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「力道山の真実」by木下英治 =BookReview=


 謎の多い力道山の生涯をなぞったノンフィクションであるが、昭和の興行の世界を知るうえで興味深い。昭和、といっても主に戦後から力道山が死んだ昭和38年までのことだが、その時代の興行には実に様々な人々が登場する。
 まずは、まずヤクザがいる。力道山は相撲出身で、関脇まで行った力士だった。当時は年2場所しかなく、それ以外は地方巡業をして過ごした。またその時代は、今のように相撲協会が全体を仕切って地方巡業をしたのでなく、一門ごとに全国を回った。それぞれの土地で地元のヤクザとの交流があった。当時は会場の押さえ、宿泊先の手配、チケットの販売、ポスターやチラシの配布、食事の用意、すべてヤクザが絡んでいた。ヤクザなくして興行は不可能だったのだ。

 プロレスを日本で興すときには政治家の力添えがあった。日本プロレス協会の初代会長は元伯爵で元農林大臣、横綱審議会委員長でもあった酒井忠正である。その他にも2名の国会議員が理事として名を連ねている。
 企業家、芸能界の実力者もいた。力道山の後見人は、元侠客で明治座の社長でもあった新田新作である。新田と仲たがいしてから、面倒をみてもらったのは浪花節で一世を風靡した稀代の興行主である永田貞雄だ。永田は山口組2代目組長の山口登と兄弟杯を交わしている。今でいう企業舎弟のような存在であろう。
 さらにテレビ、新聞、スポンサーなどがここに絡む。
 つまり当時の興行の世界はヤクザ、政治家、角界、芸能界、企業家が混沌とした交わりをする場だったようだ。

 この本を読む前に、私は力道山について3つの疑問を持っていた。(1)なぜ相撲を辞めたのか。(2)本当に強かったのか。(3)殺された背景はなんであったのか。
 「力道山の真実」はこの3つの疑問に、部分的ではあるが、回答を与えてくれている。まず角界を辞めた理由だ。直接的な原因は、二所ノ関親方との確執だったようだ。巡業初日に遅刻して現れ、いきなり親方に高額の無心をした。当時、力道山は関脇で、二所一門では花形力士であった。力道山が来ないとなると、巡業が成り立たない。なかなか来ない力道山に待ちくたびれた親方は当然、立腹して迎えたわけだが、そこにいきなり借金の申し出である。親方は無論、断った。無心を断られた力道山は、ぷいっとその場を立ち去り、なんとそのまま引退してしまう。花形力士は断髪式もせずに、みずから包丁で髪を切り落としてしまったのだ。
 そこに至るには伏線があるようだ。まず力道山は肺ジストマという難病に罹る。なんとか回復を見せたが、完全には至らず、体調を崩していた。相撲に自信をなくしていたようだ。
 相撲界への不信感もあった。力道山は西関脇で8勝7敗の成績を収める。力道山としては東関脇への昇進を期待したが、翌場所も同位のままであった。これを彼は自らの血のため(朝鮮人の血)、差別であると受け取る。
 こうしたことが重なり、元来気の短かった力道山は、あっさりと角界を去る。

 次の本当に強かったかだが、これはこの本を読んでも、すっきりしない。というのは、やはりプロレスという格闘技の性質による。当時からプロレスは基本的には勝敗が元から決まったショーであったようだ。ただまだプロレスの黎明期で、曖昧でもあった。「あの木村の前に木村なし。木村の後に木村なし」といわれた木村政彦との試合などは、当初は筋書きが決まっていたようだが、力道山が一方的にそれを無視し、油断する木村に不意打ちの空手チョップを見舞い、血祭りに上げている。これだけ見て、力道山の方が強かったとは決していえない。私は過去の戦歴や柔道の実力を鑑みれば、やはり木村の方が強かっただろうと思っている。
 ではプロレスラーの間での実力はどうかというと。当時のレスラーは元力士や柔道家がほとんどで、プロレスの技は未熟であった。力道山は生涯、9回もアメリカに渡りプロレスの実践を重ねている。当時は海外渡航は困難で、他のレスラーはほとんど機会を与えられていない。元相撲取りで、政財界に顔が利き、自己主張の強い、力道山だからこそ実現したことだろう。本場での実戦経験が豊富な力道山は、レスラー仲間の中では、やはり別格であったようだ。

 最後の殺された理由だ。直接には、赤坂のクラブ、ニューラテンクォーターにて、住吉一家系のヤクザ村田勝志に腹を刺されたことだ。6日後に、腹膜炎で死亡している。
 “直接には”と書いたのは、そこにはやはり伏線がある。村田とはそれが、最初の出会いではない。以前も何度か小競り合いをしている。
 刺される直前、力道山は村田の馴染みのホステスをトイレ近くの廊下で口説いていた。トイレを出て、力道山の後ろを通り過ぎようとする村田に力道山は「足を踏んだ」と言いがかりをつけ、顔が変形するほど殴りつけた。このままでは殺されると思った村田は、忍ばせていたナイフで力道山を刺した。

 力道山の一生を読んでいると、彼の異常なまでの粗暴性、金への執着、周りを顧みない我侭な性格に驚かされる。当代の英雄、力道山ではあるが、その地の姿は醜い。
 相撲を辞めたのも、親も同然の親方との確執が原因である。続いて引き立ててくれた新田新作とは喧嘩別れをする。その後にすがった永田貞雄は、所属する日本プロレスの社長を務めてもらっていたが、それまでの恩義を忘れたように、人気が出て野心を持った力道山は追い出してしまう。
 酒場では暴れ周り、他の客を殴りつける。ホステスにまで手を挙げる。後輩のレスラーへの鉄拳制裁は日常的で、先輩レスラーはいびり出す。
 
 このような男の末路は知れたものだ。アメリカ時代に知り合った大山倍達も「とうとう力道にも天罰が下ったか」と訃報を耳にして言ったそうだ。

 そうだ、この本で一番、面白いのは大山倍達が登場するところかも知れない。空手チョップは相撲の張り手が原型だが、大山に空手を教わり飛躍的に効果を増したそうだ。
 木村政彦をだまし打ちにした後、木村の親友であった大山は敵討ちを誓う。知人の梶原一騎を通じて試合を申し込むが、力道山は受けない。大山は業を煮やし、果し合いをすべく、力道山を付け狙う。しかし常に取り巻きを引きつれ、逃げ回る力道山。資金の尽きた大山は諦めたようだが。
 ただ一度だけチャンスはあった。そのときは握手を求められたりして、煙に巻かれてしまう。

 力道山が最も恐れたのは大山倍達だった。
 嫌がる牛を殴り倒すところと、ビール瓶を手刀で切り裂く映像しか見たことがない大山倍達だが。彼の実力を見るよい機会でもあった。試合を見てみたかった。


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フクちゃんと大ちゃんが逃げる、の騒動


 翻訳のノルマが終わらないので、ブログの更新はどうしようかと思っていたが、ちょっとした騒動があったので記録のために書く。
 フクちゃんと大チャンが脱走した。フクちゃんも大チャンも二度目の逃亡だが、一緒に逃げたのは始めてだ。

 不思議なことがあった。夕べ、夢を見たのだ。夢はあまり見ない、あるいは覚えていない。それが昨日ははっきりとしたストーリーのある夢を見て、朝になっても覚えていた。
 印象深かったので、起きてすぐにかみさんに話した。夢の内容は次のような感じだ。

 どこかの家に住んでいた。今の逗子の家とは構造が違う。でも自分の家だとは分る。そこにフクちゃんと大チャンと、あともうひとりと住んでいる。このもうひとりはかみさんなのか、母なのか、あるいは他の女性なのかは分らない。一度も登場しなかったので。ただ誰かもう一人と住んでいた。
 ある部屋へいくと窓が少し開いている。びっくりして猫を探すと、二匹ともいない。やばい。逃げたのだ。慌てて外を探すが、影も見えない。
 フクちゃんと大チャンが戻ってきたときに入れるように、窓を少し開けて待っていた。すると、見たことのない野良猫が代わりに入ってきた。可愛いメス猫であった。メス猫はしばらくすると、また家を出て行った。
 待っていることしばし。他の部屋で私は何かをして待っていた。すると何か予感のようなものが走る。もしやと思い、窓を開けていた部屋へ戻ると、まずフクちゃんが、続いて大チャンが入ってきた。さらにだ。あの可愛いメス猫も最後に入ってきたのだ。外でお友達になったようだ。
 三匹は外にいたので汚れている。私は風呂に入れることにする。三匹を浴室に入れ、どういうわけか自分も素っ裸になって、浴室へ。猫を洗おうと思って近づくと、あることに気づく。こんな無防備な姿でフクちゃん、大チャンはともかく、野良猫を洗うことができるのだろうか。男の弱点を攻撃されたら、こりゃたまらんな。と考えているところで目が覚めた。

 ここからは現実の話である。かみさんが朝食を作っている最中、私はソファーで本を読んでいた。すると庭の方から大チャンの泣き声が聞こえる。振り向いてソファーの後ろを見ると姿が見えない。きっと和室にいるのだろうと考え、放っておく。また泣き声が。やっぱり庭の方だ。もしやと思い外を見ると大チャンが庭にいるではないか。見ると窓が少し開いている。なぜ?
 かみさんに「大チャンが逃げた?」と伝えると、「どうして?」と返答。今朝はかみさんが雨戸を開けた。そのとき少し開いたままにしておいたのだろう。そこで「窓を開けっぱなしにしておいただろう」と私の言葉に、「絶対、閉めた」とかみさん。
 こういうときのかみさんは強情である。それに今はそれどころではない。

 わたしはサンダルを履いて、庭へ飛び出す。大チャンに近づくと、なんと逃げる。外に出て気が立っているようだ。さらに追うと、庭の裏へ。さらに追う私。すると猛然とこちらに突っ込んでくる。ようし、チャンス。捕まえようとしたが、私の手を潜り抜け、また庭へ。これ以上、追うと却って興奮させていけない。部屋へ入る私。
 「捕まえられなかったよ」と妻に声をかけると、妻が「あ、戻ってきた」と。
 大ちゃんはさっきまで開いていた窓、そのときは閉められていたがを、必死に前脚でカリカリと掻いている。かみさんが窓を開けると、慌てて入ってきた。あ~、よかった。
 と安心したのもつかの間である。「フクちゃんはどうした?」と聞くと、「いないみたい」とかみさん。
 どうも一緒に逃げたようだ。再度、今度はちゃんと靴を履き、庭や裏庭を探す。どこにも姿が見えない。一旦、家に戻り、かみさんに勝手口の扉を開けておくよう指示を出す。そこから自分で入ってくるかもしれない。
 また逃げるといけないので、大ちゃんは二階の寝室に隔離する。それから、さきほど逃げ出した窓を同じように少し開けておく。
 家の周りを、今度は外の道に出て、丹念に探す。まったく気配が感じられない。いったいどこへいったのだろう。 
 泣きたい気持ちになった。内田百の「のらや」という随筆をご存知だろうか。可愛がっていた“のら”という名の猫が逃げ出し、百が必死に探す話だ。数ヶ月も探し回るのだが、結局帰ってこなかった。最後は憔悴しきる老百先生。
 フクちゃんともこれが最後となるかもしれない。フクちゃんなしの生活を、俺はこれから過ごしていけるのだろうか。とてもできそうにない。ひとりで近所を探し回り、途方に暮れた。
 いったん家に戻って、家の中から外を伺う。以前、逃げたときも結局、始終うちの周りにいた。今回もまだ近くに潜んでいるかしれない。追いかけると逃げる。かえって放っておいた方がよいだろう。
 家の窓という窓から外を覗く。見あたらない。もしや屋根の上ではと、二階からも覗く。やはりいない。諦めて一階へ戻る。すると庭に白い影が。フクちゃんである。庭にいる。庭に飛び出したい気持ちを抑え、中から様子を伺う。
 私は死角になって見えなかったが、「入ってきた」というかみさんの声が聞こえた。そうっと、窓の開いているリビングを見ると、たしかにフクちゃんがいる。でもうかつに近づくと、また外に出てしまうかもしれない。フクちゃんは興奮した様子で、まだ開いた窓の近くにいる。静かにフクちゃんの後ろへ回り込み、素早く窓を閉める。これで大丈夫だ。
 フクちゃんも大チャンも、大冒険の後で興奮気味であった。しかし5分もすると、スリスリと近寄ってきて膝に乗ってきた。その後はいつも以上にくっ付きたがる。やっぱり怖かったのかな。

 本当に、いやマジで心配した。普段、逃げたときのシュミレーションを心の中でよくしていた。追わない、心配しない。戻ってくることをじっと待つ。どれもできなかった。ただおろおろするばかり、追い掛け回すばかりであった。
 一方、かみさんは「戻ってくると思ってたわ。拓也さんの夢の後だし。きっと正夢になると思ってた」、だと。君が開けっぱ、にしておいたからだよ、と喉元まで出掛かったがよした。たしかにちゃんと閉めたのかもしれないし。帰って来さえすれば、どうでもいいことだ。

 しかし、あまり動転しすぎて、夢のことはすっかり忘れていた。そうか、あれは正夢だったのだ。そんなことってあるのだなぁ。不思議な話である。
 戻ってくる夢を見て、よかった。

大ちゃん
おんもを見つめる大ちゃん。大冒険を思い出しているのかなぁ。

フクちゃん
無事生還して、安堵の様子のフクちゃん


チンギス・カンと秀吉


 私は身分不相応ながら、VISAのゴールドカードを持っている。勤め人の時に作って、そのまま保持しているのだ。年間会費は1万円。とても痛い。止めたい。しかし今、止めると、いつか再開したくなったとしても、再度作ることはできないだろう。きっと審査で落とされる。そう思うと、なかなか踏み切れない。
 今日の話題はカードについてでなくて、VISAから送られてきた月間会報に書いてあったことについて。今月号の特集はモンゴルであった。
 ウランバートルの政府庁舎の前にはチンギス・カンの銅像が建っているそうだ。それについて。 

 チンギス・カンは言わずと知れた“元”の初代皇帝で、歴史上世界最大国家である“元”の礎を作り上げた英雄である。
 世界最大国家を創設するには、他国を侵略し領土としなくてはならない。チンギス・カンの生涯は戦争と侵略の歴史であった。
 その侵略王の銅像が、政府庁舎の正面に建てられている。侵略された国々は、文句を言わないのだろうか。

 日本でたとえるなら、豊臣秀吉の銅像を国会議事堂の前に建立するようなものだ。秀吉は戦国時代を終結させた英雄なのだから、あっても不自然ではない。しかし、ない。韓国、北朝鮮を意識してのことだろう。もし立てたとしたら、相当な騒動になるだろう。

 秀吉の朝鮮出兵だが、愚挙の典型と扱われることが多い。果たしてそうだろうか。
 愚挙と見なされる理由は、明と朝鮮の連合軍との戦で負けたからだろう。勝ち目のない戦に出た行為を、愚かと捉えるのだろう。しかし本当に勝ち目はなかったのか。そして勝っていたら。そのときは愚挙と見なされなかったのだろうか。
 たしかに勝つ可能性は低いものであったと思う。当時の明は強大であった。しかし当時の戦は今とは違う。他国の軍事力についての知識などなくても、自国が強く、国内的に膨満感があれば、他国を侵略する。それが一般に行われていたことだ。
 チンギス・カンは軍事の天才であっただろう。一方、秀吉も天才である。結果の相違は大将の力量の差というよりも、世界情勢の差が大きかったはずだ。チンギス・カンが今の中国に攻め入ったとき、そこにあったのは弱小国家の寄せ集めであった。当時の中国は南宋や金、西夏などに分裂をしていた。攻め入るのはた易かった。

 もう一国、漢民族以外で中国を侵略し、統一した国がある。清だ。清が創立される以前にあったのは明であるが、その時の明は秀吉の頃の民とは国力が違った。愚帝が続き、宦官の横行を許し、衰亡の一途にあった。攻め込むのは、これもまたそう難しくはなかった。

 秀吉が朝鮮出兵をした際に、中国が同じような情勢下であったなら。結果は大きく違っていただろう。勝ち進んだ可能性は、そんなに低いものではない。
 仮に勝ち進んだ場合だ。現在の秀吉の評価はどう変っていただろうか。国会議事堂の前に、像が聳え立っていただろうか。

 その評価は私にはできない。ただ、やはり秀吉が負けてよかったとは、思っている。仮に勝ち進み、大日本を中国大陸に打ち立てたとしたら。軍事的には勝てたかもしれない漢民族であるが、あの人口と文化には飲み込まれてしまっただろう。人口的、文化的には負けただろう。
 元も清も異民族が打ち立てた国家ではあったが、文化は漢民族のものを踏襲した。人民は当然、漢民族であり、官僚も漢民族であった。皇帝とその周辺のみ自国から引き連れていっても、結局は漢民族が主流の国家ができ上がった。

 元の場合、中国から距離もあり、もとの国家にも力があった。そのお陰で、今もモンゴルは国家として存在する。しかし清はオリジナルの土地が比較的近く、国力もそれほどなかったために、今はすっかり中国に飲み込まれてしまっている。跡形もない。
 日本なら、どうなっていただろうか。海を隔てており、独立した完成度の高い文化を有していた。人口もそれなりにあった。よって、清のように中国に飲み込まれることはなかったと思うが、モンゴルのように相当中国化されていた可能性は高い。
 江戸時代も相当、中華風な社会であっただろう。

 さらに仮に日本が打ち立てた国家が、けっこう健闘して長命であったとしたら。これは想像するだに恐ろしい。清のかわりに、欧州列強に対峙しなくてはならなかったからだ。
 おろらく、日本自体も植民地とされてしまっただろう。その可能性は高い。

 そう考えると、秀吉は負けてよかった。勝っていたら、日本は今とはまったく違った国家となっていた。そしてその違いはあまり、明るいものではない。


言語の変化


 先週の土曜日まで知らなかった。「わず、なう、ういる」という言葉の意味を。土曜の日経のコラムを読んで意味を知った。実は以前から、これらはよく目にしていた。毎日のように覗く、アウトロー系格闘家のブログに頻繁に登場するからだ。
 なんだか野暮ったい言葉を使う男だと思っていた。「なう」はおそらく“now”だろうと予想がついた。しかしいまさら“now”なんて。こいつ「ナウイ」とか「銀座now」とか意識してるのか。
 「わず」はずーずー弁の一種かと思っていた。いなかっぺ大将が「腹減っただす」とか言うのと同じカテゴリーかと。
 今更ここで説明するまでもないと思うが、「わず」は“was”、「なう」は“now”、「ういる」は“will”だそうだ。文末に付けると時制の意味を付加することができる。「床屋わず」なら「床屋へ行った」、「床屋ういる」なら「これから床屋」だそうだ。

 私は言葉に対しては保守的な方だと思う。しかし言葉の変化に対しては比較的に寛容だとも思う。福島瑞穂や小沢一郎の、語尾上げ言葉を聞くと辟易する。国の指導者が使うべき言葉ではない。しかし高校生の使う言葉に目くじらを立てるつもりはない。彼らは言葉作りを楽しんでいる。そのパワーも持ち合わせている。言葉作りの最前線に立っている。
 福島や小沢は言葉作りの後方に控えながら、機を見て、狡猾に言葉を選ぶ。大衆に迎合し、気に入られるよう画策をする。しかしながら、残念ながら、その言葉はどうしても、野暮ったい。

 「わず、なう、ういる」の使用は、なかなか面白い発想だと思う。今までにはなかった“転換”だ。文法そのものに切り込んでいる。

 「わず、なう、ういる」の語源は英語であるが、英語自体が変遷の歴史を繰り返してきた。英語ほど変化してきた言葉はないのではないだろうか。
 ここで、簡単に英語の歴史を述べる。資料を見ずに、記憶だけで書くのでかなり大雑把だが。

 ブリテン島にケルトが住むようになったのは有史以前のことだ。ローマがブリテンにやってきた、そのときにはすでにケルトの民が住み着いていた。ローマがやってきたのは、紀元前の数十年というところだろう。その前からケルトはいた。
 現在、イギリス系ケルトはDNA鑑定からイベリア半島の北、あるいは西海岸、つまりスペインやポルトガルの山岳民族と近いことが分っている。ここから推測すると、イギリス系ケルトの出身はイベリア半島である。当時はイベリア半島の原住民が話す言葉と近い言葉を使っていたはずだ。
 そこに侵略したのがローマ人である。ローマはブリテン島の南半分しか領有しなかったが、そこは当然ラテン語の影響を大きく受けた。ちなみにローマの本格的なブリテン支配は紀元後43年、クロディアス帝からで、その支配は約400年間続いた。
 ローマ人が去った後にやって来たのは、いわゆるアングロサクソンの人々だ。現在のオランダ、デンマーク、ドイツ東部あたりに住んでいた、アングロ族とサクソン族である。
 今の英語のベースはこのゲルマン人の言葉がベースとなっている。なので今も、英語とドイツ語やオランダ語は基本的な文法や単語が近い。
 続いてやってきたのはフランス人だ。有名なノルマンコンクエスト(1066年)である。フランスの一公国であったノルマン公国がイギリスを侵略し、王位についたのだ。フランス人がイギリスの王様になってしまった。
 ここで面白いことが起こる。王家、および上級貴族はみなフランス人と入れ替わったが、庶民はアングロサクソン系が主流である。さらに山の中なんかに行くと、ケルト系が住んでいる。言葉も同じで、上流社会はフランス語。庶民はアングロサクソン系英語、山や僻地に住む人々はケルト語。
 さすが月日が経つにつれ、言葉は徐々に融合していった。その結果、例えば豚はポークとピッグを使い分けるようになった。ポークはフランス語から来た言葉だ。フランス系上流貴族にとって、豚は肉を意味するのでポーク。農民にとって、豚は生き物であり家畜なのでピッグ。
 これが大まかな荒筋だ。英語はケルト、ゲルマン、フレンチの三重構造の言語なのだ。

 さらにマイナーな増改築を何度も繰り返している。ひとつはバイキングでノルマンコンクエストの前には頻繁にブリテン島を襲撃し、多くが移り住んでいる。
 それとノルマンコンクエスト以降の王朝の交代。イギリスの王家も日本の天皇家のように血脈が続いていると思われる方は少なくないと思うが、実はイギリスは、戦争以外でも度々王家の血が変わっている。
 王様に子供がいないとドイツ辺りから代わりの王様を連れてきてしまうのだ。今のイギリスの君主はエリザベス2世だが、エリザベス2世はウィンザー朝に属する。ウィンザー朝は、元はドイツの王家で、1917年(最近でしょ)からイギリスの王家となっている。つまり血筋的にいえば、現イギリス王家はドイツ人なのだ。
 その前のハノーバー朝もドイツ系、その前のスチュアート朝はフランス系、テューダー朝はウェールズ系(今はイギリスの一部ですが、当時は別の国)といった具合。
 当然、外国から来たばかりの王様は英語が話せない。よってしばらく王室は、ドイツ語だったり、フランス語だったりしたわけだ。これが英語にまったく影響を与えないわけがない。
 それと最後の影響。これはアメリカの出現である。今、英語といえば、日本では主に米語を指す。世界的にも米語の影響力の方が大きいだろう。
 私達が学校で習ってきたのは米語であり、その意味でアメリカの出現はとてつもなく大きなインパクトを英語に与えたのだ。

 さて、ごく大雑把に英語の歴史を書いた。ここで何が言いたいかというと、言葉は変るものだ、ということだ。どんなに厳格に制御しても言葉は変化する。人が動き、文化が融合し、侵略し、侵略を受け、その度に言葉は変化する。
 「わず、なう、ういる」は多分、そんなに延命はしないだろう。若い人の使う言葉は得てして短命に終わる。でも残るかもしれない。これは誰にも分らない。

 「わず、なう、ういる」は文法の構造そのものにダイナミックに踏み込んでいる。そういう意味では、今までの流行り言葉とは一線を画しているように思う。「わず、なう、ういる」は消えてなくなるかもしれない、しかし。万葉のころから文の構造自体は、変ることがなかった日本語だが、今後はどうだろうか。ひょっとして。
 かつて日本語は漢語の影響を大きく受けた。今は英語である。その英語はラテン語、フランス語、ドイツ語の影響を受け続け、変化してきた。今はスペイン語の影響が大きいようだ。
 逆に世界中の言葉は英語の影響を受け始めている。
 言語は世界的にみて、収斂していくのかも知れない。

台風の一日


 昨日の台風はすごかった。逗子は台風の中心の東に位置し、強風をもろに受けた。我が家は海からは1キロぐらい内陸だが、山の南斜面に立ち、南風を直接受ける。
 マンション住まいのときは、あまり感じなかったが、一軒家に暮らすようになってよく分る。台風の風圧は凄まじい。風を受けて家全体が揺れるのだ。その恐ろしいこと。
 我が家は三匹の子豚、ブー、フー、ウーでいえば、2番目のフーの家クラスかもしれない。多少の風ならば耐えられるが、強風だと飛ばされそうだ。
 まあ飛ばされることは、正直ないと思っていたが、飛来物の直撃は怖かった。窓に当ったら一大事だと考え、午前中から全ての雨戸を閉め切った。
 風の轟音と暗い部屋に怖気づいた猫一匹(大ちゃん)は、始終私の後を追い求めた。野良暮らしがあったフクちゃんは平然として、お腹を出して寝ていたが。

 そんな台風の中、ジム(市営の体育館だけど)へ出かけた。流石に人は少ない。それでもいることはいる。こんな日に来るとは、鈍感なのか、熱心なのか。そんなことを考えながら(きっと、お互い)、言葉は交わさずにもくもくとトレーニングをした。

 家から帰ったのが3時半ぐらい。携帯を見るとメールが届いている。かみさんが勤め先の小学校から、臨時の早引きで帰って来るようだ。ちょうど逗子駅に着いたころだ。電話すると、今逗子駅に着いたところだという。すぐに車で迎えに行く。駅に向かう途中、徒歩で家路へ急ぐ人を何人も見かけたが、みな傘など役に立たないので閉じて手に持って歩いている。当然、全身ずぶ濡れだ。

 帰宅後、夕食を作る。前日に買ってあったサンマをお酢で煮る。スーパーで一匹85円にて売っていたので、6匹購入してあったのだ。1時間煮ただけで、骨も頭も食べられる。6匹、すべて煮る。これだけ作って、後はかみさんにバトンタッチ。かみさんは野菜の品を2種類作る。かみさんが料理をしている間は書斎に戻り、翻訳の続きを行う。

 本来は平日は飲まない予定だが、かみさんが早く帰ってきたし、台風だし。なんだか特別な日のような感じがしてきて、思わずビールを開ける。当然、ビールだけでは済まず、熱燗へ突入。と、いつもの展開をする。

 夜、7時ごろ、台風は過ぎたようで、辺りは急に静かとなる。静かになったとたんに、秋の虫の声が。小さな虫はいったい、どうやってあの強烈な風や雨から身を守ったのだろう。
 熱燗を傾けながら、秋の音色に聞き入った。

ロン毛くん、さようなら


 しばらく床屋へ行っていない。ここ最近、ずっと短髪で通している。汗っかきの体質で、合気道の稽古やジムワークで汗だくになり、面倒だからだ。
 散髪に行きたいと思っていたが、タイミングを逃し続けている。うちは山の上にあって下界に降りるのが面倒だ。なるべく週に一度ぐらい駅の周辺へ行きたいのだが、あまり行かない。それでも以前は徒歩、あるいはチャリンコで運動も兼ねて出かけていた。ところが最近は車癖がついてしまった。ジム(市立の体育館だけど)へ行くのも車。図書館も車。というのは、この二箇所には立派な無料駐車場があるからだ。
 よってこの二箇所には結構、頻繁にでかけている。しかし。他の場所にはあまり行かなくなってしまった。床屋とか。床屋には専用駐車場がないからね。1000円の床屋のために、500円の駐車料金は払いたくない。ということで、しばらく散髪をしていない。

 本当は長髪が好きだ。若いときは、結構長髪にしていた。肩ぐらいまでは、よく伸ばしていた。私はくせっ毛なので、そんなに格好はよくならないが、それでもそれなりにワイルドになったりして。まあ、気に入っていた。
 最後に伸ばしたのは30代の前半だ。アメリカに留学していたときだ。当時は毎日、3時間近くウエートトレーニングしていて、筋肉をつけたくて、食べまくっていた。結果、それなりの筋肉と豊かな脂肪を身に付けることができた。今は60キロ程度だが、当時は75キロ。結構なおデブさんであった。結構なデブさんが髪を伸ばすとどうなるか。決してキムタクにはならない。麻原彰晃か、グレート義太夫になるのだ。当時から髭を生やしてたしね。

 今は当時に比べればやせている。10代、20代のころ、髪が長いときはよく川崎麻世に似ているといわれたものだ。本人はショーケンのつもりであったが。あんまり川崎麻世にはなりたくないが、キムタクは悪くない。髭があるからジョニー・デップかな。
 少し髪が伸びてきたので、またトライしたい気持ちになった。ところが。

 まだあまり長くないが、どうもおかしい。なんか、違う。理由はすぐに見当がついた。手鏡をもって頭頂を覗く。やはり。地肌が見える。
 このまま伸ばすときジョニー・デップにはなりそうにない。路線的にはミッキー・カーチスであろう。

 もしやとは思っていた。でも最近、ずっと短髪であったので忘れていた。私は最近、薄毛であるのだ。
 老いというものは寂しいものだ。ひとつ、ひとつ、機会が掌からこぼれ落ちていく。
 ロン毛、もう一生無理だろうな。一度ぐらい、肩より下ぐらいのうんと長髪にしてみたかった。大学生の頃、かっこいいサーファーのお兄さんの友人がいた。腰近くまで髪を伸ばしていた。真似をしたかった。でも流石にできなかった。一度ぐらい、あんな髪型にしてみたかったな。でも、もう無理。いや後頭部なら伸ばせるだろうけど、それじゃ髷を解いたサムライみたいだもんな。

 ロン毛くん、さようなら。

K-POPから分る韓国の製造力


 一昨日になるが水曜日は飲んでしまった。最近平日は飲まないようにしているが、水曜日は禁を破った。一日、暑くて。それに、ここのところ嬉しいことだが仕事が立て込んでいて、朝からずっと机に向かっていて。外にはまったく出なくて。そんなこんなで、なんだか飲みたい気分が湧き上がってきた。どうにか気持ちを抑えようとしたが、辛抱たまらず。風呂上り、ビールをぐひっとやってしまった。
 ビールを飲んだら気持ちがよくなって、そのままぬる燗に突入。普段はこれで“that’s it”なのだが、久しぶりに平日に飲んだということで、なぜか特別な気がしてきて。ここのところ、とても不思議な心理状態であるが、どういうわけかそんな理屈が湧き上がってきて、さらにバーボンの水割りを飲んだ。
 私は酒を飲むと極度に脳の活動が緩慢になる。なので、飲むと本が読めない。仕方なくテレビをつけてCNNを見る。しかし、普段でもあまり理解できないのに、飲んでいるからなおさらで。ちっとも面白くない。その後、BSでK-POPの歌番組を見た。

 韓流の歌手って、グループばかりなのですね。全部で6,7組出ていたと思ったけど、すべてグループであった。それも男は男だけ。女は女だけ。昔でいうならば、クールファイブである。ペドロ&カプリシャスのような、ミックスはいない。
 最初の一組を見て、まず驚いた。皆、同じ容姿なのだ。全然、区別が付かない。これって私がオジサンになった証拠だろうか。
 それにしても均一性の高さといったら、天晴れである。彼らを見てて、最初のグループは男の子のグループだったが、思った。これはまるで「おそ松くん」だ、と。
 「おそ松くん」は赤塚不二男の初期のマンガだ。主人公は六つ子で、その名をおそ松、カラ松、チョロ松、一松、十四松、トド松という。六つ子だから皆おんなじ顔をしている。それでイタズラなんかをして、周りを引っ掻き回すのだ。韓流ボーイズ・グループはまさに、「おそ松くん」状態であった。彼らなら、いたずらし放題に違いない。
 これがまた、男の子のグループに限らない。ガールズ・グループもしかりであった。
 そして、さらに驚かされたこと。それはひとつのグループに限らず、どのグループも似ているのだ。あれ、さっきこの子たち、歌ったんじゃない、と思っていると、さっき歌ったグループが違うショットで出てきたりする。同じ容姿の子ばかりのグループがいくつかあって、さらにグループ同士がよく似てて。
 それで、さらに。曲もダンスもよく似ているだよ。こりゃ、おじさん、たまらん、って感じだ。

 K-POPのグループを見ていて韓国の製造力の高さに恐れ入った。
 かつて日本が得意とした少品種大量生産はすっかり韓国にお株を奪われてしまった。半導体のような同一品質のものを大量に作る分野では、韓国は今や世界一である。世界最大級の電機メーカーは現在、サムスンだ。彼らはただ同一の物を大量に作ることを得意とする。そこにオリジナリティは入らない。

 おそらくオリジナルは日本のグループだろう。SMAPとかモーニング娘とか。それが韓国でコピーされて、より均一化されたのだ。
 彼らは平気で美容整形なんかしちゃうから、日本人はかなわない。
 ひとりひとりも、ぱっと見た目だが、モーニング娘とかAKB48とかよりもハイクオリティのように見えた。

 すると、工業製品もそうなのかも知れない、という思いに至った。日本人は韓国製品に安さで破れたと思い勝ちだが、検証が必要だろう。ひょっとして、製品自体のレベルも負け初めているのではないだろうか。

 酔っ払いながら、そんなことを考えた次第である。

失言に対する暴言


 鉢呂経産大臣辞任記者会見の動画をユーチューブで見た。会見の中で大臣に質問する新聞記者の発言が問題になっている。やり取りは以下。


新聞記者「あなたね、国務大臣お辞めになられているんだから、その理由ぐらいきちんと説明しなさい!」

新聞記者「定かな記憶がないから辞めるんですか。定かなことだから辞めるんでしょ。きちんと説明ぐらいしなさい、そのぐらい」

新聞記者「何を理由に(福島県民に)不審の念を抱かせたか、説明しろっつってんだよ!」

それを止めに入ったフリーランスのジャーナリスト。

フリー「そんなヤクザ言葉は止めなさいよ。記者でしょう。敬意をもって質問してくださいよ!」

フリー「恥ずかしいよ、君はどこの社だ!」

 この新聞記者は大臣の失言を質す質問において、以上のような暴言を吐いた。文で読むとフラットになるが、かなり感情的で悪意に満ちた暴言であった。
 これほど分りやすく幼稚な暴言はそうあるものではない。失言を質す、あるいは糾す場において、自ら暴言を吐く。フリー記者が「恥ずかしいよ」と言ったが、まさに究極の恥ずべき発言だ。
 なぜこれほどまでの失態が出現するのか。

 新聞記者というのは実に因果な商売である。人の不幸を探りまわり、それを白日に晒す。人の行為を自らはただの傍観者にもかかわらず批評し、批判する。
 あの記者は自覚していないに違いない。おそらく何も考えていないのだろう。自分を普通のサラリーマンととらえているのだろう。しかし違うのだ。新聞記者は自動車メーカーや化粧品会社の社員のような、普通のサラリーマンではないのだ。因果な世界に身をおいているのだ。
 かつては、記者は自らを“羽織ゴロ”と呼んで、自覚を促していた。羽織、今で例えるなら背広を着てはいるが、中味はゴロツキという意味だ。服装は世間の紳士と同じだが、やっていることはゴロツキの仕事だという意味だ。

 自覚は四六時中でなくてはならない。因果な商売を自ら選んだのだから、あるときだけ記者で、あるときは普通のサラリーマン、というのは許されない。人を批判する以上、自らを律して生きなくてはならない。自らを律している人の書く文章だからこそ、人はそれを許容して読むことができる。
 “律する”というのはこの場合、道徳的な意味ではない。記者らしく生きるという意味だ。あの場は大臣の会見という場であった。当然、記者は政治記者であろう。政治記者なら常に政治記者らしく振舞わなければならない。川に落ちて溺れかけている犬のような大臣である。多少、棒でぶん殴っても噛み付き返しては来ないことは分る。しかし政治記者は棒で殴ってはいけないのだ。知的に論理的に政治を明るみに出さなくてはならない。それが求められている使命である。
 これが芸能記者やスポーツ記者ならば、また対応が変わってくるだろう。

 武道の必修化でも書いたが、人は場面場面において、要領よく変身することはできない。普段の振る舞いが咄嗟のときに出るものである。だから常日ごろ稽古を怠らず、有事の際に対応できるようにしなくてはならい。あの記者は恐らく、普段の生活でもあの態度で過ごしているのだろう。
 自分の身の置き方がすでに遅れている。普段の覚悟のなさが、自らを大きく出遅れさせている。そのことにあの記者は気づいていない。
 あの記者は社名も氏名も名乗らなかったので、どこの新聞社の人間なのかは分らない。その新聞社には、きっとプロ意識、あるいは覚悟、そうした雰囲気が充溢していないのだろう。覚悟のない組織で過ごすと、あのように幼稚なままの年齢だけの大人ができあがる。
 
 覚悟のなさが、ある特定の新聞社だけであることを願いたい。新聞社業界全体の徴候であるとしたら、新聞という商品自体への不信に直結する由々しき事態だ。ネットが黒船だと騒いでいる場合ではない。自ら船底に穴を開けているようなものだ。

御蔵島、野口健氏の同行取材にて


 PCのドキュメントを整理していたら懐かしい文章が出てきた。2004年5月、あるテレビ番組のロケハンでアルピニストの野口健氏に同行し、御蔵島へ行ってきた。そのときに書いた記事である。
 御蔵島は非常に厳しく自然が守られている日本では稀有な土地だ。そのお陰で、他では見られなくなった珍しい動植物が数多く生息する。
 厳格な自然保護の裏には島の歴史があった。少し長い文章ですが、転載します。

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御蔵島、野口健氏の同行取材にて
「島民の知恵から学ぶこと」


 5月末、アルピニストの野口健氏とあるテレビ番組のロケハンに同行し、伊豆七島のひとつ、御蔵島にいってきた。

オオミズナギドリ
フェリーから望む御蔵島。険しい断崖に囲まれている

 報道などでご存知の方もいるかもしれないが、御蔵島はこの4月からエコツーリズムを実施している。エコツーリズムとは年々増える観光客の自然への影響を考慮し、地域の貴重な自然を守るためにルールをさだめ、それに則った観光のことをいう。持続可能な観光とも呼ばれている。

 具体的には御蔵島では全国でも珍しい、厳しいルールを作った。全島、ガイド無しでは海にも山にも入れないようにしたのだ。

 野生のイルカと泳ぐことができる島。オオミズナギドリ(カツオドリ)の世界最大の生息地。ミクラミヤマクワガタなど固有種が多数棲息する多様な生物相。この自然があふれる、一見のどかな島が自ら選んだ自己規制には、島の歴史が背景にあった。


 まずは御蔵島についてと、エコツーリズム実施の経緯を簡単に触れておく。

 御蔵島は周囲約17キロ。港区とほぼ同面積の小島である。小さいながらも地形は険しく、851メートルの御山を中心に急峻な山々で構成されている。山々は海まで続き、いきなり絶壁の断崖でおわる。最高の断崖である黒崎高尾の海触崖は480メートルあり、日本一の高さを誇る。上から見下ろす海は遥かに遠く、断崖下にころがる巨岩が小石に見えるほどだ。

 この険しい地形の小島に約250人の島民が山を切り崩し、わずかな平地をつくり、まるでへばりつくようにくらしている。

 島の歴史は古く、縄文時代の遺跡が見つかっている。

 島での農業、漁業はおもに自給自足のためで、現金収入は柘(つげ)や桑など木材で得るといった、静かな生活が10年前まで続けられていた。

御山で
巣の中のオオミズナギドリ


 それが1993年ごろから変化があらわれてきた。野生のイルカといっしょに泳ぐ、ドルフィンスイムがブームになったためだ。

 御蔵島のすぐ脇には黒潮が流れ、南から栄養豊富な水が運ばれてくる。潮の流れとともに魚が遊泳し、魚をもとめてイルカが集まる。島ではイルカを食す習慣がなく、イルカは安心して島の周りに生息できた。


 それでもイルカは漁業の邪魔であり、決して歓迎される存在ではなかった。今のように友好的なイルカとの交流などあるはずもなく、島民とイルカはお互いに干渉されることを避けるように生活していた。

 そこに訪れた突然のブーム。おとなしく遊び好きでかわいい野生のイルカと泳げる島は、にわかに注目されはじめた。

 当時1軒しかなかった旅館は瞬く間に増え、漁船はドルフィンスイムをする客をイルカの群れまで運ぶ、ウオッチング船を兼ねるようになった。

 観光客が増えれば、観光収入は増加する。今まで林業が主な収入源だった島は、突然訪れた観光ブームに沸いた。

 しかし同時に、限りある野生が破壊されていくことに島民は危惧の念を抱くようになった。

 そこでまず、イルカとの接し方について自主ルールを設定した。イルカには触ってはいけない。餌を与えてはいけない。音がうるさいスキューバダイビングを禁じる━などだ。

 そして、今年の1月19日にはついに「御蔵島における自然環境保全促進地域の適正な利用に関する協定」を制定し、エコツーリズムに本格的に取り組むことにした。

 こうした先進的な試みが、なぜこの島で実施することができたのだろうか。


 御蔵島にはかつて28軒衆という制度があった。

 28軒とは村が認める世帯数である。島には28軒の家族が住み、島ではそれ以上世帯が増えないように、数を制限していた。どのように数を制限したかというと、現代の常識で鑑みれば非人道的ともいえるルールが採用されていた。

 島では28軒の長男のみが世帯を持つことが許されていたのだ。つまり次男以下は、自分の所帯を持つことが禁じられていた。また運良く長男に嫁げた娘以外の女性も、生涯独身を求められた。


 現在の御蔵島は北端に港があり、その周辺にのみ集落が拡がる。しかしかつて、島の南部にも南郷という小さな部落が存在した。南郷は明治の開拓部落で、28軒衆の次男以下が家庭を持つために切り開いた小さな部落だ。明治になり、村民は南郷に移り住むことを条件に次男以下も所帯を持つことを認めたのだ。

 一生ひとりでいるより、厳しい開拓部落での生活を望むものは勿論いた。小さな部落は戦後東京など内地に移住し廃村になるまで、次男以下の希望の土地となった。

御蔵島
南郷にある開拓民のかつての住居を見学する野口氏

 また「100人を超えたら油断するな」ということばがあった。

 「100人を超えたら油断するな」は島の人口の危険水準を100名とし、それを超えないよう注意を促す、警句である。

 江戸時代の日本の人口は2500万人前後で推移していた。閉ざされた地域では人口のキャパシティが存在するのだ。江戸時代の日本では飢饉や間引きなどで自然と人口が調整されていた。間引きは人工的な調整だが、2500万人を意識していた訳ではない。


 御蔵島の100人は、明確な意識から生まれた数字である。

 28軒衆も「100人超えたら~」も島の有限の自然や環境を強く意識したものだ。狭い小島では、耕作面積が限られている。急峻な山では開墾もままならない。食糧の増産は簡単には望めない状態だった。

 明治になるまでは、島民は経験の中から100人が島の最大許容人口であると判断した。100人の人口を継続させるために、28軒衆の制度が生まれた。

 御蔵島は規模が小さく、環境が厳しかったからこそ、経験則で以上のルールや警句が生まれた。一見、非人道的なルールも島民全体を飢餓から防ぐ、知恵の結晶なのだ。

 島の厳しい歴史が生んだ知恵は島民の命以外にも大切なものを守ってきた。それは今も豊富に残る島の自然である。ほとんど手付かずの自然を今、我々がエコツアーで体験できるは、島の古人のお陰なのだ。


 我々は御蔵島の歴史や環境対策からなにを学ぶべきだろうか。単刀直入に人口を抑制すべきか。そのために中国の一人っ子政策のような、具体的対策を処すべきなのか。世界人口の自然増を止められない限り、いつか今以上シリアスに対応をせまられる場面に直面するかもしれない。日本や西欧諸国のように自然に人口増加はストップするかもしれない。どちらにせよ、直視しなくてはならない問題であることには変わらないだろう。

 自己規制と環境保護、そして島民の繁栄はリンクする関係であった。それは輪のように互いに結ばれる関係でもあった。自己規制があったから島の環境は守られてきた。島の環境が守られてきたから、島民は生き残ることができた。そして島民が生き残るために、自己規制が必要であった。

 この関係は現代の我々にも当てはめることが可能である。人口抑制などの自己規制が、まだ残されている自然や野生を守るだろう。環境が守られれば、人類の未来をもまた守られる。未来を守るためには自己規制が必要になるのだろう。

 しかし情報化された社会に住み、多くのデータを揃えているはずの現代人である我々に、かつての島民ほどの理性があるのだろうか。利害関係が錯綜する現代人にかつての島民の結束を望むことできるだろうか。

 暗澹とした気持ちにさせられるが、かといって放置もできない。

 ならば、このトライアングルの中で手を付けられるところから対処すべきだろう。それは身近な自然を大切に守ること。短い御蔵島に滞在で、そんなことを考えさせられた。

武道必修化について


 平成24年度から、全国の中学校において「武道」が正課として必修化されるらしい。このニュースに触れての最初の感想は、「え、武道って必修化されていなかったの?」であった。というのは、私自身が学校で武道を習っていたからだ。中学校では剣道、高校では柔道を体育の授業で教わった。今も続いているのかと思っていたら、そうでないらしい。

 私は多いときは週に5日、少なくとも2日程度は武道の稽古を続けている。武道を始めて12年が経った。その間、自分なりにだが、武道に対し真剣に向き合ってきた。
 私の武道歴を紹介すると、38歳で合気道を始めた。2000年の年である。その後、空手では剛柔流と和道流の道場に通った。剣術では鹿島神流と香取神道流の師に手習いを受けた。杖術、薙刀も指導を受けた。
 今、定期的に稽古しているのは合気道だけだ。他は機会があれば今も続けたいと思っているが、私の怠惰と引越しなどが理由で止めている。

 こうした武道経験から、それなりに武道に対する考えを持つようになった。
 武道は面白い。この面白さは言葉では表すことが難しい。深遠であり複雑である。
 武道は力強く、私を導いてくれた。どれだけの影響を今まで受けてきただろうか。今の私の精神的骨格の50%は武道によって構成されていると言っても、言い過ぎではないと思う。
 
 できれば他の人にも私が受けた恩恵をお分けしたい。だから今までも何人も、知人を道場に誘い稽古をつけた。10人以上の人を誘ったと思うが、今も武道を続けている人は恐らくゼロだ。
 なぜ皆、止めてしまったのだろう。それは、武道は単調な動作の繰り返しで、退屈なものだからだ。え、さっき武道は複雑深遠で楽しいと言ったじゃない、と思われますよね。そう、確かに言いました。しかしそこにたどり着くには、少々の辛抱が必要なのです。

 武道必修化の目的は「武道を通じて、徳目や礼儀作法、形式美、様式美を身につけさせる(教育再生会議の提言から)」だそうだ。
 徳目、礼儀作法、形式美、様式美、すべて教育の基本だ。当然、義務教育で教えなくてならない重点事項である。しかし、だ。武道にこれらを期待するということは、今までこれらを学校で教えてこなかったということだろう。本来、教育の柱ともいえるような、これらの重点項目を学校教育は無視してきたということだろう。
 こうした重点項目は、“学校教育全体”で教えるなくてはならない。たとえ数学や社会の授業内においても、徳目や様式美を教えることはできる。給食の時間内だって礼儀作法を学ばせることはできる。
 かりに今まで普段の学校内において、これらの指導を怠ってきたのなら、ひとり武道にのみ、その重責を担わせることは不可能である。
 いや武道は力強い。ひとりでも充分、これらを学ばせることができる。しかし他の授業や生活指導において、指導を怠ってきた教師では、無理だ。

 武道とは連続なのだ。日常といってもいい。武道の本来の目的は何だろと、お思いですか。多くは敵を打ち破ること、殺戮すること、とお答えになるだろう。その答えは、残念ながら50点である。
 本当の目的は“自分が”死なないこと、だ。相手を殺すことができても、たとえば自分も相打ちになっては元も子もない。相手は別段、殺さなくてもよい。“参った”と言わせる必要もない。ただ、自分が死ななければよいのだ。
 そのためには普段が大切である。死は戦場や果し合いの場だけに訪れるものではない。むしろ敵は風呂場や寝床を襲う。戦場でだけ気合を入れて、普段は隙だらけでは、武道家とはいえない。
 さらに上級の策は、敵と出会わないことだ。寝込みを襲われて、反撃できるのは次善の策である。敵の気配を感じたら、その場を動くことだ。そして最善は。それは元から敵を作らないことである。

 禅に「行住坐臥」という言葉がある。禅は何も坐禅を組んでいるときだけではない。仕事の最中も、普段の生活でも、座っているときも、寝ているときも、禅が体を貫いていなくてはならない、という意味だ。武道もしかり。

 武道の中心は型稽古だ。合気道の場合、“一教”や“入り身投げ”、“呼吸投げ”といった基本技を何度も繰り返す。初心者には退屈な時間である。なぜ同じ技を繰り返すのか。それは技を体得するため、体に滲みこませるため、考えなくても自然に体が動くようにするためだ。
 風呂場であろうが、寝床であろうが、とっさに型を再現できなくてはならない。
 つまり武道はとても時間を要するものなのだ。いやいや時間を要するといった言葉では足らないだろう。生活、すべてが武道になりきらなくてはならないものなのだ。

 文科省によると武道の履修時間は年間で10時間程度であるという。残念ながら年間10時間程度なら、武道の影さえ見ることはできないだろう。
 徳育も礼儀作法も武道と同じであろう。24時間、体に染み付いていなければ、意味をなさない。先生が見ているときだけ、礼儀を示せても仕方がない。
 武道にひとり期待などしてはいけない。国語算数理科社会、給食、朝礼、休み時間、すべての時間が学びの機会である。教育にショートカットは存在しないのだ。

神様がやってきた


 先週の金曜日、産経時代の先輩が家に遊びに来てくれた。先輩のことを私は“営業の神様”と呼ぶ。
 神様はいつもニコニコ笑顔を絶やさない。高圧的なクライアントに対しても、頭の悪い上司に説教されても、生意気な部下に逆切れされても、常にニコニコ、自分のペースを崩さない。

 有能な営業マンとはどのような人のことを指すのであろうか。一般的には抜群の営業成績を残すセールスマンのことを言うだろう。私もその定義には異議を唱えるつもりはない。ただ自分が目指す営業マンではなかった(私は産経新聞社時代の数年間、ネット広告の営業をしていた)。
 私は広告を担当していた時代、結構、数字を上げる営業マンであった。しかし誰も私を優秀な営業マンだとは思っていなかっただろう。ただ運がいい、あるいは要領がいいと捉えられていたと思う。私は自分のことを要領がいいとは思わないが、運は良かったと思う。そして優秀な営業マンであったと、微塵も思っていない。
 私は当時、産経Webとフジサンケイビジネスアイ(FBI)の広告を担当していた。私が担当してからは常に、この2サイトは前年比で50%以上を売り上げていた。約2年間、担当していたと思うが、最初に引き継いだ数字の5倍ぐらいまで、この2年間で売上げを伸ばしたと思う。
 なぜ私が売上げを上げられたかというと、新技術を次々と採用したからだ。その点、私は躊躇がなかった。数字を上げられるのならば、古い習慣は簡単に切り捨てることができた。アフィリエイトやネットワーク広告を新聞社系サイトで最初に採用したのは、多分私だと思う。以前、グーグルのラリー・ペイジと話したことがあると書いた。それはグーグルが日本で最初に提携した新聞社が産経で、それを担当したのが私であり、そこでグーグルが私をあるパーティに呼んだからだ。グーグルに限らず、いくつも新聞業界初という提携をした。
 私が数字を上げたのは、たまたまネット広告の隆盛時であったからだ。さらに保守的な新聞社が手を出さない新技術を積極的に取り入れたからに過ぎない。これはちっとも有能さとは関係がない。
 優れた営業マンとは決して、一定の期間、数字を上げる人のことを言うのではない。有能な営業マンは先輩(以下、神様)のような人のことを言うのだ、と私は思っている。

 神様はぶれない。このぶれない、ということは一定期間、数字を上げることよりも重要である。これはどの分野においても該当する。昨今、ぶれない政治家が渇望されているようだが、政治家もしかり。そして人間ばかりでない。機械もでもそうだ。あるときは爆発的な力を発揮するマシーン、というのがあったとしたら、そんなものはかえって信用が置けない。常に同じペースで同じ基準の製品を作り続けるマシーンこそが優秀な機械なのだ。
 ところが、これがなかなか難しい。とくに対人関係においては困難を極める。営業なんてものは、ほとんど100%が対人関係の連続である。この日々の業務において、常に同じペースでいられることが、どれほど難しいことか。
 普通の人は、日々変化する。腰が据わっていない。相手によって、相手の機嫌によって、こちらも機嫌が良くなったり、悪くなったり。すると回りもそれに引きずられて、精神状態が不安定になる。ところが常に安定した対応ができれば、周りも安定するのだ。
 神様はまさに周りを安定させるスキルを持っていた。激昂する相手に対して、常にニコニコ。怒りはそう持続できるものでは、ない。やがて神様の術中にはまり、相手は神様のペースに落ち着く。やたらと調子の良い人というのもいるが、これは曲者のことが多い。このようなハイテンションの相手に対しても、神様は常に泰然自若、決して軽はずみな行為には出ない。
 だから神様は結構、チャンスを逃す。営業には潮目があり、何をやってもうまくゆくときというものがある。しかし神様は、この潮目にも悠然と構える。その結果、乗り遅れることも結構、ある。
 やたら熱い上司が自分の上に来ることもある。そんなとき、普通の人は上司のペースに巻き込まれて、無意味な残業したりする。こんな場合も、神様は自分のペースを決して崩さない。自分が決めた終業時間には、ニコヤカに背広を翻して帰っていく。
 これが神の所業だ。

 金曜日、神様は拙宅に泊まっていった。最初から泊まっていく予定だったので、じっくり腰を据えて二人で飲んだ。相変わらず、神様は泰然自若であった。
 談論風発、口角泡を飛ばし話が盛り上がったことは言うまでもない。しかし今、思い返してみると、好き勝手なことを言ったのは私だけで、神様は常にニコヤカに受身であったように思う。神様の柔らかな受身の術中にはまり、しこたま飲み、最後はすっかり酔っ払ってしまった。
 翌朝、二日酔いで目が覚めると、神様はすでに起床されていた。酒はまったく残っていないとのことであった。神様は酒にも強いのだった。

英語力


 午前中いっぱい財務レポートの英文和訳をしていた。ページ数9ページ。午前中で終了することができた。どうしたことだろう。最初のころは3,4日もかかっていたのに。もしかして実力がアップしたのだろうか。それにしても早すぎる。不思議に思い、過去の仕事を確認した(最近、仕事がこなかったので、忘れていた)。
 結果は分量が少なかったからだった。多いときは20ページほどあった。それが今回は9ページ。早くできたわけである。
 それでも、やっぱりだ。早くなった気がする。少しは慣れてきたということだろうか。

 一昨日、昨日は和文英訳の仕事を一日中していた。6ページほどあり、結構な分量である。翻訳会社に何日でできるかと尋ねられ、3日欲しいと答えたのだが、2日で仕上げてくれと依頼された。心配だったが受けざるを得なかった。フリーの翻訳者は立場が弱い。
 2日間は集中して英訳に取り組んだ。結果、なんとか仕上げることができた。

 最近は英語に触れることが楽しい。だから進んで触れることにしている。テレビではCNNかアメリカのドラマを英語で聞いている。新聞はニューヨークタイムスを読んでいる(産経も読んでるけど)。本はペーパーバックを読む。当然、仕事は英語。
 これだけ英語に触れ続けていることは、留学時代でもあまりなかった。留学中は日本人の友人と話す機会が多かったし、読売新聞の衛星版が大学の図書館にあったので、毎日読んでいた。
 留学時代もこれぐらい集中して英語に取り組んでいればよかった。きっと、もう少しましな英語使いになれていただろう。

 最近、英語が楽しくなった理由を考えてみた。会社を辞めて2年半、翻訳をたらたらとやってきた。その累積が沸点を超えたのだろうか。きっとそれもあるかもしれない。でも他に思い当たることがある。
 この夏は仕事がまったくなかった。8月なんてゼロだ。とても焦って、アルバイト先を探したほどだ。
 あんまり暇なので英語の勉強をした。古本屋で買ってきた大学受験の参考書を熟読した。以前買ってあった単語本の最上級カテゴリーを覚えまくった。ネットで購入したTOEIC向けの英作文を最初から覚えた(まだ途中だけど)。図書館で英語関係の新書を借りてきて、何冊か読んだ。これらがよかったような気がする。その結果、読解力が高まったのだと思う。
 やっぱり文法とボキャブラリーは基本である。最近の英語教育では文法よりも会話を重視するようだが。これって一部の帰国子女のバイリンガルか、英語を本気で勉強したことがない人の発想だろう。日本で生活している学生にとっては、かえって効率が悪いのに。

 英語力が伸びたように思うと、偉そうに書いたが、今の英語力は学校で例えると小学生レベルだ。この表現はきっと誤解を生むだろう。ネイティブの小学生レベルという意味ではない。
 甲野善紀が自分の武道は中学生レベルだと言っていたことになぞらえたのだ。甲野善紀から見て、黒田鉄山の祖父の黒田泰治や鹿島神流の國井善弥は大学院生クラス、江戸時代の剣豪、松林左馬助無雲なんかはノーベル賞クラスなのだそうだ。

 そういう意味で英語力のノーベル賞クラスといえば、新渡戸稲造、岡倉天心、鈴木大拙あたりだろう。この人たちは、まさに仰ぎ見る存在である。彼らと比較すれば、自分などはひょっとして小学生レベルといってもおこがましいかもしれない。

クジラ汁を作る


 Kozawanさんから夕顔(冬瓜みたいな巨大なウリ)を5つもらった。3つは食べたが、まだ2つ残っている。夕顔のレシピを検索していて「クジラ汁」というものの存在を知った。クジラと夕顔の味噌汁だ。
 クジラ汁は新潟など日本海側で食べる夏の滋養食だそうだ。我々がウナギの蒲焼を真夏に好んで食べるようなものらしい。
 そういえばkozawanさんは長野だ。長野と新潟は隣接している。新潟でも夕顔を作るのだろう。夕顔はこちらのスーパーで見たことはない。しかし長野では、どこの店でも置いていた。新潟もきっとそうなのだろう。

 クジラは最近、凝っている横須賀JAの「すがなごっそ」へ行く途中で見つけたマグロ屋で売っている。そこではいつも冷凍マグロを飼うのだが、クジラの存在も知っていた。以前から食べたいと思っていた。

 クジラは好物だ。私の子供の頃は結構、クジラは食卓に上がった。牛(ギューと読んでください、ウシではありません)が頻繁に食卓に上がるようになったのは、中学校の頃からで、それ以前はクジラの方の比率が牛よりも高かった。
 給食でも出ることがあった。ちょっと癖があり、苦手な子供もいたが、私は好んで食べた。
 最近は食べることがほとんどなくなったが、あれば食べたい。

 クジラ汁で使うのは皮の下の脂身である。たまたま今回はマグロ屋に脂身がひとつしか置いてなかった。ひとつでも結構な量だったが、刺身でも食べたかったので、赤身も買う。
 クジラの脂身、赤身と夕顔が主人公となり、そこにゴボウ、タマネギ、ジャガイモ、コンニャクが脇を固める。味噌を入れ、椀によそい、最後はネギを刻んでトッピングする。
 ちょっと臭みがあるが、濃厚な味である。少しトン汁と似ている。これだけでご飯を食べられる。
 赤身と脂身は薄くスライスして、刺身にもする。赤身と脂身を一対として一緒に食べる方法をマグロ屋から教わり、それを試す。うまい。赤身がトロとなる。

 夏は終わりを告げようとしているが、また夏が訪れたら、再チャレンジしてみよう。夏の楽しみがひとつ増えた。
 クジラと夕顔が一緒に手に入る方、お勧めですよ。そんな幸運な方は、あまりいないかもしれませんが。

 そうそう、夕顔はもうひとつ残っているのだ。今週中もまた何かを作ろう。これもまた、楽しみ。

本格的新学期が始まる


 9月1日から新学期は始まっているが、1日は始業式だったし、2日は金曜日だったし。本日からが本格的な新学期のスタートといえる。
 我が家もいよいよ普段の生活に戻った感がある。
 起床は4時半。もう日の出が遅くなり始めていて、その時間は暗い。4時半の起床時に明るいのは1年のうち、3ヶ月ぐらいのものだ。朝、起きた時点で明るいのは気持ちがよいが、暗いのは寂しい。寂しい季節の到来でもある。
 朝食を作るのは私の仕事だ。かみさんは出かける支度に専念してもらう。5時45分、かみさんが電動自転車に乗って出勤。さてこれからが朝の仕事だ。
 食器を洗う。猫のトイレを掃除する。家中のゴミ箱を回収して、本日は可燃ごみの収集日なので、ゴミを出す。髭をカットして、髪をセット。トイレに入って、これだけで6時を回っていた。それから昨日、室内で干した洗濯物を畳んで、本日の洗濯物を今日は外に干す。プランターを覗くと、パセリに虫が付いていたので、一匹ずつ摘んで殺す。プランターでも小さな農業みたいなもので、こうした作業をしていると、改めて農業を営むということは他の命を絶つことなのだと思い知らされる。農家の方々が無農薬なんて、不可能だという声を聞くことがあるが、そうなのだろう。
 まだもう少し、朝の仕事はある。室内の植物への水遣りだ。2階の客間、2階の寝室窓枠外の花、1階のポトスに水を遣る。ぬか味噌をかき混ぜて、コーヒーを入れて、これでようやく終わりだ。
 今、8時ちょうど。5時45分から初めて、約2時間かかった。これから毎朝、これを続ける。結構な労働である。
 ちょっと前までは、この後散歩に出ていた。散歩は1時間程度だから、散歩をあわせると3時間。朝の3時間は貴重なので、優先順位として散歩を削除することにした。なので8時から机に向かえる。

 9月は仕事面でも忙しくなったとちょっと前に書いた。あれからまた仕事の依頼が来た。翻訳者ディレクトリーを見た、某外資系証券会社からのものだ。9月はすでに手一杯の状況だが、できれば受けたい。金融系はぜひ鍛えたい分野である。一応、もと銀行員である(1年間だけだけど)。アメリカの大学でビジネスの修士を取っている。できて当たり前なのだ。でもまだまだ。だから鍛えたい。専門分野のひとつにしたい。
 もうひとつ。仕事ではないが、やらなくてはならないことがあった。藤岡先生の翻訳セミナーの宿題を忘れていたのだ。実は締め切りが9月3日であった。すっかり失念していた。督促のメールが来て、初めて気が付いた。7日まで延期してもらえることになったので、本日はこれに取り掛かる。

 今日も予報では30度近くまで上がるという。夏大好き男ではあるが、今年の蒸し暑い夏はもう、お腹一杯という感じである。早く涼しくなって欲しい。窓からの涼やかな風を受けて、仕事がしたい。現在は扇風機を起動中である。

朝鮮学校の高校授業料無償化のややこしさ


 菅首相が朝鮮学校の高校授業料無償化の審議手続きを再開するよう指示したことに対し、自民党が即時撤回を求める決議をまとめたと、今日の産経に書いてあった。
 ちょっとこのことについて調べてみると、どうも“無償化”という表現は正しくないことが分った。実際には無償化ではなくて、一部支援が正しいようだ。無償化という表現で記事を読んできたので、どうも腑に落ちない点があったのだが、調べてあらかた解明した。

 以前から気になっていたが、なぜ“高校”なのだろうか。ということは朝鮮学校の小中学校はすでに無料化されているのだろうか。これも調べてみた。やはり無料化はされていない。ではなぜ朝鮮高校なのか。

 話はややこしいのだが、ざっくりと説明する。「公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律」という長い名称の法律が2010年4月に施行された。また「公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則」という、これまた長たらしい規則も同時に発表された。
 このふたつの法律と規則は公立高校の授業料を払えない、あるいは払わない家庭に対する支援が目的である。公立の小中学校はもとから無償なので、高校にターゲットを絞り、このような法律ができたのだ。
 実はこの法律、規則は外国人学校も就学金支援の対象としている。このことにより、話はややこしくなった。外国人学校はほとんどの場合、文科省認可ではないので有料(日本の私立も文科省認可でも有料だが、補助金を受けている)である。たとえば朝鮮学校の小中学校(日本の教育制度にあてはめた場合の学齢で)は当然、有料である。しかし今回の支援の対象とはなっていない。なぜなら今回の法律は、高校を対象としたものだからだ。
 へんな感じである。小中学校は今までどおり有料で、高校のみ支援をするのだ。さらに面倒くさいのは、高校も実際は一部支援にもかかわらずに、「無償化」という文字が行きかっているために、小中学校は有料で高校は無料というイメージになっていることだ。
 なんとなく釈然としない気持ちで、ニュースに触れていた人は少なくないのではないか。

 もうひとつ疑問があったのだが、アメリカンスクールはどうなるのだろうか。アメリカンスクールの授業料が高いことは有名だ。なんでも年間2,3百万かかるそうだ。私立大学よりも高い。それが無料化されたなら。これこそ、えらいこっちゃである。
 これも調べてみた。こちらはどうも支援対象になるようだ。それはアメリカンスクールは上記法律における外国人学校に含まれるからだ。
 アメリカンスクールの授業料は超高額なので、無料となることはないだろう。しかし支援の対象となるので、低額化する可能性はある。
 今でもアメリカンスクールに子供を通わせる日本人家庭は多い。今後、この数はさらに増えるかもしれない。
 
 朝鮮学校は外国人学校に含まれない。なぜなら上記規則の第一条の定義から外れるからだ。それで、今回もめているのだ。最初から外国人学校の定義に入っていれば、あえて特例とすることはなかった。ようは朝鮮学校自体の問題なのだ。日本の法律に則って運営していれば、最初から問題化されることはなかった。ちなみに韓国人学校、こちらはほとんどの場合、定義の範囲内に入り、外国人学校となる。

 やっぱり、ややこしい話である。

プロフィール

山本 拓也

Author:山本 拓也
職業:翻訳者
過去の職歴:HSBCを経て産経新聞社
家族:妻、フクちゃん(猫オス 3歳)、大吉くん(猫オス 2歳)
住まい:逗子

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