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若き数学者、になるために


 甥っ子は受験生だ。以前にも何度か書いたことがある。昨夏には、この家に1週間泊まりに来て、毎日、海やスポーツジムへ行ったり、合気道の稽古へ連れて行ったりした。もちろん、勉強もしていた。そのときに、甥っ子の気持ちをよく聞きだし、本当に進みたい道は何なのかをふたりで探った。困難な道だけど、そこが自分の進みたい世界だと、甥っ子は気づいたようだ。
 
 甥っ子の受験結果がほぼ出そろった。甥っ子のことをあまり公開すべきでないのかもしれないが、甥っ子の名前は出さないで、おおよその結果を記す。
 本命は某国立大学である。2次試験を先週末に受けた。結果はまだ出ていない。自信はないそうだ。
 私立は4校(5学部)受験した。結果は1.5勝3.5敗である。小数点は補欠の部分だ。
 これが非常に悩ましい結果となった。とても、とても悩ましい状況だ。

 国立大学も含め、受験した大学は1学部を除き、理学部(理工)数学科である。彼は数学者になりたいのだ。立派じゃないか。
 補欠になったのは某私立大学の数学科である。ただ昨年の実績を見ると、補欠で繰り上げ合格はゼロであった。ということは、可能性は低い。甥っ子はほぼ諦めている。
 そして合格した大学は、これは合格したので公表するが、慶応大学環境情報学部である。いわゆるSFCというところだ。
 この学部のことは何となくは知っていたが、あまり知らなかった。とてもユニークな学部だ。環境情報学部は文系に近い理系だそうだ。履修科目を見ると、とても理系とは思えないラインナップだ。

 まだ国立の発表は先だ。ここが第一志望だから、ここに受かれば何の問題もない。落ちた場合は後期試験を受けることになる。後期で願書を提出したのは、別の某国立大学理学部数学科である。こちらは第一志望よりもランクが下がる。
 そこで問題が生まれる。もし後期の国立に合格したとする。その場合、国立に行くべきか、慶応にすべきか。
 数学者になるためには、国立のほうが王道となる。慶応の環境情報学部から、専門を極めるのは、かなり困難にみえる。

 しかし元から数学者の道はとても険しい。かりに東大の数学科に入ったとしても、数学者になれるのは1年に1人ぐらいしかいないのではないか。某国立大学の数学科からだと、数年に一人、なれるかどうかだろう。
 数学者にならない場合は、普通のサラリーマンになる可能性が高い。サラリーマンになるのなら、慶応の方が、つぶしが効く。

 去年の夏はふたりして、合格への綿密なプランを作成した。このプランを励行することができたら、確実に志望大学に入れるだろう、そんな気にさせる、見栄えの良いプランであった。結果は当然、プラン通りにはいかずに、今こうして悩んでいる。

 入学の前に、またうちに泊まりに来ることになっていた。今度の目標は留学だ。甥っ子はハーバードとかMITとかの、アメリカの超一流の大学院に留学したいそうだ。立派じゃないか。
 当然、その先には数学者への道が控える。そのための留学である。
 道のりは遠く険しい。それなのに、いきなりスタート時点で、難関が待ち構えていた。さてどうするべきだろう。

 昨日、受験結果のあらましの報告を受けた。そして相談も受けた。簡単には結論を出すことはできない。まずは状況を知らなくてはならない。
 ということで、本日はこれから甥っ子と一緒にSFCへ行ってきます。なんだが、どういうわけか、私も19歳に戻ったような気持ちで、ワクワク、ドキドキしている。

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スピルバーグのインタビュー


 2,3日前のクローズアップ現代にスティーブン・スピルバーグが出演していた。日本に来ていたわけではなく、司会者の国谷裕子がアメリカまでインタビューに出かけて撮ったものだ。
 
 スピルバーグが初めて映画を撮影したのは13歳のときで、ボーイスカウトの課題として作品を制作した。課題はカメラによる写真撮影だったのだが、どういうわけかスピルバーグの家にはスチールカメラがなくて、8ミリカメラはあったそうだ。それで仕方なく、8ミリで映画を作った。
 映画はボーイスカウト仲間に大うけをしたそうだ。大笑いする友達を見て、映画を作る喜びを知った。
 そうなんだよなあ。最近、思うのだけども、仕事は他人の評価を求めるものなのだ。以前は、本当の芸術家というものは、内からほとばしる創造欲を表出するために作品を作ると思っていたが、それだけではないのだ。素晴らしい作品を作っても、だれにも見せずに穴に埋めてしまうことはできない。絶対に人に見せたくなる。そして感動してもらいたいものだ。
 スピルバーグは13歳にして、他者の感動という強いサポーターを得たのだ。

 スピルバーグは今でも、常に作品を制作するときには、前作を上回る質を追求するという。毎回、ヒットは狙わない。狙うのは、必ずホームランである。
 毎朝、起きると、今日の撮影を考えて、わくわくするそうだ。そして全力で制作に打ち込む。これが超一流の力だ。
 昨日、たまたま翻訳者同士の対談記事を読んだ。ふたりともかなり数の作品を出している、一線級の翻訳者である。その対談は翻訳学校の生徒に向けられたもので、アドバイスをしている。
 ひとりが「最近の生徒は、翻訳って儲かるんですか?て聞くんですよ。私が若いころは、そんなことを考えたこともなかった。最初の3、4年は24時間、翻訳のことだけを考えた。儲かるかなんて、どうでもよかった」と言い、相手も「そうそう、僕もそうだった」と答えていた。
 これを読んでスピルバーグの発言が脳裏に浮かんだ。う~ん、これが一線級と超一流の違いだと思った。
 スピルバーグは40年間、毎日全力投球を続けている。それは決して苦でなく、喜びである。一方、翻訳の先生おふたりは、3、4年は死に物狂いでやった。それは乗り越えなければならない修行時代で、辛い思い出である。
 何度も書いているが、白川静は90歳代で受けたインタビューで、「ゆっくり海外旅行にでも行かれたらいいんじゃないですか」と聞かれ、「まだまだしたい仕事が残っていて、それが終わったら、ゆっくり行きたいと考えています」と答えた。そして死ぬまで、書斎から離れなかった。
 僕は超一流どころか、一線級の先生方の若い頃のような3,4年の荒行さえ、恐れをなしている。でも超一流に心惹かれる。

 スピルバーグは作品を作るときに、自分が信じられるストーリーを採用する。自分が、「こんな話、あるわけない」と思っていたら、絶対に観客を納得させることはできない。

 スピルバーグのインタビューを聞いて、しばらくはボーっとしてしまった。本も読む気になれなかった。30分ほど、発言の内容を反芻していた。

 僕は未だに、自分の仕事の選択に自信が持てない。もっと良い仕事があるのでは、まだ変更は間に合うのではないかと、思いめぐらす。でも、スピルバーグや白川静のような心境に、いつかはなりたい。なれるだろうか。それには、どうしたら良いのだろうか。答えはおぼろげながら見えてきている。
 きっと、ただ打ち込むことなんだろう。こんな僕でも、たまに仕事に熱中し、あっというまに一日が終わることがある。そんな日は疲労感より、爽快感が残る。これを続けられればいいのだろう。

 さて、最後に。スピルバーグは自分の子供時代を「very Otaku」と言っていた。「Otaku」はもちろんオタクのことである。すごくシャイで、女の子にはまったく持てなかったそうだ。ふ~ん。

パソコン、ちぇーんじ


 パソコンを変えた。さくさく走る。画面はでかい。ぴかぴかできれい。とても嬉しい。
 実はこのパソコン、12月には届いていた。すぐに起動させるべきだったのだが、億劫で放っておいた。設定が面倒だったのだ。そして二か月も箱に入れたままにしておいた。しかしお尻に火がついてきた。確定申告の時期になったからだ。
 ふつう確定申告とパソコンは関係ない。でも僕の場合は関係がある。

 会計ソフトの弥生を買った。それをインストールする必要がある。前のパソコンにインストールすることも、できなくはない。でも、あまり名案とはいえない。
 パソコンを変えたのは、前のがよろよろの状態になってきたからだ。ブラウザーを立ち上げながら、エクセルとワードを開いたりしたら、おそろしく作業に時間がかかる。そうだ、パソコンの立ち上げには30分はかかる。
 そんなよろよろのPCに、さらにソフトをインストールするなんて。荷物をいっぱい抱えて、ふらふら歩いている老人に、もうひとつ荷物を持てと要求するようなものだ。

 新PCはHPのモニターと本体の一体型だ。モニターは20インチと大型。それでいて値段は47,000円だ。すごいでしょ。信じられない値段だよね。ちなみOffice2010は別途で購入した。こちらは26,000円。合計でも73,000円だ。以前に比べたら、めちゃくちゃ安い。

 初めてPCを買ったのは1994年だ。アメリカに留学したときに、向こうで買った。たしか30万円以上したと記憶している。OSはWindows3.1だった。
 その後は、主に会社のノートを家でも使っていた(IBMのthink-padだったけど、50万円ぐらししたと思う)。自分で買ったのは、今机の上にあるDellのノートだ。一番安いタイプだったが15万円ぐらいした。今回は73,000円。30万→15万→73,000円。つまり半分、半分に価格が下がっている。次に買うときは、きっと3万円台になっているだろう。
 これは単なる希望的推測ではない。というのも、おそらくWindowsの市場支配は、終焉を迎えつつあるからだ。OSやOfficeの抜かしたパソコンの価格は今でも3万円程度である。将来、これらがフリーになれば、パソコンはハード代だけで買えることになる。


 そうだ、今回の設定だが。ものすごく簡単だった。これには驚いた。前回、デルの設定を行ったときは丸2日間もかかった。うちはケーブル回線を利用し、無線LANを経由してPCにつないでいる。当然、セキィリティソフトも介在させている。ケーブル会社とデルとノートンに電話をそれぞれかけた。どの社もある程度までいくと、「それはセキィリティソフトが邪魔をしている」、「LANの設定はルーターのメーカーに聞いてくれ」、「大本のケーブル会社に確認してほしい」と、他社に責任を押し付ける。う~ん、ちょっと表現が正確ではないが。とにかく、自分の社の製品やサービスにしか答えられないので、ある境界を超えると答えられなくなる。
 結果、3社に何度も電話をかけて、丸2日を費やした。

 ところが今回は、まったく設定をしないですんだ。これって、どうして? まるでテレビをCATVのコードにつなぐように、スイッチをオンして、LANケーブルを接続しただけで、インターネットにつながってしまった。IPアドレスとか、打ち込まなくてもいいの?
 今日一日は、覚悟を決めていた。なんとか一日で終わらせようと、意気込んで作業に取り掛かった。でも段ボール箱からだして、コンセントをつないで、ちょっとしたソフトを入れて。全部で2時間もかからなかった。てんで、楽な作業であった。
 これなら越年させる必要はなかった。今まで重たいデルを、だましだまし使っていたが、12月から使えばよかった。翻訳もうんと進んでいただろう(これは希望的推測)。

 さてこれからが本番だ。弥生の入力が待っている。去年は青色申告の会に教わりながら作成した。あれから丸1年。その間、まったく弥生は触っていない。こちらも、すんなり行けば、いいんだけど。

ノロと不思議な体験


 日曜日、いつもどおり文京区の合気道の稽古へ出かけた。9時半から12時まで2時間半汗を流した。午後は逗子の道場へも行く予定だったので、少し余裕を持って稽古した。ところが何だかとても疲れた。稽古をしながら、アクビが何度も出た。前日は8時間近く寝ているはずなのに。
 どうも調子が悪いので、逗子の稽古は中止することにした。元気なときでも稽古の連ちゃんは堪える。まっすぐ帰って、ノンビリしよう。そう考えていた矢先に、親父軍団に飲みに誘われた。
 親父軍団との稽古の後の昼飲みは、以前はたまにお付き合いさせてもらっていた。結婚してからはあまり参加していない。午後の稽古へも出かけないのだから、2,3杯だけでも付き合おうかと、気分が悪いながらも、それなにり足取り軽く、御徒町の飲み屋へ向った。
 武道談義、国際情勢、教育問題、橋本行政と、いつも通り親父軍団の話題はどこへ行くとも知れず、談論風発で楽しい。しかし乗れない。みなが日本酒に移行して、お変わりのオーダーを重ねても、2杯目のグレープサワーから抜け出せない。つまみもあっさりしたものしか喉を通らない。
 調子の悪そうな僕の様子を見て、親父軍団諸氏は心優しくも、きっと飲み足らなかっただろうに、2時間弱で切り上げてくれた。

 帰りの電車は寒かった。空いているときの横須賀線は寒いのだが、日曜日は天気もよく、時間は午後2時過ぎ。日差しも温かいはずなのだが、体が震える。
 腹が痛む。吐き気がする。便意も催す。どこもかしこも苦しくて、着ていたフード付きダウンのフードを目深にかぶり、苦しさに耐えた。
 4人掛けのボックスシートに座っていたのだが、苦しさにもだえ、体を折り曲げたり、足を伸ばしたり。多少のアルコール臭もあるためか、東京駅から逗子駅まで、僕のボックスに腰掛ける人はいなかった。
 ようやく着いた逗子駅からも苦行だった。日曜はかみさんの電動自転車を借りて駅まで来ていた。自転車置き場と駅の距離は100メートル程度。その距離が長いこと。一歩一歩、ふらつきながら歩を進める。手すりがあればしがみ付き、ベンチが見えれば腰掛ける。普段はホームから自転車置き場まで5分でいけるところが、20分はかかったと思う。
 歩きながら思った。老人が歩行するときは、このような気持ちなのではないか。歩きたくても前へ進めない。膝が痛い、腰がだるい、足が震える。
 駅でもたつく老人を急いで追い抜くときなど、正直に言って、邪魔だと思ったことがあった。とんでもく愚かな男だ。自らが近い立場になって、ようやく初めて相手の苦しみの一端をうかがい知るなんて。
 自転車は歩くよりも少し楽だった。普段は、電動は坂道しか使わない。しかしその日は、駅からスイッチをオンにした。軽くペダルを踏み込むだけで、自転車はスイスイ進む。お腹は爆発寸前だったが、ペダルへの圧が弱い分、なんとか難は逃れることができた。
 
 家に着いた途端、居間で倒れこんだ。そのまま1時間以上、動くことができなかった。動くのがしんどくて、トイレへも行けなかった。
 かみさんは心配して毛布をかけてくれたが、暫くして買い物へ出かけた。

 ひとり居間で横になっていると、南向きの窓から暖かな日差しが差し込んできた。苦しいのだけども気持ち良い。ちょっと前の電車の時間に比べたら、行こうと思えばトイレへ行ける。毛布と日差しは温かい。まるで天国だ。
 そのとき不思議な感覚に見舞われた。光が体を包み込んだのだ。疲れ切った僕の体は、何物にも抵抗することができず、ただそれに身を任せる。そのまま光の帯に身を任せていると、体がフワッと持ち上がった。すると、光の粒子が一粒ずつばらばらに砕けた。光の粒が砕けると、それに促されるように、に自分の体も粒子となって砕けていく。光の粒子と自分の粒子が重なって一体化する。
 それは恐怖ではなかった。むしろ安らぎの感覚だ。光と自分が重なる安心感。身を任せきった状態の安定だ。
 まだ痛みも苦しみも続いている。でもそれは遠くの国の戦争のニュースのように、なぜかひとごとのようだ。とても深刻な事態なのだが、それよりも光と一体化している心地よさが勝る。

 そんな不思議な感覚は長いようで短いようで。きっと2,3分で終わったのだと思う。正気に返ると、少し元気が出て、トイレへ向った。大量の嘔吐をした。

 日曜は何も食べられずに、夕方には布団に入った。かみさんはインフルエンザじゃない?と心配し、体温を測った。37.5度。どうもインフルエンザではないようだ。きっと食あたりだろう。さて、何が原因か。
 思い当たるのはただひとつ。金曜日の晩に食べた生牡蠣だ。あれ以外は、あたるようなものは食べていない。牡蠣だとすると原因はノロウイルスだ。

 しかし不思議だ。かみさんも一緒に生牡蠣を同じ量だけ食べたのに。たしかにちょっと気持ち悪くなったとは言っていたが。症状が明らかに違う。
 ネットで調べたら、ノロウイルスは同じ食べ物で感染しても、年齢によって症状が異なる。幼児や老人は深刻な事態になることがあるので、注意が必要と書かれてあった。
 それが理由か。

『河内源氏』 元木泰雄


 名刺を作った。フリーになって2回目だ。前回は「キンコーズ」で作ったが、今回は「はんこ屋さん21」だ。200枚でキンコーズは3000円ちょっと。はんこ屋さんは4000円ちょっとだった。
 安いうえ、紙質もキンコーズの方がよく、またキンコーズで作りたかったが、近くに店舗がない。はんこ屋さんは逗子にあるので、仕方なく作った。ネットで調べると、すごく安く作れるところがある。次回は試しにネットでオーダーしてみようかな。

 さて本題の『河内源氏』、著者は京大教授の元木泰雄である。
 まず河内源氏とはなんぞや。僕はタイトルを見て、関西で活動した源氏の傍流かと思ったが、違った。清和天皇から頼信、義家、頼朝と流れる、まさに源氏の本流を指す言葉らしい。
 源氏には河内源氏のほかに、多田源氏や美濃源氏を出した摂津源氏や、大和源氏もある。

 この本を読んで、以前から不思議に思っていたことがふたつ理解できた。はっきりと分ったわけではない。とても複雑なので。でもぼんやりとだが、おぼろげに姿が見えてきた。

 ひとつは頼朝の配下は平氏出身の豪族で固められているが、なぜか。
 頼朝に従って平氏と戦い、鎌倉幕府を開いた功臣として名高いのは北条氏であり、三浦氏、千葉氏、工藤氏などだが、これらは皆、元をただせば平氏なのだ。これも実は最近、知ったばかり。地元三浦半島の歴史を調べていて知ったことだ。
 一方、源氏系の土着豪族も当時からちゃんといた。たとえば後から有名になったものだけ挙げても、新田氏、足利氏、佐竹氏、武田氏などだ。これら源氏系の土着豪族もかなり力を持っていたのだが、率先して頼朝に付き従ったわけではない。どっちつかずで様子を見て、勝った頼朝にいつのまにかくっついていた感じである。
 これが不思議だった。そのわけがこの本を読んで見えてきた。

 ふたつめは源氏は武家の棟梁として、全国の武士から崇められていたらしいが、どうして? だって他にも有力武士ファミリーは一杯いたでしょ。
 源氏は確かに清和天皇の流れを汲む軍事貴族で、血を尊ぶ当時としてはそれだけでもアドバンテージはあった。でも平氏だって桓武の血筋だし、坂上氏なんてのも、当時は力があった。祖先にはあの坂上田村麻呂がいる。小野氏も、軍事貴族として活躍していた。系列の有名人は、小野妹子と小野小町。祖は孝昭天皇といわれている。
 だから源氏だけが特別な貴種ではなかったのだ。むしろ新興といってよいぐらいだ。それがどうして、武家の棟梁となりえたか。
 
 答えは本に書いてある。とても僕の力量ではこのブログでは説明しきれない。とても複雑な事情が絡みあり、そういう状況とあいなった。中途半端でごめんなさい。しかし、本当に書けない。

 頼朝の挙兵や、鎌倉幕府の設立以降については小説やドラマなんかで多く取り上げられているので、イメージができている人は多いと思う。しかし源氏の祖、源経基から頼朝までを時系列に丁寧になぞった本はあまりない。この本は新書で分量も適当、文章も一般向けで読みやすい。
 ただものすごい数の人が登場して、複雑な関係を織り成していく。全体的なイメージは作れるかもしれないが、詳細はなかなか頭に入らない。
 昨日、読み終えたばかりだが、すでに僕は大半を忘れている。

どっちを信じた方が、いいんだろうね


 先週末、親父から電話があった。親父からの電話はパソコンについての質問と、相場が決まっている。大抵は「パソコンが動かなくなっちゃたんだけど、わしゃどうしたらいいんだ」とか、「へんてこなマークが出てくるぞ、おい」といったもので、電話で指示を出して、解決できるものだ。
 しかしパソコンの知識がほぼ皆無の老人を電話で、誘導するのは大変なことだ。いやいや、ものすごく大変なのだ。一度などかなりの重症で、5、6時間もかかったことがある。「動いたぞ!」と聞いたときは、涙が出そうになった。
 今回の電話もまた、そうに違いない。忙しいのに(それなりだけど)、たまらんな、と思いながら話を聞いた。
 今回はパソコンについての相談だったが、故障ではなかった。NTTの代理店から、回線の乗り換え(光ファイバーへ)の売り込み電話があり、どうしたら良いのかと、相談だった。
 僕は、「よした方がいい」と即答した。すると親父はいや、「料金が安くなる」とか、「通信速度が速くなる」とか、セールスマンのように、僕を説得しにかかる。僕はひとつひとつ、事情を説明して、意味がないことを理解させようと努めた。
 実は今までも、2、3度、同様の電話があった。親父は強く心惹かれたようだが、僕がすべて断ってきたのだ。

 今の親父の通信環境はADSLで、決して遅くはない。親父は毎日、パソコンを使っているが、その用途は株の売買と、株関連の情報収集のみだ。動画を見たり、ゲームをすることはない。ADSLで不便を感じるような使い方はしていない。
 たしかに最近、親父のパソコンは動きが遅い。それは回線に問題があるのでなく、パソコンの端末に原因がある。古いため最近の重たいサイトに対応できるスペックでなくなりつつある。詰め込んだソフトも足かせとなっている。

 僕が回線の変更に強く反対するのは、パソコンの設定は僕がしなくてはならないことになるに決まっているからだ。親父じゃとても、設定変更は無理だ。そのためだけに千葉まで行って、一日を使うのは避けたい。
 いや、僕は自分の都合だけで、親父に不便を強いようと思っているのではない。変更することで確実にメリットが発生するのなら、喜んで僕の貴重な一日を進呈しよう。しかしだ。変更しても何も改善が期待できないなら、それは徒労となってしまう。
 まず「料金が安くなる」、というのは詭弁である。決して安くはならない。月額の料金はやはりADSLの方が若干安い。乗り換えると1万円だかのクーポンが付くそうだが、そんなのは両者の月額料金の差額の1年分にもならない。
 通信速度は理論上、早くなる。しかし前述のごとくパソコンに問題があり、回線を高速にしても、体感速度はおそらく変わらない。
 つまりメリットは何もない。それなのに替えたがる。
 
 替えたがる理由は想像が付く。セールスマンが若い男で、優しげな言葉を弄したのだ。年寄りの気持ちを弾きつける、トークを駆使したに違いない。
 うちの親父は83歳だ。見た目は実年齢よりも若干的若いが、電話ではまったくの爺さんである。普段は気が強く、癇癪持ちの、むしろ乱暴者の爺さんなのだが、どういうわけか電話では気の弱い爺さんを演じたがる。僕と話していてもそうなのだが、電話では“赤ちゃん言葉”のような“爺さん言葉”を使って、同情を買おうとする傾向にある。
 年寄りを口説くのになれたセールスマンは、そんな“赤ちゃん言葉”のような“爺さん言葉”を使う年寄りの心理状態を熟知しているのだろう。
 セールスマンが繰り出す優しげな言葉にメロメロにされ、助けてやりたい、と思ったのだ。きっと。

 即答で強く否定する僕の言葉に、親父は「どっちを信じたらいいんだろうね」と嘯いた。親父からみたら、キツイ口調で親父の判断を否定する僕と、“赤ちゃん言葉”のような“爺さん言葉”を優しく聞き入れて、甘言を弄する見ず知らずのセールスマンは、秤にかける存在なのだ。
 なんて、ことだ。親の身を案ずる子の言葉と、得体の知れないセールスマンの言葉を惑うなんて。
 その言葉を聞いて、思った。少し痛い目にあった方が良いな。これは。
 親父の言によれば、必要なのは工事だけで、パソコンは何もいじらなくて良い。画面も以前と変わらない。テレビを買い替えたように、ただ新しい回線に接続されたパソコンのスイッチを入れれば、それで終了。以前と変わらずに、ネットに接続できるそうだ。
 しかし業者は当然、回線工事だけを行い、パソコンの設定は行わないから、そのままではつながらない。パソコンの画面はたしかに前と同じものが出現するだろうが、ブラウザーをクリックしても、証券会社のサイトは出てこないのだが(このことについても、何度も説明したんだけどなあ。どうしても、信じてくれないんだよ、俺の言葉)。

 2、3か月は放っておくつもりだ。元からネットで株の売買をすることが、心配だった。これを機会に、ネットから卒業してもらう手もある。光回線を敷設したばかりで、可愛そうではあるが。
 車の免許も、ちょっと前に返納した。ネットも返納の時期なのかもしれない。
 パソコンが使えないのに、回線料を支払うという失費はあるが、大きな額ではない。誤った注文を出したりして、大損をすることに比べたら、小さなコストだ。

 と、ちょっと意地悪なことを考えている。

『相剋の森』 熊谷達也


 風邪をひいてしまった。数日前から喉が痛む。熱はないので、別に苦にしていなかった。ところが咳が出始めた。僕は喘息もちなので、風邪では咳が怖い。最近、調子がよかったので、まったく咳のことは考えていなかった。喉が痛んだ時点で、すぐに対処しておけばよかったのだが。熱がないので、漢方薬とビタミン剤を飲むだけで済ませておいた。喉の痛みも、少し緩和したので安心していた。そうしたら昨日から咳が出始めた。
 病院から喘息の薬はもらっている。咳止めというより予防用の薬だ。これが効くのかどうか分らないが、まずはこれで対処してみることにした。病院にはあまり行きたくない。何と言ってもお金がかかる。前回、喘息と花粉症で通院したときは、8000円もかかってしまった。今の僕にとって、8000円は大金である。なので、暫くはもらっていた薬のみで頑張るつもりだ。来週になっても治らなければ、やっぱり行くしかないな。


 さて貧乏臭い話はここまでにして、今日は熊谷達也の『相剋の森』だ。新潟北部のマタギの話だ。よくできていると思う。飽きさせずに最後まで読ませる構成力がある。テーマも深い。しかしアマゾンの書評を見たら、けっこう厳しいコメントがあった。こういうコメントを書く人って、よっぽどの読書家か、あるいは自分で作品を書いている人なのだろうか。
 小説はあまり読まない。最近の作品はとくに読まない。だから今の作品のレベルを語れる立場にないが、他と比較することなく主観で書けば、完成度の高い作品だと思うよ、僕は。

 たんなるアウトドアものではない。食べること、つまり命がテーマだ。食べることとは、つまり生きることである。生きることとは、つまり命である。
 僕らは生きるためには何かを殺さなくてはならない。生の連鎖とは殺(さつ)の連鎖でもある。

 僕は約10年間、厳格ではないがベジタリアンとして過ごしたことがある。場合によっては食べていた。回数で言えば、年に2,3回程度。だから厳格ではないベジタリアンだった。
 ベジタリアンになったのは、この小説のテーマと同じ、食と命について考えた結果だ。
 僕らの周りには、食が溢れている。肉を食べずにも生きていける。ならば肉を食べるのを止めよう。と、まあ単純に言えば、そう考えて肉食を断った。
 肉には哺乳類の肉と魚類や鳥類の肉がある。僕が止めたのは哺乳類と鳥類だ。それは獣や鳥は、魚に比べ知能が高いと考えたからだ。知能が高ければ、苦しみも大きいだろう。魚も知能はあり、苦しみもあるだろう。でもきっと、その程度は低いはずだ。
 また哺乳類と鳥類も2種類に分けて考えた。家畜と野生だ。そして僕が止したのは家畜だ。あれ、って思う人もいるかもしれない。普通の人は野生の動物の肉は食べない。たとえば、鹿なんかを銃でズドンと撃って、食べるなんて野蛮に思えて。さらに鹿さんがかわいそう。
 僕は牛舎で飼われている牛も、森を走り回る鹿も、食べられるために殺されることは、同じように可愛そうに思う。きっと両者の知能は変らないだろう。殺される前の恐怖や、その場の痛みは同じだと思うのだ。
 僕らは何かを食べなくては生きていけない。牛や豚や魚や野菜など。魚だって植物だって、食べる行為はすなわち殺生だ。殺から免れて生きてはいけない。
 だから牛や豚を殺して食べることも、仕方のないことだと思う。しかしだ。多少は殺される生き物の立場や気持ちを、思う気持ちも持つべきであろう。
 家畜として産まれた牛や豚は、生涯を檻に入れられ、愛情も喜びも得られずに短い一生を終える。普通なら20年以上生きる牛や豚は、牛の場合は5歳程度、豚はなんと1,2歳で屠殺される。人間で言えば、小学生か中学生ぐらいの年齢である。一生をアウシュビッツのような環境で過ごし、屠場に送り込まれるのだ。
 一方、野生の動物は母に育てられ、野山を駆け回り、生の喜びを味わった。しかし運悪くハンターと出くわし、駆け引きに破れ、殺された。殺されるのは母鹿かもしれない。子鹿かもしれない。可愛そうだ。
 しかし僕は家畜よりも野生の獣の肉を食べることを選んだ。それの方が、納得がいくと感じたからだ。その結果、年に2,3回、肉を食べた。

 そうだ。本の紹介である。この本は直接には僕が今、書いたようなことは書かれていない。マタギがいて、自然保護者がいて、ライターの綺麗な女性がいて。最初は野生動物保護の立場だった女性が、マタギと触れ合ううちに、熊狩りの支持者になっていく。
 きっとこのマタギは、僕が書いたようなことを一度は考えたことがあると思う。いや、猟に出るときは常に、食と命の関係に思いを至らすだろう。そして、女性ライターはそのことに気付いたのだと思う。

 決して重たく暗いストーリーではない。エンターテイメントとして、楽しめる作品だ。

『やわらかな心をもつ』 小澤征爾・広中平祐


 週末から来ていた母が火曜日に帰った。随分と色々、話し込んでしまった。大した話はしていない。孫(母にとっての)の話や、僕の同級生の動向(母親同士が今もって仲がよいのだ)などの話。そして親父の話。
 親父の話になると、母は愚痴になる。僕は愚痴を聞くのが苦手である。それで親父の愚痴話になると、「そりゃ、おふくろも悪い」と言ってしまう。
 でも聞いて欲しいんだろうな。

 愚痴とは呪いの言葉である。愚痴を繰り返せば、そのイメージは潜在脳にインプリントされてしまう。良い言葉なら、例えばお経や偉人の言葉なんかは、プラスに作用する。愚痴はその反対だから、精神を蝕む。そう思っている。
 でも、そうとばかりも言えないのでは、と今回思った。70歳も過ぎた老人は、今さら思考回路を修正することは容易でない。それよりも、ただ聞いてあげることの方が、精神上よろしいのかもしれない。
 母が帰った後、反省した僕でした。

 さて今日の本は『やわらかな心をもつ』だ。小澤征爾と広中平祐の対談である。かなり長い。
 小澤の友人である元TBSのプロデューサーが、小澤征爾の住むサンフランシスコに乗り込み、ボストンから広中平祐を呼んで、二晩に渡り語らせた話のほぼ全てが掲載されている。ときは1976年である。
 ほとんど編集はされていないと思う。なぜなら、3歳になる小澤の娘、征良ちゃんがときたま闖入してきて、「ここほれワンワン、見せて」など言うのが、そのまま載せられているからだ。それも、突然に。いままで日本の教育制度について語り合っていた文章の間に、「ここほれワンワン、見せて」が入る。
 この本はかみさんが図書館から借りてきたものを、拝借して読んだのだが、かみさんもそこが面白いと言っていた。同感である。二人の話は、ときにお酒など入って、ゆるゆると進むが、そこに征良ちゃんが飛び込んでくると、さらにゆるさが増す。これがアクセントになっている。

 この二人の天才は若い頃、お互いに無名だったころからの親友だそうだ。どうしてこう、才能は才能を惹き付けるものなのだろうか。芸術に限らずに、ビジネスでも政治でも、スポーツでも武道でも。歳を経て力を付け、有名になった人の若い頃の話を聞くと、そこには必ず有能な師や友が存在する。有名人は、若い頃から有名人の知人を持っている。
 その点、僕はどうだろう。優秀な奴はいるが、有名になっている者はいない。やっぱり才能は才能を呼ぶ。僕は呼ばれていないのか。いやいや、まだ先は分らない。有名になるのが、出てくるかもしれないね。そして、僕も。ふふふ。
 これは冗談で、まったく有名にはなりたいとは思わないが、有名になるほど力のある友人は持ちたいものだ。

 二人の出会いはフランスの語学学校であったそうだ。当時、小澤は始めての途欧を、スクーターに日の丸を掲げ、船で向ったのは有名な話だが、行った先はフランスだった。そこにハーバードで博士課程を履修中の広中が来ていた。博士号を取得するためには、英語以外に2ヶ国語の習得が必要ということで、フランス語を勉強しに来ていたのだ。
 若い二人はすぐに打ち解け、親友になる。

 誰がどう見たって天才なのだが、二人は自らを天才だとは思っていない。広中などはアインシュタインのような大天才と自分を比較して、頭が悪いと自らを切り捨てる。そしてそれを前提に、数学という頭の良さが最も求められるフィールドで、天才たちと競う戦略を立てる。カラヤンやバーンスタインに師事した小澤も同じことで、自分の才能を評価しない。
 これなんだなぁ、と思う。これができるから、こうした人は才能をフルに開花させることができるのだ。簡単には天狗にはならないのだ。天狗になる暇があれば、ただただ努力をする。
 努力は僅かだと苦しみにつながるが、積み重ねていくと楽しみにつながる。二人はその域まで達している。これができる人こそが、ひょっとして天才なのかもしれない。

 興味の尽きない話の連続で、すべてはとても書ききれない。その中で、僕がとくに力づけられたことを一つだけ書く。
 小澤征爾は酒飲みだそうだ。毎日飲むという。そして一旦飲むと、その後は仕事も勉強もできなくなるという。これって、誰かに似ていないだろうか。そう、僕です。まさに僕と一緒。
 小澤はそこで戦略を立てた。夕方になったら酒を飲む。飲んだらしゃべって、テレビを見て、子供と遊んで。そしてなるたけ早く就寝する。そして早起きをする。4時過ぎに起きるそうだ。
 午前中が勝負のときだ。その時々の課題の曲の譜面をピアノで弾き、自分なりの解釈をして、頭に入れる。午後はオーケストラとの練習や演奏を行う。
 これも僕だ。やってることの内容やレベルの差を無視すればの話だが。

 早起きをして、午前中勝負。我が戦略は誤りでなかった。あとは結果を待つのみ。
 でも僕の場合、午後ももうちょっと努力が必要だとも、思えるが。

私、ばかよね


 翻訳には誤訳が付き物だという。どんなに優秀な翻訳家でも間違いを犯すことがあるらしい。だからと言って、とても開き直れない。この場合は。

 誤訳を犯してしまった。それもとても単純な箇所で。高校生でも犯さないような誤訳だ。
 正確に述べると誤訳ではない。なぜなら翻訳の仕事ではなかったからだ。昨年末に引き受けた調査レポートの仕事だ。ある4カ国の電力状況を調べ、それを1カ国につき10ページ程度のレポートにまとめる。納期はたしか1ヶ月もない期限だった。
 仕上がりは1カ国につき、15ページ程度になった。つまり1ヶ月以内に60ページを書き上げたのだ。とてもキツイ仕事だった。60ページの翻訳なら、それほどでもない。しかし60ページの日本語のレポートを書くとなると、様子は異なる。その何倍も、おそらく10倍ぐらいの資料を読み込まなくてはならないからだ。それも、ほぼすべて英文だ。英文だったから、僕に仕事が回ってきたのだが。
 電力についてなんて、全然知らない。しかし経済的な側面ならば、何とかなる。基礎知識がなくても、常識で忖度できる。ところがクライアントは技術的な記述も求めてきた。英文で電力の技術についての論文を読んでもチンプンカンプンである。日本語だって、きっと分らない。
 そういう状況だったので、当初は余裕があると見込んでいた1ヶ月はあっという間に過ぎていった。結果、かなり急ぎで、つまり内容も確認する余裕がなく、何とかそれなりに仕上げて納品した。

 その後、内容の確認のメールが何度も来た。しかし600ページの英語の資料のどこから、データや内容を拾ったのかが分るように、残していなかった。レポートの仕事は始めてだったので、配慮が至らなかった。後から考えたら、当然トレースできるようにしておくべきだったのだが。
 原典を見つけるのは簡単ではない。その調査会社からのメールが来ると、恐怖で青くなった。それでも何とか、確認を続けた。
 2,3週間前にメールが来た。どうにかこうにか確認を終え、修正し納品した。それに対し、返事が来た。「これで最後の確認になると思います」と書いてあった。心底、安堵した。しかしだ。一昨日にまたメールが来た。タイトルには「確認」とある。うわああ。
 メールを開けて、愕然とした。明らかに僕の思い違いによる誤りが指摘されている。リサーチ会社は僕が典拠としたサイトを見つけており、おそらくここから拾ってきたと思われるが、とても間違えるような英文ではない。きっと他に典拠があるのでは、と書いてあった。
 典拠と思しき英文は見たことがあるようで、ないような。一縷の望みを抱きつつ、ネットで典拠と思しきサイトを探しまくった。結果は見つからなかった。調査会社が見つけてきたサイトこそが、僕の典拠だったのだ。

 とても簡単な構造の英文である。プロの翻訳家が間違えるなんて、嫌味でなくて、調査会社も信じられないだろう。だから確認のメールを寄こしてきたのだ。

 あー、もうこの会社から仕事は二度と来ないだろうな。調査レポートをやる前には、大きな翻訳の仕事をもらっていた。仕事の内容も進め方もよい会社で、その会社と繋がりを持てたことは、昨年の大きな収穫だと思っていた。
 それがみな、パーとなってしまった。スケベ心を出したのがいけないのだ。翻訳の仕事だけを請けておけばよかったのだ。調査レポートなんて、引き受けたことがないのに、つい安請け合いをしてしまった。それなりの原稿料はもらったが、将来を考えて取るべきリスクではなかった。

 後悔先に立たず。
 それにしても、僕の英語力って。いやいや、あれは英語力の問題ではない。だって、いくらなんでもそこまで低くないもの、僕の英語力も。仕事への配慮と集中力だ。問題なのは。
 そうすると、事態はより深刻だ。これが不足するのであれば、どんな仕事も失敗するだろう。
 おっちょこちょいな僕が、誤りに不寛容なこの業界で生き抜いていくためには、大きな試練となるはずだ

雨の長谷寺


 母が来ている。鎌倉の長谷寺へのお参りが目的だ。
 長谷寺には僕の弟か妹かが眠っている。生まれる前にあの世へ旅立った。

 もうその子が死んでから、46年が経つ。その間、ほぼ毎年、母はお参りに通い続けている。うちの実家は千葉にあるので、片道3時間をかけてやって来る。
 以前は日帰りで帰っていたが、今は僕の家が逗子にあるのでいつも2,3日滞在していく。僕がこの家を買ったとき、「これもご縁なのね」と喜んでいた。

 その子は僕が生まれて2年ほどしたときに、母のお腹に宿ったそうだ。しかしこの世に生を受けることなく、あの世へ召されていった。
 僕は生まれたときに内臓に障害があって、大きな手術をしている。産まれた1,2ヶ月のときの手術で、両親は死を覚悟していたという。それが運よく、命を繋いだ。そして、今もどうにか生きている。
 もし僕があのとき死んでいたら、弟か妹は生まれていたかもしれない。

 さきほど長谷寺から母が帰ってきた。今日は雨で、お寺がすいていたと嬉しそうに言った。

なりたかったもの


 受験のシーズンだ。甥っ子が浪人生で、今まさに、その真っ最中にある。
 甥っ子はよく僕に相談を持ちかけてくる。お節介好きな僕は、よろこんで相談にのる。
 「おじさん、俺、どの学部に進むべきかな」と、以前聞かれたことがある。「お前、何になりたいんだ。まずそこを決めなくちゃいけないよ。大学の学部はその途中経過に過ぎないんだから。目標が定まらなけゃ、途中経過も決まらないよ」、と分ったようなアドバイスをした。

 18歳の時点で、明確に将来の職業を決めることは簡単ではない。ほとんどの人は、そんなことを考えずに偏差値やブランドで大学や学部を志望する。

 甥っ子に薀蓄を垂れていて、さて自分はどうだったかを思い出してみた。
 子供の頃、それもうんと小さな頃。僕は“牛”になりたかった。実は僕は覚えていずに、母から聞いた話なのだが。
 牛か。何でそんなことを言ったのだろう。大人達は随分と面白がって、聞いたに違いない。
 子供のころに、その話をされると、いかにも怠け者らしくて、恥ずかしかった。今、思い出しても、たしかに怠け者らしくて、僕らしいというか、恥ずかしい気がしないでもないが、一方、なるほどなとも思わされる。
 牛はヒンズーでは神であり、禅では悟りの象徴として重んじられている。
 子供の頃は、そんなことは知らなかったし、もし知っていても、それがために牛になりたいと思わない。きっと牛の大きな体と、ゆっくりとした動き、優しげでいて悲しげな目、そうしたものから、牛に神秘性を感じたのだろう。
 牛の姿から、空腹感でなく、神秘性を感じさせられたとなると、なかなか愚鈍そうで、ひょっとして聡明な子供であったのだな、僕って。

 もうちょっと大きくなってからは、たぶん小学校三年生ぐらいからは、牛になりたいとは思わなくなった。かわりにある人になりたいと思った。
 これは、大人には打ち明けなかった。また笑われるのが目に見えていたから。親父などに聞かれると、大人達が喜びそうな、「パイロット」とか、「外交官」なんて答えていた。でも本当は、ちっともパイロットにも外交官にもなりたいと思わなかった。
 僕がなりたかったのはスナフキンだ。そう、あのムーミンに出てくる、麦藁帽子を被って、焚き火の前でギターを弾いているなぞの若者だ。あれに、心から強い憧憬を抱いた。
 なんてカッコいいんだろう。なんて魅力的な生き方なんだろうと。
 スナフキンは恐らく無職だ。無職ということではムーミンパパもノンノのお兄さんも変わりがない。あれも今にしては、魅力的な生き方だと思う。しかし子供時代の僕にはクールさが感じさせられなかった。
 僕はただ無職でぶらぶらしているからスナフキンに憧れたのではない。家も持たず、家族も抱えず、ひとり孤独に耐え、静寂を楽しむ。そんな生き方にシビレたのだ。

 「三つ子の魂百までも」というが、人間のOSは歳を重ねても多少のマイナーチェンジがある程度で、基本は変らないようだ。今もスナフキンが好きだ。一応、牛も好き。
 そして気が付いたら、いつの間にか彼らに随分と、近づいていた。
 無職ではないが、自由業についている。無宿ではないが、比較的田舎で自然の近くで生活をしている。焚き火は熾さないが、石油ストーブで直火を楽しんでいる。
 どうでしょう。ちょっと近づいた感があるでしょ?

 しかし、今こうして考えてみると、より近づいたのはスナフキンでなく、ムーミンパパの方であるような気もするが。

 甥っ子は当時の僕よりも百倍もしっかりしている。将来は数学者になりたいそうだ。

 注:僕も大学受験のことは、将来の職業はスナフキンとは、さすがに思わなかった。思っていたのは小学生時代のみ。では大学受験のころは何になりたかったかというと。これはまた、別の機会で。

「幸福の研究」 デレック・ボック


 売れている本なのだろうか。逗子図書館で予約を出してから3ヶ月ぐらいかかって、ようやく自分の順番が回って来た。
 サブタイトルには「ハーバード元学長が教える幸福な社会」とある。タイトル、サブタイトルを読んで、いわゆる自己啓発物と考えて手を出すと、期待は裏切られるだろう。この本はデレック・ボックという、元ハーバード大学の学長で著名な法学者が書いた、学術的見地から“幸福”を分析したアカデミック・レポートなのだから。つまり固くて、客観的。当たり障りがない。

 自己啓発を期待して読み始める読者は、欲求不満を感じるだろう。もっと作者に引っ張ってもらいたい。なぜなら、そこには作者の断定や恣意はない。しかし自己啓発を読む読者は、実は作者の思い込みや気ままな断定こそ求めているものなのだ。ところがこの本は、客観的なデータを基にした幸福の分析と解説である。
 原題は「Politics of Happiness」であり、直訳すれば、「幸福の政治」となる。構成は、「先行研究からの知見」、「幸福研究の信頼性」と来て、まず幸福を定義付ける。続きの章では、経済、結婚、教育、政府などを媒介にして、幸福とは何かを見極め、何が幸福を高めるのかを、データをもとに解説する。
 良質な本だとは思う。しかし僕の場合は、俗物的な発想でこの本を手にしたので、ちょっと肩透かしを食らったように感じた。「データはもういいです。で、先生はどう思っているの?」と。

 ただデータは決して馬鹿にできるものではない。興味深い事実も示してくれる。幸福を扱う本で、データとくれば、「マネー」だろう。ひとはマネーの多寡で幸福が左右される、そういうデータが示されているに違いない。とくにアメリカでは。
 ところが結果は、僕の浅はかな予測を裏切った。個人的、あるいは国家的な経済の良否は、幸福感と明確な相関の関係を示していないのだ。たとえばアメリカ国内で見た場合、富裕層と貧困層では、幸福感に差異は見られる。しかしある層の人が引退して、収入が激減しても、幸福感に反映しない。つまりこの場合、収入の減少が幸福感に影響を与えない。
 国別で見た場合も、ある程度は、富裕国と貧困国の間で幸福感に差異は見られる。しかしご存知のブータンのごとく、貧しくても幸福度が高い国がある。所得以外のファクターが大きく作用している。

 この本は学者が政治を意識して書いた本なので、社会福祉や治安、所得、失業率、医療などが、どのように幸福感に影響を与えるかを分析し、政府の対応を示唆する。しかし僕ら、普通の国民には、それらは天与の環境であって、自分ではどうすることもできない。どうすることもできないことで、気を病んでも仕方がない。
 政治や行政を司っていない我々は、どうすれば幸福感と肯定的に付き合うことができるのだろうか。
 本でも触れられていたが、つまるところ幸福感は満足感と表裏をなす。どんなにリッチだろうと、どんなに高学歴だろうと、美人の奥さん、ハンサムな夫がいようとも、その状態に満足していなければ、幸福感は訪れない。
 ところが現代は、個人に不満感を植え付けようとするエネルギーで満ちている。最新式の携帯電話を買っても、すぐにもっとオシャレなバージョンが登場する。クールなスポーツカーを買っても、クラシカルな高級車も捨てがたい。広告はつねに、消費者の飢餓感を煽る。
 政府自体が、国民の消費に基盤を置いた経済政策を取っている。内需の喚起なんて、つまり国民にもっと買え、無駄でもいいから兎に角買え!、と叱咤して、現状の否定を促しているようなものだ。

 こんな現代においては、物質とサービスに溢れていながら、幸福感を得ることは簡単ではない。その中で、我々はどのように、自らの幸福を追求していくべきだろうか。
 残念ながら、答えはこの本には書かれていない。

「私のニッポン武者修行」 C.W.ニコル


 羨ましい青春時代だ。良い時代に、良い土地へ誘(いざな)われ、素晴らしい人々と交流する。

 親日家のナチュラリストとして有名なC.W.ニコルが、最初に日本に来た目的は武道の修行だった。
 ニコルはイギリスで柔道を学び、その後、17歳でカナダに渡り、北極の調査団に加わる。ナチュラリストの専門家への道を進み始めるが、その前にどうしても、しておきたいことがあった。武者修行だ。

 僕の生まれる1年前の1962年、ニコルは初めて日本の地を踏む。
 来日と同時に講道館で柔道を、松濤館で空手を学び始める。暫くして空手の先生にどちらかを選ぶよう迫られ、面白くなり始めていた空手を取る。
 当時の松濤館には名人が揃っていた。名人の筆頭は何と言っても中山正敏だろう。武道に興味のない方はご存知ないかもしれないが、中山正敏は拳聖といってもよい達人である。そして金沢弘和。腕の骨を折られながらも全国トーナメントを勝ち抜き優勝したという逸話の持ち主だ。ハワイに空手普及で出かけ、当時はよくあったようだが、向うのプロレスラーと真剣勝負を重ね、ことごとく打ち破ってきたという剛の者である。今も健在で、その技とスピードは神話の域に入っていると聞く。
 こうした達人達にC.W.ニコルは可愛がられ、直接に手ほどきを受ける。武道ファンには、ため息がでるほどに羨ましい体験だ。

 さらにしっかり、恋もする。C.W.ニコルは喧嘩早いので有名だったようだが、女性の方にも手が早いのだ。訪日時にはオーストラリアに彼女がいたのだが、早々に大和撫子に恋をして、ちゃんとハートを射止める。その後の展開も素早く、じきに結婚し、妻の母と東京の秋津で同居を始める。
 昭和30年代の秋津は、戦闘機の墜落の穴が残っているほど、戦災の跡が色濃く残っている土地であったが、笑顔が可愛い20代のニコルは村の人々にも愛される。そこで素朴な村人と暖かな交流が始まる。
 村人の中には彫金家で、剣道と居合の愛好者であるイケダという人がいる。イケダの築400年の草葺屋敷で、剣の稽古をつけてもらったりする。イケダは西洋の騎士道にも詳しく、哲学的な武道談義にも花を咲かせる。これもうらやましい。

 20代のニコルは伝説の空手の名人達に稽古をつけてもらい、かわいい日本の女性と恋をして結婚する。秋津という自然が豊富で風情ある土地で、素朴な住人と暖かな交流を繰り広げる。
 なんてよい青春時代なんだ。

 この羨ましい白人青年は、しかし常人とは異なっていた。当時も今も日本に武道の武者修行にくる外国人はいる。とくに昭和30年代は武道の世界展開の揺籃期であり、大抵の武者修行者は、その後プロになる道を選んだ。金沢弘和はわざわざニコルに個人指導を行っている。おそらくプロになり海外での普及の一翼を担ってもらうことを期待されていたようだ。しかしニコルは武道を生活の糧にすることとは、常に考えていなかった。あくまでも心身の鍛錬が目的だったのだ。
 ニコルが目指していたのは探険家であり作家であった。武道は自分を探求する媒介にすぎない。それによって自らを鍛え、本来の道を補完しようと考えていた。
 その結果は、皆さんもご存知の通り。成功したナチュラリストであり作家である、今のニコルがある。

 さらにだ。ニコルは本業だけでなく、武道も本格的に続けていた。現在、松濤館空手の7段である。
プロフィール

山本 拓也

Author:山本 拓也
職業:翻訳者
過去の職歴:HSBCを経て産経新聞社
家族:妻、フクちゃん(猫オス 3歳)、大吉くん(猫オス 2歳)
住まい:逗子

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