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漢方に挑戦


 咳がまた止まらなくなった。1月にちょっとした風邪をひいてから、すでに2か月以上。未だに咳が残っている。
 近くにあるセンペル逗子クリニックにいる気管支系の専門医に診てもらい、薬を処方してもらったが、まったく効かない。以前も診てもらったことがある。そのときは劇的によくなって、さすが専門医と絶賛記事を書いたのだが、今回はうまくいかない。頑張って、2か月間薬を飲み続けているが、快方に向かっている兆候はない。そこで以前から気になっていた、鎌倉にある田中医院という漢方医を標榜する病院へ行ってきた。

 院内はいかにも年寄りが集まる病院らしく、雑誌など山積みで雑然としている。テレビは大音響でつけっぱなしだ。苦手なタイプの病院である。入った瞬間に帰ろうかと思ったほどだ。
 しかし先生は悪くなかった。70代と思われる男性で、漢方医の雰囲気を十分に備えた堂々たした面持ちだ。声は低く力強い。
 10分以上、丁寧に問診や腹診をしてくれた。この先生の見立てでは、私は咳喘息であるとのこと。センペルでは喘息と言われたが、ちょっとレベルダウン(良い意味で)した見立てである。
 結果、キュバールというステロイド系の吸引薬と、柴陥湯(さいかんとう)という漢方を処方された。

 病院の隣にある薬局がまたすごかった。局内は漢方の臭いなのか老人臭なのか不明だが、不気味な香りで満ちていた。そしてこちらもテレビが大音響だ。
 私が入ると薬剤師が電話をしている。私には目で挨拶をした程度で、電話に取り掛かりきりだ。仕方がないので雑誌や書類(薬剤師の仕事の書類らしきもの)が積まれているソファーに腰かけて、待つことにする。
 しかしこの薬局も悪いところではなかった。私の後ろには2組ばかりの客が待っていたのだが、私の質問に丁寧に答えてくれた。ちょっと後ろの人が気になって、遠慮して私から話を切り上げたほどだ。

 昨日から柴陥湯を飲んでいる。ネットで調べると、かなり強力な薬のようだ。ここのところ漢方関連の本を3冊続けて読んだ。それによると、漢方はうまく合うと劇的に効果を現すらしい。
 以前、2つの漢方医にかかったことがある。1つは遠方から患者の来る有名なクリニック。もう1つは朝日新聞の元記者が一念発起して医学部に進学し、その後漢方医になった銀座のクリニック。
 今回の柴陥湯は、それらでは処方されなかった初めての薬だ。この薬が私の問題にピタッと合致することを祈る。劇的な効果を現してくれるといいのだが。
 

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春休み


 我が家は一昨日から春休みの雰囲気になっている。かみさんは学校に出勤しているし、自分も普段通りに仕事を進めている。でもちょっと違う。かみさんの勤務時間が短くなったからだ。
 小学校は月曜から春休みだ。今は昔と違って学校の先生は、春や夏の休みの間も出勤する。しかし子供が学校にいるといないとでは、随分と勤務が異なるようだ。
 普段は朝6時前に家を出て、帰ってくるのは9時近くだ。ときには10時、11時になることもある。これが結構たいへんだ。かみさんがじゃなくて、俺が。
 朝は4時半に起きて、朝飯を作り、猫にもエサを上げ、トイレを掃除する。食器の片づけをして、晴れている日は洗濯をする。どんなに頑張っても、これらが終わると7時近くになっている。それから仕事に取り掛かる。
 夜は夕飯を作り、先に食べる。かみさんが帰ってきたら、また食事を作り、給仕する。終わるのはだいたい10時ごろだ。
 しかし月曜からはのんびりペースになった。朝は目標、4時半起床だが、場合によってはのんびり起きる。今朝は6時半だった。
 それからかみさんは猫のお腹を撫ぜたりしながら、のんびりと支度をする。それに合わせて、こちらものんびりと食器を片づけたり、洗濯物を干したり。
 そして何よりもよいのは、かみさんの帰りが早い。7時前後には帰ってこられる。この時間だと自分も待っていられるので、一緒に夕食を食べる。一緒に食べられると楽しいので、食事も必然的に少しばかり手の込んだものを作る。
 一緒に食して、テーブルはちょっと品数が多く並んで。こうなると当然のごとく一杯やりたくなる。一昨日は日本酒、昨夜は赤ワインを飲む。
 そして次の日の朝は、のんびり。

 昼間はいつも通り机に向かいっぱなしではあるが、朝夕に余裕があると、仕事もはかどる。
 毎日、こんなペースで行ければいいんだけど。この生活が続くのは来週いっぱいまでである。

 

スクラップ&ビルド



 先ほどある翻訳会社にメールを書いた。今、定期的に受けている仕事を中断してもらいたいといった内容だ。はっきり書いてしまうと、契約破棄の申し出だ。
 その会社は、ちょうど1年前からのお付き合いである。去年の今頃はイタリアに新婚旅行に行っていた。現地でメールをチェックして、その会社のトライアルに合格したことを知った。それまでに何度もトライアルは受けていたが、みな不合格だった。初めて正式なトライアルに合格したのだ。ものすごく嬉しかった。かみさんも喜んでいた。
 その後、その会社は定期的に仕事を発注してくれるようになった。色々な経験を積むことができた。そのお蔭か、段々と他社からの仕事の依頼が来るようになった。いくつかトライアルにも合格した。
 ということでとても感謝している会社なのだが、問題がなくもない。翻訳料に難があるのだ。料金について書きたいが、それは守秘義務があるので書くことはできない。ただとても安いとだけ、書いておく。
 その会社からしたら、それには理由があるはずだ。そこの仕事はかなり定型化されていて、うまく効率化すれば、短時間で訳すことができる。現在、実務翻訳においてはトラドスなどの機械翻訳を導入して、翻訳を効率化させている翻訳者は少なくない。機械翻訳を使えば、そこの仕事はかなり効率化できるはずだ。すれば時間当たりの料金をアップすることは可能だ。
 しかし私は機械翻訳を導入する気は、まったくない。勧められて迷ったことはあるが、経験を積み、自分の方向性が見えてきた現在、機械翻訳は自分の興味の対象ではない。
 まず機械翻訳でできる翻訳はマニュアルなどの定型文が多い分野だ。そして繰り返し同じ言葉が続いても、問題としない、つまり文章力より、原文の内容に忠実に訳すことが求められる分野である。この分野は、自分が進むべき方向だとは思っていない。
 この方向とは、正反対の方向に進みたいと考えている。原作者の個性を訳文に残したい。同じ言葉の繰り返しは避けたい。日本語の文章として、完成度を高めたい。
 機械翻訳を屈指して、ものすごい量の翻訳をこなす実務翻訳かがいることは知っている。量が増えれば収入も上がる。年収1千万以上、中には2千万以上の猛者もいるらしい。
 でも、自分はそんな話を聞いても、まったく羨ましいとは思わない。気持ちがそちらに傾くことはない。
 収入が低くて、かみさんや親には迷惑をかけていると思う。親から援助を受けているわけではないし、かみさんとも家計の分担は、共稼ぎとしては普通の割合でやっていると思う。でもたまに親孝行をしたいとか、豪華な料理をかみさんに食べさせたいと思うが、そうしたことは今はできない。だから、その点で言ったら、もうちょっと収入は欲しい。でもそれを織り込んでも、私は仕事の方向性を変えることはしたくない。

 ということで生意気にも、私に仕事を恵んでくれるという貴重な翻訳会社を1つ切ってしまった。今はたまたま仕事が入る流れに乗っているが、この潮流がいつまでも続く保証はない。
 翻訳は案件を1つずつ獲得していく厳しい仕事だと思う。毎年、契約更新のあるプロ野球の選手と同じで、実績を残せなければ、次の仕事は来ない。でもイチローみたいに、実力を示せれば、いたるところから声がかかる仕事でもある。

 いつも通りのオチだけで、目の前の仕事を丁寧にこなしていくしかないのだと、改めて思う。
 

文明は衝突するのか


 アマルティア・センが「グローバリゼーションと人間の安全保障」という本の中で、サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」を批判している。

 センの趣旨はこうだ。「文明が衝突するのか」という設問が、そもそも誤りである。ひとは文明とか宗教とかの単一のファクターで、分類できるものではない。人は本来多様なものなのだ。
 多様であれば、「文明が衝突」するという設問自体が成りたななくなる。文明というくくりで人を集団化することはナンセンスだから。
 多様さを説明するために、センは次のようなひとを例としてあげている。
 「同じ人物が、アメリカ人で、ハワイ出身で、日系で、キリスト教徒で、共和党支持者で、女性で、菜食主義者で、長距離ランナーで、歴史家で、教師で、異性愛者で、ゲイ/レズビアンの権利の擁護者で、詩人で、バードウォッチャーで、環境保護の活動家で、テニスのファンで、ジャズを好み、宇宙人がすばらしい乗り物にのって定期的に地球を訪れることを深く信じている人であることはありえるのです。・・・
 例えば、ディナーに出かけるときには、菜食主義者であることの方が、歴史家としてのアイデンティティーや詩人としてのアイデンティティーよりも重要になります。とはいえ、ある人のもつ複数のアイデンティティーが互いに競合してしまう場面も多いでしょう。例えば、環境問題に関するデモ行進に行かなくてはいけない日と、面白そうなテニスの試合がある日が重なってしまったときに、環境活動家である自分とテニス愛好者としての自分に対する相対的重要度を決めなくてはなりません。・・・」

 たしかに人は多様性を内包している。文明の衝突を論じるとき、そこに多様性への配慮は欠落しているように見える。
 ところが現実の世界を見回すと、この多様性への認識が不足しているがための、政治活動や社会分析、報道が横行しているように見える。

 フツ族とツチ族は民族といった一要素で限れば、明確に切り分けることができるが、あの紛争以前は隣同士のご近所さんとして、長い間平和に共存していた。その当時は民族の違いよりも、魚屋であるとか八百屋であるとかの職業や、年齢、性別がアイデンティティーとして優先していただろう。
 その場そのときで、ひとの立場は変わる。つまり多様なのだ。この多様性に目を向けていれば、文明や宗教といった大くくりの集団化がコンフリクトを生むといった構図は解消されるだろう。
  そこでセンは多様性の認識の重要さを強く訴えるのだ。

 この本を読んで、たしかになあと、強く頷かされた。大方の日本人は「文明の衝突」という本が好きだろう。好きな理由はきっと、日本が世界の大文明の中でも、ひとつの文明としてくくられているからだと思う。あれを読んで、「うんうん、ハンチントン君もなかなか勉強しているじゃないか。そうそう、日本文明は中華文明ともインド文明とも異なる独自の文明なのだよ」と溜飲を下げた人は少なくないのではないか。何を隠そう、吾輩もそうであった。
 しかしセンを読んで、自らの暗愚とおめでたさを思い知らされた。まあ自分が暗愚なのは仕方がない。しかし、こうした意見が日本人の識者からも出ているのだろうか。きっと私が知らないだけで、中にはいるに違いない。しかし「文明の衝突」が出た当時、多くの論評が掲載されたが、多様性から論じたものは私の眼には止まらなかった。

 読んでから少しばかり時間が経った。そしてあのときの知的興奮は冷めてきた。そして今考えると、ちょっとした疑問が湧いてきた。
 文明や宗教は集団化するものだ。まずは地理的な意味において。イスラム教徒はイスラム教徒同士が同じ国を形成し、あるいは同じ地域に寄り集まる。しかしテニス愛好者同士が国や地域を形成することはない。
 そして歴史的な意味において。文明や宗教は歴史的なつながりを持つ。例えばスラブ人は3世代前も10世代前もスラブ人であったはずだ。途中で日本人になったりはしていないはずだ。一方、長距離ランナーは3世代前も10世代前も長距離ランナーであったということは、おそらくない。
 この違いは大きい。あるキャラクターが寄り集まって集団を形成する。その集団は100年も1000年もそのキャラクターを維持し続ける。そしてそのすぐ近くには、別のキャラクターを有する集団がやはり1000年以上も前から存在し続ける。そして何かの拍子に、キャラクターとキャラクターが集団で喧嘩を始める。ありえる話だ。

 たしかに多様性は文明間の衝突を避けるキーとなるに違いない。しかし我々当事者が、その多様性を大抵の場合認識していない。そうした考えに慣れていない。一方、文化や民族、宗教は頭の中で顕在化しやすい要素である。まず、認識を変えることが必要になりそうだ。
 

紙婚式


 昨日は籍を入れて1年目の日だったので、かみさんとふたりで外食をした。逗子の「ウーナジョルナータ」という店だ。いつもランチだが、何度か訪れている店だ。
 逗子、葉山というのは案外知られていないが、イタリアン・レストランの密集地だ。競争が激しいのだから、質も向上する。そんなことを偉そうに書いても、行った店は何軒もない。その中で比較するのだから信ぴょう性は薄いが、この「ウーナジョルナータ」は良い店だ。なんといってもリーズナブルである。
 昨日は一番高いランチを食べた。前菜とパン、パスタ、肉or魚のメイン、デザート、コーヒーで3000円ぐらい。赤ワインのハーフボトルを頼んで、全部でふたりで6000円台だった。普段はパスタランチを頼むのだが、こちらは1000円ちょっと。それで味も大変よい。量の方も、大食いの我らでもいつも満足できる。

 1年前の昨日、かみさんと二人で自転車に乗って、逗子市役所に籍を入れに行った。昨日のように暖かな春の日だった。
 かみさんは震災の直後だし、延期しようかと気遣っていたが、私は最初から決めていたのだからと強行を主張した。だって、我々が自重したって、被災した方々や復興に何の影響も与えることはできないから。

 一年目は紙婚式というそうだ。紙にはいつもお世話になっている。新聞社時代の給料は、ほとんどが紙を売って得たものだ。これからも本という紙を売って生業を立てたいと思っている。
 改めて紙に感謝。
 

俺って勝ち組なの?


 以前、会社(産経新聞社)の後輩から「山本さんて最高の勝ち組ですよね。みんなそう言ってます」と言われたことがある。はっきり言って、耳を疑った。
 私はそのときまで自分のことを勝ち組だと意識したことは一度もない。それに、もとから勝ち組だとか負け組だとかの概念が自分にはない。そこで無理して考えてみても、どうしても自分が勝ち組だと思われているのかが想像さえできない。そこで尋ねてみた。「どうして?」

 後輩が答えた理由を分類すると以下のようになる。(1)有給休暇をたくさん使っていた。(2)疾病休暇もたくさん使っていた。(3)選択退職制度を利用して退職金をたくさんもらった。(4)バツイチなのに若い奥さんをもらった。以上。

 この4点である。この話を聞いて、思ったこと。このブログはその後輩も読んでいるかもしれないが、正直に書く。「しっかりせよ、後輩」
 こんな理由で俺は勝ち組なのか。そして君らの人生の価値基準とはこの程度のものなのか。

 勝ちとか負けとかは、どうでもよいと思っている。そんなこと、他人や社会が決められることではない。個人の気持ちの持ちよう次第だ。
 こうした概念が存在することは、もちろん知っていた。そこであえて一般に流布する基準で自分を評価するとしたら、自分は間違いなく“負け組”だろうと思っていた。
 だって世間的に見れば、俺って下降している。最初に入った会社は超高給会社で、そこから普通の給料の会社に移って。それでも最初は、結構どういう訳か上司から嘱望されていた。それで留学制度に合格することもできた。その結果、修士を取ることもできた。産経の留学制度で修士を取った人は、たぶん自分しかいない。帰国後はまだ、多少は期待されていたかもしれない。大きなプロジェクトも任されたりした。でも、段々と自分と会社の指向する方向が乖離しはじめた。結果、なんとなく風当りが強くなってきたことに気付くようになった。
 同期のうちに出世するものが現れ始めた。もとからプロモーションにはまったく興味がなかったが、それでも鈍な自分でも気づくようになった。「ああ、俺ってラインから外れたな」。
 産経を辞めた時点の自分の肩書はなし。つまり平だった。早いやつは後輩でも、局次長になっていた。
 それがだ。俺って会社の後輩からは産経一の勝ち組と思われているらしいのだ。まあ、ほんの一部の連中が、きっと飲みながらでも、面白おかしく話した結果だと思うけども。

 たしかに有給休暇を、だいたい全部使い切っていた。入社して最初のころから、結構使っていた。それでも最初は遠慮して、半分ぐらいしか使っていなかったが。それでも多く使っている方だった。入社して10年ぐらいしてからは、ほぼ全てを使い切っていた。他の会社もきっと同じだと思うが、会社からは毎年20日(たぶん)の有給休暇を新規でもらった。累積できるのは40日だった。入社して数年で40日は届いた。それ以降は新規でもらった有給休暇は、40日を限度に自動的に切り捨てられる。
 有給休暇は社員の権利だ。名称も有給とついている通りに、これって給料の一部みたいなものだ。かりに20万の給料を毎月もらって、それで15万円しか使わなかったからって、5万円を返却する人はいない。同じように休暇でも考えた。そこで計画的に毎年20日の有給休暇を消化した。
 たしかに私のように毎年の有給休暇を使い切る社員は、まわりにはいなかった。ひとりもいなかった。自分では、自分が使い切っていることはあえて人には言っていない。でも未だに後輩たちの間で、自分の話題が出るということは、相当目立ってたんだね。知らなかった。
 でも言わせてもらえば、それは産気新聞社の特殊性かもしれないよ。だってその前に勤めていたHSBCという英国系の銀行では、みんな有給を100%消化していたもんな。
 まあきっと、産経が特殊なんでなく、HSBCが特殊だったに違いないが。

 疾病休暇だが、これは神経鞘腫を手術したときに使った。全部で4か月休んだと記憶している。これは、本当はもっと休めた。ただそうすると、休職中の給料が下がる。最後はゼロになる。でも1年ぐらいは休めたと思う。
 いや違う、違う。こんなことを書くと、休むために休んだように思われてしまう。あれは本当に病気で休んだのだ。仕方がなかったのだ。でも休日も出勤するような後輩達には、うらやましく思えたのだろう。
 病欠をしているときはちょうと夏だった。神経鞘腫の手術で背骨の一部を切断して、しばらくは動くこともできなかった。だからリハビリが必要だった。でも内臓なんかは元気なままである。だから気持ちは元気なのである。そこで元からトレーニング好きな私は、思い切りリハビリにいそしんだ。毎日、海まで歩いていき、海水浴をしたのだ。晴れている限り、毎日海へいった。
 その結果、筋力はめきめき回復した。4か月後には、普通に歩くことも泳ぐこともできるようになった。走ったり、合気道の稽古は無理だったが、普段の動きはまったく支障なくできるまで回復した。さらに変わったことがあった。信じられないぐらいに真っ黒になってしまったのだ。
 4か月の疾病休暇を取得した私は、会社復帰第一日目で多くの仲間や先輩、そしてとくに上司から、とても冷ややかな目で、会社復帰を祝福された。そりゃそうかもしれない。ハワイ旅行へいった社員よりもずっと真っ黒だったんだから。
 でも私は別に負い目は感じなかったよ。そうでしょ、悪いことは何もしてないもん。

 選択退職制度だが。これは何度かあったようだ。私はその中で最初の制度を利用して、会社を辞めた。その結果、その後の制度で辞めた人よりは退職金が多かったらしい。
 これも前から辞めたかったから、よい機会だと思ってやめたまでだ。ただ、おそらく今回が最高額になるだとうはと予想していた。
 退職制度が発表になると、すぐに他社の動向を調べたからだ。当時はリーマンショックの後で、多くの会社が選択退職制度を実施していた。調べると初回目の退職金が、どこの企業も一番高いことがわかった。
 でも利に走って、一回目にしたわけではない。それよりも、早く辞めたい気が強かった。

 最後の嫁さんについて。これは単なる縁だもんなあ。別に若ければいいってもんじゃないし。
 結婚を決めたときにはまったく歳のことは意識しなかった。かみさんはどうかは知らない。でも自分にはなかった。彼女の歳がもっと上でも、下でも、結果は同じだったと思う。たぶん、いや。今、ちょっと考えてみたけど、もしかしたら違ったかも。
 それでも、そのときは本当に、若いからこいつがいい、なんてことは思わなかった。今、一緒にいると確かに若いことは良い、と思うことが多い。でも、仮に同年代の女性と結婚しても、俺はきっと、同年代でよかったと思うだろう。

 ということで、自分の中では、とくに意識しないで選択してきたものばかりである。ここには努力とか計画とかはない。だから、これをもって勝ち組と言われることには、戸惑いを覚える。

 ただもうひとつ、正直に告白しなくてはならない。この発言を聞いて、思ったことがもうひとつあるのだ。
 それは、「なんだか嬉しいぞ」、というものだ。やっぱり俺は俗人である。
 

「私が弁護士になるまで」



 フジテレビのアナウンサーだった菊間千乃が書いた「私が弁護士になるまで」を読んだ。テレビはほとんどみないし、とくにフジテレビは皆無に近いのだが、このアナウンサーのことは知っていた。転落事故と、未成年飲酒問題のニュースを読んでいたからだ。その後のいきさつは知らなかった。フジを辞めて、法科大学院に進学していたらしい。
 正確に書くと、法科大学院に進学したのは、フジの社員であったときだ。菊間は入社のときに書かされた将来取得したい資格で、“司法試験”と書いていたらしい。30歳を過ぎて、真剣にそのことを考え始め、在職中から埼玉にある私立の法科大学院に通い始める。
 その後、未成年飲酒事件を起こし、謹慎処分を受け、全番組を降板させられる。このことが直接の原因ではなかったようだが、人生を振り返る大きなきっかけにはなっただろう。しばらくして本格的に勉強に集中するためにフジテレビを辞職する。

 読む前は、タレント本だろうと高をくくっていた。わずかの中身を薄めまくって、むりやり本に仕立てたものだろうと、期待していなかった。ところがだ。予測は裏切られた。
 主に司法試験への挑戦のプロセスだ。そこを淡々と記している。30代のキャリアウーマンとしての悩みや、フジ在職中のトラブルの反省、苦悩なんかも織り込まれている。しかしそれらはやはりスパイスに過ぎない。メインは司法試験である。この一般人とは関係性の薄いテーマが、しかし力強く読者をひっぱる。
 真剣に取り組む姿勢は、それだけで人の心を打つ。ただただ、勉強の日々である。1日15時間の猛勉強だ。そのために大宮へ引っ越し、一人暮らしを始める。朝起きて、図書館に直行し、大学の授業を受け、学校が閉まると、ベッドに入るまでただひたすら机に向かう。
 彼女はだれよりも努力できることが、自分の強みだと認知している。全司法試験受験者の中で、一番勉強したのだという意識を持つために、そしてそれだけが自分の武器だと自覚して、ひたすら勉強する。

 司法試験は法科大学院制度になってから、以前ほど難関試験ではなくなったのではと思っていた。ところがこの本を読むと、どれだけ司法試験の受験生が勉強しているのか、相変わらず超難関試験であるのかを知ることができた。

 僕は以前、司法書士の専門学校へ通っていたことがある。会社を辞めたくて、だけど何を自分はできるのだろうと暗中模索のときだった。すでにそのときは法科大学院の制度ができていた。法科大学院へ通うのは500万円以上かかると聞いていた。とても自分では負担できない。一発試験の司法書士を当然のように選んだ。
 司法書士も難関試験である。とくに司法試験が大学院制度になってからは(まだ一発試験もあるが)、大学院へ通えない社会人などが司法書士試験に流れ込んできており、ひょっとして司法書士の方が難しいのではと言う人がいるぐらい、それはせまき門だった。
 約1年、けっこうまじめに勉強した。法律って面白いものだと思った。しかし難しいものだとも感じた。法律的な思考を獲得することは簡単ではない。というのは、法律的な思考は、普段の頭の使い方とまったく違うスキルを要するからだ。それを頭に叩き込む作業は、忍耐がいる。
 
 僕はその、忍耐のいる作業を途中で放棄した。受験もしなかった。受験勉強中に神経鞘腫という病が発覚し、手術をしたからだ。入院を1か月して、その後3か月間、自宅療養した。神経鞘腫が発覚してからは、司法書士への興味が急速に薄れていった。もしかしたら死ぬかもしれないと考えた。生き残ったら何をしたいかを想像した。そこに司法書士の姿は浮かばなかった。それで、あっさり止めてしまった。あのきつい作業は、生半可な気持ちでは継続できるものではない。

 僕の場合、そういうバックグランドがあるのだが、しかしそうでない人も楽しめると思う。とくに20代後半から30代の人にはお勧めだ。彼女と自分の生き方を重ね合わせながら読むと、さらに魅力は広がるだろう。
 ああ、それ以外の年代の人も、もちろん楽しめます。
 

甥っ子の決断


 何度かブログで書いている甥っ子の大学が決まった。国立大の理学部である。慶応の環境情報に受かって、かなりその気になっていることも書いたと思う。SFCには一緒に見学に行った。春の晴れた湘南の藤沢キャンパスはアメリカの大学のように広くて整然として、気持ちがよかった。案内の学生は親切で、そしてこれが大切なのだが(甥っ子にとって)、とてもあか抜けていた。
 その時点で国立は落ちたと思っていた。そして実際に落ちた。そう、国立には一度落ちたのだ。甥っ子が志望していたのは理学部数学科である。
 そして慶応に入学金を支払った。アパートの契約もした。私も一緒に見に行ったアパートだが、とてもよいところだった。20平米弱だがロフトが付いていて、広い。クローゼットとガスコンロ、エアコン、そして冷蔵庫まで備え付けられている。大学からも近い。それほど新しくはないが、外装も内装もきれいだった。それでいて家賃は39000円。あのあたりでも、かなり安い部類である。
 そんなこんなで、甥っ子はすっかり慶大生になったつもりでいた。私へのメールにも、「僕もこれで慶大生です」なんて、書いてあった。

 ところがだ。アパートを申し込んだ次の日に、国立大学から郵便が届いた。開いてみて、甥っ子は心底驚いた。それは合格通知だったからだ。しかしそれは、心から喜べるものではなかった。
 合格したのは理学部数学科ではなくて、同じ理学部だが別の科だったのだ。そんなこと、ありうるの?って、感じでしょ。
 実はその大学は入学願書に第二志望までを記入させていた。甥っ子は、数学科以外は眼中になかった。そこで適当に、人気のなさそうな科のところに丸をつけた。
 最初の合格発表は第一志望のものだったのだ。そして今回、第二志望の発表があった。そして甥っ子はそこに合格した。

 国立に合格した知らせが甥っ子から来た。しかし甥っ子は戸惑っている様子だった。
 そこの国立は、かなりの一流大学だ。慶応を滑り止めにするような生徒が受ける大学だ。そこに合格したのだから、喜ぶべきかもしれない。しかし甥っ子の希望はあくまでも数学科だった。
 しかしだ。甥っ子がもう一校受かった慶応のSFCも数学科ではない。私もカリキュラムを見たが、とても変わった授業構成だった。大学というよりも専門学校、あるいはMBA。ここに進んだら、甥っ子の夢の数学者への道のりは、遠のくだろう。ところが甥っ子は、こちらについては戸惑いを見せていなかった。それは、キャンパスを気に入ってしまったからだ。

 某国立の合格通知を受け取った翌日、甥っ子はその大学を下見に行ったそうだ。そこへ行ったのは、受験日に続いて2回目。
 受験日も、その日も、天気はよくなかった。
甥っ子は寮に申し込んでいて、こちらも入寮許可が出ていた。そこで寮も見学したそうだ。玄関には靴が散乱している。部屋は個室だが狭い。
 大学自体も確かに歴史ある大学らしく荘重だが、古臭い。キャンパスは広いのだが、ただ無駄に広いようで不便に感じる。天気のせいもあるだろう、暗く陰気だ。そして、ここがやはりポイントらしいのだが、学生が野暮ったい。甥っ子は、とてもおしゃれに興味があるのだ。

 そこで大いに悩むことになった。慶応と国立。一般的な評価は国立の勝ち。学部はどっちもどっち。慶応はへんてこなMBAもどきで、国立は全然興味のない科。その点ではイーブン。授業料は慶応が年間140万円で、国立が50万円。国立の勝ち。キャンパスは圧倒的に慶応。そして甥っ子が気にするオシャレ度は、これも文句なしに慶応に軍配。

 実は甥っ子には次の目標がある。それは留学だそうだ。米国のできればアイビーリーグのどこかへ留学したいそうだ。
 この点で両大学を比較すると、これは難しいのだが、国立の方が有利のようだ。慶応も留学する生徒は多いのだが、奨学金制度が充実していない。一方、某国立はその点が実に整備されている。在学中の交換留学制度があり、その年の授業料は国立に払えば、それでOK。向こうの滞在費にも奨学金が支給される。
 
 甥っ子は結局、国立を選択した。おしゃれさよりも、実質を取ったようだ。
 今年一年、色々なアドバイスをしてきた。でも今回の件では、具体的にどちらがいいかの意見は言わなかった。甥っ子が、自分の気持ちを確認するのに、外野の雑音は控えるべきだと感じていた。
 
 今、国立に決めてからだから書く。よい選択をしたと思う。19歳の選択に僕はエールを送りたい。
 

おやじをディスコに連れてって


 なんだかディスコに行きたくなってしまった。体がむずむずする。へんな感じ。

 先週の金曜日に地元体育館内にあるジムでトレーニングしていると、懐かしい曲がかかり始めた。往年のディスコソングだ。トレイナー(っていうか体操服を着た、フロントデスクの人だけど)に、これってCDですか?と聞くと、そうだと答える。逆にどうしてですか?と聞かれ、「いやあ、良い曲なので」と答えた。
 トレイナーは嬉しそうな表情で、これ80年代の曲のCDです。ではこれから、この手の曲をかけるようにしますと言った。わたし、うれしいです。
 ここは公立の体育館だから、選曲がよくない。Exileなんかがかかってて、トレーニングに力が入らない。まあ、一般的にいって、80年代のディスコソングが選曲グッドといえるかどうかは別だけど、わたくし的にはベリーグッドである。もうちょっと希望を述べさせていただければ、80年代といっても、前半のもにしていただきたい。あるいは70年代の後半。

 10代後半から20代前半はよくディスコに出没した。どのぐらい通ったかというと、多い年は週に3回以上もディスコへでかけた。昼間アルバイトしたお金の大半をディスコに投じていた。
 昔のディスコはとてもコストパフォーマンスがよかった。入場料は3000円ぐらいで、フリードリンク、フリーフードの店が少なくなかった。そして風営法施行以前なので、朝まで営業していた。
 僕ら金のない大学生は、腹を空かせて、7時ごろから店に入った。店にはから揚げだとか、そうめんだとか、ピラフなんかが、ビュッフェになって控えている。カウンターへ行けば、モスコミュールだとかダイキリなんかのカクテルを無料で作ってくれる。
 ばくばく食べて、ガンガン飲んで。そして恥ずかしながら、わたくし結構踊りました。へたくそだったけど。
 食べて、飲んで、踊って。そしてまた食べて、飲んで、踊って。ああ、もちろん、女の子にも声をかけました。それが目的だったから。
 そしてそんな楽しい時間を長々と過ごす。どれだけ長々とすごすかというと、10時間ぐらい。そう、朝の5時まで繰り広げるのだ。店は5時が閉店時間なのだ。
 5時に店を出ると、夏だとすでに外は明るい。すずめがぴーちく鳴いている。ゴミが散乱した六本木の路地を地下鉄の駅まで歩くのは、倦怠感と罪悪感、そして朝の爽快感がミックスして、不思議な気持ちにさせられた。それから日比谷線で秋葉原まで向かい、総武線の黄色い電車に乗って、千葉まで帰ったのだ。

 ここで突然、僕の好きだったディスコ、ベストテンを発表する。しかし順位はつけがたいので、とりあえずトップ10を順不同で。

・ナバーナ
・キサナデゥー
・レオパードキャット
・マハラジャ
・ウイズ
・スターウッズ
・GBラビット
・キング&クイーン
・ラジオシティー
・ジャバジャイブ

 こんな感じだ。ちょっとバラバラなラインナップに見えるかもしれないが、共通項がある。比較的に大箱で、ミーハーなこと。だから普通の男の子や女の子でも入りやすいことだ。
 細かく見ると、当然違いがあるが、そこをカテゴライズすると。上の方の、ナバーナ、キサナ、レオパは特に好きなディスコだったが、六本木のサーファー系だ。
 そうだ、僕はなんちゃってサーファーだったのだ。長髪、茶髪でファラーをはいていた。夏はポロシャツ、冬はそこにサテンのスタジャンなんかを羽織っていた。
 真ん中のあたりのGBラビットは新宿、スターウッズは渋谷である。たまに新宿なんかに繰り出すと、客層が違って面白かった。正直、六本木の女の子はけっこう気取っていたけども、新宿の子はヤンキーが入っていたりして、話すとかえって面白かったりした。
 下の3つはサラリーマンになってから、遊びに行った場所だ。だから時代的にはちょっと下る。でも80年代のこと。ジャバジャイブはディスコというよりも、レゲークラブである。この店にはサムという黒人といつも一緒にいった。サムと一緒だと、とてもモテるのだ。僕は英語を話したかったから、よく外人の女の子に声をかけた。外人の女の子は、当時は日本人の男で声をかける奴があまりいなくて、結構喜んで話をしていた。

 地元の体育館でお爺ちゃん、お婆ちゃんたちとまじって、汗を流していて、久しぶりに燃えたぎるものを感じたわたくしでした。
 

血液型性格判断


 「モード性格論」という本を読んだ。とても面白い。2005年に出版され、あまり評判にならなかったようだが不思議だ。
 性格について、心理学的なアプローチで解説している。一般啓蒙書で分かりやすく、さらに心理学者が書いた本なので説得力がある。
 いろいろ参考になる話が書かれているが、とくに興味を惹かれたのは血液型性格判断についてだ。

 血液型性格判断をみなさんは信じていますか。私はまったく信じていない。たとえば私はA型だが、A型の性格は「まじめ、神経質、協調性がある」といったころ。わたしはこれに一見、当てはまるように見られているようだが、実は違うと自分では感じている。あまりまじめじゃないし、別に神経質でもない。協調性も人並み程度だ。母などは、私のことをかなりおおざっぱで、自分勝手だと思っているはずだ。昔の友人は、私はまじめというより、ちょっと不良系であったと記憶していると思う。中年になっても、相変わらず不良中年である。全然、当たっていない。
 でもA型なので、それにより先入観が生じ、まじめで神経質と思われることが多い。なんだがなあと、思う。

 なんと血液型性格判断は日本で生まれたそうだ。戦前の心理学者の古川武治という人が編み出し、いくつかの論文と著書が出された。1930年代に第一次血液型判断のブームが生まれたようだ。
 しかし学界からはまったく相手にされずに、その後忘れられていく。
 1970年代に第二次血液型判断のブームが起こった能見正比古というライターが本を出し、ベストセラーになった。今もそのブームが続いているといってもよい。
 現在は息子の能見俊賢が「NPO血液型人間科学センター」を設立し、精力的に書籍などを出している。今も売れている。

 世界を見渡すと、血液型性格判断が普及している国は少ない。日本以外では韓国と台湾。他のアジア諸国にも普及し始めているようだが。たしかにアメリカで知人に血液型性格判断の話をしたら、まったく非科学的だと一笑に付されて、相手にされなかったことがある。

 血液型性格判断は、問題も引き起こしている。差別だ。マイノリティーに対する偏見を生んでいるのだ。
 血液型のマイノリティーといえばAB型である。あとはB型も、比較的に少数者である。
 AB型は「二重人格」、「よく分からない人」であり、B型は「自分勝手」、「粗暴」である。あまり良いイメージとは言えない。一方、マジョリティーであるA型やO型は比較的に良いイメージがある。A型なら「きちょうめん」、「まじめ」、O型なら「おおらか」、「明るい」となる。随分な差別だ。
 実際に問題が数多く発生している。子供たちのいじめだ。身に覚えのある人も多いだろう。
 大人になっても差別は続く。恋愛や結婚だ。たとえば私はAB型とは相性が悪いから、彼とは付き合わない、など。最初から血液型で、対象から外されてしまう。結婚という大切な人生のステージで、大きなハンディキャップを背負わされる。
 就職もそうだ。なにも会社は血液型で社員を採用するわけではない。問題は自分自身だ。自分はA型で内向的だから営業職は合わないと、信じ込んでしまう。あるいはB型で協調性がないからと考え、集団プレーが要求される職業を除外する。

 著者は血液型による差別は法曹界が真剣に取り組んでもよいほど、深刻な影響があると訴える。同感である。

 著者は色々な角度から、血液型性格判断が正当でない根拠を指し示す。非常に説得力がる。一方、血液型性格判断の擁護者の論拠も掲載されている。こちらは、たいへんにお粗末なものだ。

 もう血液型で人を判断するのは、よしましょう。
 

下手の考え休むに似たり



 小林秀雄の随筆「常識について」に以下の文がある。

 「たとえば碁打ちの上手が、何時間も、いきいきと考えることができるのは、一つあるいは若干の着手をまず発見しているからだ。発見しているから、これを実地について確かめる読みというものが可能なのだ。人々は普通、これを逆に考えがちだ。読みという分析から、着手という発見に到ると考えるが、そんな不自然な心の動き方はありはしない。ありそうな気がするだけです。それが、下手の考え休むに似たり、とうい言葉の真意である。」

 この文書は今朝、見つけたものだ。久しぶりに小林秀雄が読みたくなって、日焼けで変色した古い文庫本を取り出して読んでいる。以前に読んだのは、きっと大学生のころだ。内容はすっかり忘れている。
 読んでいて、はっとさせられた。まるで諭すように書かれている。最近、考え続けていることへのアドバイスのようだ。

 仕事について考えている。産経新聞社を辞めて、今月でまる3年になる。出版翻訳家をめざし、歩み始めた。1、2年目にはいくつかの企画書を書いた。出版社に持ち込み、編集会議に挙げられたものもある。しかし3年目になってからは、まともな企画書をひとつも仕上げていない。
 当初はしばらくの間、実務翻訳で糊口をしのぐつもりでいた。しかしそれが、本職となってしまっている。3年目になってからは、とくに夏以降は実務翻訳の仕事に追われ、肝心の出版翻訳に手が回っていない。
 こんなんでよいのだろうか。私が今、立っている場所は正しい場所なのだろうか。
 そしてもっと言うと、出版翻訳自体が、私の目指す道なのだろうか。

 もう3年が過ぎた。1月に誕生日を迎え、49歳になった。50歳は目の前だ。不惑はとうに過ぎ、知命にすら王手がかかっている。それなのに、この揺れ具合だ。

 文庫本の巻末に小林秀雄の略歴が載っている。22歳の東大在学中から精力的に批評を書き始めている。24歳で鎌倉、逗子に移住とある。30歳で明治大学の講師に就任、36歳で教授に昇格。私の歳の49歳には、「小林秀雄全集」により芸術院賞を受賞している。49歳で全集を出しているのだ。
 不世出の天才と比較しても、仕方がないか。

 小林は24歳で逗子に来た(すぐに鎌倉へ移住したようだが)。わたしは43歳のとき、逗子へ引っ越した。19歳遅い。そうるすとものすごく、滅茶苦茶な論理だけど、小林秀雄の人生から19歳引いたところで、小林と比較したらどうだろう。49-19=30だから30歳。30歳は明大の講師に採用され、「正宗白鳥」を時事新報に発表。「現代文学の不安」を『改造』に、小説「Xへの手紙」を『中央公論』に発表とある。
 やっぱり駄目じゃないか。全然、追いつけない。小林秀雄と比較するのは止そう。なんだか辛くなってきた。

 今日、書こうと思ったことと随分と逸れてしまった。書きたかったことは、「碁打ちの上手が、、、若干の着手をまず発見しているからだ」という箇所だ。
 どういうことかというと、思い切って端折って言ってしまえば、立ち止まって考えてばかりいてはいけない。まず自分が着手していることを手掛かりに、ことを進めなさい。つまり、ことを進める方法は、今着手していることに、真剣に取り掛かること以外にない。ということだろう。

 前も、二宮尊徳の言葉を書いた。「この秋は雨か嵐か知らねども、今日のつとめに田草取るなり」。
 自分で書いていながら、まったく身についていない。二人は同じことを言っていて、それに触れた私は、その都度、感心している。それなのに。

 碁打ちの着手のように、今日の仕事をしよう。

なんとか確定申告



 昨日、確定申告に行ってきた。ようやく、なんとか終えることができた。今年はしんどかった。
 昨年は青色申告の会の個人講習に無料で参加して、ほぼすべてを会の人に手取り足取り指導を受けながら作成した。売り上げも少なかったこともある。12月中には終えており、2月15日の受け付け開始と同時に申告書を提出した。
 今年は最初から最後まで自分で行った。会の人には、申告後も毎月ちゃんと記帳を続けてくださいと言われていたのだが、まったく行っていなかった。先週になってまとめてやった。
 まず会計ソフトのインストールから行った。去年はお試し版が2か月ばかり使えるので、それで済ませた。今年は2万数千円もはたいて購入した。インストールは簡単にできた。しかし入力はそうはいかなかった。すっかり忘れていたのだ。
 青色申告の会の人にレクチャーを受けていた時に、いちおうノートを取っておいた。そのノートだけが頼みの綱であった。しかしノートにはおおまかな流れしか書いていない。細かい部分はネットで探しながら、少しずつ記帳を進めた。これがものすごく面倒だった。それに何とか調べることができても、それで正解なのかどうかが分からない。実は今でもあれでよかったのかどうかは、自信がない。
 あの複雑な損益計算書と貸借対照表を、正確に作成できる個人事業主はどれだけいるのだろう。私はまだ大学なんかで簿記や財務諸表論を取っていて、概観だけおぼろげに把握している。パソコンも毎日使っている。それに何といっても売り上げ構成や支出がシンプルである。これが魚屋とか八百屋なんかを個人で経営している年配の人の場合は、どうやっているのだろうか。考えただけで、難しそうだ。きっと、それなりにきちんとした書類を提出しているのだろう。頭が下がる。

 1日あればできるだろうと、軽く考えていたが、1週間近くもかかったてしまった。先週はほとんどそれで過ぎた。土曜日に何とか形を整えて、書類を書き上げたときは、大きな仕事をし終えたような気持ちになった。一銭にもならないところが、税金を支払うためだけの仕事ではあるのだが。

 去年は鎌倉税務署に出かけた。初日にも拘わらず、長蛇の列ができていた。とくに書類作成のガイダンスを受けるための列はすごかった。3,4時間はかかると言われた。自分は自信がなかったが、列の長さに嫌気がさして、提出のみを行う列に加わった。こちらも長い列だが、進行が速く、10分程度で提出が済んだ。
 今年も鎌倉税務署へ行くつもりだった。でも朝起きたら、雨がザーザー降っている。寒いし。税務署は確定申告の期間、車では行けないからバスか歩きになる。どちらにせよ、とても寒い。
 どうしようかと思案していると、去年、鎌倉税務署の近くにある鎌倉市役所でも確定申告の看板が出ていたことを思い出した。もしかしたら市役所でも受け付けているのかもしれない。税務署から送られてきた書類には、提出場所は鎌倉税務署だけと書かれている。しかし。
 ネットで調べると、やはり市役所でも受け付けるようだ。
 そこで車で逗子市役所まで行ってきた。逗子市役所は地下に駐車場があり、そこを使える。まったく濡れずに、さらに待ち時間もほぼゼロで、申告書を提出することができた。係りの人が申告書に目を通し、一発で受け取ってくれた。

 それにしても金を払うのはこちらなのに、自分でその計算を行い、書類は自分の足で運ぶ。税金てのは、実に特別なものですね。他のサービスはすべて、金をもらう方が、これらを行う。
 今までサラリーマンの時は考えもしなかったが、フリーになると、こうしたことにも気づかされる。

 今年こそは毎月、ちゃんと決算を行おう。と今は思っている。しかし、昨年も同じことを考えていた。さて、どうなるだろう。

ノロウイルス騒動



 先々週だったか、強烈な腹痛に襲われて、身動きも取れなくなるほどの事態に陥ったことは、ブログで書いた。思い当たることは、その2日前に食べた牡蠣しかない。ネットで調べてみると、牡蠣の食中毒はノロウイルスが原因であることが多い。潜伏期間は2日ほどで、症状が続くのは1週間というところも該当する。これはノロに違いないと思った。
 これから生牡蠣には気を付けよう。それだけで済ませるつもりでいた。ところが翌週、体調が回復してから出かけた合気道の稽古で、食中毒の話を先生や他の弟子たちにしたところ、それは牡蠣を購入したスーパーに連絡するべきだと言われた。他にも患者がいるかもしれないし、流通経路や生産者に知らせるべきだと説かれた。言われてみれば、そうかもしれない。
 翌日、購入したスーパーに電話をかけた。最初に出たのは女性だったが、こちらが食中毒の話をすると、すぐに上司に代わると告げられた。出てきたのは店長だった。
 店長はまず丁重に謝り、すぐに調べると言った。そして病院に行ってくださいと言われた。しかし、もう合気道の稽古ができるほどに回復している。今更、行くのも面倒くさい。それで、その件については断った。ただ被害が広がることを防ぐために、流通および生産者へ問い合わせて欲しいと告げた。そしてその結果を報告して欲しいと頼んだ。店長は必ず調べて報告しますと言った。

 2週間ほどかかるとされたが、1週間後に店長から電話があった。結果はすべてにおいて陰性であった。
 スーパーが行ったのは、私が購入した牡蠣の生産者への調査依頼である。生産者は検査の結果をレポートにまとめた。
 それによると、一般細菌は3000未満、大腸菌最確数は30未満、腸炎ビブリオは陰性、黄色ブドウ球菌は陰性ということで、すべての面で規格基準内であった。
 ノロウイルスについても、もちろん検査は行われた。ノロは牡蠣の生産海域の海水を調べる必要がある。生産者は毎日、検査を行っており、それを記録していた。私が食べた牡蠣を採集した日の検査は、当然陰性だった。そりゃそうだろう。陽性だったら、出荷しないのだから。
 つまりスーパーの説明では、その生産者で購入する分には、牡蠣のノロウイルスによる中毒は100%ないそうだ。スーパーは他の生産者から仕入れも行っているが、どこも同様の検査を毎日実施しているそうだ。よってこのスーパーで牡蠣を買えば、ノロにあたることは絶対ない。そんな説明だった。
 それと私と同様の連絡をしてきた他の顧客がいないかも調べてもらった。日本全国で一人もいなかったそうだ。はっきりとレポートに書かれている。
 
 店長はあの大雪の日に、菓子折りを持参して、拙宅に現れた。玄関口で丁寧に説明してくれた。納得のいく話であった。
 最初の電話ではかなり動揺した様子が感じられたが、今回はしっかり調べた後なので、前回よりも落ち着いた様子で説明を行った。そして陳謝も繰り返した。これは説明とは矛盾するようだが、スーパーという立場上、顧客に対しての安全策なのだろう。私もそのときは、「わかりました。では生牡蠣による食中毒ではありませんね。丁寧に調査をしていただき、ありがとうございました」と店長を慰労した。

 しかし、するとあの腹痛は何が原因だったのか。生牡蠣を食べたかみさんも、私ほどではないが、1週間ばかり体の不調を訴えていた。あの近辺で食中毒になるようなものは、やはり牡蠣しか食べていない。
 これ以上、調べようはないし、調べるつもりもない。でもやはり牡蠣が疑わしい。生産者や流通業者は、食中毒に関しては十分に対応している。そこから先は消費者の問題だ。
 最後に自分の身を守るのは自分でしかない。自己防衛に心がけなくてはならない。

SFCに行ってきた


 火曜日にSFCへ行ってきた。SFCとは慶応大学の湘南藤沢キャンパスの略である。
 前回、書いた通り、甥っ子が慶応の環境情報学部に合格した。まだ国立の結果待ちだが、おそらく落ちているそうなので、SFCへ通うことになる。それで下見に行ったのだ。そこに、どういうわけだか関係の薄い伯父さん(私のこと)が、同行することになった。よっぽど暇そうに見えたのだろう。近くだから一緒に行って欲しいといわれ、ハイハイと快諾して、ついて行った。
 
 まず辻堂の駅で待ち合わせをして、最初に向かったのはゴールドジムである。あのシュワルツネッガーも通っていたという、ボディービル系ジムの老舗である。 
 甥っ子は私のトレーニング好きの影響か、体を鍛えることに開眼した。この1年は宅浪だったので、毎日のように地元の公立ジムに通っていた。大学に入ったら、とにかくムキムキになりたいそうだ。今はヒョロヒョロである。

 続いてバスで、キャンパスまで。30分弱かかった。なかなか大学が現れず、もしかしたらバスを間違えたのかと思ったほどだ。ようやく見えてきたキャンパスは、アメリカの大学のようだった。
 まず広い。キャンパスの外周部は林になっていて、ここはどこなのだ、の様相だ。
 校舎は中心部にまとまって建っている。これは非常に日本的な発想だ。アメリカだったら、これだけ広いキャンパスがあれば、建物を点在させるだろう。しかし使いやすさという面では、この方が、うんと便利であることはまちがいない。
 校舎群で最初に入ったのは図書館である。入口は電子ゲートになっていて、部外者は入れない。入館申込書を書けと言われた。
 申込書には所属団体という欄がある。私はフリーの翻訳家だから、所属団体はない。甥っ子は宅浪生だから、同じく所属団体はない。甥っ子の母親、私の妹だが、も同行していたが、彼女は主婦だから、これまた所属団体はない。それで、どう書けばよいのかと案内の人に尋ねると、面倒くさいから甥っ子だけ、「在宅学習」と書けばよい、と言われた。私と妹はその「同伴者数2」、で済まされた。 
 図書館はかなり立派だった。規模的には、かなり大きい部類だと思う。設備はよい。パソコンにはキーボードが付いているのもあった。キーボードというのは、アルファベットのものはもちろんだけど、鍵盤のキーボードが接続されているのだ。きっとヘッドフォンをつけて、ここで作曲だとか、アレンジだとかを行うのだろう。
 蔵書も充実していると思った。とくに雑誌や新聞などのピリオディカルは豊富だ。
 この広い図書館に人はまばらだった。春休みということもあるが、それでも少ない。静かで落ち着ける場所だ。窓からは冬の日差しが差し込んでいた。

 続いて向かったのは学食である。ここは、規模はあまり大きくない。デザイン的にはモダンである。総じてこの大学は、設備は優れている。ただ規模は大きくない。学生数が少ないからだろう。
 肝心の味の方はまあまあだった。値段もちょっと高い気がする。定食で450円ぐらい。ラーメンで300円ぐらい。ただ大きな窓から見える景色は、とてもきれいだ。

 面積は広くて、学生数が少ないSFCはアメリカの地方の私立大学の趣だ。日本では相当贅沢な作りと言える。

 それから向かったのは、新入生向けの個人ガイダンスの会場だ。たまたまやっていた。
 会場に入ると、すぐに大学生が2人ほど、近づいてきた。そしていきなり、「合格、おめでとうございます」と言った。唐突で、ちょっとびっくりし。ただ、関係の薄い伯父さんでも、やはり嬉しくなった。
 カリキュラムについて、アパートなどの住宅事情についての説明を30分ほど受けた。その後、甥っ子と、そして関係の薄い伯父さんの強い希望で、体育館を見せてもらった。
 ウエイト・ジムがまた立派だった。甥っ子は、ものすごく気に入っている様子だった。
 ジムの後は武道場を見せてもらった。80畳ほどの広さだ。こちらもとても立派である。今度は伯父さんの方がとても気に入った。

 運動施設を見て、非常に気分が高揚してきた甥っ子と伯父さんは、SFCに強く心惹かれ始めた。そして最後は、お母さんがもっとも気に掛けるアパートである。
 先ほどの在校生は不動産のように、ちらしの束を持っていて、「今すぐ見ることができますよ」なんて耳元でささやく。ちょっと気味悪い気もしたが、これを機会にと見ることにした。
 2件ばかりアパートを見た。1件目は鉄筋コンクリートの物件。広さは25平米はあると思う。かなり広い。大学まではバスで20分。値段は55000円ほど。甥っ子は気に入る。私は近くに高速が走っているのが見えて、いまひとつであった。
 2件目は木造アパートで15平米ほど。ただしロフトがある。値段は39000円。かなりの安値だが、小ざっぱりとしていて、悪くない。大学までは自転車で15分と近い。私はこちらの方が、良いと思った。
 甥っ子と妹に尋ねると、同意見であった。もしSFCに決まったら、ここに住みたいとのこと。

 長い一日だった。不動産を見た後は、どっと疲れが出た。もう暗くなり始めていた。千葉から電車で2時間半以上かけて来た、妹親子はより疲れただろう。
 妹はまた2時間半をかけて、電車で帰って行った。甥っ子は私の家に泊まった。

 夜はかみさんが帰ってくるまで、ふたりで飲んだ(おいっこはジュース)。甥っ子とさしで飲むのは、初めての機会だ。
 広くておしゃれなキャンパスを見て、もしかしたら住むことになるかもしれないアパートを訪れ、甥っ子の目は輝いていた。楽しい酒だった。

プロフィール

山本 拓也

Author:山本 拓也
職業:翻訳者
過去の職歴:HSBCを経て産経新聞社
家族:妻、フクちゃん(猫オス 3歳)、大吉くん(猫オス 2歳)
住まい:逗子

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