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もうすぐ春休み


 比較的に大きな仕事がようやく終わった。この2週間はそれにかかりきりだった。今日が納期で今日までに終えられるか、冷や冷やしながらの作業だった。かなり専門用語が頻出して、調べるのに手間取った。言い回しもまどろこしくて、正確に意味を把握できない箇所も実はあった。多分、大きく意味がそれていることはないだろう。とにかく、終わってホッとしている。
 週末は別件の仕事が二つある。一件に一日を要し、おそらく週末はそれで潰れる。先週末も仕事で過ごしたが、今週末の仕事を終えると、久しぶりの休みが取れる。
 来週の月曜から一泊でかみさんと箱根に行く予定だ。
 会社員時代は何度か箱根に行った。会社(グループ)の研修所があったり、グループ関連の美術館があり、仕事で出かける機会が多かったからだ。
 実は今回、泊まるのはその研修所だ。そこは研修も行うが、グループ社員や家族の保養所も兼ねている。僕はOBということで使うことができる。
 
 希望退職で辞めて、会社の研修所に泊まりに行く人は多くないだろう。僕はあまりそういうことは気にならない性質なのだ。他のホテルに比べてリーズナブルであれば、いいんじゃないか。設備はもちろん知っているが、部屋などは相当広いし。
 しかし改めて考えると、研修とぶつかったり、知ってる人に会うのはやっぱり避けたい。ちょっと心配になってきたぞ。

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桜を見つめて


 一週間ぶりの更新。今週は比較的大きな仕事の納期を金曜日に控え、机に張り付いている。普段は朝は英字紙を読んでいるのだが、今週は7時から仕事を開始。昼までには一日のノルマの半分をこなす。昼食時はCNNを見て、のんびりとするのだが、それもスキップ。散歩も控えようかと思っていたが、さすがに健康に悪いと思い、散歩だけはしっかりとする。
 今は桜が満開だ。我が家のまわりは、この辺りでは有名な桜の名所なので、見どころはたくさんある。車を脇に止めて、あちらこちらで写真撮影が行われている。
 僕も昨日は天気が良かったし、カメラを持参で散歩をしようかと思ったが、カメラが見つからずに手ぶらで歩く。
 
 満開の桜を見ていると、色々なことを思い出す。大学受験にはことごとく失敗した。そして一番下の滑り止めしか受からずに法政に入学した。失意の入学式だったが、外堀公園は桜が咲き乱れていた。あの日の桜は、命いっぱいに咲き誇っていた。春の暖かな日差しの下、桜を眺めながら歩くと、ここの大学生活も悪くはないのではと思えてきた。
 あれから30年が経った。予想していた通り、大学のブランドは社会でも影響を与えた。僕は比較的、一流大学の卒業生が多い会社で過ごしてきたので、コンプレックスを感じることも少なくなかった。見返してやろうと、頑張ることもせずに、ただ少しの不快感を抱きながら、漫然と時を過ごした。そして今は、学歴が関係のない世界で生きている。訳文のできさえ良ければ、全てがゆるされる。一方、訳文のレベルが低ければ、次の仕事がこない厳しい世界でもある。

 仕事は今日が山場となる。今日のノルマさえ終えれば、明日以降は楽になるはずだ。疲れたら、また桜を見に行こう。

鎌倉の「大石」


 昨日は鎌倉の「大石」という名の天麩羅屋に行ってきた。結婚記念日だったので。
 ところがビールを乾杯するときに、「おめでとう」というと、妻は「?」という顔をした。「今日は結婚記念日だよね」、「ああ、そうか」であった。ちょっとがっかりしたが、まあ却っていいか。
 結婚記念日はなかなか僕も覚えられない。それで妻に確認すると、しぶい顔をされる(何度も聞くもんだから)。だから今回は手帳にしっかり書き込んでおいた。それで「大石」を予約したのだ。 
 おおらかな妻ということで、良しとしよう。うん、いいです。でも、僕が忘れてても、怒らないでね。

 ところで「大石」だが、予想以上の店だった。ネットを通じて、以前から知っていた。鎌倉で一番うまい天麩羅屋という評判だった。ちょっと僕らには値が張るが、それでも結婚記念日だし、まあいいかと思い切って予約をした。その結果は大いに結構であった。
 僕らは真ん中のコースを注文した。たしか5000円。ランチで5000円は安くはない。でも食べ終えた感想をいうと、“安い”。
 お通しからして、超美味だ。ホタルイカに酢味噌を和えたものだが、口に放り込むと、酢味噌の甘酸っぱさがまず広がる。ホタルイカを噛むと、中から柔らかなうまみが、これまた口いっぱいに広がるのだ。
 続いては天麩羅。これはいちいち一つずつ表現をするのが面倒くさいし、読むのもつらいだろう。とにかく美味かった。品目は記憶の限りでは、クルマエビ2本、クルマエビの頭、シイタケに何かを詰めたやつ、キス、アスパラガス、ふきのとう、牡蠣、アナゴ、白魚を大葉で巻いたもの、銀杏だった。順番はこの通りでない。そして最後にご飯ものがでるのだが、僕は天茶、妻は天丼にした。ああ、それとデザートもあった。
 昼間からかなり飲んでしまった。ふたりでビール中ビン2本と、熱燗2合。
 これだけ飲んで食べたので、腹はぱんぱんに膨れた。

 僕は食通でないので、あまり偉そうなことは言えない。そんなに美味しいものを食べた方ではない。でも天麩羅は一番好きな食べ物なので、まあそこそこ有名店には行ってきた。大石はその中でトップに位置する味だと思う。
 僕が以前行った高級天麩羅屋は、みな自腹ではなかった。会社の経費で落としたり、あるいはごちそうをされた店ばかりだ。今回はしっかりと、自分で支払った。この差はもしかしたら大きいかもしれない。
 やっぱり身銭を切って食べれば、それは気構えから違ってくるから。だからその点、ちょっと大石に有利だったかもしれない。
 それを差し引くとして。それでも大変、美味しい店だった。

 それとちょっと驚いたこと。店の主人が若い。きっと僕と同じぐらいだろう。大石を開業して17年だそうだ。その前は他の場所で店をやっていたのかを聞くと、大石が初めてだという。ということは35歳で開業したとすると、52歳だ。もしかしてらもっと若いかもしれない。見た目はそれなりに貫録があるが、声がとっても若いのだ。
 かりに52歳として、52歳は決して若くはない。しかし鎌倉で一番といわれる天麩羅屋を一代で築いたとすると、若いのではないか。

 食べログには否定的なコメントもあったが、サービスも良かった。主人は無口な人だが、嫌味ではない。給仕の女性も丁寧だ。
 コースは3800円のものもある。天丼は2500円だ。決して安くはないが、また行きたい。
 来年の結婚記念日も行きたいものだ。春は天麩羅のネタには良い時期なので。牡蠣なんか絶品だった。さすがに同じ店に行けば、かみさんも覚えているだろうし。

中国が米国をGDPで追い抜くのは2016年だって、知ってた?


 土曜日はかみさんと逗子の沖縄料理の店で飲んだ。以前、行ったときはお客がほとんどいなかったが、土曜日はほぼ満席だった。店が繁盛してきたということだろうか。あるいは景気がよくなったのだろうか。あるいは土曜日だからだろうか。とにかく活気があって、よし。
 泡盛を続けてあおり、気持ちよくなる。その後、あまり気乗りのしないかみさんを連れて、カラオケに行く。二人で逗子のカラオケに行くのは初めてだ。2時間ばかりを気持ちよく歌う(かみさんも)。
 斉藤和義にもチャレンジ。がっかりするほど下手くそであった。

 ところでさっき、ちょっと古いガーディアンを読んでいたら、すごい記事が出ていた(2012年12月の記事)。2016年に中国がアメリカをGDPで追い抜くという予測をOECDが出したというものだ。
 2030年ぐらいに抜くだろうという記事は、どこかで読んだことがある。ところがOECDの予測はなんと3年後だ。オバマ政権の最後の年に、早くも中国がアメリカを経済規模で抜くと言うのだ。
 めちゃくちゃ凄い予測ではないか。僕は日本の新聞を今、あまり読んでいない。ネットでは眺めているが、ネットだと読みこぼしが多い。だから知らなかったのは、きっと僕ぐらいのものだろうと思い、ためしに産経新聞の過去記事を検索した。すると記事がない。朝日でも検索した。これもない。どういうことだろうか。
 もしかしたらあまりにショッキングな予測であるために、国民の動揺を恐れて、メディアが自主規制しているとか。まさか、そんなことはあるまいが。

 OECDの公式発表なのでガーディアン以外でももちろん掲載されているが、下に該当の記事のURLを載せておく。
http://www.guardian.co.uk/business/2012/nov/09/china-overtake-us-four-years-oecd

 OECDの予測といえども、単なる一調査機関の予測である。ちょっと甘いようにも思う。でも、2016年とはいかなくても、追い抜く可能性は高い。エコノミスト誌は2018年に追い抜くという予測をしている。
 ちょっと前にzakzakで、永久に中国は米国をGDPで上回らないという予測記事を読んだ。元記事は産経かもしれないが。
 しかしこれはどうも希望的観測のようだ。なんだが大本営発表みたい。

 最近、中国と軍事衝突も辞さないなんて勇ましい意見を聞く。今、偶発的な軍事衝突があっても日本が勝つだろうという記事を僕も当ブログで書いた(これこそが素人の希望的観測だが)。
 中国は軍事費でも米国を追い越す目標を持っているという。
 日本の置かれた状況は、今後ますます厳しさを増すだろう。
 これもガーディアンだったが、日本のイスラエル化を危惧するという記事を読んだこともある。

 ただ中国の政治は決して安定しているとは言えない。国自体の形態が変わる可能性は小さくない。そうなると、予測はちょっと変わってくるだろう。
 しかしなんだか不穏な時代に入ってきたことは間違いないようだ。

バブルとノストラダムス


 この間、久しぶりに美容院に行ったときのことだ。31歳の美容師が、「わたしってバブル時代を知らないんですよ。バブル世代の人って羨ましいです」と、オジサンの僕を意識して言った。濡れた頭が月代状態で、なんだかシンミリと鏡に映った自分を見ていたので、「そうでもなかったよ」とだけ軽く答えてすました。
 彼女に限らずに、20代、30代の人から、よく同じことを言われる。そして40代以上の人でも、そう信じている人が少なくない。でもそうだろうか。
 僕はあのころ、時代はそんなに恵まれたもではなかったと思っている。
 たとえば給料だ。僕が最初に外銀に入社したのが1987年である。バブル景気は1986年から91年までと定義されているようだから、その初期である。もろにバブルの恩恵を受けたと言われる世代である。給料は確かに毎年、2~3万円ずつ増えた。新入社員にとっては大きな額だ。でもそれ以上に物価の上昇が激しかった。
 今でもよく覚えているテレビ番組がある。不動産価格の上昇の将来を予測した特集だった。NHKでやっていた。NHKはこのまま行くと、10年後には5000万円の家が2億円に上がると予測していた。この番組はどれだけ僕を、失望させたことだろうか。
 10年後といえば、僕は30代の半ばである。おそらく結婚をして家を購入する時期だろう。そのときに2億円の家が買えるだろうか。たしかに毎年、2万円ずつ月給は上がるかもしれない。10年後は20万円の月給が40万円になる。しかし月給40万円の男が、2億円の家を買えるだろうか。
 買えるわけがないじゃないか。そんなことは未熟な20代の男でも分かる。僕は持家の夢を、その番組で諦めた。
 だから貯金はしなかった。だって生涯、借家住まいになるのだから。頭金なんて貯めても無駄だ。
 月々の給料はみんな飲んだ。そのときは実家にいて、わずかだけだか家に入れていた。それ以外は、みんな飲んでしまった。毎月、20万も飲んでいたのだ。ボーナスだって、みんな使った。洋服だけでウン十万は使っていた。海外旅行にもよく行った。
 でも結婚できる自信はなかった。家賃もどんどん高くなっていく。借りられるとして、かなり郊外のアパートがせいぜいだろう。そんな男と結婚してくれる女の子がこの世にいるだろうか。まわりの女の子はブランドものに夢中で、デートは平気で高級レストランを望んでくる。
 
 もうひとつ刹那的な気分にさせる要因があった。それはノストラダムスの大予言だ。僕の世代はおそらくみな、この予言の影響を受けてたはずだ。
 あの本が出たのは1973年、僕が小学校4年年のころだ。友達と回し読みして、読んだ。クラスメートはみな予言を信じた。
 でも人類の滅亡はまだずっと先ことだった。1999年には、僕は37歳になっている。小学生からみたら遠い将来だ。そんな歳まで生きられれば、まあいいかと諦めた。
 だんだんと1999年が近づいてきた。僕は大学生になり社会人になった。だからあんな予測はデタラメだと思えるようになっていた。でも深層心理は違ったようだ。もしかしたらやっぱり当たるのではという思いが、心の底ではしっかりと生きていた。
 僕はノストラダムスの大予言実は、実はバブルの遠因でないかと思っている。1988年にノストラダムスの大予言を口にする大人はいなかった。でもみなの心の底に、どうせあと10年かそこらで、世界は滅ぶのだという思いがあったのではないか。だから後先考えずに、刹那的に生きようじゃないかと思ったのだ。それが異常な高揚感を生み、バブルに結び付いた。

 将来を通じてアパート暮らし。デートには金がかかる。きっと一生、独身。もしかしたら人類は滅亡するかもしれない(多分ないとは思っていたけど)。それがバブル時代だ。こんな時代が羨ましいはずがない。
 僕は今の若い人が、彼女とつつましくアパートで鍋などをつついて満足している方が羨ましい。GパンとTシャツでデートに行っても、彼女に軽蔑の視線を向けられないことに健全さを感じる。今の時代は、そう悪い時代ではないよ。

 あまりバブル時代を美化するのは止めよう。あの時代を謳歌したのは、不動産や株で儲けた一部のひとだけだ。あとの人は、雰囲気に飲まれただけで、何も美味しい思いはしていない。
 たしかにタクシーチケットや接待費は使えた。でもそんなんで、本気で喜んでいたのは、相当なおっちょこちょいだけである。

 僕は今でもあのNHKの番組を恨んでいる。

オカンに会いたくなった


 ユーチューブで「情熱大陸」のリリーフランキーを見て、なんだか不思議な魅力のある人だなと思った。興味がわき、本を読んでみることにした。逗子図書館に置いてあったのは「東京タワー ボクとオカンと、時々、オトン」だ。
 読み始めて、読むのが辛くなってきた。文章が下手で、話がくどい。彼は僕の同じ昭和38年生まれだ。少年時代の遊びや聴いた音楽はほぼ同じ。それが事細かに書かれていて、僕はそれなりに懐かしさを感じだが、若い人は飽きるのではと、他人事ながら冷や冷やしながら、読み進めた。
 しかし舞台が東京に移ってきた頃から、話が面白くなり始めた。

 ストーリーはシンプルだ。事件もトリックもない。殺人もセックス描写もない。あるのは主人公の男の生い立ちから成長、さらには大人になって仕事を始め、そんな日常だけだ。リリーフランキーの私小説である。しかし主人公の目線で書かれた私小説であるが、本当の主人公は別にいる。主人公の母であるオカンだ。
 オトンとは別居しているので多少、変わった生活を送っているが、それでもオカンはただの人だ。普通のオバサンがお婆さんになって、死ぬまでの物語だ。
 それなのに、とても悲しい。ストーリーの半分を過ぎた辺りから、半分ぐらいは泣きながら読んだ。母の愛は、そこにあるだけで涙を誘うものなのだな。

 読み終わって思ったこと。俺もオカンに会いたいな。
 最初の結婚をしてから、会うのは年に1度あれば良い方で、何年か会わないこともあった。離婚をして逗子に越してからは、よく泊まりにきた。とくに僕が神経鞘腫の手術をして、その後4か月を自宅療養で過ごしたときは、月の半分ぐらいは泊まって身の回りの世話を焼いてくれた。
 そういえば、手術のときも来てくれた。僕は40歳を超えており、当時は独身。大部屋の人はみな奥さんやこどもが手術の当日には来ていた。しかし僕には老いた母だ。とてつもない親不孝をしているな、と思いながら手術を受けたものである。こりゃ死ねないと、真剣に思った。
 最近もあまり母とは会っていない。僕が結婚をして、気兼ねをしているのだろう。前のようには頻繁には泊まりにこなくなった。
 まだ幸いなことに母は元気だ。どこかうまい店にでも連れていかなくちゃ。と、リリーのおかげで殊勝な気持ちになった。みんな、親孝行しようぜ。

うんとひさしぶりの美容院


 昨日はできあがった確定申告の書類を持参して、市役所までてくてくと歩いて行った。去年も書いたかもしれないが、税務署だとヘタをすると一時間以上は待たされる。市役所だと5分で終了する。
 そういえば市役所に行く前に、近くの薬局でマスクを買った。僕は花粉症なのだ。最近、症状がひどくて、一昨日の晩は、夜中に苦しくて目が覚めたほどだ。だから長時間外を歩く予防のために買ったのだ。
 レジの僕の前にはお婆さんがいて、薬剤師の爺さんとだべっていた。僕が後ろに並んでも、ふたりとも話を止めない。5分近く待たされた。別室にいた若い薬剤師が見かねてやって来て、レジを済ませてくれた。普段ならイラつく僕なのだが、今年の目標は“寛容”である。意識を臍下丹田に落として、リラックスしていると腹が立たない。若い薬剤師には笑顔で接することができた。若い薬剤師も笑顔で返した。薬局を出た後は、ちょっと嬉しくなった。

 そして確定申告である。こちらも僕の前に爺さんがいた。この爺さんが職員に質問を重ねる。実は僕の並んでいたラインは、質問を受け付けない。提出だけのラインである。質問者向けのラインは別にある。
 このときもまた例の作戦に出た。臍下丹田作戦である。そしてまたもや成功裏に終わった。ようやく番が回ってきた僕に職員は申し訳なさそうな顔で接した。僕は笑顔で返すことができた。職員も笑顔で返した。市役所を出た後、ちょっと嬉しくなった。

 それから図書館に向かった。本を借りて、読書コーナーで読んだ。暫くすると館内放送が流れた。震災の犠牲者を悼み、黙とうを捧げるためだ。それまで僕は帽子を被っていたが脱帽し、黙とうを捧げた。
 隣には30代ぐらいの女性が座っていた。ずっと机につっ伏して寝ていたがが、さすがにそのときは顔を上げた。黙とうの合間に、ちょっと気になり薄目を開けて、隣を見た。女性は頬杖をついて、目は開けたままだった。図書館を出るときは、ちょっと腹立たしさを覚えた。

 図書館を出た後は美容院に向かった。美容院へ行くのは、20数年ぶりである。20代の頃は美容院を使っていたが、20代後半から床屋に変えた。だからうんと久しぶりだ。それどころかこの10年間は、ずっと1000円の床屋ばかりである。ちゃんとした床屋も10年は行っていない。
 美容院に行こうかと思ったのは、最近髪を伸ばしているからだ。以前、「ロン髪君、さようなら」といったタイトルでブログを書いた。髪が薄くなってきたので、ロン髪は諦めていた。しかしここのところ面倒で、床屋にあまり行っていない。自然と伸びてきたが、思ったよりも寂しさを醸し出さない。むしろ短髪よりも、薄毛が目立たない気がする。実際に知人からも、そう言われた。そこで思い切って、ロン髪にチャレンジしようかと思ってきたのだ。僕はロン髪が好きである。
 そういえばこの前、ブログに書いたリリーフランキーも斉藤和義もともにロン毛である。二人ともカッコいいと思った。あの二人のことを意識したのは、つい最近である。だから今、僕の髪が長い理由とは関係がない。しかし情熱大陸を見て、オヤジでもロン髪はありだな、と思ったことは事実である。

 久しぶりの美容院は、いい匂いがして悪くない。
 美容院の椅子に座る。大きな鏡が正面に据えられていて、自分の姿がよく見える。鏡に反射して、他の人の様子もなんとなく分かる。店にいるのは女性と、男性は若いひとばかりだ。僕のようなオヤジはいない。そして僕のような薄毛もいない。みな前髪がちゃんとある。
 鏡に映った僕の姿は、なんだか落ち武者のようだ。前が薄いので月代(さかやき)のように見えなくもない。当然、このことは承知の上だが、美容院で改めて見ると侘しさが増長される。はたして美容院に来てよかったのだろうか。さらには来る必要があったのだろうか。
 美容院でカットコーナーに行く前に、待合コーナーで10分ばかり待たされた。そのときに時間を持て余し、男性向けのヘアカタログに目を通していた。ロン髪の人を注意深く探した。ロン髪はそれほどいなかったが、でも皆無ではない。それを参考にしようと考えた。しかしあることに気が付いた。ロン髪でかつ薄毛のモデルはいないのだ。みな髪がふさふさと生えている。これでは参考にならない。美容院は薄毛をどうも対象にしていないらしい。
 カットは31歳の女性がしてくれた。なぜ歳を知っているかといえば、教えてくれたからだ。女性に向かって歳を聞くようなことは僕だってしない。女性が自ら教えてくれたのだ。その31歳が薄毛を克服すべく、がんばってそれなりの髪にしてくれた。
 いや、それなりと言っては失礼だろう。実はとてもカッコ良く仕上げてくれた。さすが1000円床屋とは違う。まったく違う。前から見た感じは、ちょっと侘しさが残っているが、横と後ろからのスタイルはまるでジャニーズのようである。嬉しくて、家に帰った後も、何度も見てしまったほどだ。

 さてカッコよくなった僕のロン髪だが、うんまだロン髪にまでは至っていない。ミドルぐらいだが、とにかく長めの髪型である。どんな感じかというと、ロン髪のカッコいいオヤジの代表例としてリリーフランキーと斉藤和義を上げるとすれば。やはりどちらかというと、リリー系に分類されるに違いない。

さて確定申告


 確定申告の数字が週末にようやくできあがった。1年間、何にもせずにただ領収書をためていて、まとめて記帳した。予想していたことだが、とてもしんどかった。丸二日間、部屋の中を領収書やら様々な書類をいっぱい広げて、悪戦苦闘した。弥生の使い方も、ほとんど忘れていた。
 今年こそは月ごとにまとめて記帳するぞと、今のところは思っている。といっても、今年も1,2月の記帳はしていないが。

 帳簿を付けていると不思議な感覚に陥る。売り上げが多いと焦り、経費がかさむと嬉しくなる。なんだかんだと偉そうなことを言っても、税金を払いたくないのだ。
 と、これまた偉そうなことを言ってもだが、僕は翻訳の仕事で税金を払ったことがない。会社を辞めて、今月でちょうど4年になる。最初の1年は前の年の給与所得があったから、税金を支払った。しかしその後、2年間は税金を納めていない。なぜならば、所得がそこまで届いていなかったからだ。
 今年はどうだろうかと考えていた。ちゃんと付けてはいないが、ボーダーだなと思っていた。
 年末辺りから、仕事を受けた会社から源泉徴収書が送られてきた。集計はしていなかったが、だから収入はほぼ分かっていた。問題は経費だ。経費の計算はけっこう面倒くさい。まず領収書の数が多い。暗算で集計できるような数ではない。それに僕のように家で仕事をしていると、光熱費などは業務と家事で按分しなくてはならない。それで全体像が見えていなかった。
 さて結果だが。残念なことに、と言ってしまったら本末転倒なのだが、ようやく納税者になることができた。嬉し悲しな気分である。

 会社員のころは、会社が源泉徴収していたので、納税の感覚は薄かった。ところが今度は初めて、まとめて自分で支払うことになる。会社員時代に自動で天引きされていた額に比べれば、わずかな額だが、それでも社会保険料と合わせれば、それなりの額になる。税金の重みをしっかりと感じる。

 僕のような個人事業主が原稿料をいただく場合は、ギャラの10%は源泉徴収される。去年などは、納税額がゼロだったので、源泉徴収された全額が還付された。ちょっとしたボーナスになった。
 今年もそれを期待していたのだが、納税者の身分に昇格したために、それが少ない(ないと言えないところが、また嬉し悲しい)。
 還付額で社会保険料がちょうど支払えるぐらいかなと想定していたが、とても届きそうにない。足りない部分は、新たに工面して納めなくてはならない。払えるのだろうか。

 脱サラをしてから、ほんの僅かずつではあるが、年収は増えてきた。去年は思った以上に増えて、ちょっと実力以上の所得かなと思っている。今年はきっと壁にぶち当たるだろう。
 そうはいっても未だに低所得者の域を出ない。来年はもうちょっと国庫に貢献したいと思う。しかし自信はまったくない。今年は今のところ、仕事が少ないので。
 さて、どうなることやら。

脱力系といい加減


 ユーチューブにアップされている「情熱大陸」の何本かを見た。印象に残っているのは、斉藤和義、リリーフランキー、安野モヨコ。
 この3人には共通点がある。それはすさまじい仕事量をこなす点だ。
 たとえば斉藤和義はCDの録音をひとりでこなす。どういうことかというと、一人でボーカル、コーラス、楽器すべてを担当しているのだ。ギターもキーボードもドラムもベースもパーカッションもすべてひとりで演奏している。多重録音という技術を使っている。
 曲も歌詞も自分で書く。それもスタジオで演奏しながら作っていく。
 僕は彼のことは今年の紅白で初めて知った。長身でイケメンで、カッコいい男だと思った。曲もいい。40うん歳だかの遅咲きで、苦労人とのことだった。でもきっとルックス優先で売れているのだろうぐらいに考えていた。とんでもない誤りだった。CMソングや他のミュージシャンへの楽曲の提供は数知れず。とうぜん自分の曲も沢山リリースして、かなり売れている人らしい。実力者である。
 リリーフランキーは名前と、「優香は僕の大好物だ」という言葉ぐらいしか知らなかった。好物が同じだなと思った程度の人である。
 この人も多彩な人だ。著名なイラストレーターであり、ミュージシャンであり、作家である。ラジオのDJなどでも人気があるそうだ。
 安野モヨコは「働きマン」を読んでいたし、鎌倉で見かけたこともある。旦那の庵野秀明と思われる人と、鎌倉のバーで隣になったこともある。
 彼女も情熱大陸の取材を受けた当時は、超売れっ子で、雑誌の連載や企業のイメージキャラクターの制作などを多数、同時並行でこなしていた。

 しかしこの3人は、斉藤和義、リリーフランキーVS安野モヨコと区分けできるとも感じた。前者はいわゆる脱力系であり、安野は生真面目である。
 斉藤とリリーの脱力ぶりはすごい。カメラの前でも常に力が抜けている。仕事相手やファン、さらにはカメラマンやスタッフに対する態度に余裕がある。
 ちょっと話が変わるが、合気道の要諦は脱力である。力を使う武道において、脱力は非常に難しい。僕など力みやすいタイプだったので、最初の3年ぐらいは「もっと力を抜きなさい!」とばかり言われていた。
 なぜ脱力が必要かというと、強いからだ。力を正しく抜けている人はすさまじく強い。ゴルフのスイングなんかでも同じだろう。力まない方が飛ぶというから。
 そして相手とぶつからない。これも非常に重要なポイントだ。力んで技を仕掛けてくる相手は、脱力する相手が捉えようがないことに驚くだろう。技が効かないのだ。
 そして疲れない。同じ1時間の稽古でも、初心者のころと数年を得た後では、疲れ方がまったく違う。筋力や心肺能力がアップしたこともあるだろうが、それ以上に脱力をできるようになった点が大きい。
 合気道は武道なので稽古体系ができあがっており、何年も稽古を続ければ、それなりには誰でも脱力できるようになる。しかし実生活で脱力を実行することは至難だ。それを斉藤とリリーは易々とやりこなしている。だからあれだけの仕事をこなせるし、仕事に押しつぶされないのだろう。
 一方、安野モヨコは真正面から仕事を受け止めているように見えた。安野も尋常でないパワーの持ち主だと思うが、見ていて少々こちらが苦しくなる。
 おそらく一緒に働くスタッフも、息苦しさを感じたことだろう。そして安野自身も疲弊していた。
 ご存じのとおり、安野モヨコは現在、仕事はほとんど受けていない。張りつめていた糸がプツンと切れたように、仕事ができなくなったそうだ。僕は安野モヨコのファンなので、とても残念である。

 僕も力みやすいタイプだと自認している。だからしょっちゅう、人とぶつかってしまう。でも脱力系とは言えないが、いい加減な男でもある。これが功を奏してきたように思う。
 仕事が重なれば、プレッシャーに押しつぶされそうになるが、いい加減なので、なんとか凌げる。仕事がないと今度は心配でたまらなくなるが、いい加減なので、「まあなんとかなるさ」と深刻にならずに済む。

 しかし脱力といい加減は似ているが同じではない。斉藤とリリーは仕事に対しては全力でぶつかり、妥協を許さない。いい加減な男は、肝心なところで手を抜いてしまったり、逃げてしまったりする。彼我の差は大きい。
 同年代の彼らみたいになりたい。

海老蔵とマスコミ


 今さらだが、海老蔵のことを考えてみた。海老蔵の何が問題だったのだろうか。
 僕は芸能人に道徳は求めない。運動選手にも求めない。作家にも求めない。政治家にも求めない。
 ただ芸人は観客を喜ばせてくれればいい。スポーツ選手は超人的な身体能力を披露してくれればいい。作家は読者を惹きつける作品を出せばいい。政治家は国益に命をかけて取り組んでくれればいい。
 だから海老蔵が、酒癖が悪かろうと、女好きであろうと、喧嘩っ早かろうと、全然かまわない。ただ舞台で魅せてくれれば、それで満足である。
 一流の芸人が、自分の金で酒を飲み、飲み過ぎて酔っ払い、アウトローな仲間に絡んで返り討ちに合い、裸足で逃げて、どこが悪いのだろう。大変、面白いできごとじゃないだろうか。もしボコボコに殴られた翌日に舞台があり、二日酔いの状態でも立派に舞台を務めたとしたら、それは立派な役者である。舞台をサボったとしたら、それはへなちょこである。
 品行方正な下手くそな役者よりも、華のあるかたぶき者の方が、ずっといいのだ。

 では問題は何にあるかというと、それはマスコミにある。マスコミが芸人や政治家に道徳を求めるところに問題がある。求める主点がずれている。
 マスコミは海老蔵の芸の良し悪しを論じればいいのだ。でもそんな審美眼がないから、だれでも分かる素行だとかのつまらないことにスポットを当てる。
 なぜスポットを当てたがるかというと、視聴率を稼げるからだ。新聞や雑誌が売れるからだ。これこそは、ポピュリズムである。ぶれまくりの民主党政権と同じポピュリズムである。今のマスコミには政権を批判する権利はない。
 
 マスコミに求められるのはポピュリズムでなくジャーナリズムである。我々読者や視聴者が求めているのは、冷徹なジャーリズムの視点である。
 ではジャーナリズムとは何かというと、これは竹中平蔵がハーバード大学の知人から聞いた言葉として語っていたものだが、2つポイントあるそうだ。1つは権力から距離を置くこと。2つめは大衆からも距離を取ること。
 日本のマスコミには2つとも欠落している。
 まず権力からは距離を置いているように見えるかもしれないが、実はそうじゃない。大新聞の論説系の人は、政府の委員会のメンバーになりたがる(これも竹中平蔵が言っていたことだが、事実だと思う)。そして社長まで上り詰めた人は勲章を欲しがる。新聞社やテレビ局の社長は何年だか務めると、勲章がもらえる。会社の規模と社長在任年数で、もらえる勲章が決まっているそうだ。断った人を寡聞にして知らない。
 大衆と距離を取るのはより難しい。委員会メンバーや勲章はおじさんやおじいさんが欲しがるものだが、視聴率や部数は新人でもみな求める。会社の目的がそこにあるからだ。
 日本のマスコミは完全なる終身雇用だから、会社が求める視聴率や部数への偏重に社員は逆らえない。会社の意見に従順な人だけが出世するからだ。
 アメリカの例しか知らないが、アメリカでは有能なジャーナリストは転職を繰り返す。転職の目的はもちろん年収のアップもあるだろうが、それよりも満足のいく記事を書けること、書いた記事が影響力を持つことを優先する。良い記事を書いていれば、年収もアップするだろうし。

 また海老蔵に戻るが、では大衆は何を考えて海老蔵事件を眺めていたのだろうか。何が大衆の怒りに火をつけたのだろうか。
 きっとそれは嫉妬である。伝統の歌舞伎一家に生まれ、生まれたときからスターである。独身時代は数々の美人タレントと浮名を流し、ついには学歴もある超美人と所帯を持った。歌舞伎は伝統芸能だから、廃れることはまず考えられない。これからも一生、安泰の超安定職業に就いている。
 今はやりのロジックでいえば、海老蔵は勝ち組のプリンスみないな男なのだ。
 大衆はほとんどが負け組である。勝ち組のプリンスが、失敗をやらかしたのだから、負け組が面白くないわけがない。喜び勇んで、バッシングをしたのも当然である。
 しかしそんな大衆を攻めてもしかたない。大衆とはそんなものだ。
 やっぱり問題はマスコミである。大衆に引きずられるだけならば、マスコミなど必要ない。大衆が求めているのは、実は大衆に媚びないマスコミなのだ。
 大衆は残酷である。大衆が喜びそうな記事や番組ばかり垂れ流していると、そのうちきっと見捨てる。
 マスコミは海老蔵の酒癖に憂慮している暇などないはずだ。自分の将来にこそ憂慮すべきである。

図書館地獄


 逗子図書館から、頼んでおいた本が届いたので取に来て欲しいと連絡があった。ついでに期限を過ぎた本があるので、返して欲しいと言われた。もしかして、そっちが目的だったのかもしれない。申し訳ない。

 最近、図書館から借りた本がたまっている。空いている時間は、ずっと読み続けているのだが、それでも追い付かない。なんだか苦しくなってきたほどだ。これは、よくない。
 というのは、図書館があまりに便利だからだ。最近の図書館の主な利用法は、読みたい本をリクエストして借りる方法だ。例えば僕はほぼ毎週、週刊東洋経済を読んでいる。そこにはブックレビューが掲載されている。すると読みたくなり、手帳にタイトルなどを書きこんでおく。あるいはある本を読んでいて、その中で別の本が言及されていたりする。するとまた、読みたくなる。そして手帳に書き込む。この手帳を元に、図書館で借りる。
 手帳に記載された本は、逗子図書館には置いてないことが多い。なぜならブックレビューの本は、新し過ぎて置いていない。本の中で紹介されていた本は、大体において専門的であったりして、置いてない。置いてない場合には、図書館にリクエストを出す。すると図書館は、古い本の場合は他の図書館から借りてくれる。新しい本は購入してくれる。
 この方法で逗子図書館にお願いして、読めなかった本は今まで一冊もない。すごいことだ。僕は初めてこのリクエスト方式を知ったときには、小躍りしたほどだ。

 こんなに便利な方法なのだが、ひとつ問題もある。それはリクエストした本が、いつ入手できるかが不明なことだ。頼んで翌週に届くこともある。数か月が過ぎて、忘れたころに届くこともある。
 逗子図書館はたしか同時期に12冊ぐらい、リクエストが可能だ。最近、僕はマックス近くまでリクエストを出し続けている。そして借りられるのは、同時期に6冊までだ。こちらも大抵、いつも6冊を借り続けている。貸出期間は2週間である。つまり2週間でコンスタントに6冊をこなさなくてはならない。結構なペースである。もちろん、その間も自分で購入した本は読む。こちらも結構なペースで買い続けている。主に仕事用の本だ。洋書やら、余白にメモを書き込むためにだ。
 さらにリクエストしていた本はいつ届くか分からない。まとめてどっさりと届くこともある。他館から借りた本は逗子図書館には1週間しか取り置きをしておいてくれない。すると今、6冊を借りているとすると、その6冊を読まないと、次の本は借りられない。今借りている本を急いで読まなければならなくなる。さらに追い込まれる。

 先週の金曜はそれで、図書館から連絡が来た。まずいと思い、すぐに図書館までてくてくと歩いて行った。2冊を返し、1冊を借りる。
 本を受け取って、ちょっと驚く。なんだか知らない本である。頼んだことを忘れていたのだ。
 そしてとても厚い本であった。この本を2,3日で読むことは可能だろうか。きっと不可能だ。ちょっと気持ちが重くなる。

 図書館の帰りに、駅前の魚屋を覗く。うまそうなアンコウが売っていた。4人前は十分にありそうな量で800円だった。
 アンコウをぶらさげて、てくてく歩いて帰る。明日の晩酌が楽しみだ。
 翌日の土曜は、待望のアンコウ鍋を妻に作ってもらった。うまかった。腹いっぱいになった。
 いっぺんには二人で食べきれなかった。昨日はアンコウの残りを肴に晩酌をした。それでもまだ残っている。今夜もアンコウが肴になる予定である。

プロフィール

山本 拓也

Author:山本 拓也
職業:翻訳者
過去の職歴:HSBCを経て産経新聞社
家族:妻、フクちゃん(猫オス 3歳)、大吉くん(猫オス 2歳)
住まい:逗子

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