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眼鏡を作る


 眼鏡を作った。2つ目だ。一つ目は老眼鏡、そして今回は近眼の眼鏡だ。普通の人とは順序が逆かもしれない。
 最近、遠くが霞むようになった。電車に乗って、中吊り広告が読めない。自宅近くの丘に登って、遠望しても、稜線が霞む。そして何より、夜自動車に乗ると、標識が見えないことがある。
 中吊り広告は見えなくても、残念だが、諦めが付く。しかし、標識が読めないことは、残念を通り越して、危険である。

 検査の結果は、右目は1.2で左目が0.5だった。思ったよりも悪くなっていなかった。これだと、自動車の運転を裸眼でもできる。しかし、不自由は感じているのだから、作ることにした。

 老眼鏡を買ったところと同じ眼鏡屋であつらえた。そこには私のカルテが残っていて、老眼鏡を買った日にちが記載されていた。2006年だった。あれからもう、6年も経ったのか。

 これからは普段は裸眼、車を運転するときは近眼用、本を読むときは老眼鏡の三刀流になる。

 本日は私の誕生日だ。49歳になった。半世紀近くも使っていると、色々とがたが来るものだ。目歯マラというが、どれもガタガタだ。
 非常に健康というタイプではなかったが、それなりに若い頃は丈夫であった。目はずっと2,0をキープしていたし、歯は奥歯が全部虫歯になったが、治療を済ませ、不自由は感じていなかった。最後のやつは、これは結構、丈夫であった。しかし使い方を間違えたのか、今はそこそこという感じである。

 どのパーツも大事に使って、長持ちをさせなくてはならない。

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うどん屋「とく彦」探訪


 直近のできごとを記す。
 金曜日はジムへ行った。ジムの復活を遂げてから2週間が過ぎたので、少し本格的に取り組んでみた。重量は軽めだが、回数をマックス限界までトライした。
 何事も限界を超えるのは苦しい。ウエイトトレーニングの場合は重量と回数で調整をして、限界に挑戦する。例えば5回しか持ち上がらないウエイトにして、6回に挑戦する。これは重量を重くした場合だ。今回、僕が試みたのは、10回程度ならそれほど苦もなく持ち上がる重量、つまり比較的に軽いウエイトでのワークアウトだ。それをフォームを整えて、ゆっくりとリフトしてゆっくりと降ろす。
 これをやると普段は10回は軽く持ち上がるとしても、8回ぐらいでかなりきつくなる。それを無理して10回ぐらい、あるいはまだ持ち上がりそうなら、もっと多く、とにかく限界まで続ける。
 僕は今、週に2回ほどワークアウトをしている。本当は3、4回が理想だが、時間が取れない。週に2回しかトレーニングができないならば、1回のトレーニングで、全種目をこなさなくてならない。筋肉は3日程度で疲労が回復する。それ以内だと、まだ筋肉が回復しておらず、トレーニングをするとかえって筋肉を傷める。また5日以上になると、筋肉の強化が図れない。だから3,4日に一度、同じ筋肉のワークアウトが必要となる。

 金曜は久しぶりに、かなり限界まで追い込んだので、筋肉痛になった。これが好きだ。何度も書いているが。
 限界を超えた時点も喜びがあるが、ワークアウトの場合、それが筋肉痛となって現れるのがよい。限界を超えた明確な証拠だ。そして、確実に筋肉は強化される。

 仕事もきっと同じだろう。限界を超えない仕事を続けていると、能力のアップは図れない。ずっと同じ実力で推移してしまう。ところが、限界を超えると確実に力は伸びる。しかし、辛い。
 辛いけど、達成感はある。しかし筋肉痛のような、明確な証拠がすぐに現れるわけではない。時間をかけて、徐々に成果となって出現する。
 僕は老人になっても驚異的な仕事を続けた人に心から敬意を抱く。たとえば白川静や鈴木大拙。
 こうした偉人達は、常に限界を超える仕事を続けていたのだろう。だから90歳を過ぎても、力が衰えることなく、いや若い頃以上の仕事を創出することができたのだろう。

 さて、土曜日。この日は夕食を外に食べに行った。向かった場所は鎌倉の「とく彦」という名のうどん屋だ。これが大変な店だった。
 まず場所が分りにくい。鶴岡八幡宮の裏の住宅街にあるのだが、まったくの住宅街のさらに深奥にある。途中に看板などはない。地図を片手に向かい、だいたいの場所は把握できているはずだったのだが、たどり着けなかった。10分程度、あたりをさ迷い歩き、ようやく見つけることができた。普通の民家の表札の場所に、小さな看板が出ていた。
 店の中も変っていた。これも普通の民家だ。なんだか親戚の家に遊びに来た感覚だ。古い柱や天井は無数の傷や滲みが目に付く。障子は穴が開いている。
 しかし驚きはこうした外面的なことばかりではなかった。出てきた料理は、それ以上に意表をついた。盛り付けはあまり上手とはいえない。これも家庭料理のようだ。しかし味が。これはまったくのプロによる作品だった。夜は3000円のコースしかないのだが、そのコースで出てきた料理の品目は30種にもなっただろうか。どれも旨い。上品な薄味で、こくがある。うどん屋なので、うどんがでる。それも3種類も。
 店にはかみさんとふたりででかけた。僕ら二人はかなりの食いしん坊で、普通のコースだと物足りないことが多いのだが。この店は、動けなくなるほど満腹になった。うまくてボリュームがあって。とても良い店を見つけた。
 もうひとつ、意表を突かれたこと。それは店の主人だ。非常にユニークな人だった。旨い店の主人でユニークとなると、頑固親父を想像するだろうが、この人はそういうユニークさではない。温厚そうで好人物であることが一目で分る。でもちょっと変っている。仕事にかける意気込みが特別なのかもしれない。
 外見は棟方志功であった。その作品(料理)も棟方志功並といったら、ちょっと言いすぎだろうか。
 あ、そうだ、そうだ。うどん屋に行ったのは、僕の誕生日だったからだ。31日が誕生日だが、週末ということで、土曜にでかけたのだ。49歳である。

 日曜は寝坊をしてしまい、文京の道場は休み、逗子の道場で合気道の稽古をする。
 

『発達障害の豊かな世界』 by 杉山登志郎


 寒い。さむい。サムイ。カムイ。
 カムイは関係ないけど、カタカナで書くと似ている。これも関係ないことか。

 本当に寒いですね。昨日は夜、合気道の稽古に行った。稽古場は暖房がない。暖房がないことに不満を感じたことはない。でも昨日は初めて、暖房が欲しいと思った。
 最近、足の指が腫れていることに気づいた。そしてかゆい。何でだろうと、観察すると、どうもシモヤケのようだ。いつなったのだか分からない。寒くて、足が冷たくて。それでいつかできたのだろう。

 昨日の稽古はとても辛かった。畳が氷のように冷たくて、その上をシモヤケの足で触れる。最初は痛みを感じた。しかしそのうちに足が冷え切って、感覚がなくなった。危険な徴候だ。足に感覚がないと、足の指を怪我する可能性が高まる。捻っても感じないのだから。
 その後、足全体が痛みを感じた。騙し騙し稽古を続けたが、投げられた後に1、2度、立ち上がることができないことがあった。周りの人が、心配をして声を掛けてくれた。

 最近、僕の手足は冷たい。以前はむしろ、手足が熱いタイプだった。「手が熱いね」と、よく言われた。それが今では、完全な末端冷え性だ。歳のせいだろうか。
 稽古の後に風呂に入ったら、足が痛くて、お湯に入れなかった。しばらく足を湯から出して、体だけ温めた。足の先をマッサージしたり、お湯をかけたりして、徐々に足先の体温を高めていった。ようやく足をお湯に入れられたのは風呂に入ってから20分も過ぎたころだ。
 足は風呂で暖まったが、痛みは残った。今も痛い。これって、凍傷じゃ、ないだろうね。やだよ、そんなの。

 いまさっき、一冊読み終えた。タイトルは「発達障害の豊かな世界」。著者は杉山登志郎。
 翻訳の関係でアスペルガー症候群について調べていた。かみさんは大学院で教育学を勉強していて、精神の発達障害のことも詳しい。それでアスペルガーについて、色々教えてもらったのだが、どうも高機能自閉症との違いが分らない。そこで本を貸してもらった。それが、この本だ。
 結果、ふたつの違いが分ったかって? 分ったようで、分らないような。とても区別が難しい2つの病態である。
 さて、ところがこの本はアスペルガーと高機能自閉症についてだけ書いてあるわけではない。高機能以外の自閉症やダウン症、ADHD、XYYの染色体異常、トゥーレット症候群など。児童が抱える精神疾患のほぼすべてについて症例が紹介され、解説されている。
 著者の杉山氏は現在、静岡大学教育学部教授であるが、児童精神科の臨床医でもある。豊富な事例を扱っている。
 精神の発達不全の患児の心の中は、まさに“豊かな世界”で、我々には不思議なワンダーランドだ。いくつも興味深い事例が紹介されているが、その中でもとくに驚かされたのが本の冒頭に書かれていた事例だ。

 てる君という男性は塗装会社に勤めている重度の自閉症患者だ。彼がある日を境に絵を描き始めた。会社から帰宅後にほぼ毎日、色鉛筆を使って。最初は家族も何の絵だか分らなかった。とろこがしばらくして、それらの絵がある一日の連続であることが分ってきた。
 絵は夕方の入浴シーンから始まる。自分が見た風呂場の様子、そして上から横から、俯瞰した自分の入浴シーン。布団に入り、眠っている様子。家の外には天使がいる。
 翌日の朝食、お母さんと自転車に乗って幼稚園へ行く姿。プールで遊ぶ自分。
 こうした絵が延々と続くのだ。それらは直線的な時系列で描かれる。後戻りをすることはない。
 いまだてる君は書き続けているという。すでに千数百枚になった。
 てる君はすでに20代の大人だが、それが幼稚園時代のある一日の様子を克明に覚えているのだ。お母さんは「これだけ昔のことを覚えているんだから、今、覚えられなくてもしかたないね」と笑ったというが、不思議な世界だ。

 前にこのブログでも書いたことがある、自閉症患者であって大学教授、さらに有能なビジネスマンでもあるテンプル・グランディンを日本に招待したことも書かれている。
 講演を依頼したのだが、講演の中でグランディンは二人の世界的に著名な人間が、アスペルガー症候群でないかとして紹介している。誰だと思いますか。知ればきっと、びっくりしますよ。

 答えはアインシュタインとビル・ゲーツ。
 発達障害の世界はまさにワンダーランドだ。

『イスラームから見た「世界史」』、『本当に宇宙はひとつなのか』


 最近、読んだ本について書く。いつも、読んだ本をブログに記載しようと思うのだが、つい忘れてしまう。本はたいてい図書館で借りているので、返してしまい手元にはない。それで、何を読んだのかさえ忘れてしまう。


◆ イスラームから見た「世界史」 タミム・アンサーリー(著)

 アメリカ在住のライターで、アフガニスタン人であるタミム・アンサーリーが、イスラム世界から見た世界史を綴る。
 この本を読んでいかに自分がイスラム世界について知らなかったのかを知った。イエス・キリストの生涯は何となく知ってはいたが、モハメッドについては、まったくの無知であった。シーア派とスンニ派の名称と勢力図は把握していたが、その歴史と違いについては分かっていなかった。
 柄谷行人が朝日新聞でこの本の書評を書いている。そこに「私は本書から、これまで宗教学の本を読んでわからなかったイスラム教の諸派が、具体的にどういうものなのかを学んだ。また、モンゴル帝国の崩壊というと、われわれは東アジアで、元のあとの明帝国を考えてしまうが、それは同時代の西アジアで、三大イスラム帝国(オスマン、イラン、ムガール)の形成に帰結している。それらが、近代ヨーロッパの支配の下で変形され、現在のような多数の国民国家に分節されてきたのである。」と書かれている。あの柄谷すら不明であるのだから、僕ごときが知らないのは当然なのかもしれないが。
 知らないということを知らされた本である。

 本の中でとくに記憶に残っているところがある。ひとつは、第一世界大戦はヨーロッパにとってはグレートワー(大戦)であったが、ミドルワールド(中東のこと)にとっては、ヨーロッパの内戦に過ぎなかったという意味の箇所だ。
 日本人が同じ感覚を持ってもおかしくない。実際におもに戦火が交えられたのは、ヨーロッパ大陸なのだから。
 たしかに日本は第一世界大戦に参戦した当事国であった。距離感が多少、近いのかも知れない。しかし後世の我々は、「内戦」と分析できる、客観性も持っていても良いのではなかろうか。
 もうひとつは、日本の記述が少ない。本当に少ない。だって、1箇所だけだもの。近代においては、日本や中国、韓国などが実力をつけて来て、世界の勢力図が変った、という箇所だけだ。実際には中国、韓国と同列には扱っていない。ちょっと前にでて、その後、その他のアジア諸国も続いた、といった具合だ。
 ちなみに中国はもうちょっと、登場する。インドやモンゴルは、うんと登場する。
 ヨーロッパから見た日本も遠いいが、中東から見ても遠いいのだ、日本は。


 ◆宇宙は本当にひとつなのか 村山 斉 (著)

 宇宙についての最新の知見が網羅されている。これを読めば、現代の宇宙物理学では、宇宙の歴史をどう把握しているのか、宇宙の構造をどう理解しているのかが一目で分る。
 非常に新しい考察が述べられていて、以前に読んだ、この手の本とは随分と違った見解が書かれている。以前、読んだというのは10年以上前だ。
 あの当時はニュートリノだった。その存在が認められたことだけで、宇宙に対する認識の大転換だった。それが今は闇黒物質と闇黒エネルギーだ。
 宇宙を構成している物質のうち、我々の目で見ることができるのはわずか4%に過ぎない。残りの96%は、見ることも触れることもできない闇黒物質と闇黒エネルギーだ。
 また我々が認識できるのは4次元以下の世界だけだ。3次元とは、前後、左右、そして上下の立体の世界で、4次元はそこに時間軸が加わる。しかし宇宙には、もっとずっと多くの次元が存在するらしい。その数は、う~んと、本には書いてあったが、忘れた。とにかく沢山だ。
 
 僕は理科系の本が正直いって、苦手である。頭にすんなりと入ってこない。じっくり読めば、少しは理解が深まるのだろうが、またそれが理科系においては苦手だ。
 この本は文系人間でも比較的、あくまでも比較的だが、すんなりと複雑な宇宙の概念を理解することができる。
 ちょっと苦戦したが、読み終わった後は、読んでよかったと思った本だ。

今日、すること


 昨日の一日を紹介する。
 現在、抱えている仕事は、財務レポートが2本、業界団体から依頼を受けたレポートが2本(1本は長文、1本はかなりの長文)、業界団体のメルマが向けのニュース原稿、の5つである。

 昨日は朝4時半に起床。すぐに朝食の支度をして、妻を送り出したのが5時45分。それから食器を洗い、洗濯、猫の餌やり、猫トイレの掃除。自分の洗顔、髭と髪の手入れ。やっと朝の仕事が終わって、コーヒーを入れて、書斎に入ったのが7時。
 さて、ようやく仕事に取り掛かれる。まずはニュース原稿の資料作成を朝の7時から9時まで。9時から11時までは業界団体のレポートを翻訳。11時から11時半までは昼食。11時半から1時半まで、またレポート。1時半に家を出て、スポーツジムへ。3時まで汗を流して、帰りはスーパーで夕食の材料を購入。3時半から5時半まで財務レポート。5時半から7時まで、洗濯物を取り込み、畳んで、しまって、夕飯を作って、食事。7時半まで風呂に入り、7時半から9時まで本を読んだ。9時前に妻が帰ってきてから、妻の夕食を用意し、少し話なんかをして9時半。妻は風呂に入り、その後はまた読書。就寝は10時半であった。
 改めて振り返り、仕事時間を累計すると、7時間。少ないじゃ、ないか。まずいねえ。

 昨日はジムに行ったが、それ以外は自分の感覚としては、仕事に没頭していたはずなのだが。それで7時間。何とかしなくては。
 しかし、これでもしかしたら精一杯かもしれない。昨日は、テレビは朝、天気予報を確認しただけで、視聴時間はほぼゼロだった。朝4時半に起床して10時半に就寝だから、睡眠時間は6時間だ。これ以上、睡眠時間を削ることはできない。寝ないと駄目な体質なのだ。
 寝ている以外は、主に次の4つを行っていた。仕事、家事(自分の食事、風呂なども含む)、読書、ジム。
 この中で意外と時間を食うのが家事である。家事だけで、計算すると6時間ぐらい、かかっている。仕事時間と変らない。しかし、これの削減が難しい。たぶん、不可能だ。今でさえ、相当効率化を図っている。
 もうひとつ、時間を取っているのが、読書だ。たぶん、3,4時間は使っている。しかし、これも削ることは容易ではない。なぜなら、これは将来の仕事への足がかりであり、さらに言えば僕の生きがいでもある。本当は、もっと読みたい。サラリーマンを辞めた理由のひとつは、「もっと本を読みたい、」があった。
 残るはジムか。でもなぁ。ジムは週に2日程度しか行ってないし、これは貴重な息抜きだし。一日、ずーっと仕事と読書で外に出ず、会話は猫とのみ(妻ともするね、そういえば)。やはり体を動かすことが必要である。だから、これも削れない。
 昨日は、そんなこんなで、ブログを書かなかった。ブログも僕の生活の中ではプライオリティが高い項目だ。でも、上記の4つは、まさにレーゾンデートルであり、それに比べると、ブログは若干優先順位が下がる。その犠牲となったのだ。

 昨日、ひとつ仕事が増えた。藤岡先生が来月の初めに、翻訳エージェントへ連れて行ってくださることとなった。できれば、それまでにお預かりしている企画の、企画書を仕上げたい。正直、あと一週間で、企画書を1本書くのは難しい。だって原書だって、まだ半分しか読んでないのだ。試訳を1章程度、付けなくてはならない。これだけに専念すれば、多分可能だろうが、この通り、他の仕事がある(なけりゃ、困るのだけど)。
 先生は「企画書はいいですよ」と仰ってくださった。多分、お言葉に甘えることになるだろう。

 いつも思うのだが、人生は“選択”の積み重ねだ。朝、何時に起きるのか、夜は何時に寝るのかも選択。仕事をするのか、遊ぶのかも選択。仕事は、何をするのかも選択。その仕事をどのように仕上げるのかも選択。
 当然、外的な環境や偶然にも影響を受けるが、基本的には自分の思考による選択で、人生は航路を決める。
 果たして今の僕の生活は、僕の目指す方向に僕を導くのだろうか。大切なことを忘れていないだろうか。忙しさにかまけている様で、本当に必要なことを行っているのだろうか。

 「この秋は、雨か嵐か知らねども、今日のつとめに田草取るなり」
 二宮尊徳の歌だ。

 目の前の田草を取り続けるしかない。

古ギャルファッション


 ある場所で、たまに見かける女性がいる。髪は軽くブラウンに染め、ボブのワンレングス。少し大きめなTシャツに、足元はスパッツでキメている。妙齢の女性だ
 ちょっと勝気そうで綺麗な人だ。きっと若い頃は相当にモテただんろう。そんな雰囲気をオーラのようにかもし出している。
 でもちょっと、へん。なんか、へん。綺麗なんだけど、へん。おしゃれっぽいけど、へん。
 何でだろうと、考えてみた。そして、思いついた。
 物持ちが良い人なのかもしれない。質の良い服なのかもしれない。大切に使っているのだろう。
 そう、ファッションが古いのだ。
 冒頭に述べた髪形も、オシャレなんだけど、古臭い。きっと自慢の髪型で、多くの男性から、「その髪型、似合うよ」と囁かれたのだろう。しかし、悲しいかな、全体的にオールド・ファッションなのだ。
 僕は女性のファッションについては、ほとんど知らない。でも何となく、分る。「Out of Date」だな、ということは。
 
 もうひとり、よく行くスーパーで見かける、オシャレな妙齢の女性がいる。年齢は先の人よりも少し若いぐらい。50歳代だと思う。この人も美人だ。
 いつもは制服を着ている。でも髪型やメークなんかで、オシャレなんだろうと思っていた。
 スーパーの前を歩いていると、オシャレな服装の女性が前を歩いていた。後姿から推察するところ、20代。服装の詳細は覚えていないが、ブーツだけは覚えている。何と言うのかな。名称は知らないけど、よく若い子が履いているタイプのブーツだ。
 前を歩いている女性がくるりと、踵を返した。そして顔を僕の正面に向けた。そして気づいた。あのレジの人だ。彼女は忘れ物でもしたのか、スーパーの裏口に駆けて行った。
 その後姿を見ながら、違和感を持った。さっきの後姿と、振り返ったときの顔。なんか、おかしい。バランスが、へん。

 それにしても女性のファッションというのは、難しいものですな。


本当に雪が降った


 外は雪だ。昨日、天気についてのブログを書いたら、雪が降った。
 雪が降れば、小鳥はどうして耐え過ごすのだろう。そういう意味の記事を書いたら、本当に降ってしまった。僕の普段の行いの悪さが、このような結果を招いてしまったのなら、動物たちに申し訳ないことをしてしまった。

 申し訳ないことをしたついでに、薄情な事実を白状しよう。
 昨日は記事を書いていて、気持ちが入り込み、情緒的な内容になった。しかし僕は、本当はもっと薄情な男だ。いつも雪が降るたびに、センチメンタルな気持ちになるわけではない。寒さに震える小鳥に思いを至らすのは、ごくたまにだ。
 普段は小鳥のことなど、考えることはめったにない。雪が降ってもだ。
 冬の晴れた日が好きだと書いた。でも本当は、雪の日も好きだ。どうしてかって。理由なんてない。ただ好きなのだ。子供と一緒だ。

 今、このブログを書きながら、外を眺める。ボタン雪が舞っている。前方を見下ろす家々の屋根は白くぬりこめられている。とてもきれいだ。

 そして、やはり鳥はいない。普段ならトンビが空を舞っている。小鳥が庭の木で遊んでいる。カラスが電線で騒いでいる。でもいない。ただ見えるのは、降りつもる雪だけだ。

 やっぱり考えてしまう。鳥たちは、どこで雪を過ごしているのだろうか。きっと凍えているのだろうな。

冬の天気


 晴れの日が続いている。南関東は30何日か連続で、乾燥注意報が出ているそうだ。おかげで野菜が値上がりしている。農家の方は大変だろう。
 農家の方には申し訳ないが、冬の晴れた日が好きだ。冬は空気が澄んでいる。近くの丘を登れば、驚くほど大きな富士山が望める。

 冬の日に雨や雪が降ると気になることがある。野生の動物や鳥についてだ。
 雨や雪の日は彼らの姿をあまり見ない。どこにいるのだろうか。僕ら人間は家の中に逃げ込むことができる。部屋に暖房を入れれば温かく、むしろ快適である。寒い日の暖かい部屋は、心身を和ませる。
 ところが動物や鳥は逃げ場がない。ただ人間の目に留まらない場所にいるというだけで、外にいることには変わりがない。きっと穴の中や木の陰で、寒さに耐えているのだろう。
 中には寒さのために命を落とす動物もいるに違いない。雪が降れば、その数はきっと増える。

 以前、バーンド・ハインリッチという米国の学者の「サマー・ワールド」という本を読んだ。その中で、次のような話があった。
 渡り鳥についての話だ。北米の春にやってくる、ある渡り鳥は、渡りの時期の選択で、運命が大きく変る。
 バーンド先生が観察していたのはメイン州の森だ。メインは寒い土地だ。冬には雪が積もり、気温は零下20度以下まで下がる。そこに春になると、その渡り鳥がやってくる。
 誰よりも早く渡ってくれば、恩恵を受けられる。虫が豊富にいるのだ。さらにもうひとつ、メリットがある。良い巣穴を確保できることだ。その鳥は木の洞を巣とする。
 春は恋の季節だ。メインの森でパートナーを見つけ、子供を育てる。その際に、一等地に巣を確保してあるオス鳥は、メスからモテる。虫を沢山食べて、体力も充実している。りっぱな家も確保した。女の子は、呼ばなくても向うからやってくるというものだ。
 では、なるべく早く渡ってくればいいんだなと考える輩は、大きな代償を払わせられるかもしれない。急いてはことを仕損じる、だ。
 その鳥の渡りの時期はほぼ一定している。早く来る鳥と遅く来る鳥の時期の差は、わずか3週間程度である。3週間前に来て、お腹を一杯にして、良い家を見つけて、女の子を待つ。予定通りに行けば、初夏には可愛い子供が生まれる。
 しかし予定はあくまでも未定である。
 メインの春は天候が不安定だ。初夏のような暖かな日もあれば、冬のような寒い日も来る。寒さだけなら我慢ができる。恐ろしいのは雪である。
 その鳥は春から夏の鳥で、雪に対して耐性がない。雪が体に触れれば、一晩で死が訪れる。
 メインの森では、季節はずれの遅い雪が降ると、小さな死体が転々と雪の上に転がるという。

 その本を読んでからだ。逗子の小鳥のことが気になるようになったのは。逗子は暖かい土地だ。雪が降ることはあまりない。そんな暖かな気候に慣れた小鳥は、雪の日をどう過ごすのだろうか。雪の夜は、無事に朝を迎えることができるのだろうか。
 きっと雪が降っても大抵の小鳥は、凍死することはないだろう。そうは思っていても、雪の日は落ち着かず、晴れの日はホッとする。

 「サマー・ワールド」は翻訳できないかと思って読んだ本で、邦訳は出ていないようだ。

順調なペース


 昨日はジムに行った。1ヶ月ぶりぐらいだ。今日は筋肉痛を体中に感じる。気持ちがよい。筋肉痛って、僕は快感なのだが、他の人はどうだろう。

 仕事が続けて入った。今日は和文英訳を一日やる予定だ。ある大手の出版社から来た仕事で、経済誌の英訳である。
 英訳は好きだ。原語の意味を確実に理解できるからだ。中には下手な日本語もある。それでも下手であるということを理解して、書き手の言いたいことを忖度することは可能だ。一方、英文和訳だと、原文の意味をどうしても解せない場合がある。必ずしもこちらの英語力に問題がある場合だけではない。書き手の英語に難がある場合もあるのだ。
 ちょっとスケジュールがタイトだが、本日中に終わらせたい。
 明日は財務レポートの和訳をやる予定だ。半日ほどで終わらせたい。
 明日の残りの時間と明後日で、海外ニュースの仕事を終わらせる。これは何度か説明したが、ある業界団体から受けている仕事で、海外の業界情報をまとめてニュースとして配信するものだ。今月から引き受けている。月に一度のニュースで、今回が初回となる。

 今週は良いペースで仕事が来ている。多すぎず、少なすぎず。

 贅沢な目標を書こう。できれば収入に直結する仕事は午前中に終わらせたい。午後は将来に結びつく仕事に取り掛かる。それと合気道の稽古とジムワーク。本もたくさん読みたい。当然、ブログも書く。実はもうひとつブログを立ち上げようかどうか迷っている。
 結構と忙しいのである。

顔に付いて


 金曜日は都内に出た。珍しく仕事の打ち合わせがあったのだ。新橋駅で降り、駅前を歩いて向った。するとずっと遠方にOさんがいるのが分った。
 最近、僕は老眼だけでなく、近眼も始まっている。両目とも視力2.0というのが、唯一の誇りであったが、その誇りさえも奪われてしまった。朝から晩までパソコンの画面を見続けているのが悪いのだろう。
 右目は良いのだが、左はおそらく0.4程度だ。そんな悪くないじゃん、と言うなかれ。この間まで2.0であった身にとっては、大変なショックなのである。
 そんなプチ近眼の僕であるが、Oさんの顔は遠くからでもすぐに分った。顔というのは不思議なものである。
 距離は30メートルは越えていただろう。その距離からわずか20センチ四方に描かれている、情報を読み取ることができるのだから。これが他の情報だと、そうはいかないだろう。たとえば20センチ四方の紙に車が描かれていたとしたら、それがベンツなのかジャガーなのか、分るだろうか。多分、無理だろう。

 Oさんは以前、このブログで書いたことがある「営業の神様だ」。産経新聞社の先輩である。とても温厚な顔をしている。誰が見ても善人顔である。
 ところで新橋を歩いていて、あることに気が付いた。悪相が多い。
 最初に見たのは改札口でだった。大きな声で「ここをまっすぐに行けばいんだな。本当だな」と怒鳴っている初老の男がいた。改札の係員に、道を聞いていたのだが、とても威張っている。
 道を尋ねるのに、なぜ威張るのだろうか。それは相手がJR職員であるからだろう。相手が言い返せないと分っていて、横柄な口を聞いている。
 どんな奴かと、顔を見ると、悪相であった。
 彼は悪人だと思う。確実に悪人だ。なぜ悪人かと分るかというと、悪相をしいるからだ。では悪相とはなんであろうか。
 残念ながら、言葉では説明ができない。しかし分るのだ。僕だけでない。きっと大抵の人は、分る。


 以前、混んだ電車で座っていると、前の女性の様子がおかしい。お尻をモジモジさせている。目を凝らすと、後ろの男がお尻を触っていた。
 よし捕まえてやろうと思い、その男の顔を見た。それがやはり悪相であった。改札口の威張り爺さんは、好戦的な悪相であったが、この痴漢は好色で気弱そうな悪相であった。
 痴漢は僕が顔を見ると、視線にすぐ気が付いた。すると慌てて手を引っ込めて、あらぬ方向に視線をやった。結局、現場を押さえることができずに、そのまま男は次の駅で降りた。

 あの20センチ四方の面の中に、目と鼻と口がくっついていて、それはどの人も同じ条件である。それでいて、我々はその個体を認識し、さらにその人間性までも透かして見ることができる。顔というものは、実に不思議なものだ。

 新橋周辺では、その後、何人かの悪相を見かけた。人の数が多いからなのか。それとも場所柄なのか。随分と多い気がした。
 普段、逗子の田舎でノンビリと生活をしていて、たまに都会に出ると、毒気を感じる。

子供タレントは児童労働である


 昨年の紅白に子供がたくさん出ていた。昨年の紅白は最初から最後までほぼ見たのだが、その場面だけは、ほとんど見なかった。見たくなかったから、席を外したのだ。だからどんな子供が出て、何をしたのかは知らない。

 NHKは、あるいは民放は、子供をテレビに出演させることは児童労働であることを認識すべきだ。児童労働は原則的に、根絶すべき悪習である。
 西アフリカ諸国のカカオ農場で、子供が働かされている。怒鳴られ、殴られながら働く場面をテレビで見た方は多いだろう。多分、NHKでも放映した。

 子供タレントはカカオ農場で働かされている子供と以下の点で同じである。
1) 大人の利益のために働かされている。
2) 子供が持っている権利、時間、将来を搾取している。

 なんでカカオ農場の子供と、日本のテレビに出演する子供が同じなのだろうかと、疑問に思われる方もいるかも知れない。その理由を説明する。
 まず(1)だが、カカオ農場もテレビも、そこには大人の利益が背景にある。カカオは言わずもがなであるが、テレビはなぜか。
 先日、中学生の子供を持つ知人に、この話をしたら、「でも、子供がやりたがっているから、いいんじゃない?」と言われた。全然、違う。
 テレビタレントは、子供の無知に付け込んで、大人のために働かされているのだ。ついでにその親も無知である。
 まず親という大人は、あわよくば子供がスターとなり、一儲けしてくれることを望んでいる。はっきり認識している親もいるだろうし、そうでない親も、潜在的にはそう考えている。親自体が、子供を利用して、儲けたがっている。
 そう考えない親もいるかもしれない。ただ子供の才能を伸ばしてあげたいとか、子供の希望を叶えたいとか。その場合も、大人の利益が背後にある。
 子供を擁するプロダクションは営利企業だ。儲ける為に事業を営んでいる。プロダクションを使うテレビ局も営利企業だ。民放は株式会社であり、当然、営利を第一の目的として、会社は運営されている。ではNHKはどうかというと、設立の目的は営利でないかもしれない。しかし実際は営利追求と同様の思想に促されて、組織が運営されている。それは視聴率だ。NHKのプロデューサーは、自らの担当する番組の視聴率を上げることを目指して、日夜努力している。プロデューサーは出世のため、あるいは名声のために、子供を使う。
 その他も、子供タレントの周りは、利益を貪ろうとする大人ばかりだ。スポンサーしかり、レコード会社しかり、マスコミしかり。
 子供は無知だ。産まれてすぐにテレビのある部屋に送り込まれ、テレビに子守をされて育てられれば、大抵の子供はテレビタレントに憧れる。テレビに映るタレントは華やかでカッコいい。自分もそう成りたいと思う。当然だ。経験も知識もなくて、純粋培養でテレビ漬けの日々を送らされてきたのだから。

 2についてだ。子供はテレビに出ている時間などない。そんな時間があれば、友達と外で遊ばなくてはならない。それは子供の将来のためだから。それは子供の権利である。
 遊びを通じ、コミュニケーション能力を高める。運動能力を身につける。知略を磨く。体力面、精神面における耐性を育てる。自然に親しむ。心を豊かにする。愛情を慈しむ。強者を悟り、弱者を知る。道徳を学ぶ。善悪を認識する。将来を自分で切り開ける、困難を自分の脚で乗り越えられる大人になるために準備をするのだ。
 そりゃそうだろうけど、テレビに出ていても、そういうことは学べるんじゃない?、と聞く人がいるかもしれない。たしかにある面では、学べるといえる。しかし違う。質が違うからだ。テレビというビジネスの場では、みなそこに利益が絡むからだ。
 利益は社会を動かすエネルギーのひとつのファクターに過ぎない。世の中を動かすエネルギーは他にもたくさんある。子供は利益以外にたくさんのエネルギーがあることを学ばなくてならない。そうしないと社会をいびつに理解してしまう。
 カカオ農場とテレビ業界は、子供にとっては同じ環境だ。大人の利益のために利用される。子供が本来持っている権利、時間、将来を奪われる。一見、まったく違う環境に見えて、立脚するベースは同じなのだ。

 もうひとつ。子供タレントで幸せな大人になった人がどれだけいるだろうか。50歳になっても、80歳になっても、みなから愛され続け、尊敬を勝ち得、生活が安定し、幸せな家庭を築き上げた、元子供タレントはどれだけいるだろうか。私は知らない。もしかして、いるのかもしれないが、とても数は少ないだろう。
 これは非常に確立の悪い投資ではないか。政府が買え、買えと奨励する宝くじと同じ程度の確立だろう。ごく僅かの成功者の陰に、無数の者の後悔が潜む。
 宝くじは大人が自分の責任の元に買うのだし、現金という即物決済なので、リスクは小さい。
 しかし子供タレントは、子供の将来をまるごとかけるのだ。リスクは果てしなく大きい。こんな危険な投資に、子供を投じてはいけない。

翻訳の企画書


 本がアメリカから届いた。アマゾン・コムで昨年末に頼んでおいた本だ。200P超の本で、30Pほど読んだ。
 この本は藤岡先生から紹介されたものだ。藤岡先生は販権エージェントから、企画書(シノプシス)作成の打診を受け、それを僕に回してくれたのだ。
 昨年末に先生のご自宅にお邪魔した際に、3つの候補が出版エージェントから来ており、そのうち1件はさる生徒さんが手を上げ決まっており、先生は残りの2件を示された。
 僕は非常に不出来な弟子である。課題の提出は期限を過ぎる。ときには出さない。出したとしても、かなり自由気ままな訳を書く。いつも先生は対応に困っておられたと思う。
 そんな不肖な弟子であるにもかかわらずに、興味があれば持って行っていいよと、2件を見せてくれた。
 そのうち1件は、あるアスペルガー症候群のライターの自伝だった。昨年、別件でアスペルガー関係の本を見つけ、企画書を仕上げ、出版社に持ち込んだことがある。結果はボツになってしまったが、その際にアスペルガーについて、少々調べてみた。興味深いものだった。
 
 届いた本はまだ30P程度しか読んでいないが、作者は自分の障害を客観視して、たんたんと語り、それがなかなかユーモラスである。先を読みたくなる本だ。先日、先生には、「企画書作成をやらせてください」とメールを書いた。
 僕は遅読なので、時間がかかるが、まず一読を済ませ、それからじっくり企画書を作成するつもりだ。他の仕事との関係があるが、できれば月内に書き終えたい。

 ここまで読んでこられて、出版エージェントとは何か?と思われた方がいるだろうから、少し説明をする。実は僕もあまり知らないのだが、知っている範囲内で簡単に。
 海外の作品を日本で出版するには、海外の出版社(あるいは権利者)と日本の出版社の間に販権エージェントといわれる会社が入る。日本には大きなところが3社ある。イングリッシュ・エージェンシー、ユニ・エージェンシー、タトル・モリ・エージェンシーである。
 出版においては、日本は基本的には輸入国なので、輸入代理店みたいなものだ。たとえば海外でTシャツを作っているメーカーが日本で売りたい場合に、直接日本の百貨店や店舗へ売り込むことはできない。そこで輸入代理店を経由して、日本に売り込み、流通に乗せる。それと同じことが、出版でも行われているのだ。
 販権エージェンシーには情報が集まる。海外の出版社は日本で出版したい本があれば、販権エージェンシーに売り込む。販権エージェンシーが、その本に興味を持てば、販権エージェンシーが日本の出版社へ持ち込む。そして日本の出版社が、自らのリスクを鑑みても、出版する価値があると判断して、ようやく日本での出版が成立する。
 出版エージェントは日本の出版社に、ただ原書を見せて売り込むわけではない。編集者は必ずしも原語に精通しているわけではないし、仮にそうだとしても、いちいち原書を読むのでは効率が悪い。そこで翻訳者、あるいは出版翻訳者を目指す僕のような人間の出番である。原書を読み込み、企画書(日本語)を作成するのだ。出版社の編集者はその企画書を読むことで、効率的に原書に対する判断を下せることになる。

 そこで問題となるのは、企画書の質だ。正確に原書の内容を伝えなければならない。また企画書は単なる荒筋ではない。本のセールスポイント、読後感、日本で受けるかどうかの判断なども織り込む必要がある。
 どうしても訳者は、出版したいがために、甘めの採点をしがちになる。本来はB評価(こんな単純な評価はつけないが、たとえばの話で)であるのだが、B評価であれば、出版は受けられないだろうからと、A評価を下す。甘い評価の企画書を元に出版社が判断を下し、その結果、本が出される。そして案の定、まったく売れなかったとしたら。
 損をするのは日本の出版社だ。今は本を売るのが難しい時代だから、そうそう売れる本はない。本の売れ行きに対し、企画書作成者や翻訳者が責任を問われることはないだろう。しかしできあがった日本語の本と、企画書を読み比べて、あきらかに企画書がいい加減であることが分ったとしたら。きっとその企画書を作成した人間と、二度と付き合いたくないと考えるだろう。

 そうならない企画書を作成しなくてはならない。

有事に強い資産


 金(ゴールド)の価格が長期スパンで上昇している。ドルが基軸通貨としての信用を失い、ユーロは期待はずれに終わり、円も力不足であれば、有事に強い金が人気を集める。
 今は戦争に負けたからといって、敗戦国が滅びることは、多分ない。それでも戦争に負ければ、その国の信用は失墜し、通貨は暴落する。
 戦争にならなくても国力が衰えれば、それに付随して、通貨も価値を下げる。一方、金の価値は比較的に安定している。
 現代のように、国際間の国力の関係が不安定であれば、通貨に依存する株や債権で資産を保有するよりも、金の方が安心と人は考える。その結果、金に資金が集まり、金の価格が高騰する。こんなことは私がブログであえて書かなくても、みなさんはご承知の通りだ。

 私は離婚経験がある。離婚の際に、それまで保有していた資産は引越し用の100万円を残して、みな元妻に置いてきた。こんなことを書くと格好よく聞こえるが、資産といってもわずかの現金と車一台に過ぎず、大した勇断とは言えない。
 友人のひとりが、以前の私と今、同じような立場にある。ただし友人は不動産を複数、所有していて、そこのところは大きく違うのだが。
 友人は当時の私よりも資産を抱えているために、悩みは大きいようだ。
 私は資産のことでは、まったく悩まなかった。少ない現金とはいえ、10年以上をかけて積み上げた貯金である。あればあったで、ありがたいことに違いない。実際、離婚してからは、それこそ爪に火を灯すような生活をして、貯金に励み、その結果、頭金をためて、今の家を買うことができた。離婚時に、もっと現金を持ってこられたら、相当、楽であったことは間違いない。でも、あの判断で、私は間違っていなかったと、今も思っている。
 すっからかんになっちゃったからこそ、却って厳しい生活を耐えることができた。むしろ楽しむことができたと思う。40歳を過ぎて、家も車も貯金もなくし、アパートでひとり生活をする。節約のために、食事は朝晩ともに自炊を励行した。車も買わず、服もほとんど買わなかった。客観的に見たら、侘しい生活だろう。しかし私はぜんぜん、侘しさを感じなかった。すっからかんは、フリーハンドで、楽チンであるとすら、思った。
 
 しかし、すっからかんな私ではあったが、持って来ることができたものがある。それは知識と経験だ。私の知識は、これは貯金と同様に、決して秀でたものではない。それでも40年以上を生きてきて、貯金のように少しずつ蓄積してきた。経験も同様である。
 これらのソフト・アセットは、有事にとても強い。戦争になろうとも、恐慌が起きようとも、離婚でみんな持っていかれようとも、何者も私から奪うことはできない。
 それに知識や経験は、お金を生むことはできるが、反対は不可能だ。たとえばもし孫正義が私みたいに、すっからかんとなったとしても、10年もあれば、また億万長者に戻ることができるだろう。しかし、宝くじで3億円を当てても、遺産相続で100億円を継いだとしても、知識や経験はそれにおまけとして、付いてくることはない。

 今はたしかに先が見えない時代かもしれない。私の持っている株(なんとリーマン・ショック以前に持っていた資金の大半で株を買っていたのだ)は、買値の半額近くまで下がっている。この先また増える見込みは乏しい。少子化が進み、日本の国力は確実にシュリンクしていくだろう。アメリカだって、現在のようなスーパー・パワーの保持は難しいだろう。中国は国体そのものの維持に疑問詞を抱え続けている。
 だから金(ゴールド)なのだろう。
 金(ゴールド)、安全なのだろうな。もし株の代りにに金を買っていたら、倍以上に上がっていたのに。やはり私は、金儲けが下手である。
 しかしもうひとつの個人資産であるソフト・アセットは、これはそれなりにうまく運用しているのではと思っている。なんといっても、減ることがないのだから。超安全な資産なのだ。それほど、稼いでいるわけではないが、減らないのだから、増える一方だ。
 
 友人に言いたい。仮に資産がすべてなくなって、すっからかんになったとしても、心配は無用だ。君は着実に、ソフト・アセットを運用し続けてきたのだから。

普段の生活


 今日からかみさんが出勤を始めた。小学校は来週の月曜が始業のようだが、準備のためにでかけたのだ。
 今朝の起床は5時15分。普段よりはちょっと遅いが、今日からほぼ普段の生活が始まった。

 僕は本来、冬休みなどない。週末もない。しかし、どういう訳か、かみさんが休みになると、休みの気分になってしまう。土日はしっかりと休み、冬休みはかみさんと一緒にゆっくり起きる。
 最近の学校の先生は休みが少ない。昔の先生は夏休みなど、しっかり40日間取っていたようだが、今は基本的に暦どおりだ。とは言っても、普通の勤め人よりは恵まれている。今回の冬休みなど、ほぼ2週間取れたのだから。
 かみさんは、しっかりと働き、確実な収入を得ているのだから、当然の権利である。ところが僕は。
 僕は働かなければ稼ぎを得られない。それなのに、なぜかかみさんと一緒に休みを取る。すると当然、その分の収入は減る。
 しかしこれには一応、それなりの理由がある。それは元から、そんなに仕事がないということだ。仕事がないので、働けない。働けないから、休みを取る。つまり仕方ないから、休んでいる。
 またまた、しかしだ。本当の本当はこれは、事実ではない。たしかに現金に直結する仕事は、現在あまりない。しかし仕事というものは、何も今日の果実を得るだけの行為ではないのだから。畑を耕すことも仕事、種を蒔くことも仕事。雑草を除去することも仕事なのだ。
 つまり仕事のオーダーがないときでも、いくらでもやることはあるということだ。たとえば、出版したい本を探す。その本を読む。企画書を書く。

 今日は一応、果実を収穫する仕事をしている。昨年、いただいたレギュラーの仕事だ。この仕事は、僕のようなフリーの翻訳者にとっては、とてもありがたい仕事である。毎月、決まった分量の仕事が来て、収入も確定している。本当は毎日、2時間程度こなして、週末に提出する。しかし正月は遊んでしまったため、1週間分をためてしまって、本日あわてて作業をしているのだ。朝からずっと、これをしている。

 今朝は久しぶりに早起きをした。朝からPCに向かい、仕事に取り掛かっている。机に向かってコーヒーを飲む。外には冬の青空が広がる。
 朝から酒を飲むのもたまにはいい。でも朝早く起き、まじめに仕事に取り組む。昼はあっさりとしたものを作り食す。夕方まで仕事をし、夕食を作り、風呂を沸かす。こうした規則正しい生活の方が、やはり落ち着く。胃にも優しいし、精神的にもよろしい。
 
 ところがだ。明日はまた親族の新年会があり、船橋まででかける。昼からまた酒だ。
 ちょっとウンザリだが、 実はやはり嬉しくもある。
 あまりはしゃぎすぎないで、大人しく飲むことにしよう。

新しい年


 明けましておめでとうございます。本年も我がブログを、お引き立てのほど、ひとつよろしくお願いします。
 本日は2012年1月5日。新年最初のブログとなる。

 12月31日は仕事をし、夜は紅白を見た。最初から最後まで見てしまった。紅白をすべてみた事はあるにはあるが、相当昔の話だ。最近はまったく見ない年が多かった。最後まで見たのは、他チャンネルで格闘技をやっていなかったからだ。しかし流行の速度というか、テレビ局の報道姿勢の軽さには驚かされる。ついこの間まで、どのチャンネルでも格闘技を放映していたのに、今年はゼロだ。
 紅白を見ていてまず感じたこと。「NHKよ、子供を夜中に働かせるな」。
 7時台だとは思うが、子供が沢山出ていた。僕は普段はほとんどテレビを見ないので、あの子達がどんなに売れているのかは知らない。しかしどんなに売れたとしても、夜中に子供に対して労働を強いてはいけない。NHKはそんな基本的な倫理観を欠如している。これでは、とても受信料など、払う気にはなれない。
 あとは森進一って、整形しているね、きっと。なんだかマイケル・ジャクソンみたいな顔になってきたよ。でも歌は相変わらず、うまい。全出演者の中でピカイチであった。

 1月1日は我が実家へ、かみさんを連れて行った。午後1時に実家の氏神である登戸神社で両親と待ち合わせをし、初詣をしてから家へ行った。
 3時には上の妹家族も合流し、宴会を始める。いつもどおり、親父はすぐに酔っ払う。大晦日にアメ横で鮪と栗きんとんを買ってきたそうだ。お袋は手作りで栗きんとんを拵えていたが、親父は自分が買ってきた栗きんとんの方が、ずっとうまいと繰り返し、主張していた。どちらがうまいか?、と孫に迫り、答えに窮した孫(小6)が可愛そうだったが、あえて助け舟は出さなかった。
 そういえば、毎年、正月は酔った親父に絡まれていたことを思い出した。そのことが僕にとって経験上プラスに働いたかどうかは、分らない。僕はいつも、酔った親父に絡まれていたので、総じて見ればマイナスであったと思う。しかしたまにはいいだろう。そう思って、放っておいた。孫の父、つまり親父にとってみては婿が、それとなく話を逸らした。その逸らし方がうまい。
 この婿さんは、若いがなかなかの人格者で、くどい親父と、いつも疎まずに付き合ってくれる。この婿の振る舞いを見ることこそは、僕にとってはプラスである。

 1月2日は地元での初詣。本当は鶴岡八幡宮へ行くつもりだったが、ノンビリしていて夕方近くになってしまい、一番近い久木神社へ向う。大きな寺社が多い、我が逗子鎌倉エリアにあって、ここはとても小さなお社である。参拝客は我々を含め、数人しかいなかった。静かな初詣であった。
 では何をしていて、夕方になってしまったかというと、テレビを見ていたのだ。冒頭にほとんどテレビを見ないと書いた。そう、ほとんどとは、少しは見るということだ。
 BSで「Samurai Spirit」という番組をやっていて、偶然見始めたら、面白くて止められなくなった。途中からだが、すべてを見てしまったのだ。全8話のシリーズで8時間もやっていた。極真空手の猛者であり、K1でも活躍したニコラス・ペタスが日本武道に挑戦しながら、8つの武道を紹介する内容だ。海外で放映するために制作されたらしい。基本的にペタスは英語で話を進め、テロップが入る。
 紹介された武道は、順不同で思いつくままに、「合気道、剣道、居合道、弓道、古武道、相撲、柔道、空手」である。テレビでは後半の相撲、柔道、空手を見た。結局、あとからユーチューブで全部、見てしまったのだが。
 8つの武道の中で、一番面白かったのは、相撲であった。これは8つの武道の中で、もっとも面白い武道が相撲であったということではない。8つの番組の中で相撲の回が一番、面白かったという意味だ。
 ではなぜ相撲の回が面白かったかというと、出演者が良かったのだ。登場したのは横綱白鳳であった。白鳳はすごい。
 白鳳は達人といわれる人が持っている、何かをきっと身につけている。今はユーチューブなどで、達人の古い映像を見ることができる。たとえば柔道の三船久蔵、鹿島神流の国井善弥、合気道の植芝盛平など。現代でいえば、イチローも、達人のカテゴリーに入るだろう。
 白鳳はこれら達人と共通する何かを持っている。一流の格闘家であるペタスも当然、それに気づいていたはずだ。
 番組の中で、褌を締めたペタスが白鳳の胸を借りる一番があった。非常に興味深いものだった。ペタスは本能的に恐怖を感じ、立会いから、すでに飲み込まれていたようだ。取り組みのあと、「最初は本気でぶつかるつもりだったけど、いっちゃいけない。いったら壊されると思い、腰が引けた」と、解説していた。もちろん、白鳳は軽く胸を出したにすぎないが、それでも白鳳の立会いは鋭かった。いや、鋭いという言葉は違うかもしれない。非常に自然な動きである。例えるなら、無意識に、椅子に腰掛けるような動きだ。
 この自然な動き。相手を引き込むような、懐の深さ。そしてこちらの動きの気配を感じさせない、絶妙な間。これこそが達人特有の何かである。

 1月3日はかみさんの実家へ、ご挨拶に伺う。じつはかみさん実家へ行くのは初めてだった。初めてということで、多少緊張はしていたが、温かく迎えてくれて、すぐに楽しいお酒となった。

 1月4日は仕事とネット、それとテレビ。午前中は前日のアルコールが残っていて、ボーっとしていた。それで仕事をし、すぐに飽きて、ネットを見る。見たのは「Samurai Spirit」の続き。
 かみさんは実家に泊まったので、一人であったために、夜は飲みながらテレビ鑑賞。結構、テレビを見てますね、改めて書くと。
 ちょっと見て、寝るつもりだったが、長時間見てしまった。いわゆる大家族物をやっていて、これが長かった。7時ぐらいから見始めて、そろそろ終わるだろうと思いながら見続けた。結局、終わったのは12時近くだった。
 大家族物はフェイクが入っているとは、分かっていても、臨場感があって楽しめる。完全に作りもののドラマよりは、引き込まれてしまう。

 こんな感じで、新年はダラダラとしたスタートを切った。年末には、来年こそは、自分に厳しく、日々是好日で行こうと思っていたが、出だしから躓いた感はある。
 しかし最初に飛ばすと、後が続かないことは、マラソンと同じこと。まあ尻上がりということで。きっと良い年となるでしょう。

プロフィール

山本 拓也

Author:山本 拓也
職業:翻訳者
過去の職歴:HSBCを経て産経新聞社
家族:妻、フクちゃん(猫オス 3歳)、大吉くん(猫オス 2歳)
住まい:逗子

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