうか分らない。どちらにせよ、なるたけ効率的な方法を模索するつもりである。

 イタリア旅行の前に3つのトライアルを受けた。旅行前に1つ、不合格通知が来た。旅行中に1つ、合格通知が届いた。後1つの結果はこれからだ。実は残った最後のトライアルが本命である。これに合格できたら、一気に私の財務基盤は磐石となる。内容もジャーナルであり、過去の実務経験が生かせるし、興味の持てる分野だ。
 受かっていたら、いいのだが。でもあまり期待しないことにしている。落ちたら、ガッカリするから。2つ目のトライアルも期待していなかった。これもガッカリ防止で、自己暗示をかけていたのだ。この自己暗示は結構効果があって、合格通知が届いたときは嬉しくも悲しくもなかった。ただ漠然と、「受かったのね」と認知しただけだ。一緒にいたかみさんの方が、喜んでいた。
 しかし最後のトライアルに合格できたら、素直に喜んでしまいそうだ。すると、不合格だとやっぱり、落ち込むだろうな。



イタリア備忘録


 4月2日、イタリアから戻ってきた。すぐにブログで報告したかったが、後片付けと怠惰で時間が過ぎた。以下、備忘のためにイタリアの旅程を記す。

3月25日(金)
 新幹線にて関空まで行く。新幹線も新大阪からの“はるか”も空いていた。“はるか”では我々の車両にいたのは我々だけだった。貸し切り状態である。
 飛行機は座席が指定されておらず、バラバラに座らされることを恐れていたが、まったく問題なかった。飛行機もガラガラであった。3人席をひとりで占領して、寝ながら行く。急遽、成田発が関空発に変更され、キャンセルした人が多かったようだ。

 予めハネムーンだと伝えておいたので、機内食はハネムーン使用。ケーキとチキンがハート型であった。

アリタリアの機内食
アリタリアの機内食。ハートが恥ずかしい。


 イタリア時間の夜7時頃、ローマのフィウミチーノ空港に着。空港でパニーニ(サンドイッチみないなの)とビールを買って、タクシーでホテルに向う。しつこく白タクが勧誘してきたが、正規のタクシーで向う。料金は40ユーロ(1ユーロは118円であった)の定額であった。運転はすこぶる荒い。前の車と車間距離50センチ、時速140キロですっ飛ばす。
 ホテルはベネト通りにあるホテル・マジュスティック。5つ星である。エヘン。しかし、我々の財布の中身は5つ星には程遠いので、空港で買ってあったパニーニとビールを部屋で食す。見た目よりもずっと美味しい。美味しい予感を抱く。

3月26日(土)
 夜中の2時に目が覚める。ジェットラグ(時差ボケ)である。
 明るくなるとすぐに近くにあるボルゲーゼ公園まで散歩にでかける。ローマのほぼ真ん中にありながら、別世界だ。草の香りが漂い、小鳥がさえずる。たまにジョギングをする人を見かける程度でほぼ無人。公園内を散策すると見晴らしの良い場所に出た。ボルゲーゼは小さな丘の上にあるのだが、少し遠方にバチカンが見渡せる。街には派手な看板も電線もなく、美しい。

ボルゲーゼから見るバチカン
ボルゲーゼ公園からバチカンを眺望する


 公園を出て、ポポロ広場を抜けてスペイン広場まで歩く。そこで朝食。バールでまたパニーニとエスプレッソだ。
 朝食が済むと、歩いてカンポ・デ・フィオーレ(花の市)へ向う。途中、偶然巨大な建造物に遭遇する。パンテオンであった。ローマで最古の建造物である。見たかった場所だ。アウグスティヌスの片腕であったアグリッパが建て、皇帝ハドリアヌスが再建したものだ。キリストが生まれた前後の話だ。ちょー古い。それがまだ建っている。使われている。巨大だ。美しい。信じられない。
 カンポ・デ・フィオーレではチーズを買う。日本ではほんのひとかけらで1000円もするものが、大きな塊で30ユーロであった。多分、日本で買えば1万円を超えるだろう。それをいくつも買う。背負っていたリックがいきなり重くなる。妹が勧めるパキーノという小さなトマトを売っていたので買って食べてみる。味は西友のフルーツトマトと同じ感じ。
 昼食はマジェスティック近くのバールで取る。たまたまマジェスティックのフロントのお兄ちゃんと会う。このお兄ちゃんはとても親切で、その後何度か助けられる。私の名前を覚えていて、“ヤマモートサン”と会うたびに呼ばれた。食事は、自分はカルボナーラ、かみさんはトマトベースのパスタであるアマトリチャーナ。味はまあまあであった。

カルボナーラ
まあまあの味だったカルボナーラ


 その後、歩いてサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会へ行く。ミケランジェロがプロデュースした教会である。テルミネ駅(中心の駅)の近くだが、広い。
 駅まで歩き駅内のスーパーへ。またチーズを数個買う。だって安いんだもん。
 駅からまた歩きサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会へ。小さな教会だが有名な彫刻がある。ベルニーニの作った“聖テレーザの法悦”である。聖テレーザは修道院改革をした固い尼さんだが、ベルニーニにかかると色っぽいお嬢さんになる。
 夜はホテルから紹介されたレストラン“Aurora10”へ。海の幸パスタ(日本語のメニューがあり、そう書いてあった)を食す。間違いなく、今まで食べたパスタで最高の味だった。あまりのおいしさにかみさんと顔を見合わせたほどだ。その他かみさんはサルティンボッカ。私は黒鯛の塩焼きみたいのを食べる。両方とも量が多く、そして美味。ビールとワインも飲み、至福の時を過ごす。

3月27日(日)
 ホテル・マジェスティックでは朝食なしの素泊まりだったので、前日スーパーで買ったパンとチーズ、生ハムを持ってボルゲーゼ公園まで出かける。天気がよく、青空が広がり、小鳥が囀る公園でのんびりと朝食を食べる。
 地下鉄を乗り継いでコロッセオへ。入場にものすごく並ぶと聞いていたが、朝早かったのであまり並ばずに済む。コロッセオからは、すぐ隣接するフォロ・ロマーノへ。塩野七海の「ローマ人の物語」で、最初の方の巻で主要舞台となった場所だ。このあたりでシーザーは演説をし、殺されたのだ。

コロッセオ
ここでライオンさんや、トラさんや、人間が戦わされたのだ。かわいそう。


 フォロ・ロマーノを出て、近くのレストランで昼食。ピザ、ラビオリ、ビールを飲食する。本場のピザはやはりうまい。
 続いて、パラティーノの丘へ。ここも「ローマ人の物語」では何度も出てくる場所だ。スキピオやキケロなど初期の主要人物はみな、この辺りに住んでいたはずだ。当時の高級住宅地であった丘だが、思ったよりも狭い。
 パラティーノの丘から歩いて、カピトリーノ美術館へ。見たかったマルクス・アウレリウスの騎馬像がある。アウレリウスは『自省録』を書いた哲人皇帝である。
 夜はホテル近くのレストランへ。ホテルのお兄ちゃんが紹介してくれた店だ。この店だけは、何を食べたのかを忘れてしまった。うまかったと記憶しているのだが。隣の席に座ったアメリカ人カップルが印象的で、そのことだけはよく覚えている。ものすごく太った女性を、真面目そうな男が必至に口説いていた。ものすごく太った女性は、乗り気でないようだった。ものすごく太っているのだが、強気であった。

3月28日(月)
 朝食はホテル近くにあるバールでサンドイッチを。これも美味。イタリアは食のレベルが高い。
 テルミネ駅から、10時45分発の列車に乗ってフィレンツェへ向う。この電車でちょっとした出来事があった。いや、寸前で偶然に回避されたので、ちょっとした出来事にも至らなかったのだが。9時40分ごろ、念のためホームに向うともう列車が来ている。あと1時間も時間があるので、荷物だけでも載せて、また降りようかと考えていた。荷物を載せ、席の確認をしていたときだ。列車が動き始めたのだ。まだ1時間もあるというのに。もしかして、違う列車に乗ってしまったのか。あるいは時間にルーズなイタリアのことだから、少々早めに(1時間だけ)出発したのか。答えはすぐに分った。列車はちゃんとフィレンツェに向かい、出発時刻も正確であった。間違えていたのは私とかみさんの腕時計であった。ふたりともちょうど1時間も時間設定を間違えていた。しかし、すでに3日間もイタリアに滞在していて、1時間遅い時計を基準にふたりは過ごしていたのか。そうではなかった。その日からイタリアでは夏時間が始まり、1時間時計が早められたのだ。偶然、1時間早く(本当はジャストタイム)に列車に乗り込んでいて助かった。あのとき、早めに荷物だけでも載せておこうと思わなかったら、列車に乗り過ごすところだった。

 フィレンツェで宿泊したのはウエスティン・エクセルシオールだ。外観は新しいが、建物ができたのは西暦1500年ごろだという。中味はその歴史を感じさせる作りと調度品をしっかりと残している。施設もサービスも5つ星に相応しいホテルだった。一番安いタイプの部屋だったが、部屋の広さは20畳ぐらいはあった。
 その日はドゥオーモとサン・ジョバンニ礼拝堂を見た。外装は白と青の大理石でできており、とてもカラフルである。内装はローマの教会と比較すると地味である。

フィレンツェのドゥオモ
雨上がりで曇り空の下のドゥオモ。この後、快晴に。


 夕食はParioneというレストランで取った。フィレンツェは肉料理が有名らしく、お勧めのTボーンステーキを食べた。二人で1人前を頼んだが、巨大な肉の塊が登場した。隣の席のオーストラリア人が目を剥くほどの大きさだった。一人分でなんと1キロだそうだ。二人分を頼まなくて、よかった。意地になって二人で食べ切った。死ぬかと思った。

3月29日(火)
 メディチ家由来のサン・ロレンツォ教会とイタリア最古の図書館ラウレン・ツィアーナ図書館へ行く。ラウレン・ツィアーナは、図書館といっても現代の図書館とはまったく趣が異なる。当時書籍は貴重品であったので、本は椅子と机から鎖につながれていた。その場で読んだのだ。汚したり破損したり、もちろん盗んだりしたら、厳罰が与えられたそうだ。

 中央市場という肉や魚、野菜を売る市場へ行く。ここでもチーズを売っていて、また買ってしまう。いったいどれぐらいチーズを買ったであろうか。それとバルサミコ酢を買う。試食で12年ものを食べた(飲んだ)が、これが酢なのというほど豊穣な味であった。でも高かったので4年ものを買う。それでも美味しい。20ユーロぐらいであった。
 昼食は市場内の食堂で取る。安くてうまい。もしフィレンツェに行くのなら、お勧めである。
 午後はウフィツィ美術館へ。予約してあったのだが、ものすごい入場待ちの行列であった。我々は行列を横目にすいすいと予約者専用入り口から入場。
 夜はブカ・デッロラフォというレストランで食事。日本のガイドブックを見て行ったのだが、非常によい店だった。客はほぼ全員地元の人。安くて美味。ワインもおいしい。ここもお勧めだ。

夜のフィレンツェ
夜の街は、なんだか楽しい


3月30日(水)
 メディチ家礼拝堂へ。あいにく工事中でメインの礼拝堂は半分以上、見ることができなかった。それでも料金は同じ6ユーロ取られた。
 
 フィレンツェの総評。非常に美しく、居心地の良い街だ。料理はうまい。ローマよりも安い。街は小さくて、どこも歩いて行くことができる。夜中、街中を歩いていても危険を感じない。ローマから列車で90分ほどにある。ローマに行くのなら、ぜひ足を伸ばしてもらいたい。

 11時発の列車で再びローマへ戻る。ローマからタクシーに乗り、今回の旅最後のホテルであるヒルトン・カバリエリへ向う。ローマからはタクシーで30分ほどの近郊に建つホテルだが、期待していた。遠いいが、値段は高い。ここも5つ星である。それにはきっと理由があるだろう。つまり良いホテルなのだ、と。ところが期待は大きく裏切られた。まったくアメリカタイプの普通のホテルであった。サービスは今まで受けたイタリアらしい陽気で親しみ溢れたものと程遠く、冷たく機械的で、むしろ意地の悪いものであった。主にビジネスユースで利用されるホテルかもしれない。宴会場にスクリーンや演台があったりして。観光で行く人は勧められない。
 ちなみにビジネスユース向けとは言え、インターネット接続は良いとは言えなかった。というのは各部屋でWiFiを使えるのだが、その使用料がバカ高い。一日27ユーロもするのだ。3000円以上だ。最初に泊まったマジェスティックは無料。次のエスセルシオールは一日4ユーロだ。結局、ここではネットに接続することはなかった。

ヒルトンの中
高くてネットができないので、フリだけする。ヒルトンの室内。

 
 チェックイン後、歩いて最寄りのCIPR駅まで行く。ホテルで駅を訪ねたら、歩いては行けないと言われたが、歩くと25分で行けた。ホテルの周りはちょっとした高級住宅地(日本でいうマンションばかりだが)で、歩くのも楽しかった。
 駅からは地下鉄でスペイン広場へ。そこでジェラードを食べる。イタリアンジェラードは有名だが、日本のアイスクリームの方がうまい。イタリアに来て初めて、食で期待を裏切られた。ジェラードを店の中で食べているといきない雨が降り出した。ものすごいのが。その後、雷が鳴り、そして雹まで降り始めた。どうなることかと思ったが、30分で止んだ。その後は晴れ間が出た。周りのイタリア人は動ずる様子がなかった。ローマの雨はこんなものだそうだ。

 ボルゲーゼ美術館へ、スペイン広場から歩いていく。毎朝、散歩したボルゲーゼ公園の中にある。勝手知った場所である。初めてのローマだけど。
 ボルゲーゼにはベルニーニの作品が数多い。その中で私がもっとも親しんだのは“アポロンとダフネ”と“プロセルピナの略奪”だ。ダフネの儚いこと、美しいこと。そしてプルートにグワシっと掴まれたプロセルピナ臀部のエロチックなこと。この二つの像からはしばらく動くことができなかった。
 夕食はローマ初日にいった“Aurora10”へ再訪。同じく海の幸パスタを食べたが、味が異なっていた。あの感動はどこに行ったのだ。素材が違う。前回のは白身魚他が何種類か入っていた。今回はツナが一種類のみ。あの旨みがない。ウエイターに「前回と違うね」、と言ったら、同じだと強弁した。私ら、毎日魚を食べている日本人の舌をごまかすことはできない。ウエイターにとったら、ツナも白身魚も同じフィッシュだということだろうか。かなり残念な結果だった。イタリア人はムラがある。

3月31日(木)
 朝食はヒルトンで。噂に名高い、朝シャン(朝からシャンパン)と日本食のあるビュッフェである。朝シャンはあることは確認したが、飲んでいる人は誰もいなかった。わざわざ栓を抜いてもらうのもなんなので、飲まなかった。食事の方はなかなか美味であった。ただし日本食を除いて。日本食は、うすーくて、本ダシたっぷりの味噌汁と、卵焼きその他であった。今まで食べたどの朝食よりもまずかった。料理上手なイタリア人が、よくこれだけ不味いものを作れたと思ったほどだ。この日本食を食べて、外国人が日本食とはこんな奇怪な味なのだと思うと考えると、情けなかった。
 
 駅からタクシーに乗り、バチカン博物館へ。今回のイタリア旅行の目的のひとつである。混むと聞いていたので、9時開場のところ8時半に行く。すでに長蛇の列。しかし9時にゲートが開くと、10分程度に入場できた。中は広い博物館だった。もちろんそこはバチカン博物館なのだが、バチカン市国の主要箇所でもある。しかし、どうみてもヨーロッパのかなり豪華ではあるが、博物館である。バチカン市国とは、国家の大半が観光目的の博物館であったのだ。ローマ法王は、いずこに。ローマ法王に、まさか本気で謁見できるとは思っていなかったが、聖職者の一人ぐらい会えると思ったが、ただの一人もそれらしき人はいなかった。いるのは博物館のスタッフだけであった。
 しかし陳列物はすばらしい。ローマ時代、中世のものだけではない。近世以降の作品も数多い。そしてそれらは人気がないので、見る人が少ない。じっくりとゴッホだとかシャガールだとかを堪能した。

 博物館を出て、ついでに国境も出て、ぐるっと塀を回って、また国境をまたぎサンピエトロ大聖堂に入る。ここもバチカンの中である。というか中心。ここでは聖職者が居た。ミサを行っていたのだ。堂内にはパイプオルガンと男性コーラスが響き渡り、実に厳かな雰囲気が醸し出されていた。
 ここにもベルニーニの作品が沢山あった。しかし私の目を釘付けにしたものは他の作品であった。ミケランジェロの“ピエタ”だ。マリア美しさにはただ見とれることしかできなかった。20分はその前にいただろう。いくら見ても見飽きることはなかった。間違いなく、今回見た芸術作品ではナンバーワンであった。あのピエタを見ることができただけでも、イタリアに来て良かったと思える。

サンピエトロ大聖堂
後ろに見えるのがサンピエトロ大聖堂。あの中に麗しのマリアがおわします。


 サンピエトロの後はサンタンジェロ城まで歩いて行き、近くのレストランに入る。日本のガイドブックに載っていた店だが、非常に庶民的であった。どのぐらい庶民的かというと、食事の間に、何度も電源が落ちて真っ暗になったほどだ。室内が真っ暗になると、テーブルにはローソクが灯された。そして奥を見ると、真っ暗であった。真っ暗な厨房で料理は作られていた。
 庶民的な店なので、客はイタリア人ばかりだった。客は誰も気にするようすは見せずに、普通に食事を続けていた。苛立った若店主(だと思う)が、従業員に大きな声を出していたが、客には一言の謝罪もなかった。これがイタリアなのかな。しかし私達のテーブルを担当したウエイターはにこやかで愛想が良かった。味は普通だったが、ワインを飲んで二人で45ユーロ。リーズナブルだと思う。

4月1日(金)
 イタリア最終日である。11時にヒルトンを発つ。またしてもヒルトンはやってくれる。またしてもと言うのは、この日までに2度ほど厭な体験をさせられたからだ。一回目は最初の日のことだった。大きなロビーを喜び勇んでビデオで撮影していると、プロレスラーのような巨漢がやって来て、睨みつけながら「ビデオは駄目だ!」と凄んできた。もちろん、すぐに撮影を止めた。二回目は二日目のこと。アリタリア航空は福島の原発の件で飛ばないかもしれないという情報が入ってきたので、コンシェルジュに確認してもらったときのことだ。このコンシェルジュがものすごく横柄な男で、ただアリタリアに確認してもらうだけのことを、非常に嫌々行う。こちらも嫌々な気分にさせられた。ちょっと腹が立ち、少し怒気を含んだ声で質問をすると、途端に愛想笑いを返してきたが。そして最終日はキャッシャーであった。料金を払う段になると請求書を渡された。私は代理店を通じ宿泊料を支払い済みであったのだが、高額を請求された。請求書を見ると、ミニバーの飲み物を大量に飲んだことになっている。私達はミニバーを使っていない。そのことを言うと、先方の誤りであった。このやりとりの間、チェッカーの女性はニコリともしない。そしてひとことも謝らない。相手が女性だったし、こちらも3回目なので慣れてきたのもあって、その場をやり過ごした。ヒルトンは最後まで、残念なホテルであった。

ヒルトンの中庭
残念なヒルトンの中庭で、カッコをつける筆者


 成田まで直通の予定だったアリタリアは結局、関空を経由した。その理由をカウンターに問うと、燃料の補給だという。ローマからだと関空も成田も距離はそんなに変らないのに面妖なと思ったが、関空に着き、理由が分かった。関空ではイタリア人スタッフだけが降り、代わりのイタリア人スタッフが乗り込んできた。元からいた日本人スタッフだけは継続して勤務していた。放射能汚染が危惧される成田行きを拒絶したイタリア人に配慮してのものだろう。

 飛行機の中では日本人パーサーが優しかった。成田空港では日本人従業員が親切であった。
 イタリアは街も田舎も美しいし。人は陽気である。料理は最高だ。しかし日本人の持つ暖かい心遣いはない。イタリアに行き、改めて日本を見直した次第である。しかし成田からの電車で車窓から見る景色には、やはりがっくりとさせられた。


プロフィール

山本 拓也

Author:山本 拓也
職業:翻訳者
過去の職歴:HSBCを経て産経新聞社
家族:妻、フクちゃん(猫オス 3歳)、大吉くん(猫オス 2歳)
住まい:逗子

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